15 矜持の返り血。

瀬上宅が酒場と化した翌日、私は出かけることができなかった。

私に出かける意思がなかったわけではない。むしろ、私は出かけるつもりであった。


しかし瀬上親子は、私の体がフラついているといって私を外に出したがらなかったのである。


確かに私と紳士を並べればふらふらして見えても仕方がないが、私自身にはそう酔いが残っているようにも思われなかった。


「ふむ」


そういうわけで、私は今日の一日を、初めてこの家で一人で過ごすことになったのである。


「さて」


借り物の本を閉じ、ベッドから窓の外を眺めた。昼下がりの空は青く、雲もない。私は少し散歩に出かけてみたくなっていた。以前ならそんなことは思いもしなかったのだが。


痛む脚に気合を入れて車椅子に移り、車輪をあちこちにぶつけながら、外へ出る。


誰いなくなってしまうが、まあ、留守の心配はないだろう。


せせらぎの音を聞きながら、晴天の空を見上げ土の匂いを嗅ぐ。早朝に限らず、冬はいいものだ。空気に清涼感がある。


それを肺に吸い込むだけで、私の中であたかも卑俗社会の毒が浄化されたような気がする。何か戦う力か、あるいはありがたい精霊を味方につけたような気分に浸れるのだ。


玄関前の柵に肘を掛け辺りを見渡すと、いつかも見たような洗濯物がロープの物干しにいくつかかかっていた。


今朝もこれらの洗濯をしてから、瀬上さんは登校したのだ。彼女は相当に仕事が早く、未だその姿を私は拝めていない。


山々を眺めていると、ふと気になったことがあった。

そういえば、私はまだ、この村はどの座標の、どの山の、なんという村なのか、という初歩的な疑問への解答を得ていない。


我ながら間抜けな思い至りだが、しかしなんというか、不思議なことに気になった程度で、今更ながらの危機意識は刹那的な知識欲としてすぐに消え失せてしまい、帰る為の道筋を立てるというようなことに、私は特にこだわる気にならなかった。


これだけ憎たらしく感じている社会の中で、よりによって長い時間旧い社会であり続けているこの田舎が、私にとって居心地のいい都市オアシスだと思っているのだ。これを間抜けだと笑わずにはいられない。


冷気で固まった枯れ草を車輪で砕きながら、特に目的もなく車椅子を転がす。


道には誰もおらず、何も通らない。通るのは清々しく涼しい風ばかりである。野暮ったらしいものは何もなく、さっぱりとした風景。木にも葉は無く、地面はむき出しで枯れ草が生えている。


人はこれを殺風景と言うかもしれないが、飾り気の無い素晴らしい景色に違いない。「殺」風景というなら、一〇〇万ドルの夜景こそそうだろう。それが野暮だというのだ。


ここはそういったものとは無縁の、邪魔なものが一切なく、迷いの感じられない世界だ。


私はこの景色の自然さにならうように、体を背もたれに預け、目を瞑った。腕を車輪に垂らし、寒さに堪える足の力を抜いた。


これは、言わば私との決別の儀式イニシエーションである。もう考えるばかりの時ではない。これから私は、自分を洗練していくのだ。瀬上さんの下で、この空気の中で。


私は既にその開始地点に立っているはずだ。あるいはその資格くらいは有していてもおかしくない。そしてその道のり、つまり手段は、君主への献身か聖女への奉仕か、そのどちらかなのである。


同時に、私にはその両方は達すべき試練にも思えるのだ。


そしてそれはきっとこの田舎の誰からも望まれるべきことなのである。それを唯一達せるのが、たまたま私なのだろう。であればこその試練に違いない。


こういった思考が頭を何度も何度も巡った。


「博士、なにしてるんですか」


「ん?」


首を傾けると、瀬上さんが私を覗き込んでいた。やけに無表情に見えたが、傾いた日で逆光になっていたせいかもしれない。


「まさか、寝てたんですか。こんなところで」


「む、そのようだ。家を空けてしまったな」


「そんなことは気にしていません。早く帰って温かいものでも飲まないと」


そう言って彼女は私を押し始めた。


「今日も随分早いお帰りだったが」


「今日は多分、ヤマさんが来るんです」


「あの調子者か……。む、もしや斉藤も来るのではないのか。紳士は今日もあそこで手伝いをしているのだろう」


「昼までは斉藤さんの所ですけど、午後からはヤマさんの所なんですよ。だから斉藤さんは今日は来ません。でも、代わりにコウさんが着いてくると思います」


家に入ると、瀬上さんが私を見て、何か言いたそうにしているのに気づいた。


「なにか」


「いえ」


「何か落ち込んでいるようだが」


「落ち込んではいませんよ」


「ふむ?」


もしや昨夜の晩酌で、私は何か失敗をしたのだろうか。瀬上さんを失望させるような失敗を?


