第9話 反乱分子
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「部長さん、ちょっといいかい?」
今岡さんの挨拶が終わると、それを待っていたかのように、最前列の白髪をオールバックにした、小柄な男が小さく手を挙げる――狐のような細い目をさらに細くして、いつも麻耶たちを見下すように見る男。
「どうぞ」
今岡さんは笑顔で右手を差し出すと、男に話すよう促す。
「慢性的な時間外勤務に休日出勤? 三ヶ月は馬車馬みたいに働け? それがサン&ムーンのやり方かい? だとしたら……ブラック企業そのものだよ」
男は吐き捨てるように言うと、「納得がいかない」といった様子で何度も首を傾げる。
「――部長さんにも考えがあるのはわかる。でもね、いくらなんでも
もちろん私はそんなことはしない。ただ、若い社員がどう思うかねぇ……私はどうなってもいいんだよ。でもね、将来を担う人たちが憂き目に遭うのを黙って見ていられない
ネチネチとした、嫌味たっぷりのダミ声が会議室を席巻する。
今岡さんが挨拶を終えた後の明るい雰囲気が一変する――男の名は「
長谷部のことを知っている者なら、なぜこのタイミングでそんな話をしたのか理解できる――狙いは二つ。一つは、部長である今岡さんに「自分が社員思いであること」をアピールして、合併後の自分の立場を良くしようというもの。もう一つは、責任者である今岡さんに強気な発言をすることで、社員に「自分が頼れる人間であること」をアピールして、味方につけようというもの。
口では「自分はどうなってもいい」とか「社員を大切にしたい」などと言ってはいるけれど、この男が他人を気遣うなんてことは絶対にない。太陽が西から上って東に沈んだとしてもあり得ない。
イソップ童話で、鳥と獣の両方に良い顔をして風見鶏のように振る舞うコウモリの話があったけれど、喩えるなら、まさにそんな感じ。童話のコウモリは鳥と獣の双方から嫌われて孤立してしまったけれど、長谷部の場合はそうではない――八方美人を絵に描いたような、この男は、みんなに上手く取り入って取締役まで上り詰めた。
「世渡り」と「舌先三寸」が
そんな長谷部の口撃に対して、今岡さんは相変わらずニコヤカな表情を浮かべる。ただ、目は笑ってはいなかった――見ようによっては、獲物を狙う鷹のように鋭く、南極の海を覆い尽くす、分厚い氷のように冷やかだった。会議室に漂う、張り詰めた空気に、麻耶の背筋にゾクッと冷たいものが走る。
「長谷部さん、あなたは、まずご自分の『誤った認識』を改めるべきです」
「何だって?」
ゆっくりと開いた、今岡さんの口から長谷部の主張を真っ向から否定するような言葉が飛び出す。
想定外の事態に、長谷部に戸惑いの表情が浮かぶ。しかし、そんなことはお構いなしに、今岡さんは穏やかな口調で続ける。
「長谷部さんは、被合併企業の社員である自分たちを『悲劇の民』だと考えています。言い換えれば、サン&ムーンがM&Aという
長谷部の顔をジッと見ながら、今岡さんははっきりとした口調で言った。
「別にそんなつもりで言ったわけじゃないよ。あなたね――」
今岡さんの核心をついた言葉に、長谷部は得意の舌先三寸で切り抜けようとする。
しかし、無情にも長谷部の
「――あなたは、自分の周りで火事が起きているにもかかわらず、何もできずに泣いている子供みたいなものです。今のあなたに与えられた選択肢は二つ。一つは、自分ができることを精一杯すること。もう一つは、すぐに逃げ出すこと……はっきり言います。口では偉そうなことばかり言って行動を起こさない者や、全てを
穏やかだった、今岡さんの口調が厳しくなった。
長谷部は眉のあたりをピクピクさせながら肩を震わせる――しかし、それで終わらなかった。今岡さんの歯切れの良い言葉が、長谷部に容赦なく襲いかかる。
「――長谷部さん、あなたのような人にも理解できるように、簡潔にお話しましょう。M&Aというのは、合併する側とされる側、双方にとってメリットが認められるからこそ成立し得るものです。今回僕たちが行ったM&Aも例外ではなく、単に企業の勢力拡大のために行った侵略行為――『敵対的買収』ではありません。合併される企業の良いところを認めて、サン&ムーンにない部分を補ってもらおうとしています。では、なぜ『対等合併』ではなく『吸収合併』なのか? それは、あなたの方がよくわかっているはずです。
あなたの会社は経営上問題があった。かなり前から危険な兆候が見え隠れしていました。そんな状況があるのを上手く誤魔化していましたね? まさか取締役の職にある者がそんな危険信号を見落としているとは思えません。
あなたが経営責任を放棄していたことが会社の経営を危うくし、一つ間違えば社員が路頭に迷うような結果を招きました。にもかかわらず、あなたは『自分は被害者だ』などと厚顔無恥な態度をとっている――社員の皆さんはどういう気持ちだと思われますか?」
その言葉には、聞く者を納得させる、圧倒的な力強さが感じられた――「言葉に魂が宿っている」というのはまさにこんな状況を言うんだって思った。事前の調査にも抜かりはなく、話している内容も理路整然としている。
長谷部は苦虫を噛み潰したような顔をする。
何か言いたそうにしているけれど、なかなか言葉が出てこない。
