4.ダルハナン・パック

 ジェフ少年にとって、ダルハナン・ウィッチスクールにおける最大の驚異は、その食習慣だった。

 一日三食。

 広い学生食堂へ集まって食べる。北部ではせいぜい昼と夜の二食でしかない。料理の品目も豊富で、ジェフが聞いたこともない食材も多かった。


 特に気に入ったのは、ダルハナン・パックと呼ばれる、王都の名物料理のようなものだ。

 すり潰した野菜と羊の挽肉を混ぜ、小麦の皮で包んで焼く。

 この料理の利点は二つ。食べるのにフォークやナイフが不要なことと、これさえ食べておけばスノウが『栄養』について余計なおせっかいを焼かないことだ。味付けの適度な薄さも悪くない。

 ダルハナン・ウィッチスクールの学生食堂に出入りすることになってから、こればかり食べている気がする。


「――つまり、ですね」

 その日もジェフはダルハナン・パックを齧りながら、どこまでも続く恨み節のような、メリー・デイン・クラフセンの愚痴を聞いていた。昼食時の学生食堂は人が多く、怨念を振りまくメリーもあまり目立っていない。


 ジェフは最初、他の研究室のメンバーと会話を試してみたい、とも考えた。『協調性を発揮する』ための良い機会だと思ったからだ――が、ヴァネッサから解散指示が出た途端、まずエレノアは鼻歌とともにどこかへ走り去ってしまった。

 これと対照的だったのはユリーシャで、分厚い本を何冊も広げ、

『研究室長として、これから小遠征の対策を練る。すまないが、しばらく集中させてくれ』

 と言い放ち、血走った目で何かを書き留め始めた。

 結局、ここ数日のルーチンの通り、メリーやスノウと昼食をとるしか道はなかった。


「つまり嫌がらせなんですよ、これは。間違いありません」

 メリーは指の先で黒パンを捻り、小さく引きちぎる。ほとんど八つ当たりのような仕草だった。

 彼女はそれをどろどろのブラウン・シチューに浸して、少しずつ食べている。

「大天才の私が成功するのを妨害してるんです。初回のイベントでしくじったら退学なんて、そんなのあり得ないと思いませんか?」


「妨害――」

 ジェフは眉をひそめた。あまりにも剣呑な単語だ。

「それはいったい、誰が?」

「運命です。そうに決まってます」

「そうか」

 漠然とした相手だ。ジェフには対処しようもない。だから黙ってダルナハン・パックを口に運んだ。


「まあ、大変ですな。ちょっと目を離した隙に」

 スノウはテーブルの上でコーンをついばむ。

「私が見守ってないと、若はいつも事態が悪化しますよねえ。困ったもんだ」

 台詞とは裏腹に、彼は明らかに面白がっていた。完全に他人事、と言った様子でもある。

「どうですかね? ここは一つ、私が力を貸してあげましょうか? 退学になったらまずいでしょう。なに、大したものは要求しませんよ。そうですな、ほんの少しの生贄と――」

「お前の力は借りない。それでは意味がないからだ」

 ジェフはどこまでも冷徹に拒否する。そう。それでは意味がない。


「俺がやる。俺と、みんなが」

 みんな、とは、メリーや研究室ゼミナールのメンバーのことを言っている。

「さすがジェフさん! 絶対勝ちましょう――見てください、これを!」

 メリーは鼻息荒く、テーブルの上に数枚の紙片を叩きつけるように置いた。

 契約コードと《しるし》が万物を形作るこの大陸では、魔法学の発達に伴って、製紙技術が急速な発展を遂げた。旧帝国では大量印刷技術の一端を生み出してもいる。

 いまテーブルの上に並べられた紙片は、二色刷りの技法を用いた、学園が誇る最新の印刷技術による小冊子だった。


『小遠征の手引き』、と、その小冊子には記されていた。


「この小遠征は、学園の由緒正しい行事なんですよ。野外での活動を通して、実践的な技術を学ぶんです。目的は、魔法学的に価値のある植物を採集すること。そして異形を駆除すること」