「なんでもありませんよ」


彼女はそれ以上何も言う気はないようだ、深入りはすまい。


私たちはやはり台所と自室に分かれ、紳士たちが帰ってくるのを待った。


日も落ちかけた頃、私は視界の隅、窓の外に背筋の伸びた影を見つけた。それに続く影が二つ。三人とも機嫌よさげに語らいながらこちらへ向かってくる。なんとも幸せそうな光景である。


「瀬上さん、帰ってきたようだ」


ダイニングでそう声をかけ、私は玄関へ向かった。


「ようこそ、瀬上宅へ。御三方」


ドアを開けて挨拶した私に三人は驚いた様子だったが、瀬上父の隣にいる、ソフト帽を被り外套の上にマフラーをした四角い眼鏡の男が初めに反応を示した。


「これはどうも。とても紳士的なボーイさんがいるじゃないか、せっちゃん」


見た目通りの紳士的な口ぶりのこの男が瀬上さんの言うコウなのだろう。やはり月末亭の際に顔を出していたようで、顔だけは覚えていた。


「あんちゃん! 少し元気になったじゃないか! なんだか明るくなった気もするなぁ」


「外は寒いですからね、さあ早くお入りください」


私はお調子者の言葉をやや無視した。


「それじゃ、お邪魔するよ。おい、嬢ちゃーん!」


「僕もお邪魔しますよ」


二人が入った後、一番最後の紳士は一つ鼻息をして私の方に手を伸ばした。何かと思ったが、私の額を中指で弾いたのだった。


「気味が悪いぞ、ぼうず」


「それは心外だな」


入るなり、二人とも慣れた様子で、しかし対照的な行動をとっていた。


ヤマは椅子を食卓から引っ張り出し、台所の瀬上さんにしきりに話しかけて一人で笑っていたのに対し、コウとやらは、丁寧に帽子とマフラー、外套をコートハンガーにかけながら紳士と親しげに話し込んでいた。


その口ぶりは非常に理性的で、筋道だった会話だった。傍目に見ていると負けず劣らず姿勢のいい壮年の紳士たちだが、コウの方は農家の男という感じではなかった。


黒革の手袋を外しながら身振り手振り話をする姿は、何か紳士録ブルー・ブックに名を連ねていそうな旧い上流階級然としたものすら感じさせた。


一言で言えば、浮いている。


「そうだ、コウさん。昼間に言ってた酒を見せてくれよ」


ヤマが訊いた。


この三人はどうやら昼間に合流したらしい。しかしコウの格好では農作業など出来ないと思うのだが。


「ああ、それならせっちゃんに渡したよ」


そう言われると、紳士が鞄の中から形の違う瓶を二本取り出した。冷えていたのか、露に濡れたラベルが光っている。それを見ると、三人とも満足げに頷いた。


「ワイン、いいねえ!」


「一本は白だから、食前酒にしよう。お嬢ちゃん、この前置いていったカシスがまだ残っていただろう」


「ありますよ」


「よしよし。料理はあとどれくらいで出来る?」


「二〇分ぐらいです」


「ああ、それじゃあ料理が揃ったら乾杯しよう」


「そうしよう」


「では私は部屋にいる。少し考えたいことがあるのでな。紳士、お手数だが、時間になったら呼んでくれ」


「よかろう」


「お、あんちゃん悩みゴトかい。何だい? もしかしてコレか、コレか?」


小指を立てて迫ってくるヤマには呆れものだ。いくら首を振ってもどうして、なんで、としつこい。これで泣きべそでもかけば大きな園児の出来上がりだ。さっさと酒を飲んで寝てしまえばいいものを。


