2.生育歴と生活歴

 な、何が起こったというのでしょうか。

 先程まで不審者のように挙動不審な動きをして、ソファに座らず問診票すら書いてくれなかった初診の方が、金本さんの声掛けであっさり問診票に取り掛かることができました。


 金本さんはこの方が問診票を書き始めたことを確認すると、「書き終わったら内線ください」と、さっきの受付さんへ一言伝えました。

 受付さんは、「すみません、ありがとうございます」と頭を下げています。

 そして私たちは、もう一度面接室へと戻ってきました。


「水嶋さん、今私が患者さんにしたこと、気付いた?」


 やはり聞かれてしまいました。

 わ、分かりません……なんて言えるわけありません。私は必死に考えました。


「ゆ、誘導……でしょうか」

「誘導、ね」


 あああ。間違っていたんでしょうか。

 出来損ないの新人だって思われたらどうしよう。


「それもあるかな」


 あ、よかった。


「他には?」


 ほ、他!?

 う、うーん。うーん。な、なんだろう。

 誰か助けて欲しいです。


「こ……声掛け、とか」

「声掛けね。には?」


 ぐぐぐ具体的っ!?

 む、難しいです金本さん。


「まぁいいや。そこまで答えられたなら良しとしようか」


 ああ〜。きっとバカなやつだと思ったに違いありません。必死に私が考えている姿に同情してくれたんでしょう。もう今評価だだ下がり中です。


「今私がやったのは、今水嶋さんに求めたようなな声掛け」

「ぐ、具体的な声掛けですか?」

「そう。例えば『こんにちは、体調どうですか?』って聞かれて、水嶋さんはどう答える?」

「そうですねー。『はい。今日はいつもより一時間も早起きして朝ご飯もちゃんと食べて、とても気分がいいです』とか」


 これは私の今日の朝の様子です。

 馬鹿正直に答えてしまいました。自分で答えといて、ああ恥ずかしい。


「だよね。何となく、『ああ、ここ最近のこととか今日のことを聞かれているんだなぁ』って分かるじゃない?でもね、発達障害の人たちは、それがを聞かれているのか分からないの。なのか、のことなのか。またはを聞かれているのか、もしくはなのか。分からなくてすごく困っちゃうの」


 な、なるほど。

 ということはこの場合の適切な声掛けとすれば『こんにちは。調子はどうですか?』と聞けば、ちゃんと迷わずに答えられるっていうことなんですね。


「ちゃんと困りながらも『いつのですか?』とか『何のことですか?』とか聞ければいいんだけど、中にはパニックになって大声出しちゃったり、無言で固まってしまう人もいるんだよね。それが彼らの


 そ、そういうことなんですね。

 だからさっきあの方は固まって挙動不審な動きをしていたんですね。

 どこで問診票を書けばいいのか、空いているソファのどこに座ればいいのか、分かんなかったんだ。


 ん?

 あれ。でもそれって。


 その時、金本さんの内線が鳴りました。問診票を書き終えたようです。

 金本さんは問診票を受け取りに行って、また戻って来ました。


「あら、この子。字綺麗だね。読みやすい」


 本当です。書道の上位の段持ちじゃないかと思うほどの達筆感です。


「はい、これが主訴しゅそね」


 主訴。一番相談したいこと。一番困っていること。

 この初診の方、カナエさんの主訴を書く欄には『大人の発達しょうがいではないかとおもってきました。』と書かれてある。


「ただ、ところどころ漢字じゃなくて平仮名で書かれてあるね」

「そ、そうですね」

「知的にも少し低いのかもしれない。親御さんが来てくれれば一番良かったんだけど、今日はカナエさんだけみたいだね。同伴者が“なし”になってる」


 金本さんは一枚の問診票から、いろいろなを語っていきます。

 すごいです。たくさんの『そうなんじゃないか』という仮説が出てきます。


「いい、水嶋さん。これはただの問診票じゃない。たくさん経験を積んで、たった一枚の紙ぺらから、いろんなことが見えてくるようになっていこうね」


 金本さんはここで本当にいろんな人生を見てきたんでしょう。余裕のある助言。適切な声掛け。それはこれまで培われてきたものなんですね。


 神様。私も、金本さんのように、なれますでしょうか。


「さて。時間もないし、早速インテークを始めようか。水嶋さん、カナエさん呼んできてもらえる?」

「あっ、は、はい! 分かりました!」


 き、緊張します~。

 でも最初の患者さんとのコンタクトは大事です。

 み、水嶋、行きまーす!


