第3部 終点 Akitsu Hot Spring

第20話 思い出の場所


 路線バスが「秋津大滝」のバス停に停車すると、乗客は我先にと乗降口から飛び出していく。車内に人がいなくなるのを見計らって、麻耶は白いトートバッグを肩に掛けるとゆっくり立ち上がった。

 運転手の「お気をつけて」の声に、クールガールの口から「ありがとう」の言葉が漏れる――ただ、それは条件反射のようなもの。これまで何度も同じ場面を経験しているから。


 時刻は五時を少し回ったところ。外はほとんど真っ暗。この時期になると、山間やまあいの夕暮れは涼しいを通り越して肌寒く感じる。ブラウスに薄手のニットの麻耶は身体をぶるっと震わせると、手に持っていたジャケットを素早く羽織った。ボトムをパンツにしたのも正解だった。


 緩い坂を上って行くと、麻耶の目に見慣れた温泉街が映る。

 メイン通りに沿って、昔ながらの旅館やホテル、飲食店や土産物店が所狭しと軒を連ねる。温泉街らしく、鼻をつくような硫黄の臭いが漂い、浴衣を着て丹前たんぜんを羽織った、宿泊客らしき人の姿も見られる。一年を通してこの景色を眺めているけれど、こんなにたくさんの人でにぎわうのは、紅葉の時期と年末年始だけ。


 麻耶が予約した「秋津流水館あきつりゅうすいかん」は、温泉街の外れにあって、バス停から十分弱歩いたところ。旅館の裏手に秋津大滝があって、部屋の窓から、滝の水が流れ落ちる様子を見ることができるの。紅葉に囲まれた瀑布ばくふは雄大さの中に美しさが感じられる。そんな景色をゆったりくつろぎながら見られるのは、とても贅沢ぜいたくな気分。


 それから、旅館の敷地の隅に階段があって、それを下りたところにあるのが展望スペース――この旅館の売りの一つで、宿泊客は五十五メートルの高さから流れ落ちる、白糸を束ねたみたいな、滝の流れを特等席で見ることができるの。安全柵から少し身を乗り出して眺める、滝壺の様子は「スリリング」なんていう表現がピッタリ。


 旅館の入口に掛る、縦長の看板には、百年以上前に創業者によって書かれた「秋津流水館」の文字――最初にこの宿に泊まったのは、観光ガイドを見ていたとき、看板の写真を目にしたのがきっかけだった。今思えば、すごく単純な理由。でも、実際に泊ってみたらとても素敵な宿で、麻耶はリピーターになった。

 部屋から見える眺望が素晴らしいのはもちろんだけれど、お料理がとても美味しくて、温泉がすごく気持ち良かったのがポイントかな――と言っても、秋津温泉ではこの宿にしか泊ったことがないから、他の旅館とは比較できないんだけどね。


 看板が掛る、石造りの門から数メートル石畳の通路を進んだところにある、落ち着いた感じの建物が今日の宿――麻耶が初めて一人で泊まる宿。


 いつもなら玄関先にスタッフが出て来て、暇を持て余すように立ち話をしているのに、今日はそんな様子は全く見られない。

 フロントでは客が列を作って、三人のスタッフが忙しそうに立ち回っている。いつもより一人多いのにそれでもてんやわんやの状態。でも、この三人なら経験も豊富で機転も利くから何とかなるんじゃないかな――毎週のように来ていたらスタッフの顔を憶えちゃったの。もちろん、スタッフも麻耶の顔はバッチリ憶えている。なんたってお得意様だもの。


★★


 通りの反対側に目をやると、懐かしいお店のネオンサインが目に入った。

 外観が赤レンガで覆われた、西洋風の瀟洒しょうしゃな一軒家。一際目を引く、そのモダンな建物は「ほっと・SPRING・れすと」。温泉街には珍しい、自家製の焙煎ばいせんコーヒーを出しているお店で、二十年以上続いている老舗しにせ

 マスターは女性で、以前某飲料・食品メーカーで研究職を務めていた人。名前は「北畠敦子きたばたけ あつこ」さん。もともとコーヒー好きが高じて入社したらしく、会社では開発畑一筋。でも、「自由な環境でコーヒーの味を極めたい」と思って三十歳のときに脱サラしたらしい。北畠さんと何度か話をしていたら、そんな話もしてくれたの。