あまりしつこいので、しまいには「あとで話す」と言って扉の向こうに締め出してしまった。いい年をして、詮索好きの野暮な男である。


──考え事は、他でもない、昼間眠ってしまう前に考えていたことについてである。すなわち、私はこれから具体的にどうすべきなのか、働くということについてどう構えるべきなのかということだ。


脳内会議は、奉仕としての労働ということで大方まとまっている。だが、満場一致というわけには行っていなかった。


私の中の怠惰も、厭世も、偏屈も、悲観も、悦楽も、瀬上さんを前にして妥協を見せてくれた。しかし唯一、矜持だけが、反対を示すのである。


どうしても労働への忌避感が私を邪魔するのだ。本格的に労働を始めることが、敗北への序曲を聞くような気がしてならないのだ。その音色を聴くのを、矜持が許さない。


それというのも、私の奉仕が、一部でも労働に犯されているからだろう。紳士が私に経済的な返済を求めていることが頭の隅に引っかかっているに違いない。きっと「働いて返せ」というあの態度が私を悩ませているのだ。


全くやっかいなことをしてくれた。おかげで私の思考は二進も三進も進まないではないか。まるで古くてお上品な戯曲のように面倒だ。


ドアの向こうで聞こえたヤマの笑い声が妙に頭に残り、部屋中に響き渡っているように思える。


思考が途切れた瞬間、急についた電球に目がくらんだ。


「おい、電気くらい点けないか」


「私が考え事をするには暗い方が都合がいいのだ。体中の全てを思考に回せるからな」


そうか、と呟く紳士は、よく見る呆れ顔を見せる。


「料理ができたぞ」


「お、あんちゃん。早く来いよ! 俺が酒注いでやるからよぉ!」


騒ぐヤマを、その隣に座る好壮年──コウが、眼鏡をクイと上げながら制す。


「ヤマさんはダメだ。君の割り方だと味がおかしくなるからな。いくら教えてもよくならないんだ、君は」


いや俺が、いやいや私が、と何度か瓶を取り合った後、結局はコウの方が注ぐことになったようだ。私に酌をしたところで何を得られるわけでもないだろうに。


「博士君と話すのは、初めてだったね」


手元でカシスを注ぎながら、彼は私に自己紹介をした。ここに来て、まともな自己紹介を受けたのは初めてだった気がする。


「気軽にコウと呼んでくれ」とのことであった。


「前に会った時は酔っ払っていたからね、きちんと挨拶していなかっただろう」


「やはりそうか。顔には見覚えがあった」


「月末会の時は皆、ハイになっていてね。まあ仕方がなかった。せっちゃんが珍しく大怪我をしたことと、博士君の見事な行動についての話が肴になっていたんだ」


「そうだったらしいな。末にも聞かされた」


「いやね、実は私もその話をじっくり聞きたかったんだ。今日来たのは、半分はそのためなんだよ」


そういって彼はキールの入ったグラスを差し出した。


正直に言えば、私は彼が聞きたいと言った話をしたいとは思わない。あの晩に思い知った気持ちの悪い──あるいは恐ろしい感覚が思い出されるからだ。まるで英雄扱いだったあの晩の。


「今更と思うかもしれないが、あの日の君は何か不服そうにしていたから、話しかけるのはマズいかなと思ってね」


「構わないが、きっと失望するだろう。私は、あの日言われていたような殊勝な心がけで行動したわけではない。元来が利他的な性格というわけではないのだ」


「それでいいんだ。むしろそういうのが聞きたいね」


「しかし、そう面白い話でもないぞ」


「話なんて、美味しい酒と料理といい空気さえあれば自然とノってくるものじゃないか。それに私は興味津々なんだ、楽しいさ」


「あなたは、よく気を遣う言葉遣いをする。社交界にでもいたのでは?」


冗談めかして言うと、コウは真面目な顔をして答える。


「そうだね、私は元がビジネスマンというやつだから、パーティーや何かには縁があった方だと思う」


すると瀬上父が口を挟んだ。


「昨日斉藤と言っていただろう。コウは帰省組だと」


「そうか、あなたはその「コウさん」か」


そこで、瀬上さんが手にミトンをして料理を運んできた。三,四〇センチほどある平たいを、木の鍋敷きの上に置いた。


「ほう、パエリアか。これはいい。グッドチョイスだ。お嬢ちゃん」


瀬上さんは愛想笑いを浮かべた。


「コウさんはいつもワインを持ってきますからね」


パン──パエリアパンでは、パエリアが湯気を立てて輝いていた。真っ赤になった海老や黒いムール貝、輪切りになったイカなどの魚介類の中に、茹でたこぶし大の鶏肉がいくつも白い肌を覗かせ、厚く切ったピーマン・パプリカとグリーンピースなどで鮮やかに彩られている。


