第26話 麻耶に似た人
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フロント係の話を整理すると――三十分ぐらい前、麻耶そっくりの女が現れて宿泊カードに必要事項を記入した。名前の欄には「桜木麻耶」。電話番号の欄には予約のときに麻耶が告げた番号。フロント係はその女を麻耶だと認識して、予約した三〇三号室へ案内した。フロント係は麻耶とは顔見知りだから勘違いするとは考えられない。宿泊カードの筆跡も麻耶のものと一致している。
どう考えても状況が理解できない。まさに狐につままれたような気分だった。
ただ、今頃、「桜木麻耶」という女は三〇三号室でのんびりと
二基あるエレベーターのうち、一基は故障中でもう一基はちょうど行ったところ。
部屋は三階。荷物は肩にかけたトートバックだけ――麻耶は非常階段で上がることにした。灰色の殺風景な非常扉を開けると、
これまで気にも留めなかったけれど、一階まで非常階段で降りて、旅館の裏口から秋津大滝の展望スペースへ続く階段を行けば、フロント係に見つからずに敷地の外へ出ることができる。いわゆる「無賃宿泊」ができてしまう――緊迫した場面なのに、なぜか他愛もないことが頭に浮かぶ。心のどこかに「この状況から一刻も早く逃げ出したい」という願望があるのかもしれない。
三〇三号室のドアの前に立って大きく深呼吸をすると、麻耶はドアのノブへと手を伸ばした――不意に手が止まる。ドアを開けるのが
ドアに耳を当ててみた――
玄関には、室内用のスリッパが脱ぎ捨てられたような状態で置かれている。玄関を入ると三畳ぐらいの板間。引き戸の向こうが八畳の和室。さらに、窓際の狭いスペースには二人掛けの応接セット――引き戸は開いていて和室の様子が見せる。テーブルの上には、ポットと
相変わらず、話し声が聞こえてくる――ただ、よく聞いてみると、それはテレビ番組の音声。思わず息が漏れた。ドアから少し首を突っ込むように覗いてみると、板間に隣接するトイレとバスも電気が消えていて、人が入っている様子はない。
周りに注意を払いながら、麻耶は中へ入っていった。
和室には、テレビの音声が流れているだけで人の姿はない――ただ、人がいた気配は感じられる。玄関先に脱ぎ捨てられたスリッパもそうだけれど、茶碗にお茶が注がれた跡がある。そして、茶碗の縁に赤い口紅らしきものがついている。前の客が使ったものを片付け忘れたなんてことはまずあり得ない。そう考えると、ここに「桜木麻耶」という女がいた可能性が高い。窓際のテーブルの端に部屋のルームキーが置かれている。ただ、荷物らしきものは見当たらない。
「この世には自分とそっくりな人が三人いる」なんて言うけれど、ここ秋津温泉にも、麻耶にそっくりの同姓同名の女がいて、偶然、麻耶と同じ日に同じ旅館の同じ部屋を予約していたのかもしれない――そんな偶然が「百パーセントない」とは言い切れない。
フロント係に案内されてこの部屋を訪れた「桜木麻耶」は、座椅子にチョコンと腰を下ろしてテレビをつけた。特に見たい番組があったわけじゃなく、一人でいるのがどこか寂しかったから、音楽の代わりにTVのノイズを求めただけ――そして、お茶を飲んで一休みした後、どこかへ行ってしまった。
彼女はどこへ行ったのだろう? 行くとしたら、大浴場? それとも、お土産売り場? いずれにせよ、一階のフロントの前を通ることは間違いない。それならフロント係が目撃しているはずだ。
ここに来る前、フロント係に、「麻耶」を見かけたらすぐに麻耶の部屋へ電話を入れるよう頼んでおいた。フロント係は麻耶のことを変な目で見ていた。それは当たり前――だって、フロントのあたりに「麻耶」がいるってことは、部屋に電話をしても麻耶が出るわけがないんだから。
そんなことを真面目に考えていたら、思わず笑ってしまった。
そもそも「桜木麻耶が二人いる」ってところからして怪しいから。確かに「百パーセントない」とは言い切れないけれど、九十九パーセントあり得ない。
じゃあ、この状況をどう説明したらいいの? フロント係が勘違いしている? でも、宿泊カードは確かに麻耶の筆跡だった。旅館が昔のカードを使って麻耶を騙そうとしている? 目的がよくわからない。書き入れどきにそんなおふざけをしている余裕なんかないはず。
「幽霊の正体見たり枯れ尾花」なんて言葉のとおり、正体がわかったら笑い話で済まされるのかもしれない。でも、正体を突き止めるまでは、温泉に入る気分にもなれない。もうしばらく部屋にいるのが得策。もし「桜木麻耶」が戻ってきたら、とりあえず謝れば済むことだから。
★★
少し気が楽になった。麻耶は使っていないお茶碗にお茶を入れて、ひと休みすることにしたの――ただ、習性とは恐ろしいもの。急須に入れた、お湯の量が二人分になっている。とりあえず二つの茶碗にそれぞれお茶を入れた。
こうしてお茶碗を並べていると、今にも今岡さんが引き戸を開けて入ってくるような気がする。
「あ~いい湯だった。麻耶も行って来たらどうだ? 嘘のように疲れが取れる。でも、仙台に来て本当に良かったよ。こんなに近くに気持ちの良い温泉があって、こんなに近くに――心地良いキミがいるんだから」
そう言うが早いか、今岡さんは麻耶の手をとって自分の方へ
『あっ、忘れてた!』
思わず心の中で大きな声が出た。麻耶はバッグからスケジュールが書かれた手帳を取り出した――お母さんから電話をするように言われていたのを思い出したから。
昔から親しくしていた、近所のおばさんが急病で入院しちゃって、来週にでもいっしょにお見舞いに行くことにしていたの。お母さんからは「麻耶の予定に合わせるから都合のいい日を教えて」なんて言われていた。
手帳を
「――もしもし、お母さん? 麻耶です。遅くなってごめんなさい。明美おばさんのお見舞いの件だけれど、来週の月曜か火曜でどう? どちらでもOK? じゃあ……火曜でいい? うん。わかった。月曜の仕事が終わったら
その瞬間、麻耶の背中に冷たいものが走った。
額に
お母さんが勘違いしているだけなのかもしれない。ただ、その可能性は低い。
麻耶の仕事のスケジュールを知っているのは会社関係の人だけ。麻耶の親しい人が入院していることを知っているのは実家の近所の人だけ。そして、その両方を知っているのは――「桜木麻耶」だけ。
「……お母さん、電話があったのはいつ頃?……五時四十分……今は六時十五分だから……やっぱり……あっ、何でもない。こっちの話。また電話するから。じゃあね」
電話では努めて冷静に振る舞ってはいたけれど、身体の震えが止まらなかった。
どういうことなのかはわからない。でも、
つづく
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