第8話 最後の楽園

はっと瞼を開く。ここはどこだろうか。


緩やかな潮騒が海の匂いを運んでくる。ほてった身体をゆっくりと起こすと、頬に付いていたシルクのように細かい砂粒がはらはらとこぼれる。


夕陽に照らされた、燃えるような入道雲がそびえ立つ。少し寂しそうに鳴きながら遠くの空へ消えていく海鳥たち。打ち寄せては引いていく、穏やかな波打ち際が私の心を洗い流してくれるようだ。


「何か大事なことを忘れている。それが何なのか、本当に大事なことなのかさえ忘れている」


裸足で一歩踏み出すと、指と指の隙間を湿った砂が埋める。一歩一歩踏み出すたびに、私が大地と同化していく感覚。風になびく長い髪をかき上げ顔を上げると、ヤシの葉の隙間から欠けた月が見える。紫色に染まる空に、ぽかりと薄い月が浮かんで…


「そうだ、アリアちゃんのお弁当作らなきゃ」


アリアちゃんを寝かしつけた後、徹夜で会議の資料をなんとか作り終わったんだ。ちょっと胸が痛かったのでダイニングでコーヒー淹れて休んでて、それからどうなったんだっけ?とにかく早くお弁当作ってアリアちゃん起こして幼稚園に連れて行かなくちゃ。


そうしてあたりをみまわす。ヤシの林と遠くまで続く浜辺と、あとは海。しばらく海岸にそって歩いてみる。何か見つかるかもしれない。私は風ではためく白いワンピースの裾を

手で押さえつつ、このやさしい景色を眺める。こんなにゆっくりな気持ちになったのは何年ぶりだろう?


仕事がどんどんうまくいって、それはそれなりに楽しかったんだ。ぷにぷになアリアちゃんも、ますます可愛らしくなってきて、幼稚園でいろいろな歌や踊りを覚えてくる。でも最近とくに忙しくて、疲れも溜まってきてて、時々胸が痛くなる事がある。しばらく休んでいると収まるのだが、一度病院で診てもらうべきだろう。さもなくば早死にして…


確か、胸が痛くてダイニングで休んでいたんだ。


私は足を止めた。波が打ち寄せるたびに私の裸足が少しづつ沈んでいく。風で揺られるヤシの葉が波の音でかき消される。


「私は死んだんだ」


私の頭上を一羽のカモメが飛んでいく。そして小さくなりかなたの雲へと溶けていく。


だからここは家じゃないんだ。なぜか笑いがこみあげてくる。そうか、死んじゃったんだ。会社内で立ち上げたプロジェクトも、来週の幼稚園の発表会も、月末の結婚記念日デートも、もう私には来ない未来なんだ。私は『現実』から離れてしまった存在になってしまったのか。死んでしまった悲しさに押しつぶされると思ったのに、実際に死んでしまって感じる「溢れる開放感とちょっとだけの滑稽さ」に驚きを隠せない。


「フハハハ、ヒャッホーーーイ!」


笑い声を上げながら唐突に走り出して、勢いをつけて側転をする。回る視界が急にブレたと思ったら腰に強い痛みを感じる。


「痛ったー!なんでなの?やっぱり痛いじゃん!天国でも痛いのは痛いの?」


すぐ隣のヤシの木の陰から誰かが出てきた、必死に笑いを堪えながら。


「ずっと見てたんでしょ?」

そう言うと私は睨みつける。叫びながら走って側転を失敗してしまった気まずさを誤魔化すように頬を膨らます。


「ごめんごめん、あんまり楽しそうだったから」

ハワイアンシャツに短パンの男が申し訳なさそうに肩をすくめる、私の幼馴染みのユキトだ。


私は強くユキトを抱きしめる。厚い胸板と少し甘い汗の香り。心が落ち着く、いつもの安心感。


「ここはどこなの?」


「物理的に言えば、太平洋の上に浮かぶ『施設』の中の演算装置かな」

人差し指で眼鏡をクイッと上げながらユキトは答える。


「物理的に言わなければ?」

あまのじゃくな性格は死んでも治らない。


「ソフトウェア上の疑似空間かな。うーむ、例えるとすると天国みたいな」

ユキトはちょっと困ったような表情をする。


「天使や神様はいないの?地獄はないの?悪魔とかいる?」

幼稚な質問かもしれないが、これだけは押さえておきたい。


「神様はずっと前にどこかへ行ってしまったんだけど、天使はいるよ。会う?」

真顔で天使がいると言うユキトに正直驚いてしまったが、天使に会えるなら会ってみたい。


「そんなに怖くないなら会ってみたいけど…」

ユキトは頷くと私の目の前の空間が歪み、中からまっ黒い正八面体が現れた。

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