開いた貝の内側は白と黒のグラデーションになっていて、焼けた皮膚のような色の身を際立たせ、具の下にある黄色い米も、いっぱいの具の下からちらちらと姿を見せている。サフランと微かなガーリックの香りが、朝食を食べなかった私の食欲を醒まさせた。


「塩とレモンで調節して食べてください」


「せっちゃん、乾杯と行こうか」


「そうだな」


「いやあ、嬢ちゃんは本当、いい奥さんになるよぉ」


「まったくだ」


紳士が私を睨んだのがわかったが、目をそらした。別に他意は無い。


「瀬上さん、それは酒では? 赤いが」


「いえ、コウさんが持ってきてくれたジュースですよ」


「ああ、それはワイン蔵が自家製のぶどうで作ったグレープジュースなんだよ。この料理にも合うはずだよ。それじゃあ、乾杯しようか」


全員がグラスのステム脚を握ると、コウの紳士的な掛け声で乾杯をした。


「それで、博士君。あの時の話を聞いてもいいかな」


あの時、というのはつまり、言うまでもなく紳士がヤマに誤射された夕方の話だろう。


この男はどうしてそんなにも聞きたいのか。何を思うところがあるのだろうか。どうせ大したことはないというのに。


「そうか、仕方ない……。まず、私があの場所にいたのは偶然だったな。確か、何か──ああ、思い出した。末だ。あいつとの会話が面倒になったのだ。あいつは何かにつけて私をからかうか虚仮こけにしたような話し方をするからな。あいつがこの家にいたのは……何故だったか忘れてしまったな。学校から着いてきたのだったかな。まああんな男のことはどうでもいい。それで、嫌になった私は外に出たわけだ」


「一人で?」


「ああ。末から離れたかったからな。それで、……ああ、そういえば外に出る前に山の方から銃声が響いてきたのを聞いたな。きっとあれがヤマの撃った時の音だな。まあともかく、外に出たんだが、少し頭に血が上っていたと思うのだ。末のこともあったし、まだ車椅子に慣れていなかったからな、思うように進まないんだ、これは」


コンコンと車椅子の腕かけを小突く。


「この周りは土ばかりだしね」


「そう、車輪が土にとられるんだな。それで、あまり遠くまで行くことはできなかった。少し息も上がってしまっていた。そこで見上げた景色にも、私は嫌気が差したのをよく覚えている。いや、覚えているのはその後が印象的だからかもしれないが」


「嫌気、というと?」


「ここはどこを見渡しても向こうには山があるだろう。この連なる稜線が、私には監獄か牢獄の類に見えたのだ。何かの強制力が私をここから逃さないと言っているように。まったく憂鬱そのものだったよ。茜空が稜線を強調しているのがあんなに息苦しいと思ったことはない。そこで本でも読もうかと思っていた時、ヤマが何か抱えて叫びながら走ってきた」


「ああ、あの時は我ながらよく走れたもんだぜ。膝はガクガク震えてたけどなぁ! ハハハ!」


「お前にとってはもう笑い話なのか、ヤマ」


「そう睨むなよ、せっちゃん」


「別に怒ってはいないが」


「素直じゃないな、紳士。昨日は悪い事をした、と言っていたではないか」


「え、そうなのかい!」


紳士は知らぬふりをしてワインに口をつけた。


「いいから。これからが大事なところだ。それで、このうるさい男から聞くところによると博士君は──おい、やめないか、君がうるさいのは本当だろう。聞くところによると、その後適切な指示を出して車椅子を提供したんだね」