「あ、あのカナエさん。お待たせしました。インテークを始めますので、あちらの面接室へ行きましょうか」


 よし。バッチリ。ちゃんと言えたはず。面接室を指差して話すことが出来たし、目線も座っているカナエさんに合わせました。

 ただカナエさんは目線を私に合わせようとしてくれません。ずっと斜め右下を向いています。


 あれ?


 カナエさんは動きません。


 どうして?

 私、どこかいけなかったのかな?


「カナエさん。インテークを始めますので、お部屋に一緒に行きましょうか」


 私はもう一度、同じ声掛けをしてみました。

 カナエさんは、目線を右に左に動かしながら、「えっとえっと」とブツブツ呟いています。


 私は、そんなカナエさんに――正直、少しイラッとしてしまいました。


 どうしてすぐに動いてくれないの?

 私の何がダメなの?

 何が分からないの?

 説明してよ。


 私は、手でも引っ張れば動くのかと思って手を伸ばそうとしました。


「カナエさ――」

「カナエさん」


 その時、後ろから金本さんの声がしました。

 金本さんは私の隣に同じようにしゃがみこみました。


「カナエさん。はじめまして、相談員の金本です。今日はね、診察をする前にちょっとお話を聞かせてほしいんです。もしよかったら、お話聞かせてくれませんか?」

「あ、はい」

「ありがとうございます。じゃあ、あそこのお部屋に一緒に行きましょうか」


 カナエさんが、返事をしました。

 私の時には動こうともしてくれなかったのに、金本さんの時にはちゃんと返事をして歩いてくれている。


 何が違うんだろう。何が――。


 私はしょんぼりしながらも、金本さんの後をついて面接室に入りました。

 そして順番に自己紹介をします。


 そしていよいよ、カナエさんのインテークが始まりました。


 ・


 カナエ、二十歳。現在母親と二人暮らし。本人は現在派遣の短期アルバイトを転々としており、母はスーパーのレジ打ちと夜は倉庫内作業のダブルワークをしながら何とか生計を立てている。


 正常分娩。幼い頃両親が離婚。母親の元で育てられる。保育園の頃からひとり遊びが多く、あまり友達と遊んだ記憶がない。友達の作り方が分からず、お金(小銭)を配って人を集めていたところを担任の先生に見つかり怒られたこともあるという。


 中学校に上がり、集団行動に馴染めず、学校を休みがちになる。自宅でひとりで過ごす時間が増え、アニメや漫画の世界にのめり込んでいった。体育は苦手。「動きがキモい」とよく男子にからかわれた記憶がある。また好きだった人に告白をしたときに「あなたよりイケメンはたくさんいるけど、あなたのことが好き」と言ったら即答でフラれた経験もある。


 高校に進学し、クラスの授業の一環で譲り合いの心という題材を学んだ後、『ではみなさん、今後電車の中ではお年寄りに席を譲れる方は手を上げてください』という先生の問いかけに対して、クラスで一人だけ「みんな今は手を上げているけど、どうせ実際その場になると人目が気になってできないんだよ」と言って最後まで手を上げずに、先生を困らせてしまったことがある。


 高校を卒業後、最初に就いた広告代理店の営業職(正社員)では「相手先に失礼なことを言った」ことで上司に注意されることが続き三ヶ月で解雇。その後、デパート内での靴屋の店員(契約社員)に就いた時もでも同じようなことがあり、一ヶ月で解雇。同じデパート内のカフェ店員(アルバイト)に受かるも、イレギュラーな対応についていけず一週間で退職。更にコンビニ店員(アルバイト)として働き始めるが、『要領が悪い』と二週間で解雇。それからは派遣の単発の仕事をしながら何とかお金を稼いでいるが、現場によっては『邪魔だから帰って』と三時間で帰されてしまうこともあり母と二人で生活していくのがやっとの状態。


 たまたま母親とテレビを見ている時に特集でやっていた『発達障害』という言葉を知り、もしかしたら自分もそうではないかと思い、検査のため本日来院したという。


 ・


 以上が、カナエさんの生育歴と生活歴になります。


 お母さんが持たせてくれたであろう母子手帳を、インテーク開始前に金本さんに出してくれたので、出産時の様子もそれを見て少しは分かることができました。


 なんといえばいいんでしょう。

 こんな大変な生活をしている人が今、私の目の前にいるなんて、と正直驚いています。


 見た目はと変わりないのに。


 どこか生活に生きづらさを感じる人たち。


 私も、さっきカナエさんにイラッとしてしまった。

 きっとこれまでカナエさんに関わってきた人は、これと同じような感情を抱いてしまった人も多いのかもしれません。


 ただ――、なんでしょうか。


 この人たちに感じる違和感と、自分でもさっきから感じてる、「」と思う気持ちは――。

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