第3話 新入社員に出来ることは?

「さあ、許斐さん。お客様をお席にご案内して下さい」


 お客様の前ということもあり、急に「さん」づけしてくる課長の川野。他人に自分をよく見せるということにおいてだけは、参考になるなと瀬里花は思った。


「では、お席にご案内致しますね」


 左手を床と水平になる高さまで上げ、「こちらでございます」とテーブルの奥へ案内する瀬里花。空席の商談テーブルがあったので、瀬里花は先に上座に回り込み、その椅子を手前に引き、お客様が座りやすいように位置を調整する。案内がメインの接客業では基本中の基本だ。


「どうぞ、お客様。こちらにおかけ下さいませ」


 口許を緩め、白い歯を見せる瀬里花。指先から仕草まで川野に見られていると瀬里花は感じた。そう、きっと川野を含めて、瀬里花が盛大に失敗するところを楽しみにしているはずだから。先輩というものは、全ての後輩が自分と同じ過ちを繰り返すものだと思い込んでいるのだ。きっとみんなそうやって安心したいのだろう。


 ――でも。


 瀬里花はそんなつもりなど毛頭なかった。接客時間の違いで先輩風を吹かせるつもりなら、瀬里花に勝てるはずがなかった。


 やがて、作業服のお客様をテーブルにつかせた後、瀬里花は店舗手作りのドリンクメニュー表から、飲み物を伺う。期間限定の春メニューなどもあり、おもてなしをしようという気配りも感じられた。


「ネエちゃん、ホット一つお願いするわ」


 お腹の出た作業着の中年男性の額には、僅かに汗が浮かんでいた。それなのにホットコーヒーだなんて、とんだ痩せ我慢だ。もっとも痩せてはいないようだけれども。瀬里花は可笑しくて、心の中で大いに笑ったのだった。


「かしこまりました。先にこのカタログを見ながら少々お待ち下さいませ」


 そう言って瀬里花はおじきをして席を離れる。彼の視線が瀬里花の顔から太腿やお尻に移ったのがわかったが、大して気にもならなかった。女は自らを着飾り高め、男を虜にして利用する。瀬里花にとって、自らの身体はそのための武器の一つに過ぎなかった。


 ――そうだよね、茉莉花?


 自分に言い聞かせ、奮い立たせようとする瀬里花。彼女が顔を上げると、何故かショールームがざわつき始めていた。


 受付の女性やサービスフロントの男性たちが一斉にこちらを見ている。来客中の営業スタッフさえ、お客様と一緒になって瀬里花をまじまじと見ている。まあ、知らない人間が、しかもまだ制服さえ着ていない女が接客をしようとしているのだ。致し方ないだろう。


 簡易的なキッチンに向かい、制服を着た可愛らしい女の子に、飲み物の入れ方を尋ねる瀬里花。しかし女の子は、戸惑うどころか笑顔で瀬里花の身体に擦り寄ってくる。


「ねえ、あなたもしかして今日入った新入社員の子? あははっ、いきなり何やってんのさ?」


 ニヤニヤが止まらない様子の女の子。ネームプレートには野津原と名字が入っていた。すぐに理由を話そうとするが、野津原さんはそれを左手で制する。薬指には結婚指輪が光っていた。だからこそのこの余裕か。彼女には女であることの自信に満ち溢れていた。


「ああ、ごめんごめん。お客さんが待ってるよね。それで何を作ったらいい? 私が席まで持っていくよ」


 野津原さんは優しくてかつ出来る先輩のようだ。瀬里花の考えをきちんと汲みとってくれている。


「はい。ではホットコーヒーを一つ。後、さっきのお客様ですが、異様に汗をかいてらっしゃったので、グラスでお冷があると喜ばれるかもです」


「そう、わかったー」


 瀬里花の言葉に、目を細める野津原さん。瀬里花はこの場を彼女に任せて、再びテーブルに向かった。


 そう、まだ何も始まっていないのだ。大きな問題は今あのテーブルにある。


「よお、ネエちゃん。早く車の説明してくれや。こんなカタログ見たって、全然違いがわからん」


 中年男性は、カタログを前に悪戦苦闘しているようだった。眉間に幾重にも皺を入れ、おでこにも何重もの見事な横皺が出来上がっていた。


 彼の吐く息からはタバコの臭いがした。その臭いが瀬里花の長い髪にまとわりつく。一般的に長い髪の女の子は、髪を後で纏めるのが鉄則だ。しかし、瀬里花にはそんなルールなど通用しなかった。


「失礼します」


 垂らしたロングの黒髪をふわりと揺らしながら、瀬里花は席についた。


「説明でしたね……。でも、ごめんなさい。実は、私もこの車の細かい装備の違いは、よくわからないんですよ?」


 瀬里花の告白に眉間の皺を更に深くする男性。


「ん? 何でだ? ネエちゃんはスーツ着てるから営業なんだろう? カタログくらい覚えているんじゃないのか?」


「はい、普通ならその通りなんですけど、本当に申し訳ございません。あまり言い訳をしたくはなかったのですが、私、実はさっき入社式を終えたばかりの新入社員なのです」


 出来れば新入社員であることを隠し通したかったが、いつまでも通じるものではない。あえて相手に、自分に出来ないことを正直に伝えることも、自らを守る上でも大切なのだ。


「そうなのかい? その割には随分と落ち着いていたけどなあ。しっかし、だとしたらだ。そりゃあ、あんたには悪いことしたな。俺があんたに声をかけちまった理由はな、あんたみたいなべっぴんさんから車を買えば、面食いの孫にも喜んで貰えるなって思ったからなんだよ」


 なるほど。瀬里花になかば無理矢理声をかけたのは、そういう事情があったからか。


 基本カーディーラーでは、紹介や知人など特別な関係がない限りは、最初に応対したスタッフが担当者になるのだという。つまり、ほとんどの場合、お客様は担当者を自由に選べないのだ。だからこそ彼は、自らの目で選ぼうとしていたのだろう。未来の担当者を。


「力不足で誠に申し訳ございません。ですから、もしよろしかったら今回に限り、二人で一緒にカタログを見て、この車の勉強をしてみませんか? 私、こう見えても、車は小さい頃からずっと大好きで、実は結構詳しいんですよ?」


 そう、確かに瀬里花は、下手な今時男性社員よりも車に詳しい自信があった。


「ネエちゃんの初めてを味わえるなら、それでもいいぜ? それに他の辛気くさい奴に席につかれても困るからな。俺の孫の目は、じいじ譲りで厳しいんだぜ?」


 こんな強面の中年男性も、自らの孫にだけは甘いらしい。孫の姿を思い出してか、彼は優しそうに目を細めていた。瀬里花が少し話をしてわかったのは、彼が下心丸出しだけのオジサンではないということ。実は心優しい孫想いのオジサンだったのだ。


 だからこそやれるかもしれない。いや、絶対にやらなければならない。瀬里花はもう一部用意したカタログを手に取り、静かにそのページを捲ったのだった。

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