「なんだ、もうわかっているじゃないか」


「いやいや。大事なのはそこで何をしたかじゃなくて、何を考えてそういう行動をとったかだよ。そこが聞きたいんだ、私は」


「心理学者か臨床心理の真似でもするのか?」


「そんな難しいことは考えてないさ。それで、どうなんだい」


興味なさげに紳士と雑談していたヤマもにわかに黙り、食欲のままに休まずパエリアを食べていた瀬上さんも耳をこちらに向けている気配がした。


「あの時は……、何か凄まじい速度で思考が巡ったようにも、何も考えられなかったようにも思う。だが恐らく前者だろう。私も一瞬間だけパニックに陥ったんだが、その後はまさに電撃的で、落ち込んでいた気分が瞬間的に高揚したような気がしたな。子どもがはしゃぐ時に似ていたかもしれない。私はそれを理性で押さえ込んだんだな」


「楽しんでいた、ということかい」


「はしゃぐのは楽しいからとは限らないだろう。何かこう、胸の中で何かが燃えるような気がした。どうすれば打開出来るか、どうすれば紳士を救えるか、それを考えてはしゃぐように高揚したのだ、きっと」


まだパンの半分も減っていないパエリアをおかわりして皿に盛ろうとすると、瀬上さんが微笑みを浮かべながら盛ってくれた。気が利く女性である。


「そんなところだよ。つまらないだろう?」


「そんなことはない。それにまだ聞きたいことはあるんだよ」


「まだあるのか。勘弁願いたいものだが」


思わず口まで持っていったスプーンを置いてしまった。


ふむ、紳士とばかり思っていたが、瀬上父とは違うタイプだ。こうやって丁寧な口調で関心のある話を聞き出したがる野暮なところが。


「ほら、月末会で博士君が褒められるのを凄く嫌がっていたことについてだよ、気になっているのは。君は末君にも何か文句を言っていた」


「それが不思議だと?」


「そうなんだよ。君は愛想笑いすら浮かべないんだ。心底嫌がっているように見えた。実際そうなんだろう? うん、そうだと思った」


だからあまり話したくもないというのだが、コウは食事も忘れ身を乗り出さんばかりに、年甲斐もなく目を輝かせて話す。


「普通、賞賛されれば少しの笑顔くらいは誰でも見せるものなんだ。でも博士君は違っただろう。何がそんなに嫌だったんだい」


「まるで英雄扱いだっただろう。あんなもの、私の役目ではないんだ、本当は」


「どういうことだい? 君は実際に英雄のようなものだったんだ。せっちゃんを救ったのは君だろう」


「まあその辺りにも異論はあるんだが、それは置いておこう。つまり、私は何か英雄か騎士様かというような役回りであってはならない類の人間だと言っているのだ」


私はやや喧嘩腰になりつつあるのを自覚しながら、歯止めをかけられない。脳内会議を矜持が占拠してしまったようだ。


「そして逆に、私はまるで英雄のように、世界でも誰かでも何でもいいが、この社会にあるものをわざわざ救ってやることは私自身の信念に反すると思っているわけだ。私は確かにあの時適切な判断をしたのかもしれないが、それが紳士の命を救ったか救わないかを別にして、社会に貢献してしまったであろうことを後悔しているのだ。つまり、あの一連の行動は、私の憎むべき敵への贈賄のようなものであり、私の勝利を濁らせるもののように思えるからだ」


渋く力強いワインを飲み干す。


「私はあの時、本当に気持ちが悪かったのだ。今言った通り自分への責めもあったことだし、それを──言わば敵のあなたたちに賞賛されたことにも違和感があったのだ。あなたたちへの軽蔑のようなものも感じていた。あなたの言うように、もし私がいなければ紳士が死んでいたとするならば、所詮私に救われるようなことがある程度の社会なのか、と見下さずにはいられなかった」


鶏肉にかじりつき、瀬上さんに注がれたワインを再度飲み干す。ブイヨンの甘味とワインの渋みが口の中で混沌とした。


「軽蔑とはそういうことだ。別にあの場にいた誰か特定の個人を嫌ったというわけではないのだ。──末を除いてな。ただ、あなたたちという一ピースを社会全体と見て批判していたのだ。私はよくこういう見方をしていることにたった今気づいたよ。別に悪気もしないが」


