8.ムンテラ

 カケルはそれからも順調に落ち着いていった。薬を飲まないとみんなに迷惑をかける、そんな意識で、毎食後に必ず看護師に積極的に声掛けし、薬を受け取ると看護師の目の前で飲むようにしていた。

 カルテには『あゆみちゃん』という単語が度々登場している。まだ『あゆみちゃん』の声が聞こえており、それに対して会話をするように小さな声で独語を言っている、と記載がある。

 幻聴の声はその人によって様々だ。そして中にはその幻聴の言う通りに行動する人もいる。例えば『米を買え!』と聴こえ、十キロの米を五袋買った、という人もいた。『動物愛護法違反だ!』と聴こえ、焼肉屋さんの暖簾のれんを破壊して警察に保護された人もいる。

 なぜ幻聴が聞こえるのか、幻視が見えるのか、なぜ統合失調症を発症してしまうのか、色々な説はあるものの未だに解明されていないという事実がある。環境やストレス、遺伝といったことは原因のひとつであると言われているが、『間違いなくこれが原因』だと言われているものはない。そのため、対処療法として薬を飲み続け、症状を抑えなければならないのだ。


 統合失調症は、我々にも個性があり、性格が違うように、その人それぞれで特徴が違う。社会適応が悪くなってしまう人もいるが、それも全ての人が必ずしも共通しているわけではなく、パターンも様々だ。

 例えばカケルの場合、人との物理的な距離感をとるのが難しい。「今田さん」と言いながら体全体が、いとも簡単に今田のパーソナルスペースに入ってくる。今田が一歩下がってしまうほどに一気に近付いてくる。中には誰が喋っているその真ん中を悪気なく通過してしまう者や、ぶつかりそうになっても避けずにそのまま真っ直ぐ歩いてしまい、相手が無理な体勢で避ける、なんて人もいる。きちんと季節にあった服を着れずに、真冬でも半袖を着てしまう人や、トレーナーやジャンパーをズボンの中、あるいは下着の中までぴっちりと納め、オシャレだと称する者もいる。ズボンの裾が靴下の中に入っていようが、穴の開いた服を着ようが気にしなくなり、それで平然と街中を歩く人もある。

 その人が、どれだけ地域で健康な人と変わらず生活していけるかは、服薬とリハビリ、地域の支援が重要となってくるのだ。



 ◆


 カケルが入院をして二か月あまりが経過をした。

 敷地内までだった外出も敷地外まで広がり、他の患者と近くのコンビニへ出掛けたり、面会に来た両親と服や無くなった消耗品を購入しに行くこともあった。

 このままの様子だと順調に退院できそうなほど落ち着いているように見受けられる。今田はそんなカケルのことで、医局にいる新井の元を訪ねていた。


「新井先生、お疲れ様です。お、愛妻弁当ですか」

「おつかれ、今田さん。そうなんだよ。なんか恥ずかしいなぁ」


 新井はお弁当に入っている卵焼きを口に頬張りながら、背もたれに体重を預け、後ろから声を掛けてくる今田の方へ椅子を回転させた。


「先生、ご飯食べながらでいいんですけど、カケルさんのことで」

「ああ、カケルさんはね、今すごく具合良さそうだよ。このままいけば来月には退院だな」

「そうですか。じゃあそろそろムンテラしませんか?」

「そうだね。退院に向けて、また退院後の方針をそこである程度決めていこうか」

「本人はもちろんのこと、ご両親はお呼びしようと思うのですが、あと希望があればお兄さんも」

「うん、それでいいんじゃないかな? 調整よろしく」

「はい、了解です」


 卵焼きを飲み込んだ新井は、次にたこさんウインナーを口に入れた。


「ちなみに、今田さんの方で何か考えていることある?」

「そうですね。カケルさん、デイケアに通いたそうにしてましたよ。今後は仕事をしたいと思っているみたいなので、デイケアに通ってリハビリしてもらうといいかもしれませんね」

「なるほど、デイケアか。いいね。ムンテラではその話も出してみよう」

「はい、お願いします。じゃあまた報告しますね」


 コップに入ったお茶を飲みながら、箸を持つ手で、今田に手を振る新井。


 今田はまずカケルにムンテラがあることを伝え、家族を呼ぶことに同意を得る。無事に同意を貰った今田は次に家族と連絡を取り合い、ムンテラの日程を調整する。

 このように間に入り日程等を調整をするのも相談員の仕事だ。またその際、本人に同意を必ず貰う。『先生とあなたと家族で、今後のことを決めよう』と言えば大抵二つ返事なのだが、家族との関係性が悪い患者などは断固として拒否をする場合もある。ケースバイケースではあるが、できるだけ説得をする。家族なしでのムンテラはここではあまり行ってはいない。家族を無視して行ってしまうと、今後の支援がうまく進まない。そのためにも、医療機関と本人、そして家族の足並みを揃えるためにも、できるだけ本人と家族には出席してほしい。


