第1章 入社式

第2話 入社式は入社するだけですよね?

 両手を広げたような満開の桜の見頃が終わり、徐々にその花弁が地面に降り積もり始めた四月一日。瀬里花はグレーで短めのタイトスカートのオフィススーツに身を包み、とあるカーディーラーの入社式に挑んでいた。


 新入社員の全員と顔を合わすのも、部門長の面々と顔を合わすのも、今回が初めてだった。かつてこの会社の最終面接で姿を現したのは彼ら部門長ではなく、メーカー出身の社長と取締役の二人で、なかなかに個性の強い三人だったのを今も覚えている。


 各部門長の紹介や企業の理念や方針の説明と、続々と進行していく入社式。ただ椅子に座っているだけなのに、何処か視線を感じる瀬里花。同じ新入社員の男子の視線も、部長連中のよこしまとさえ感じる目線も、瀬里花の顔や足に集まっていたのがわかったが、彼女自身、異性に見られることに全く興味がなかった。自身の容姿が人よりも優れているのは、これまで告白された人数が物語っているだろう。目力を究極まで高めた目を細めると、彼らの顔が自然とニヤつくのがわかる。男を虜にするのは、過剰なほどの笑顔と軽いボディタッチ、そして隙のある女と思わせる会話であることを、瀬里花はこれまでの人生で痛いほど知っていた。


「許斐さんも女なのに営業だよね? 私、小代未菜おじろみな。よろしくー」


 瀬里花とは対称的にショートボブの可愛らしい顔の未菜。背丈は瀬里花より十センチほど低いが、その胸には瀬里花に足りないものが、白いシャツの中では抑えることが出来ないほど脹れ上がっている。下を向いても、くるぶしが見えない日がないほど胸の盛り上がりのない瀬里花には、未菜の胸元を開けたスーツスタイルが、何だか腹立たしかった。まあ、彼女は彼女なりに悩みがあるのかもしれないが、それはそれである。人は結局、自分だけが可愛ければ満足する生き物である。


「許斐さん、綺麗ー。モデルさんか夜の仕事やってそぉー」


 なかなかどうして、思ったよりも鋭い未菜。聞けば彼女の前職は生命保険の外交員とのことだった。それで観察力があり、自らの魅力を理解しているわけか。たった数回の会話をしただけで、瀬里花は彼女と仲良くなれそうな気がした。


「じゃあ皆さん、前に集まって下さい」


 入社式の最後は記念撮影らしい。総務の課長がカメラを持って、みなの立ち位置を調整している。椅子が用意された前部には社長中心に役員や部門長。そしてその背後に今年入社した新入社員が並ぶ。中央には瀬里花を含めて、女子が四人立たされ、その外側に営業や整備士を含めた男子十人が並べられた。


 ――果たしてこの中で、一体何人が生き残るのか。


 後で聞いた話によると、先輩たちはみんなそんなことを考えているのだという。カーディーラーの世界は、基本は自動車の販売メインである営業職と、自動車の点検や整備メインのサービス職に分かれている。サービス職の場合は、十人いれば一年後には八人くらいは残っているそうだ。しかし営業職はというと、十人いても一年後まで残っているのはわずか三人くらい、悪い時は一人も残らないこともあるそうだ。だからこそ先輩たちも、いつまで続くかわからない新入社員たちに、何処か冷めた目を向けているのだろう。


 ――別にどうでもいい。


 瀬里花には、上辺だけの仲間など意味はなかった。瀬里花が必要としているのは、ただ愛する車だけだったから。


 あの事故の後、瀬里花はしばらく入院を余儀なくされた。その間、愛車は一時レッカーで助けてくれた営業マンの勤めるディーラーに運ばれたが、とある理由で、結局は瀬里花の知人が勤める町工場に運ばれたらしい。退院後、前が完全に潰れた愛車を見て、瀬里花はその場で泣き崩れたのを覚えている。瀬里花にとって、その車は自分の全てだったのだ。


 古い車だったので、生き返らせようにも部品がなかった。だからかつてその車を販売していたディーラーでも修理することが出来なかった。


 ――嘘つきめ。


 瀬里花を助けてくれたことには感謝しているが、結局車が救えないのでは意味がない。軽口を叩いたあの営業マンを見つけたら、いつか必ず文句を言ってやろうと思っていた。


「ねえ、瀬里花ちゃんはさ。どうしてこの会社に入ろうと思ったわけ? 瀬里花ちゃんくらい可愛かったら、もっといい会社でも受かってたでしょ?」


 本社の階段を下りながら、未菜に問いかけられる瀬里花。確かにその通りだ。コネなんかいくらでも作ればいいし、アイドル以外なら何だってこなせたかもしれない。しかし、そんな瀬里花がどうしてこのカーディーラーに就職することになったのか。


 ――それは。


「おー、ネエちゃんネエちゃん!」


 一階のショールームに出たタイミングで、作業服を着たお客様らしきそこそこ年配の男性が、大きな声を上げていた。日曜日の午後ということで、ショールームのスタッフはみんなバタついていて、その男性まで声をかけることが出来ていなかったようだ。カタログコーナーの前に立ち、しきりに誰かを手招きをする男性。それを見た教育係の四十代の川野課長が、慣れたような表情で彼の前に歩み出ようとする。他の先輩の話では、彼はかつてはこの会社のトップセールスマンだったという。瀬里花は学べることも多いだろうなと、彼の動きを注視した。


 ――しかし。


「いやいや、あんたじゃねえ。そこのすらっとしたべっぴんさんと車の話があるんじゃ」


 どうやら指名が入ったのは、瀬里花だったようだ。といっても、まだ新入社員ですから、流石に……ね?


「よっしゃあ、許斐! いっちょすっか!」


「はい、はい商談ですね……って……ええええええええ??!!」


 どうしてそうなる。まだ入社式を終えたばかりの新人なのに。休憩はどうした? 研修はどこいった? 瀬里花には意味がわからなかった。


「じゃあ、他のみんなは先に店舗の挨拶周りだけしといてくれたらいいから」


 はーいと、調子よく声が揃う新入社員たち。


「ちょ……課長、私は?」


「商談」


「何で……? 研修も始まっていないのに?」


「実践より優れた研修はないぞ、許斐」


 どうやら川野課長は本気のようだ。その場から逃げ出すようにフェードアウトしていく他の新入社員たち。未菜でさえ、苦笑しながら瀬里花に手を振っていた。


「どうしてこうなった」


 絶望的な状況の中、瀬里花は大きく溜め息をつくのだった。

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