3. 水晶の風

 ★

 放課後、部活を終えて教室に戻ってみると、空気がおかしかった。その息苦しさの原因はすぐに判った。野崎真由美だ。

 黒板の前に加藤すみれを立たせて、自分といつも引き連れている腰巾着女子たちで彼女を取り囲み、何ごとか責め立てていた。


「どうしたの?」

 小声で近くにいた男子に聞いてみると、彼は苦い顔をしてやはり小声で返してきた。

「加藤が野崎にわざとぶつかって足を蹴ったとかなんとかって言っているんだよ。加藤が謝らないからあんな感じになってしまって」

「足を蹴ったって本当に?」

「さあな。見てないから判らないけど、でも加藤も可愛い顔して頑固だよな、さっさと謝ればいいのに」

「え? 何で加藤さんが悪いって決めつけるの?」

「いや、だって、野崎、怒ってるし。何もないのに怒ったりしないだろ」


 私は黙り込む。

 こういう時、大抵の場合、男子は鈍感だ。

 こちらが何もしてなくても、無視したり、意地悪してくる輩は本当にいるのだ。


 「何とか言いなよ」

 野崎真由美の声が耳につく。


 彼女たちを気にしつつも、教室にいる生徒たちは黙々と帰り支度を始めている。私も黙って自分の席に着くと鞄を取り出す。教科書を突っ込みながら、ちらちらと加藤すみれの様子を見ていた。

 まるでいたずらをして、罰として黒板の前に立たされている子供のようだった。

 少し俯き加減の顔はよく見えないけれど、わずかに肩が震えていた。泣いているのか、それとも悔しいのか。

 小さく溜息をついて、最後に鏡やリップを入れているポーチを鞄にしまおうとして手が止まる。ポーチのファスナーが少し開いていて、そこからちらりと見えたのはまちこさんのお店で買ったあの水晶だった。


 どんなに辛い時でも、孤独な時でも必ず一人ぐらいは味方はいるものよ。


 人は優しい。

 確かにそうありたいと思う。だけど。

 私は思わず、水晶を握りしめた。

 その瞬間、体の中をすっと涼しい風が通り抜けた。それと同時に迷いも消えた。

 私は鞄を机の上に置くと席を立ち、水晶を握りしめたまま、黒板の方へと歩み寄って行った。

 真由美たちは私に背中を向けているため、すぐに気が付いたのは加藤すみれだ。彼女は近づく私を見、私はニーナそっくりの彼女の無垢な瞳を見た。

 私が意を決して口を開きかけたその時、一瞬早く声を上げたのは加藤すみれ本人だった。

「どうしてこんなことするの?」


 私は足を止める。

 それは純粋な心からの叫びに聞こえた。

 帰り支度をしていた他の生徒たちも動きを止めて、全員がすみれと真由美たちの方を見た。


「は? 何?」

 真由美は一歩、すみれに近づくと、耳元に手を当てて言った。

「聞こえないんですけど? 男子といる時はもっと大きい声で話してるくせに」

「そーだよねえ」

 腰巾着女子たちが、一斉に同意の声を上げ、笑い合う。しかし、すみれはその雑音に負けなかった。真っ直ぐに真由美を見ると、言葉を続ける。

「あなたは自分に自信が持てないんだね」

 その言葉に、ぐっと黙り込んだ後、真由美は笑った。

「はあ? 何言ってんの? 誰が自信持てないって?」

「あなたは私に嫉妬してる」

「嫉妬なんてしてないわよ。思い上がらないで」

「本当は私みたいになりたいのになれなくて、いじけているのが本当のあなたよ。そんな自分を否定するために私を壊そうと、こんな下らない意地悪をするんでしょう。それは今の自分に自信が持てない証拠よ」

「馬鹿じゃないの」


 そう言った真由美はもう笑っていなかった。

「どうして私があんたなんかに嫉妬しなきゃならないのよ。あんたなんかどうでもいいわよ」

「だったらどうして私を構うの? あからさまに無視したり、今みたいに言いがかりをつけてくるの? どうでもいいなら放っておけばいいじゃない。それができないってことは私が気になって仕方がないってことでしょう?」