 そして、一週間後の今日。

 カケルと、カケルの両親、遠方からはるばるやってきた兄、主治医の新井、そして相談員の今田が、今田の調整した時間と場所に全員が集合をした。


「ご無沙汰しております、今田さん。何かあれば連絡を頂けてとても助かっています」

「いえいえ、お母さん。いいんですよ」

「初めまして、新井先生、と今田さん。カケルの兄です。今日はよろしくお願い致します」


 兄はスーツ姿で深々と頭を下げる。それに釣られて、両親も新井と今田に頭を下げた。カケルはそんな家族の様子をただ眺めているだけだった。

 六人は、会議室のテーブルを囲むように座った。新井の座る位置にはパソコンが置かれており、そこからカルテを開くことができる。


「それでは皆様、本日はお忙しい中お集まり頂きまして、ありがとうございます。今日はカケルさんの退院に向けた話し合いの場を設定させて頂きましたので、今後に向けてそれぞれの意見が聞ければなぁと思っています」


 ファシリテーターの今田が挨拶を行う。

 ちなみに、事前にファシリテーターを決めていたわけではない。いつもなぜか自然な流れで相談員に任せられるパターンが多すぎるので、今田が慣れた様子で始めたのである。

 いつも会議になると、まず相談員に視線が集まる。相談員は、その視線に負けて毎回ファシリテーターをやらされるのだ。でもこれも、何でも屋である精神保健福祉士の宿命なのかもしれない。


「では先に、新井よりカケルさんの症状からお話してもらいましょう」

「はい。ご紹介に預かりました、主治医の新井です。まずカケルさんの病状や治療経過からお話しますね」


 新井はカルテを見ながらカケルの体調について話を始めた。当時はあのような状況であったが、今は非常に落ち着いていること、このムンテラで入院の最終段階である外泊許可も出そうと思っていることなどを家族に向けて話をした。兄は、新井の話すことを自分の手帳に書き込んでいる。カケルはそのメモを上から覗くように見ていた。


「先生、ありがとうございます。カケルさん自身はいかがですか? 体調のこととか、今後のこととか、何か思うことがあったらお話してください」

「あ、はい!」


 カケルは中学生や高校生のように、返事をしてその場に起立をした。少し緊張をしているように見受けられる。表情が硬い。


「今体調はとてもいいです。幻聴は聞こえますが大丈夫です。他の患者さんともうまくやれています。退院したら、その、仕事をしたいと思います。そのためにもデイケアに行ってリハビリをしたいと思っています」


 淡々と作文を読んでいる感じではあるが、この雰囲気と家族の前で、よく自分の考えを言えたものだと今田は感心する。


「はい、カケルさんありがとうございました。それではこれまでの話を踏まえて、ご家族さんより何かあれば」

「では、僕からよろしいですか?」


 兄が手をあげる。


「はい、お兄さんどうぞ」

「この度はカケルが大変お世話になりまして、本当に助かりました。ありがとうございます」


 兄は、また深々と頭を下げた。


「僕はしばらく遠方に妻と住んでいますが、カケルの様子は帰省するたびに毎回ちゃんとこの目で見てきています。誰が見ても、頭がおかしいと思う時も多かったです。先生、正直に言ってほしいのですが、カケルは仕事をしたいとか言っていますが、本当にそんなことが可能なんでしょうか?」


 兄は続けた。


「カケルがここに入院するまでの間、親父とお袋はとても苦しい思いをしてきたんです。近所からも『変な一家』だと噂をされていたし、今だってそれがなくなったわけじゃない。ぶっちゃけ、嫁にも会わせたくないと今でも思っている。またいつどこで同じように幻聴とか妄想に悩まされて、カケルが暴れてしまうか分からないじゃないですか? 仕事したいとか言っていますけど、到底無理な話だと思うんです。負荷をかけるとまた具合が悪くなるんじゃないかと思いますし。それにデイケアとかお年寄りが行くようなところですよね? カケルはまだ若いし、どうなんですか? このままずっと入院させていた方が、親父とお袋も安心するだろうし、周りにも迷惑かけないと思うのですが、いかがでしょうか?」


 兄から浴びせられる、ショックな言葉の数々。

 カケルは黙ったまま、猫背になり下を向いた。そして、みんなの見えないところで膝に置いた手を力一杯握りしめた。

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