「……なるほど」


私がもう一度ワインを半分ほど飲んだところで、ようやくコウが口を開いた。


「博士君には何か固い決意のようなものがあるようだ。それを理解するには、この晩酌では少し短そうだね」


私は答えようとして、口ごもった。


コウの言う固い決意とやらは、あったのだ。

いや、今もあるのだが、やや面倒なこと、つまり決意の形態の、変化に努めなければならない状況にある。


「違うのかい?」


「いや、その通りさ。で、もういいのか? 酒が入った今こそが、私の本音、心根を聞き出すチャンスかもしれないぞ」


「いやあ……こんなことを言うのもなんだが、エキサイトした博士君の口からは何が飛び出してくるかわからない。もっと何かグロテスクなものが飛び出してきたりしないかと少し怯えてしまったよ」


「なるほど、それは幸いだ。正しい判断だよ」


私の本音など、聞いて楽しいものでないことは間違いない。彼らのような勤労人には特にその通りだ。それ以前に理解しがたいだろうが。


「博士、お味はどうですか?」


誰も口を聞かなくなった瞬間、瀬上さんが私に聞いた。

名指ししたのは、その笑顔とは裏腹に私を責める行為に思えた。


思えば、自分の父親が救われたことを目の前で否定されたのだから、当然だ。責めたというよりも叱るといった方が近いかもしれない。


私はまた彼女に呆れられるような理屈を持ち出してしまったことを後悔した。


「ああ、とても美味しく頂いている。酒にもよく合う」


「本当だよ、さすがせっちゃんの娘だね」


「おいせっちゃん、俺たちはこの料理が無かったらいっつもここには来ないんだからなぁ! 嬢ちゃんに感謝しろよ!」


「お前に言われるとその気もなくなるな」


「なにおぅ!」


考えてみれば、今の私の話を最もよく理解できたのは瀬上さんではないだろうか。


あの月末会の日の愚痴も、だだ広い家庭菜園での口論も、その相手は彼女だけだった。


もちろん全てを語ったわけではないが、彼女は私の芯にあるものを感じ取っていただろう。私が働く意味がどうだこうだと駄々をこねた時、貴い憐憫の表情を私に見せたのがその証拠だ。


「そういえば昨日私の話が出たと言っていたけど、なんでだい?」


「何か、ぼうずが話を聞きたいと言っていたな」


「博士君が?」


「そうだった。昨日私が斉藤に質問をしたんだ。ここを出て他の仕事でもやるつもりはなかったのか、とな。斉藤はそれは無理だと言ったんだが、そこであなたが帰省組だという話になった。波乱万丈だとか言っていたな。それで、その辺りの話を聞こうかと思ったのだ」


「斉藤さんはおしゃべりだなあ」


「紳士も同じだったがな」


「おいおいせっちゃん」


紳士は素知らぬ顔でイカを口に運んだ。


「それで聞きたいのは、ビジネスをしていた頃と農家をやっている今とでは、どちらが良いかということ。それから、どちらでどういう風に感じていたかだ。私はあなたたちが働くようになった理由が知りたいのだ。」


瀬上さんの皿がかちゃりと鳴り、彼女は離席した。飲み物を取りに行ったようだ。


「博士君はあれかい、ニ──」


「ニートではない」


「これは失礼」


「構わない。皆同じことを言う」


「まあ働く理由はまだ置いておくとして、まず前職と農家のどちらが良かったかだが……私は両方楽しかったね。どちらにも違う楽しみがあるんだ。全く逆と言ってもいい。向こうでは成功するためのあくせくした、青春のような楽しみがあった。こっちでは、ゆったりとした余生のような楽しみだ。実家だからというのもあったかもしれないけどね」


幸せそうに語るところから見て、彼はこの社会に何も疑問を抱いていないのだろう。


なるほどこの男は良くも悪くも善人であり紳士に間違いない。彼は世界に満足しているのだ。


しかしその世界は彼の世界でしかない。彼というフレームから見た狭い世界に、彼は疑問を抱いていない。あるいはそういうことに気がついてすらいないかもしれない。


そういう意味では、彼もただの観衆の一人に過ぎないというわけだ。それもあまり上客ではない。彼らのような類いは私のようなものへの理解どころか認識すらないだろう。


彼は私に「決意がある」というところまで洞察したのだから良い方だろうが、彼から実のある話は聞けそうにない。


それからしばらく、彼の話は案の定、質問の本質から外れ、都会でのパーティや東奔西走ぶり、田舎での人の温かみなどをそれぞれの楽しみだと主張した。


全く能天気な幸せ者だ。私はその根幹にあるものを聞いたのであって、世間話を聞きたいわけではないのだ。


しかし老人の思い出話というのはなかなか止むところがないのはいつでも変わらない。語りたがらない者でも、一度話し出せば長いものだ。そこへきてこの紳士はなんとも楽しそうに、得意げに身を振り手を振り語るのである。


