小さな味方

 翌日になると、朝からずっと店番をしながら真っ白いままの記事とにらめっこをしていた。

 タイトルや写真の箇所を丸で囲んで見ると、洋子さんの店の詳細を載せる部分は思ったより小さくなりそうだった。


「客を惹き付けるには、うまく本文に店の魅力が伝わるような文章を練り込まなきゃならないかな」


 ぶつぶつと独り言を口にしながら、頬杖をつく。

 ふと、店の外に目をやり、もう何度目かわからないため息をついた。


 無性に、里緒さんに会いたい。あの和やかな笑顔に癒されたい。


 そろそろバイトが終わる時間だ。書店ははす向かいなんだから、いつでも会いにいけるはずなのに、すごく遠く感じる。気がつけば、彼女に会いに行く口実を考えてしまう自分がいた。


 しばらくすると、思わず「あっ」と声が漏れた。里緒さんと葵ちゃんが店の入り口に突然現れたのだ。葵ちゃんは幼稚園の制服を着ている。


「嘘だろ、運命かよ」


 思わず口元がにやけてしまう。店に入ってきた葵ちゃんは「憲史君! こんにちは」と元気よく駆け寄ってきた。


「こんにちは、葵ちゃん」


「憲史君に会いにきた!」


 なんて嬉しいことを言ってくれるんだ。思わず目尻を下げてしまった俺に、里緒さんが「突然、お仕事中にすみません」と頭を下げた。


「葵がどうしても憲史君にお礼がしたいんだそうです。幼稚園からまっすぐこちらに行くってきかないもので」


 そう言うと、バッグから小さな袋を取り出した。ピンクのリボンが可愛らしく結んである。


「これ、葵と一緒に作ったクッキーです。先日のお礼に。この前はすっかりご馳走になっちゃって、ありがとうございました」


 ハンバーグ店で奢ったことを思い出し、「そんな、気にしないで」と言ったものの、すっかり舞い上がってしまった。好きな人の手作りクッキーなんて、そう食べられるものではない。


「ありがとうございます!」


 そして膝を折ると、葵ちゃんに心から礼を言った。


「本当にありがとね! すっごく嬉しい!」


 葵ちゃんは「へへ」と照れ笑いを浮かべている。なんて愛くるしいんだ。

 デレデレしていると、里緒さんが写真館を見回して「へぇ」と感心したような声を漏らした。


「写真館の中ってこうなってるんですね。入ったの初めて」


「里緒さんならお安くしておきますよ。記念写真、いかがですか」


「いいですねぇ。どうせ撮るなら、憲史君に撮ってほしいな。考えておきます」


 社交辞令だとしても、俺を舞い上がらせるには十分すぎる言葉だった。


「もうバイトは終わったんですね。慣れました?」


「いえいえ、まだまだ。店長にご迷惑ばかりかけてます」


 謙虚に言った里緒さんが「そういえば」と俺に微笑んだ。


「憲史君、『たかせっこ』の写真を撮ってるんですってね。すごいですね」


「えっ、亮から聞いたんですか?」


「幼稚園の先生から」


「はぁ? なんで幼稚園で?」


「肉屋のお孫さんと、葵は同じ幼稚園なんです」


 よくよく話を聞いてみると、洋子さんの娘が『この前、カメラを持って肉屋に取材にきたから、情報誌に載る』と自慢していたらしい。それを先生から聞いた里緒さんが亮に話し、亮がそれは俺のことだと教えたのだそうだ。