 店内は、通りに面した二人掛けのテーブルが二つ、中央のカウンター席が六つ、それに、奥に四人掛けのテーブルが二つ。そんなに広くはないけれど、静かで落ち着いた雰囲気は悪くない。それに、ここのコーヒーは北畠さんがこだわりを持っているだけあって、これだけの味と香りを出せるお店にはなかなかお目に掛れない。


 ここは、麻耶が今岡さんと待ち合わせをするときに使う場所――同時に、麻耶が「幸せな時間」を過ごす場所。行きと帰りの路線バスの車中が麻耶の「幸せな時間」だって話はしたと思うけれど、「ほっと・SPRING・れすと」で過ごす時間は三つめの「幸せな時間」。


 麻耶たちの待ち合わせ場所は、秋津流水館の門のところ。麻耶はいつも三十分前に待ち合わせ場所に着いていたの。心配性っていうわけじゃなくて、今岡さんと同じバスに乗ったら意味がないから、それを避けようと思ったのがもともとの理由――でも、いつからか、それは二の次になったの。


 今岡さんが来るまでの時間、麻耶は「ほっと・SPRING・れすと」で自分の気持ちを高めるようにした――「ドキドキ感を味わう」って言った方がわかりやすいかもしれない。同じ場所でも、季節によって全然違った顔を見せる。天気や曜日によっても違うものに映るし、麻耶のバイオリズムによっても見え方がどこか違う気がする。そんな景色を窓から眺めながら、麻耶は今岡さんに会ったときの会話や振る舞うイメージなんかを膨らましたの――いつも窓際の二人掛けのテーブルに座って、向かいのイスには、麻耶の相棒、お気に入りのトートバックをちょこんと座らせて。


 あれは確か、今岡さんとの二回目の待ち合わせのときだった。


「奥の席の方が落ち着きますよ。よろしければ四人掛けのテーブルに座られたらいかがですか?」


 声の方に目を向けると、そこには穏やかな笑みを浮かべる北畠さんが立っていた――首からシェフエプロンを掛けたモノトーンのシックな服装。一箇所で束ねて三つ編みにした、長い髪。眼鏡を掛けた端正な顔立ち。肌につやがあってとても若々しい感じだった。


 でもね、麻耶は申し出を断ったの。理由は至って単純――奥の席からだと待ち合わせ場所がよく見えないから。だって、今岡さんったら、いつも待ち合わせ時間の十分前に来ちゃうんだもの。

 早く会えるのはうれしいけれど、麻耶としても「心の準備」ってものがあるし――でも、今岡さんが来るのは決まって十分前だったから、いつからか、その時間を基準に気持ちを高めるようにしたの。


 窓際の席に座って、窓の外のを凝視する、無表情の女が、突然バッグと伝票を掴んですくっと立ち上がる。そして、予め用意した小銭を無造作に店員に渡すと「ごちそうさま」の声と同時に風のように去っていく――そんなシーンを目撃しているお客さんは結構いるんじゃないかな。

 もしかしたら、毎週末に現れる、そんなのことが、ほっと・SPRING・れすとでは都市伝説みたいに語り草になっていたのかもしれない。その女が、通りを挟んだ向こう側で爽やかなナイスガイと会っているのも、きっと見られていた――みんな、麻耶のこと、今岡さんとは不釣り合いだって思っていたんだろうな。


★★★

 

 でも、秋津温泉に来るのは本当に久しぶり。

 前回来たのは三月の終わりだから、七ヶ月以上も前――今岡さんとの最後のデートの日以来。


 三友物産みつともぶっさんから出向していた今岡さんは、三月三十一日付けでサン&ムーンを退職して復職することになった。


 麻耶は、今岡さんがいつまでも仙台にいるとは思っていなかったから、異動があることについてはそれなりに覚悟はしていたけれど、まさかサン&ムーンからいなくなるなんて思ってもみなかった――今岡さんがとてつもなく遠い存在になった気がした。でも、仕方がないことだって思った。

 今岡さんは、もともと麻耶とは住む世界が違う人だから。東京よりももっと遠くの世界へ羽ばたいて行く人だから。大きな夢に向かって――麻耶は、何度も何度もそう自分に言い聞かせたの。


 つづく

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