「──そんなところで、まあ結局、働く理由は楽しいからだな、きっと」


「そうか。ところで今日は日中から瀬上父らと一緒にいたようだな」


「うちはタバコ農家だからね、まだ忙しい時期じゃないんだ。もしかして私の話は君には不満だったかな」


「いやいや、あなたが悪いわけではないさ。ただ私とあなたでは人間が違いすぎて参考にはならなかったのだ」


「それは残念だ。しかし博士君は難儀な性格をしているんだな」


「本当ですよ」


席に戻ってきた瀬上さんが湯気の上るミルクをすすりながら一言同調した。


「何を悩んでいるのか、という風に思うのだろう?」


「そうだね。そんな感じだ」


「だが私にはなぜ悩まないのか、と思われるのだ」


瀬上さんに語ったように、私は思考を停止させて働きたくはないのだ。


コウの言い分では楽しいから働く、ということだった。しかしそれは順序が逆なのだ。


彼が語ったことは、「楽しいから働く」のではなく「働いて楽しかった」ということだ。私の求める本質的な答えとはかけ離れている。「楽しいから働いてみなさい」では下手なペテンである。


「で、あんちゃんは結局、一体どうするんだい」


「どうとは?」


「足が治った後だよ。働くんだろう?」


「駄目だな。これに答えが出ない限り、普通の労働をするつもりはない。私にはそこに価値を見いだせないからな」


「普通ったってねぇ。普通じゃない仕事なんてぇのがあるのかぃ?」


「私の言うは、きっとあなたたちには見分けがつかないだろう。しかしそこには大きな差があるのだ」


「へえ、それは、どんな?」


「まず普通というのは、単なる労働だ。ここにいる皆がそれに従事しているだろう。特に解釈に難しいことはない。問題はそうでない方の労働だ。これは、全ての疑問を解決し、欺瞞を残さず、生活の一部やルーチンワークとなってしまわない、本当の意味での手段あるいは踏み台としての労働だ」


「難しいことを言うね」


コウの無味な感想を無視して、語りを続ける。


「行動の前に思考を解決する正しい形のそれは、清く神聖なものに違いない。そして歪みも絡みも無い一本道の直線上に、その労働の担い手は立ち続けるのだ。そういうところに達せると思った時に初めて、私は働く」


「しかしねえ、博士君。そんなのは理想だと思うよ、私は」


「コウさんすげぇなあ。俺はあんちゃんが何言ってるか全然わからなかったぞ」


「コウ氏、あなたは、私がこういう考えを持つようになった理由を今そのまま言ったようなものだ」


「え?」


「理想だ空論だと言って、そこに辿り着くための努力を怠り、考えることをやめ、終着点も見えず目指すところも知らず漫然と働いているのだ、あなたたちは。私にはそれが許容出来ない。だから私はなぜ働くか、と聞いたのだ」


「博士君。……私は今怒ってもいいと思っているんだが、どうだろう。今の言葉は撤回してもらえないだろうか」


「撤回? 馬鹿な。私のこの意見は、あなたの言い方をすればなのだ。それももう随分古くから抱えてきたものだ。解決もしないまま撤回などするわけがないだろう」


「そうじゃない。私たちがまるで適当に働いているような言い方をしたことだ。これは私だけじゃないぞ。君は君以外の全てを決め付けて侮辱したに等しい」


「先にも言ったが、私はその人間を批判し、敵だとすら思っているのだ。何も考えず社会の下僕に成り下がっているのを私は気持ちよく思っていない。哀れなものだといつも思っている」