「……よくそんなことが言えるわね。その思い上がり。ムカつく。だから私はあんたのことが嫌いなのよ」

 その言葉に、すみれはすっと息を吸うと、吐くと同時にはっきりと言い返した。

「私もあなたみたいに人をいじめることでしか自分を表現できない人なんて嫌いだわ。嫌いどころか、哀れに思う」

「……な、何よ」


 真由美はすみれの思わぬ反撃に明らかに戸惑っていた。何か言い返そうとするが言葉がみつからず、もどかしそうに唇を噛む。


「野崎、お前、いじめしてたのかよ?」

「ひでえな」

 教室の後ろに固まっていた男子の一団から声がした。

「嫉妬していじめるなんてことしてるからお前、お局とか言われて男にも女にも怖がられてんだよ」


 羞恥か、怒りか、真由美の顔が朱に染まる。

「もう! 何なのよ、馬鹿らしい! やってらんない!」

 彼女はそう言い捨てると自分の席からひったくるように鞄を取り、そのまま教室から出て行った。その後を慌てて腰巾着女子たちが追いかけていく。

「すごい、加藤さん」

「私、胸がすっとした!」

「加藤って可愛いだけじゃないんだな。激しいところもいいな」

「俺らは加藤の味方だから」

 真由美がいなくなった途端、砂糖に群がる蟻のように、みんながすみれに近づいてきた。

 ……ついさっきまで、見て見ぬふりをしていたくせに。

 何だかいたたまれない気持ちになって、私は回れ右して教室を出た。


 結局、何の役にも立たなかったな。

 苦笑交じりに、手の平にある水晶を見ていると、突然、後ろから腕を掴まれた。

「待って、小倉さん」

「……え。あれ、加藤さん? みんなはいいの?」

「うん。それより、私、小倉さんにお礼が言いたくて」

「は? お礼?」


 本当に意味が判らなくて、私はぽかんとすみれの顔をみつめる。

「何で? 私、お礼されるようなこと何もしてないよ」

 すると、すみれは首を横に振って言った。

「小倉さんは私に勇気をくれたの。……ああ、まだ胸がドキドキする。今頃になって足も震えてきちゃった」

 そう言うやくたくたと廊下に座り込んでしまったすみれに私は慌てた。

「だ、大丈夫? ええっと……あ、向こうのベンチに座ろう」

 階段の横に備え付けてある……というか、放置されている木のベンチがある。そこまで、すみれの身体を支えつつ、座らせた。


「……どう? 落ち着いた?」

 様子を見て声を掛けると、すみれは明るく笑って頷く。

「うん。ありがとう。……ふふ。喧嘩しちゃった」

「そうだね」

 私も笑って言った。

「勇ましかったよ」

「小倉さんのおかげよ」

 きらきらした瞳を私に向けて彼女は言う。

「あなたがいなかったら、私、何も言えなくて俯いているだけだったわ」


「……ねえ、どうしてそう思うの? 私、本当に何もしてないよ」

「あの時、小倉さん、私のために立ち上がってくれたじゃない。真っ直ぐにこっちに近づいてきてくれる小倉さんの姿を見て、私、一人じゃないって思ったの」

 そして、一息つくと照れたように笑う。

「いつも孤独だったわ。でもどんな時でも一人ぐらいは味方になってくれる人がいるんだなって思えたの。そしたら、ふわっと体が温かくなって勇気が湧いてきたわ。小倉さんのおかげだよ」

「え?」

 私は唖然としてすみれの顔を見返す。

「どんな時でも一人ぐらいは味方がいる……?」

「うん。あの時、そう思ったの」

「そう、なんだ……」


 その言葉をどう受け止めていいのか判らず、複雑な思いでいると、その気持ちを吹き飛ばすようにすみれが明るく言った。 

「私、いつも野崎さんに言われっぱなしで悔しくて、でも怖くて何も言い返せなかった。やっと言えたのは小倉さんがいてくれたからだよ」

 頬をわずかに上気させてすみれは微笑んだ。

「だから、ありがとうね」

 肯定も否定もできず、私はただ、すみれをみつめ返した。


 無垢な彼女の瞳を見ていると、やはり思い出すのはアプリコット色の小さなうさぎのこと。

 不意に、ニーナが家に初めてやってきた時のことを思い出した。

 小さくて可愛くてぬいぐるみのようなニーナは、触れると壊れてしまいそうで、最初はちょっと戸惑った。恐る恐る、指先だけでそっとその柔らかな毛並みに触れた時、ふくふくと鼻を動かして私をみつめてくれたっけ。嬉しくて心が弾んだ。


 どうして忘れていたんだろう。


 ニーナと過ごせたのは短い時間だったけど、それでもあの子の存在は私の心を豊かにしてくれた。ニーナと一緒にいる時、私はいつも笑顔だった。それなのに、ニーナのことを考える時、あの子を死なせたのは自分だと、自分を責めて否定していつも暗い気持ちになっていた。

 いつの間にかニーナを思い出すことそのものが苦痛になっていた。

 

 ごめんね、ニーナ。

 

 私は自分だけじゃなくて、ニーナの事も否定してたんだ。

 本当は楽しかったニーナの思い出を、私が自分で嫌なものにすり変えていたんだね。今やっと気が付いた。


 いくら後悔しても過去をやり直すことは出来ないわ。

 だけど、過去を変えることは出来てよ。


 まちこさんの言葉が頭に響いた。

 そうか、そういうことだったんだ。

 胸の内がぽっと温かくなった。


「小倉さん、どうしたの?」

 すみれの声に、私は我に返った。え? と目を向けると、心配そうな彼女の顔がある。

「何が?」

「何がって、だって、泣いているから」

「え? 泣くって……」

 指先で頬に触れてみて、自分が涙を流していることに初めて気が付いた。

「あれ? 私、どうして泣いてるの……?」

「……いいんじゃない」

 柔らかく笑って、すみれが言った。

「たまには思い通りに泣いてみるのも」

「……そっか」

 私も笑って頷いた。

「たまにはいいか」

「うん、いいんだよ」


 二人して少し笑い合った後、私はすみれに言ってみた。

「野崎さん、これでいじめ、やめるかな?」

「うーん、今までみたいにあからさまにはしてこなくなるとは思うけど、でも、相変わらずだと思うよ。あの人はこれからも私が嫌いだろうし、無視したり、陰口たたいたりはすると思う」

「うんざりだね……」

「そうだけど、いいの」

 さわやかにすみれは笑う。

「相手が変わらないなら、私が変わればいい。私が強くなる」

「うん。……私もいるから」

 ちょっと照れながらそう言うと、すみれは嬉しそうに頷いた。

「知ってる」


 それから、少し不思議そうな顔になって私の手元をみつめる。

「さっきから気になっていたんだけど……手に何を持っているの?」

「あ、これね」

 私は手の平をそっと開いた。そこに乗っているのは勿論、あの少しいびつな水晶だ。すみれの顔がぱっと輝く。

「うわ。すごくきれい」

「これ、何か判る?」

「うん、水晶でしょう?」

「そう、水晶。でもね、石英なの」

「え? セキエイって……どういうこと?」

「それはね……」

 私は得意になって説明を始める。

 にんまりとわけ知り顔で笑うまちこさんの姿が目に見えるようだった。



(うさぎの目 ◇水晶◇ おわり)

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