 メリーが語る――その情報自体は、さきほどヴァネッサから聞いたことそのままだ。ジェフでも暗唱できる。

「今回の目的地は、緑の峡谷。ビター・スケイルだそうです」

 メリーの指が、地図の描かれた紙片の上を辿る。

 学園の南方、傷跡のように広がる谷だった。周辺には森を示す記号があり、谷底を『ビター・スケイル』と名付けられた川が流れている。

 南部領域と王都を隔てる、ユーロン峡谷群の一つにあたる。


「本来なら、この行事、こんな時期にやるようなものじゃないんですけど」

 メリーは少し声を低くした。

「この前の――あの、私たちが撃退したグリフォンどものせいで、ほら、《翡翠庭園》――中庭がメチャクチャになっちゃったでしょう?」

「ああ。確かに」

「おかげで、修復作業が大変らしくて。季節外れですけど、《翡翠庭園》再生のための植物が急遽必要になってるらしいです。で、私たちみたいな学生を差し向けようってことなんですよ」

「そうか」

「私も、ちょっと責任を感じてます。たぶん私の内なる力が暴走して、あんなことになったんだと思うんですけど――ここは自分で始末をつけるべきかなあ、と」

「いや、あれはきみが責任を感じることではない」


「ヒヒッ」

 メリーは恥じるように顔を伏せ、口の端を歪めた。微笑んだ、というべきなのかもしれない。

「や、優しいですね、ジェフさんは。でも大丈夫。私、その辺受け止められますから。器が大きいので、己の過ちとか――ちゃんと向き合って――乗り越えようと思うんです!」

 そうして、拳を握って見せる。

 すっかり決意した様子のメリーに、ジェフは何という言葉をかけるべきか悩み、結局は何も言わなかった。彼女が責任を感じる必要はまったくない。本当にない。だが、それでやる気が出ているなら、それはそれでいいことなのだろう。

 ただ、スノウは翼を広げて耳障りな笑い声をあげた。


「――だから、ジェフさん。話は簡単なんですよ」

 メリーはぎらついた目でジェフを見つめた。

「この手引きには、評価対象になる項目が山ほど書かれてます。魔力価の高い植物だとか、鉱物、生物。討伐すべき異形」

『小遠征の手引き』をめくりながらまくし立て、最終的にはそれを閉じる。

「加点の記述とかがゴチャゴチャ書いてありますけどね! 要するに、この遠征――私たちは価値ある植物をたくさん持ち帰って、異形どもを片っ端から討伐していけば、自然と最高評価が得られるということです!」

「なるほど」

 スノウが喉を軋むように鳴らした。

「そいつはわかりやすく、素晴らしいご計画ですな!」

「スノウ、そろそろ黙れ」

 ジェフは彼の嘴をつつき、羊の挽肉を一かけら、スノウの皿にのせてやる。ひとまずスノウは黙り、それをついばむことに集中しはじめる。


「俺もきみに同意する、メリー。ベストな成果を残す」

 ジェフは『手引き』の表紙を眺める。白いムクドリを象った校章が、そこに大きく印刷されていた。

「しくじれば退学になる。ヴァネッサ――先生の言う通りだとするなら、それはよくない」

「そう! そう、そうなんです。退学がかかってるんですよ!」

 メリーも華水キヴカの注がれたコップを手に取り、勢いよく飲み干した。

「他の研究室ゼミナールに負けるわけにはいきませんよ……! そう。成績のいい研究室ゼミナールのエース・メンバーを闇討ちしてでも……!」

「効果的だな。それに、現実的だ」

 ジェフもまた、薄めた華水キヴカを口に含んだ。このくらいが適度な甘さだ。


「しかし、俺は理想に生きている。俺は研究室ゼミナールのメンバーを信じることにする。彼女らの実力に期待する――きみの天才性に期待する」

「ヒ――ヒヒッ」

 メリーの引きつった笑い。これが彼女にとって心からの笑顔であることにも、そろそろジェフも慣れてきた。

「そ、そうですよね。やっぱり。ジェフさん、私に期待してるんですよね? し、し、仕方ないですね……ジェフさんは、もう。仕方ないですね……!」

「きみの勇敢さは知っている」

 ジェフはメリーの姿を思い出す。何の力もないというのに、ジェフを庇い、グリフォンと対峙したときの彼女のことだ。

「得難い素質だ」


「え、ええ!」

 メリーは激しく反応した。音を立てて胸を叩く。

「ほ、ほかの皆さんがどうかは知りませんけど、私は大天才なので――せっかく入学できたのに、こんなところで退学になっていられません!」

研究室ゼミナールの他のメンバーは俺もほとんど知らないが、スリカ・ヤヴォンがいる。彼女は大きな助けになるだろう。これまでもそうだった」

「え?」

 メリーは少し不満そうな顔をした。

「スリカ――スリカ・ヤヴォンさんですか? え、あの、ジェフさんって私以外に頼れる友達がいないんじゃなかったですか? っていうか、そう、そうです! さっき、違和感ありました!」