「長谷部さん、いくら優秀なスタッフを採用しても、その能力を見極め、会社にとって適材適所の任用を行い、きちんとした評価をしなければ、宝の持ち腐れです。遅かれ早かれ会社は潰れます。そもそも、『本来業務以外の部分』が人事考課の大きなウエイトを占める会社なんて聞いたことがありません。世襲制の同族会社をいくつか見てきましたが、あなたのところほど酷い会社にはお目に掛かったことがありません。
でも、安心してください。これからは、公平かつ適正な評価制度が導入されます。がんばった者が評価される「正常な会社」に生まれ変わります。やりがいがあって、給料も上がって、福利厚生も良くなります。M&Aを悪の
余談ですが、あなたの会社には「世渡り」や「ハッタリ」で出世したにもかかわらず、自分が有能だと勘違いしている社員がいるみたいですね。そんなどうしようもない輩を排除するのが僕の最初の仕事です――反論があれば聞きますよ。長谷部さん」
長谷部の顔が真っ赤になる。それに対して、今岡さんの表情はとても清々しい――まるで、駄々をこねている子供を大人が
そんな今岡さんに、よせばいいのに長谷部が反撃に出ようとする。
『部長さん、そんな屁理屈でうちの社員を丸め込んだつもりかい? 給料を上げるとか福利厚生をよくするとか口では何とでも言えるんだよ。そんなハッタリが通用すると思ってるのかい? 自分の会社のことは自分が一番よくわかっているんだ! 私が経営責任を放棄しただって? 何を根拠にそんな
会議室の中に大声が響き渡る。長谷部のハッタリ攻撃が炸裂する。一触即発の状況に、会議室にいるみんなは生きた心地がしなかったと思う。麻耶も胸が苦しくて堪らなかったの――だって、お仕事系のドラマのワンシーンみたいだったから。片田舎のどうしようもない会社でそんなシーンが見られるなんて思ってもみなかったから。
麻耶は、今岡さんが主人公のドラマをずっと見ていたいと思った。思う存分ドキドキを堪能したいと思った――でも、そんな麻耶の想いとは裏腹に、ドラマはあっけなく最終回を迎えることになる。
「長谷部さん、それは『訴訟を起こす』ってことですか?……参ったなぁ……」
視線を逸らして腕を組む今岡さんに、「してやったり」と言わんばかりに長谷部の顔にいやらしい笑みが浮かぶ。
「参りましたよ……うれしくて。まさか、あなたが僕の最も得意とするフィールドへ来てくれるなんて思ってもみませんでしたから――受けて立つよ! 長谷部さん」
その瞬間、今岡さんの目つきと声のトーンが明らかに変わった――「長谷部が地雷を踏んだ」。そんな言葉が麻耶の脳裏に浮かんだ。
「あなたが出席している取締役会の議事録はすべて見せてもらった。そのうえで、出席者にヒアリングをして詳しい状況も確認した。他言無用ってことで、みんな詳しく教えてくれた。長谷部さん? あなた、いろいろな提案をしているよね? ちなみに、雪だるま式に増えていった債務の状況分析も併せて行った――この二つから興味深い事実が見えてきたよ」
今岡さんは少年のような無邪気な笑顔を浮かべると、長谷部の顔を睨みつけた。
「――こんな危機的な状況で、債券をバンバン発行して、調達した金でわけのわからない設備投資を繰り返すなんて、まともな人間のすることじゃないよ。一体全体、誰の責任なんだろうね? まぁ、見る人が見たら、会社を潰そうとした不届き者が誰なのかは一目瞭然だね――長谷部さん、あなたを『背任罪』で告訴しようか? それとも、株主連中にこの分析結果を見せて株主訴訟でも起こしてもらおうか? 当然マスコミを集めて会見もさせてもらうよ。
長谷部は顔面蒼白の状態で、酸欠の金魚みたいに口をパクパクさせる。
そんな哀れな男を無視するかのように、今岡さんの声のボリュームがさらに上がる――いよいよドラマはクライマックス。
「今から『十』数えるうちに選択するんだ――これまでの全ての発言を取り消して、みんなに詫びを入れるか。それとも、今から弁護士と会計士を呼んで記者会見の準備を始めるか」
麻耶は相変わらずのクールガール――でも、心の中では大きな目を更に大きくしてワクワクしていたの。それもそのはず。前の会社では決して見られなかった、ドラマチックなシーンが目の前でライブ展開されているんだもん。世間一般ではこれを「非常事態」なんて呼ぶのかもしれない。実際会議室にいるみんなは言葉を失ってオロオロしている。でも、麻耶は違った。目の前にいる今岡さんが最高にカッコ良く思えた。
「一、二、三」
今岡さん、ホントに数えてるし。しかも結構楽しそうに。
「ま、待て!」
長谷部が喉の奥から絞り出すように発した言葉を、今岡さんは涼しい顔で右から左へ流す。
「――四、五、六」
「待て!……いえ、待ってください!」
少し語尾を修正した言葉も今岡さんの耳には届かなかったみたい。
長谷部ったら――残念!
「――七、八、九」
「も、申し訳ありませんでした! 私が間違っていました! 許して下さい! この通りです!」
追い詰められた長谷部は、今にも泣き出しそうな顔で身体が半分に折れるくらいに深々と頭を下げた。長谷部の断末魔のような声に今岡さんは数えるのを止めた。その顔には、穏やかで優しい表情が戻っていた。
「長谷部さん、助かりましたよ。訴訟に係る費用もバカになりませんからね」
つづく
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