我ながらまるで共産主義者のような物言いになっている。これでは失笑ものだろう──


「っ!」


思わず口元が歪んでしまった瞬間、私の顔面に強く何かの液体がぶちまけられた。一瞬目が開けられず、何事かわからなかった。


顔中からワインの匂いがする。


「ふざけないでくれないか」


コウが右手に空のワイングラスを握りしめている。どうやらあれに入っていた赤ワインを頂いたらしい。


「……」


「君は、私の人生全てを侮辱したんだ。君は一体何年生きたんだ? 二十年かそこらで、何もかも全てを知ったような口をきかないでもらいたい!」


「こ、コウさん……」


「いいのだ、ヤマ。怒るのも当然だ。別に何をされても仕方がない。私は自ら敵だと名乗っているのだ」


「馬鹿にするのもいい加減にしてくれ。先の言葉、今ここで撤回してもらおう」


「言っただろう、これは私の出した一旦の結論で、決意のようなものなのだ。それを撤回するのは容易なことではない。それとも言葉だけ撤回すればいいのか? 違うだろう。どうしても撤回させたいというのなら、きちんと順序建てて、納得の行くように説明してくれ。私の労働観の間違いについて」


そう言った私だが、彼が満足に反論出来るとは思わない。


彼は私が二十年かそこらしか生きていないと言ったが、私はその間ずっとこのことを考えてきたのだ。暗闇の中、社会と隔絶した部屋サンクチュアリに篭もり、長く長く自問し、時には書籍やネットにもそれを問うた。しかしそれでも答えは見つからなかったのだ。


なのに、六十年だかの人生を無思想に、一秒も疑問を捉えず、看過して暮らしてきた連中に、私の芯を折るようなことが急に出来るわけがない。肉体の年齢など既に何も意味は無い。彼らがそれを以て私を見下したがるのならば、私は精神の熟練を以てそれに抗おう。


瀬上さんに貰ったシャツが、顔から滴る紅で染められていく。

チラリと彼女を見ると、豪胆にもミルクとパエリアに交互に口をつけていた。


「それともこのワインがあなたの代わりに喋ってくれるのか? それは少しメルヘンに過ぎるな」


「……君は、難儀なだけじゃない。その捻くれた頭はもうどうにもならないよ。君はそれを早く治すべきだ」


「説教か? しかしそういうのが私は気に入らないのだ。自分に都合が悪い事にはすぐ蓋をするかレッテルを貼りたがる。そして排外するか、見ないふりをするのだ。あなたたちはものごとを解決する気が無いのではないかといつも──おいおい紳士、何をする」


紳士が私を食卓から離し、どこかへ連れて行こうとした。


「それではシミになる」


「シャツのことか? それはそうだが、しかし──」


「お前の分の料理はとっておく」


「いや、そうではなくて、話の途中でだな」


「せっちゃん、私はまだ博士君に言いたいことがある」


「コウ、お前も頭を冷やせ」


「君は腹が立たないのかい? 博士君は私たちを下僕だとか哀れだとか──」


コウの声を遮るように、紳士は玄関のドアを閉めた。


「それで、なぜ私が外に出されるのだ?」


紳士の言う通り、頭を冷やすのはコウの方だろうに。


「そのシャツはもう駄目だな」


「まさかそんな話をしに連れてきたわけではあるまい。私は貴方と違ってこの薄着では外気の冷たさにそう長くは耐え切れないぞ」


「どうしてあんな言い方をした」


「私はただ私の疑問を説明しただけだ。しかしあれで怒るようでは、紳士は紳士でも米国人アンクルサムだな」


「コウの言う通り、あれでは侮辱したのと同じだろう」


「勘違いさせたのなら申し訳ないが、私は何も彼やここの村人個人を批判したのではない。それが当たり前となっている社会の有り様というものを批判したのだ。言っただろう、哀れに思っていると。侮辱なんてとんでもない」


「あいつのはらわたはな、若造に下僕だ哀れだと言われたことに煮えくり返っているんだよ。わからないか?」


「肉体的な年齢など意味は無い──」


「そういうことを言っているんじゃない。人には矜持というものがある。やたらと逆撫でするものではない。子どもじゃないんだ」


「矜持だというなら、私の意見も似たようなものだ。それを撤回しろというのだから衝突しても仕方ない」


「それでワインをかぶってもか?」


「これは相手の血だとでも思うさ。私の信念がコウを貫いた返り血だ。相手がファフニールほどの大物なら尚良かったのだが」


紳士が困り顔で大きなため息をついた。何を言っても無駄という表情である。


「言っておくが、私にはコウが怒った理由もきちんと理解できている。仕方ないとも言った。だが、誓って悪意はない」


「余計にタチが悪い。それでは手の施しようがないのだからな」

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