怖いんだ
夜になって、英知の店でその話をすると、彼は愉快そうに笑った。
「いいねぇ、女の子っておしゃまだな」
「だけどさ、女に夢中になってる場合じゃないんだけど」
客が途切れた隙にたまった洗い物を片付けている俺の横で、英知はカウンターを拭きながら言った。
「いいじゃない。励みになることもあるでしょ。それに、彼女も商店街で働く仲間といえば仲間なんだから、里緒さんのためにも頑張るぞって思えるし」
「英知、前向きになったな」
少なくとも、俺の知っている学生時代の彼は引っ込み思案だった。俺が東京に行っている間に、何かが彼を変えたのだろうか。
そう思っていると、英知がすとんと落ちるような声で言った。
「好きだと思うことに罪悪感を抱くのは、辛いことだし、悔いしか残さないから」
「英知、お前もそんな想いをしたことあるのか?」
「うん、憲史は知ってるから正直に言うけど、本当はしんどいこともあるんだよ」
「そうか」
それ以上、何も言えなかった。こういうとき気の利いた言葉が何も出てこない自分に苛立つ。
「あのな、英知、俺にできること、あるか?」
「えっ? どうしたの、突然」
「いや、俺さ、お前に助けてもらうばかりで、何もしてこなかったから」
すると、彼は持ち前の穏やかな笑顔で、こう言った。
「それでいいんだ。憲史が気づいていないから救われたときだってあるんだよ」
「そういうもんか?」
「そういうもんだよ」
彼はカウンターを拭き終わると、俺が洗ったグラスを磨き始めた。慣れた手つきで優雅なのはさすがというべきか。
「それより、親父さんのほうは落ち着いたのかな? お見舞いには行ったの?」
「いや、まだ」
「えっ、じゃあ、入院してから一度も顔合わせてないの?」
「店番があるし、それに……」
「それに?」
躊躇したが、英知の顔を見ているうちに頑なになっていた何かがほつれていく。気がつけば、力なく呟いていた。
「怖いんだ」
「親父さんに会うのが?」
「うん」
「どうして?」
「役員の話はしなきゃならないだろ。フリーペーパーの記事とはいえ、俺なんかが三代目を名乗って、どんな反応するんだろうって思って。それにただでさえガリガリに痩せてるのに、もっと弱った親父を直視するのは怖い」
英知は「そういうことか」と頷いた。
「なぁ、英知」
「うん?」
「人って必ず死ぬよな? 手術しても大丈夫だって言い切れないかもしれないよな」
「憲史、なんてこと言うんだよ」
「俺、本当に怖いんだ。今まで親父がいなくなることなんて、一瞬でも想像したことなかったんだよ」
洗い物をする手を止め、英知をじっと見つめる。
「商店街が大変なときだからってわけじゃなくて、人が一人いなくなることが怖いんだ」
「憲史……」
英知は気遣うような目で視線を返していたが、やがて「よし」と声を上げた。
「僕が一緒に見舞いに行くよ」
「えっ?」
「親父さんの顔を見たいし、僕が一緒だったら弱気になっても吐き出す相手ができるでしょ?」
情けない話だが、英知がこうまで言ってくれてもまだ腰が引けていた。そんな俺に彼はこう畳み掛ける。
「もし、本当に怖いと思ってるなら、会いに行くべきだよ、なおさらね」
「そうか。そうだな」
「それに、親父さんも喜ぶよ」
「まさか」
「喜ぶさ。僕が保証するよ。なんなら亮も誘う? 三人で行こうよ」
「いや、亮には今の話、言わないでくれ」
「どうして?」
「あいつ、親父さんもおばさんも亡くしてるだろ?」
「あ、うん」
「あいつだって、今の俺みたいに怖くなったり、落ち込んでたと思うんだ。おばさんは病気で亡くしてるしな。それなのに俺ときたらあいつがそんな想いをしているときに、呑気に不倫なんかしてさ、里帰りもしないでさ、あいつに何もできなかったんだ」
濡れた手を拭きながら、低い声で言う。亮に何もできなかったことは、ずっと、胸の奥に引っかかっていた悔いだった。
不思議なもんだ。英知の醸し出す柔らかい雰囲気は、人の心を裸にする。他の人には素直に言えないことも、するっと出てきてしまう。
「あいつに親父が死ぬのが怖いなんて、言える資格はないんだ。それに、亮にいろいろ思い出させたくない」
「そうか」
英知は、そっと目を細めた。
「たまに君たちは思いやりが空回りするね」
照明で輝くグラスを置き、英知が静かに言った。
「でも、僕はそういう不器用なとこが好きだよ」
不器用と言われても、何も反論できない。もう少し器用に生きられたら、どんなに楽だろう。そう言うと、英知は笑い飛ばす。
「でもねぇ、楽な道は味気ないから」
同い年だというのに、どれだけ乗り越えたものを積み重ねれば、こう言い切れるのだろう。ただ言えることは、俺はいい友達を持っているということだ。そう思った。
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