4.躁状態

「すみません、つい感情的に……。雪凪さん、怒鳴って、すみませんでした」


 トキオは小さい声ではあったが謝罪した。

 何だか納得いっていない様子ではあるが、謝罪してくれたことを小山田と雪凪は評価する。


「トキオさん、感情的になってしまったんですよね。自分で抑えることが難しかったでしょう?」

「は、はい」

「トキオさんの病気はそんな病気なんです。気分が上がってしまうのと、気分の落ち込みを繰り返すんです。ちょっとだけテンションが上がるのとはわけが違って、トキオさんの場合は会社でトラブルも起こしていますし、今も感情を抑えられずに怒鳴ってしまったし、診察室のドアも蹴っちゃいましたよね。これは治療していく必要がある病気なんです」

「そ、そうですか」


 顔を上げずに、小山田の話を聞いているトキオ。

 小山田は机の上に裏紙を取り出し、何やらグラフのようなものを書き始めた。

 真ん中に黒色のペンで一本線を引く。その黒い線の端の方にペン先を置くと、その線から上に山の形をした線を赤で引いた。その後いったん黒の線の上に戻す。

 そして、その続きから今度は青色のペンで下に山を逆さまにした形の線を引くと、また中心の黒い線に戻す。それを繰り返す。すると、紙の上に赤と青の波の図が完成した。そしてその波の幅はとても狭く、てっぺんが紙の端ギリギリまで延ばされている。


「いいですか、トキオさん。今あなたのはこんな感じです」

「赤が気分が上がっていて、青が気分が下がっているということ、でしょうか?」

「そう。その通り。でもね、一般の人もこんな波があります。僕だって、後ろに座っている雪凪にもある。人は嬉しいことや悲しいことがあると、喜んだり落ち込んだりしますよね」


 トキオは雪凪の方を振り返った。

 トキオと目が合った雪凪は、にこっと微笑み返す。

 その笑顔を見ると、トキオは再び小山田の方を向いた。


「でも他の人の波はせいぜいこれくらいです」


 小山田は緑のペンで波を付け足す。

 その緑の波はトキオの波の三分の一ほどの高さしかなかった。


「僕が今トキオさんに行っている治療は、トキオさんのこんなにある高さの感情の波を、この緑の線までできるだけ近付ける治療です。我々は何も意地悪をしてトキオさんを復職させないわけではない。今のように怒鳴ってドアを蹴るようなことがあれば、せっかく復職してもまた休職せざるを得ません。それだけは避けたい。だから薬を飲んで、症状が落ち着いたらを利用してリハビリしてほしいと思っているんです」

、ですか」

「トキオさん、それについては私から説明をします」


 雪凪が後ろから声を出した。


「ただそれに関しては、奥様も一緒に説明を聞いてほしいと思っています」


 雪凪からの提案。

 小山田とは何も打ち合わせをしていなかったが、思い切った提案に、小山田は乗っかった。


「ぜひ、奥さんと一緒に聞かれた方がいいと思いますよ」

「家内もですか」

「はい。復職は、トキオさんひとりでできるものではありませんから。では日程を決めようと思いますので、こちらへどうぞ」


 雪凪はだいぶ落ち着いたトキオを診察室の外へ誘導する。部屋を出る時、雪凪は小山田にぱちっとウインクをした。ウインク……だと思う。両目とも瞑っている(雪凪は年齢の割にとてもしっかり者なのだが、ちょっと天然さんのようだ)。


 診察室を出ると、スタッフ全員が警戒している。トキオはだいぶ落ち着いたように見受けられるが、クリニック全体としてはまだ緊張感に包まれていた。


 雪凪は、トキオをいったん空いている面接室へと案内する。それを他のスタッフが見守っている。雪凪は、そんな心配そうに見ているスタッフに向けてグッと小さく親指を立てた。


 面接室。主に雪凪が患者と面接をする小さな部屋。インテークもこの部屋でとっている。小さな窓がひとつ。壁にかかった時計。パソコンが一台。あまり余計なものは置いておらず、とてもシンプルな造りだ。

 雪凪は、ドアに近い椅子に自分が座り、奥の椅子にトキオを座らせた。


「トキオさん、さっそくですが近々ご都合はいかがですか?」

「雪凪さん。僕、先生に初めてあそこまで僕の病気について聞いたような気がしますよ。つまり僕の病気は、感情の波が激しい病気だということなんですよね」


 トキオは雪凪の言葉は耳に入っていないように、話し始める。

 全く説明をしていなかったわけではないだろうが、ちゃんと頭に入ってきたのは初めてなのだろう。なんせ上がっている時は、病気ではないと思ってしまう特徴があるため、自分には関係ないと自然に否認していたと思われる。


「雪凪さん。僕はね、会社に必要とされている人間なんです。役職について、ずっと仕事を回してきたんです。なのに、人はどんどん辞めていくし、その負担は全部僕にかかってくるんです。残業ばかりの毎日だったんです。妻の待つ家に帰れずに会社に寝泊まりすることもたくさんあったんです」

「はい。最初もおっしゃっていましたよね」

「するとね、人間不思議なことにね、んですよ。何かこう、糸がぷっちりと切れた感じでしょうかね。そうしたらね、僕の場合、んです。その時はでしたね。なんかこう『』みたいな、というか。んです。しかもんです」

「ええ」

「そうするとね、周りの人間がしているように見えて、んです。よ。役に立たんやつは辞めろ、と毎日誰かによ。そしたら今度はんです」


 トキオは突然インテークの時にも話をしてくれた会社での出来事を、詳細に話し始めた。

 その中には、双極性障害の躁状態の症状が頻回に登場している。


 最後に登場した『会社は僕がいないとダメなんだ』という言葉は、誇大妄想こだいもうそうである。

 誇大妄想とは、『自分は超能力者だ』『私は天才だ』『私は神に選ばれた存在だ』といったような、『自分すごい!最高!』といったような内容の妄想をこう呼んでいる。


「それは大変でしたね。ではトキオさん、日程を決めましょうか」


 話が止まらなくなってきたトキオの思考を、何とか切ることを試みる雪凪。

 第三者からすると冷たい態度をとっているようにも見受けられるが、いったん話を切ってあげないと、次から次に思考やアイデアが浮かんできて、余計に話し続けてしまう。


 ――傾聴けいちょう。これはとても大事なことであるが、ケースバイケースである。

 統合失調症やうつ病の患者などの対して傾聴することは非常にいいことだが、双極性障害の気分が上がっている躁状態の時に、傾聴は逆効果なこともある。話が止まらなくなり、最終的には理解不能な支離滅裂しりめつれつなことを話し続けてしまうためだ。


 咄嗟とっさの状況判断。患者の病理、特徴を掴み、冷静に判断をする。こんな人が今日の〇時にやってくる、と初めから分かっていて予習をして待っているわけではないので、急な対応にも瞬時に状況を把握し、これまでの経験で作り上げられた頭の中のフローチャート使い、接し方や支援を変える。


「ああ、すみません。えと、じゃあ――」


 トキオと妻の面接日を調整した雪凪。

 ちょうど一週間後の午後に設定をした。


 雪凪のは、ちゃくちゃくと計画通りに歩みを見せていた。

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