 人の噂っていうのは、どうしてこうも早いのだろう。驚くやら呆れるやら、怖くなるやら。


「うん、いや、写真は撮ったけど、記事のほうがちょっと進んでないんですよ」


 三回の連載なので父親が復帰しないと最後の記事が書けない状況を手短に話すと、里緒さんが「まぁ」と声を漏らした。


「お父さん、早く戻ってくるといいですね」


「ありがとうございます」


「じゃあ、お父さんが戻るまでは連載も保留になっちゃうんですね」


 そこなんだ。いっそ別の案にしたい。そう思った途端、彼女の口からこんな言葉が漏れた。


「でも、憲史君の記事、楽しみです」


「本当に?」


「うん、本当に。それに、商店街を知ってもらう足掛かりになるなら、素晴らしいことですよね」


「でも、何をどう書いたら客を取り込めるのか、ちょっと不安なんですよ」


「ううん」と、彼女は唸り、やがて口を開いた。


「失礼を承知で言うんですが、私も店長のところでバイトを始めるまでは、この商店街で買い物したことなかったんです」


「あぁ、ボヌールにいたんですもんね。そこで買い物済んじゃうでしょう?」


「それもあるんですけど、子ども連れだと、どうしてもあちこちの店をはしごするのって大変で。なんでも手に取ったり走り出してしまうから、その、言いにくいけど、商店街みたいに小さなお店だと大変なんです。だから、最初から買い物に行く候補から外しちゃってたんですよね」


「そうか、そういうのって、育児してないと気づかないなぁ」


「葵は六歳ですけど、もっと小さい子だとなおさらかもしれません。子どもを乗せられるカートがあると嬉しいし、あっても商品に手を伸ばしてしまうから、棚から離れて歩かないといけなくて、そうすると手狭な店だと迷惑に思われたりして。それに店の出入り口にちょっとした段差があるだけで、ベビーカーだと辛いんですよ」


「じゃあ、やっぱり駅前の大型店とかに行きます?」


「そうですね、子どもを遊ばせるスペースもありますから、つい、そっちに行っちゃいますね」


 こういうのも、いつか商店街のみんなと話し合いたい問題だ。店舗の通路を広げるのは無理だろうし、カートを用意できない店も多いけど、出入り口の段差くらいならなんとかできそうだ。ベビーカーだけでなく、車椅子の人にも優しいはずだ。相手が子どもに限らず、万人に優しい配慮は他にもあるかもしれない。


「里緒さん、他にもっと『こうだったらいいな』っていうのがあればどんどん教えてくださいね」


 頼み込むと、彼女は「はい」と微笑んだ。


「役員、張り切ってるんですね。応援してます」


 その笑顔を見たから張り切ります。とは言えず、照れ笑いを浮かべる。


 ふと、里緒さんが「あっ!」と何かを思い出した。


「いけない、店にエプロン忘れてきちゃった。洗濯しようと思ってたのに」


 すると、葵ちゃんが「取りに行っておいでよ。葵、ここで待ってる」と言った。本当にこの子はしっかり者だ。


「里緒さん、行ってきてください。葵ちゃんは俺が見てますから」


「いいんですか? すみません」


 里緒さんが足早に店を出た途端、葵ちゃんが満面の笑みでカウンターに手をついて言う。


「憲史君、ハンバーグ、美味しかったね」


「うん。またご飯食べに行こうね」


「うん!」


「お母さん、優しいね」


「そうでしょ? 葵、お母さん大好き。この前はたくさん笑ってくれて嬉しかったな」


「この前?」


「憲史君とハンバーグ食べに行ったとき」


「本当? だったらよかった。でも、いつもたくさん笑ってるじゃない」


 ふっと顔を曇らせ、葵ちゃんが下を向いてしまった。


「葵がいると笑うよ。でも、こっそり泣いてるの知ってる」


 気の利いた言葉が浮かばず、ただ「そうか」としか言えない自分がもどかしい。


「憲史君といたから、お母さんいっぱい笑ったのかな。だったら、ずっと一緒にいて欲しいな」


 そりゃ、俺だってそうできるものなら、そうしたい。


「そうだねぇ。じゃあ、また一緒にご飯行こうね」


「うん!」


 里緒さんがエプロンを持って店に戻ってくるのが見えたとき、葵ちゃんは俺に向かって囁いた。


「私ね、新しいお父さんが欲しいの。だから頑張ってね」


 俺はいつの間にか、小さな、でも強力な味方を得たようだった。

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