 彼女は暗い目つきでジェフを見据えた。下から睨みつけるような視線になる。

「なんかジェフさん、彼女のこと知ってる感じじゃなかったですか?」

「ああ」

 ジェフは短く肯定した。空になったコップをテーブルの片隅に置く。

「スリカ・ヤヴォンは、幼馴染だ」


「――いえ」

 それはあまりにも唐突に、ジェフの背後から聞こえた。

 スリカ・ヤヴォン。銀髪の少女が、いつの間にかそこに立っていた。どういうわけか片手に布巾と、銀のポットを抱えている。

「幼馴染ではなく、従者です」

「う」

 メリーは亡霊を見たかのように驚いた。大げさな反応だ、とジェフは思った。

「うわああああああ! スリカさん? い、い、いつからそこに……?」

「同感だ」

 ジェフも、人間程度の大きさの人物を察知することに長けてはいない。ただ一羽、スノウがあざ笑うような鳴き声をあげているのを見るに、気づいていたのは彼ぐらいなのだろう。

「スリカ・ヤヴォン。相変わらず、きみは気配を消すのが上手いな」

「恐縮です」

 スリカの返答は、ひどく簡潔だった。祈るように頭を下げる。

「ほんの嗜みですから。《継承者マスター》ジェフに褒められるのは、恐れ多いです」


「いや、いやいやいや」

 メリーは興奮気味に立ち上がった。矢継ぎ早に質問を並べ立てる。

「ジェフさん。待ってください。その――幼馴染とか従者とかって、なんです! どういうことですか、それは! 私以外に頼れる人間がいるなんて、どういうことですか! なんで自己紹介のときにそれ言わないんですか!」

「聞かれなかったからだ。自己紹介のときに言うべきことでもないと思った」

「ほら、出ましたよ! ジェフさんのいつものやつ! 違うでしょう! 自己紹介って、そういうことを言うべきタイミングでしょう! いったいどういう関係なんですか? 訳がわからないんですけど!」

「彼女とは――」

 ジェフは少し逡巡して、結局はありのままを答える。

「彼女の民と、俺の祖父との間で結ばれた、古い約束があった。窮地にあっては互いに助け合うという約束だ」

 ジェフも、半分は老師からの受け売りでしかない。


 歴史上、竜殺しの技を持つ者は、各地を回って竜を討つ。それが生業であり、竜殺しとなった者の義務でもあった。

 遊牧の民である《霧の民カーフ・ガト》は、その行く先々で竜殺しの継承者と協力し、また竜殺しの継承者たちを助けた。そういう契約を結んでいた。彼らからすれば、肥沃な遊牧の地を害する竜を殺すのは必要なことであったし、互いの利益を鑑みた契約だったのだろう。


