第3話 おばあちゃん襲来

そこにあるはずの足が、無限に落下し続けるような感覚。あの時と同じ感覚。トランスクライバーの触手にある麻酔毒のせい。厚いブーツが守っていてくれたと思ったのに、どこかで私の皮膚を触ったのだろう。体が動かない。


この感覚、忌まわしい感覚、あの時と同じ。


### (三か月前)


半壊した公民館の床に毛布が敷き詰められて、多くの家族が虚ろな目でただじっと座っていた。涙を流しながらお経を延々と唱えている家族もいる。迷惑を顧みず携帯電話で痴話げんかしてる若い女性もいる。もちろん、大災害の日から電話なんか使えなくなっているというのに。


壁に貼ってある糖尿病予防の啓発ポスターが、「数か月前まで肥満が存在した」という事実を思い出させる。今朝、東畑のおじさんが配ってくれたポテトチップスの袋が一つ。これが今日の我が家の食料だ。母と双子の弟タクミとカツミと私、四人で分ける。


袋を開けようとした私に母が言う。

「ミーちゃん、参考書ちゃんとやってから食べようよ、分かんない所はお母さんも手伝うから」


私は、何も疑問を口にすることなく、英語読解本を開く。もう受けることのないだろう大学受験のために。『何で勉強なんか…』と口にすればその瞬間に母の中から不安と悲しみが溢れ出して来そうで何も言えない。参考書に書き込まれた赤線をそっと指でなぞる。あの時、進路とか好きな人とか部活のことで悩んでいた17歳の少女はもういない。ここにいるのはお腹の空いた私の抜け殻。母は弟のランドセルから算数の教科書を出し昨日の続きから弟たちに説明しはじめる。


部屋の隅で口論が始まった。周りの人々は見て見ぬふりをしている。もし殺し合いの喧嘩になっても警官は来ない。もし怪我をしても行く病院は無い。だれも助けてくれない。大災害の後、恐怖と絶望が人々をパニックに陥らせ、多くの血が流れた。果てしない狂気が続いた、『奴ら』が人類を救いに来るまでは。


公民館の玄関に数人の女性たちが訪れた。一目で異様な姿だと分かる。みな血色が良く健康そうだからだ。公民館に避難している人々はみな頬がこけて目がギラギラしている。その中の一人が私たちを見つけて近づいてくる。20代後半から30代前半の、こぎれいな服装。どこかで見たことがあるような、ないような。


母は困惑とも恐怖ともつかぬ表情でその女性を見つめている。手に持っていた鉛筆が床に落ちる。

「お義母さん…?」


「キョウコさん、久しぶりだぁね。いんや、みんな無事でえがったえがった」


2週間前、口減らしのために老人数人が自発的に公民館から去っていった。祖母もその中の一人だった。しかし目の前にいるのは80歳のくたびれた老婆でなく、元気そのものの若者だった。


「今日はさ、みんなさ助けにぎたんだよぉ。これがありゃ、腹もすかんよぉ、さあ、さあ」

その女性は風呂敷包みを広げて銀色の分厚い本のようなものを取り出し、母へと渡そうとする。母は私たちを庇うように後ろへ回しその女性を睨みつける。


その時突然、背後で叫び声がする。

「うぁあああ、取って、取って、ああ、息がぁあああ」

男性が一人倒れてもがいている。顔には黒い幕のようなものがへばりついている。お向かいの佐々木さんだ。そして体が痙攣し始める。もう声は聞こえない。


再び祖母らしき女性に視線をもどす。手に持っていた銀色の物体が紫色に光って、中から黒い生き物が踊りだす。


母は祖母を睨みつけながら、鋭く叫ぶ

「早く逃げて!」

「お母さんは?」

「いいから、早く!走って!」

母は私を押しだす。

私と弟たちは走って裏口へと向かう。ちらっと背後を覗く。母の顔に黒いものが被さっているのが見えた。一つしかない裏口はパニックになった大人たちが押し合いしていた。倒れて踏まれて死んでいるのは大橋屋のおばちゃんだった。


「カッくん、ターくん、こっち!」

私は、廊下の窓を開けて弟たちを呼ぶ。


「お姉ちゃん~!」

振り返るとカツミの頭に黒いものがへばりついている。タクミがそれをはがそうとする。「がぁ、しびれる」

触ってはダメなのか。あたりを見回す。私は半壊している壁のコンクリートの塊を拾って黒いものの中心にある紫色のクリスタルを思いっきり叩く。それは派手に砕け散る。私はジャケットを脱ぎ、手を触れないようにそれで黒いものを剥ぎ取る。中からは頭蓋骨に穴があいて息絶えているカツミが現れた。


床に散らばっている紫のクリスタルが明滅をはじめた。それと同期するように廊下の向こうに落ちている銀色の物体が明滅を始める。そしてゆっくりと銀色の外殻が展開し、黒いタコのようなものが動き出す。破壊されると周囲にある『それ』を起動するのか。急がないとやばい。


私はしびれて動けないタクミを背負い、窓を蹴破る。ジャケットのない私は、外の寒さと大気中の砂塵によって咳き込む。全焼した家屋の残りが並ぶ。そこを何とか抜けて、煤けたビルの背後へ隠れるように倒れる。


「お姉ちゃん、おいてかないで!」

「大丈夫。タクミだけは何とかするから。もうタクミしかいないんだから」


タクミを背負いながら走るのはもう限界だ。少しやすもう。


「!」


黒い影が視界を横切った次の瞬間、タクミの顔面を黒いものが覆う。

「うあぁああ、助けて、お姉ちゃん!」


こんな時に適当なものがない。なにか、石かコンクリートか、どこだ、どこにある?早く助けなきゃ!隣の半壊した家を見る。植木鉢じゃだめだ、消火器!これだ、急いで戻ってくる。30秒たっただろうか、2分ぐらいかもしれない。もうタクミは何も言わない。消火器を思いっきり紫のクリスタルに叩きつける。はやく、はやく助けなきゃ。「素手」で黒いものをタクミの頭から剥がす。てがジンジンしびれ、力が入らない。気力を振り絞り、剥がし終わった後には、宙を見つめるタクミとむき出しの脳があった。


全身が無限に自由落下し続けている感覚。この感覚。


###


あの時、しびれていたのは10分ほどだろう。今回はそんなに触れていないはず。もっと短いかもしれないな。隣で横たわる父を見ながら思う。

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