 彼らの契約はいまもなお力を持ち、《霧の民カーフ・ガト》は最も優れた戦士を選び、竜殺しの継承者の従者とする――

 ジェフは老師からそう聞いていた。

 スリカ・ヤヴォンにも、幼い頃から何度か邂逅したことがある。正確には、先代の『従者』であった彼女の叔父が連れていた。


 だが、このとき、ジェフ少年にはそういった長い経緯を説明し、メリーに納得させるだけの能力はなかった。

 ゆえに、少なくとも彼に理解できるやり方で、スリカ・ヤヴォンが信頼できることを説明しようとした。

「彼女はかなり強い。技量が優れており、信頼できる」

「過分なお言葉です」

 スリカはポットを傾け、空になったジェフのコップに華水キヴカを注いだ。


「ああ――すまない。感謝する」

 ジェフは大きく頭を下げた。

「しかし、スリカ。きみはいつからそこに? 長く待機していたのか?」

「《継承者マスター》ジェフが、こちらの学園にいらした日から」

 スリカは当然のような顔をして言い放った。その物言いすら、どこか祈りの言葉を唱えるような響きがある。そういう方言なのかもしれない。

「お食事のときなどは、御傍に控えていました」

「そうか」

 ジェフは彼女と、まったく足音を立てないその足元を一瞥した。

 彼女ら《霧の民カーフ・ガト》は、そうした忍び寄りの技術を最も得意とする。狩猟のための技だった。


「まったく気づかなかった。道理でしばしば空にしたはずの華水キヴカが、いつの間にか満杯になっていたわけだな。あの現象の謎がようやく解けた」

「え、ええ。私も気づきませんでした……」

 メリーは相変わらず、亡霊を見るような目つきだった。不信感と、なんらかの不満感がその瞳をいつもより暗く淀んだものにしていた。

「ジェフさんの話はぜんぜん理解できませんけど、それ以前の問題として――なんか怖くないですか、この人。黙ってずっと後ろに立ってるなんて、ストーカーっぽいですよ。そう簡単に信用できないと思います」


「そうですか」

 この発言に、スリカはほとんど有意な反応を示さなかった。表情を動かさず、ただ冷たくメリーの視線を受け止めていた。

「ですが、あなたの信用が必要だと、私は考えていません」

「な」

 メリーは口をぱくぱくと動かした。怒りを覚えたが、咄嗟にそれを噴出させる方法に慣れていない。そんな様子だった。

 が、すぐに噛みつくように喚いた。

「なんですって! これだから学園に入学するようなエリートは、すぐそうやって私を非・重要人物扱いするんですよ! 根に持ちますからね、私……!」


「落ち着け。協調性だ、メリー」

 ジェフはタイウィン・シルバから言われた言葉を思い出す。いまこそ、それを発揮するときだ。できるだけ柔らかく、メリーの肩を叩く。

「俺たちにはそれが必要だ。小遠征で最善の結果を出す必要がある」

「私は落ち着いています! この大天才の私がついているんですから、このスリカさんという失礼で不愉快な人は必要ないと思っただけです!」

「全員で好成績を出さなければ、意味がない――退学がかかっている。仲良くするべきだ。スリカ・ヤヴォン、きみも声をかけてくれればよかった。この数日間、共に食事を摂ることができたかもしれない」


「それは、恐れ多いことです」

 スリカは大きく首を振った。

「《継承者マスター》ジェフと同じテーブルを囲んで食事を摂るなど、私にはとても。その価値があるとは思えません」

「そうか」


 難しいな、と、ジェフは思った。

 人間関係のことだ。

 スリカ・ヤヴォンとは幼馴染のつもりでいたが、それほど気やすい間柄ではなかったらしい。何度か遊んだ記憶はあるものの、その程度では到底打ち解けたとはいえないのかもしれない。

(協調性か)

 ジェフは痛感する。

(俺は未熟だな)

 一人の人間と友好的な関係を結ぶことすら、満足にできていない。スノウもからかうように翼を広げて、また耳障りな鳴き声をあげた。

(わかってるさ、スノウ)

 つまり、いまやることは一つだ。


「――やはり、訓練あるのみだな」

 ジェフはダルハナン・パックの最後の一かけらを頬張った。

「え?」

 ひどく混乱した様子のメリーは、ジェフの発言の意図を探ろうとしたようだった。彼女にとっては、あまりに唐突な発言に思えたのかもしれない。

 しかし、ジェフにとっては、当然の思考の流れであり、唯一の取るべき方針だった。


「訓練する」

 ジェフは繰り返した。

 協調性も、力のコントロールも、どちらも小遠征に必要となるだろう。残りの時間で、それを最大限に磨くべきだ。

「俺は未熟なので迷惑をかけると思うが、メリー、宜しく頼む」

「え? あ、あの、ええ――はい!」

 少し慌てて、メリーは胸を張って見せた。不器用に口の端を歪める。

「大丈夫ですよ。最初はみんな上手にできるはずがないんです。ここは私に任せてください! この、大天才の私に!」


「――だ、そうだ」

 そして、ジェフは他の二人を振り返った。

 先ほどから何度も考えた、協調性を高めるためのとっておきの言葉を口にする。

「さあ、みんなで頑張ろう」

 答えはない。スリカ・ヤヴォンが、ひどく冷たい顔でメリーを見ていた。

 スノウは居心地悪そうに翼を畳み、同意を求めるジェフから目を逸らした。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る