5 暗躍する偏屈者。1-下

夜になると、騒動を聞きつけたらしい村人たちが家に集まっていた。


みな最初は涙を浮かべて瀬上父の手を握っていたのだが、命の無事がわかると、次第に世間話で盛り上がっていた。彼らにはしめやかで居続けることは出来ないようだ。撃った当人でさえ、あの焦燥と反省の色はどこへやら、今は輪の真ん中で笑顔を振りまいていた。


「まったく気ままなものだ」


私がひとりごちたところに、それをさとく聞きつけた末が擦り寄ってきた。


「凍える寒さのなか本を枕に眠っていた博士さんが言えることではないですよお?」


「私と君らを一緒にするな」


即物的で単純、汚らしく汗臭い彼らと私は、まったく別物だ。

彼らはこの村の風景と同じで、中途半端だ。汚れた世界に生きる汚れた生き物であるというのに、それを忘れたように綺麗であろうとする。卑しいことこの上ない。


「まったく博士さんは。散々言ってくれますねえ。ボクが見つけてなかったら、あなたは皆に忘れられたまんま、冬の夜をあの泥の上で過ごす事になっていたんですよ? いやあ、危なかったですねえ」


「私はあのままで構わなかったさ。私には枕代わりの本もあったし、舗装のない地面は天蓋のベッドのようによい心地だった。重い冷気は軽い布団よりも私を包み込み温めてくれただろう」


「また強がっちゃって。そんな冷えきった身体で言っても説得力無いですよぉ」


私の身体は今、芯まで凍った身体を、重なった布団の下で解凍しているところだった。私は平気だと言ったのだが、瀬上さんと楽しそうな末の手によって身動き一つ取る間もなく簀巻きにされてしまった。


寒さなどなんということもなかったのに。


そう、寒いのはあまり問題ではなかったのだ。問題があるとすれば、冷えてきりきりと痛む骨折の方だった。風呂にでも入りたかったのだが、その身体では溺れるからととり合ってもらえなかった。


そして、中でも強く反対したのがこの末だった。


「貴様、私が文字通り骨まで凍えていることを知りながら、私をこの生温い布団地獄に追いやったというのか」


「とんでもない。ボクは博士さんの身体を思いやって進言しただけですよ~」


うやうやしく、大げさに、末はまるで救いを体現するかのように両手を広げて言った。なんとも分かりやすい建前である。


「君はとてもわかりやすいな」


「そうですか? 何を考えているのかわからない、とはよく言われますけどねえ?」


隣の喧騒が漏れ聞こえる部屋で男二人、不快なやり取りをしていると、


「あんちゃん」


扉からひょっこり顔を出した人間がいた。ヤマさんである。

いや、彼だけではない。上気した様子でぞろぞろと侵入してくる集団があった。


なんなのだ。騒がしいのは勘弁してもらいたい。

一番後ろには瀬上さんが申し訳なさそうな無表情で突っ立っていた。


「あんちゃん、大丈夫だったかい。さっきは車椅子助かったよ」


彼はそう言いながら、バンバンと肩を叩いてくる。

気遣いというものを知らないのかこの粗忽者は。


「おい、痛い、やめろ、そっちは折れてる方だ」


「この坊主かぁ、博士ってのは」


「ヤマさん、彼が車椅子をくれた人か? そんな人の良い顔には見えんなぁ。はっはっは!」


「おいおいやめろや。坊ちゃんも一緒に一杯どうだい」


昨日のこの三人の他にも、見知らぬ村人たちが何名かいるようだった。女性もいるが、私と瀬上さんと愚か者の末以外は総じて頭に白髪光る老齢である。いい年した大人たちが私に詰め寄り、身体に触れ、酒やら料理やらを推してくる。


「なんなのだ、これは」


「今、博士さんの人気はうなぎ登りなんですよお?」


末がわけのわからないことを言った。


「ヤマさんが皆に博士さんのことを喋って回ってるんですよ。「あの坊主のおかげでせっちゃんは死ななかったんだ!」ってね」


──は。これはこれは、とんでもない勘違いである。私はヤマさんに指示している時、瀬上父は死ぬだろうと思っていたのだ。助けるつもりで言ったのではない。無駄だろうに、助けたいのだろうから、懸命に治療したという事実がほしいだろうから、私はあの時落ち着けと言ったのだ。


私は既に見放していた。私のあんな指示のおかげで助かったというのなら、彼は千鳥カラドリウスの糞でも踏んでいたのだろう。私が何も言わず、あのまま瀬上宅に運ばれたとしても助かっていたに違いない。


褒められて喜ばない人間はいないというが、あれは嘘だ。こんな義務は私には重すぎる。英雄の権利は、持てるものノブレスにのみ献上すればいい。私は騎士フルトブラントや英雄の柄ではない。


賛辞のために為に人が集まるのなら、私はあんなことはしなかったのに!


「あんちゃん、車椅子から落ちた時大丈夫だったか? 骨あちこち折れてたんだろ?」


「落ちたのではない、降りたのだ。……私は大したことはない。それより、瀬上父の方はどうなっている?」


私はついさっき末に拾われて戻ってきたため、たしかに彼がどうなったのかよく知らない。しかし、その心配をしているというよりも、みなの意識を自分から逸らそうと、私はそう訊ねた。


「ああ、せっちゃんなら──」


「私ならここだ」


どうしたことか堂々と伸びた背筋で扉口に立っていた紳士は、お猪口片手に、肩口をぐるぐると包帯で巻かれていた。しかしそれ以外に目立った傷はないようで、ぐったりと抱えられていた夕方の様子とは打って変わってピンピンしている。


「なんなのだ全く……」


私は肩を落としため息をついた。無論、彼の容態を気にした衆が私の部屋から列をなして出ていく様子を拝めなさそうであることにだ。


「でもね、もう少し遅かったら出血多量で危なかったかもしれないんだってさ」


近くに座るマダムが、噂話をするように私に話しかけてきた。


「その出血多量の人間があそこで頬を上気させて酒など飲んでいるが、それは構わなくていいのか?」


私は無駄な抵抗を継続することにした。


それはそうと、気づけば私の部屋には、かなりの人数──恐らく今この家の中にいる全員だろう──が集まっていた。


部屋も私の許容も飽和している。頭を抱えていると、騒ぎの渦中から、ヤマさんが一瞬真面目な顔をした。


何かと思えば、彼は唐突に大きな声を張り上げた。「あんちゃん、ありがとう!」


「この距離でそんな声を出さなくても聞こえるのだ、この酔っ払いめ」


彼はついに近づいて来て、私の手を取り、ブンブン振った。


「ホント、あんちゃんが居て助かったんだって!」


続いて後から後から列を作って私の知らない人物も、ヤマさんに倣って私の手を握り、そして口々に感謝の意を唱えていく。


一体何なのだ。気持ち悪い。振りほどきたいくらいだったのだが、この新手の拷問は私を逃してはくれず、彼らの指に手を握られるたび、私は鉄の処女の棘が体に食い込む思いだ。私の血はブラッド・バスバスタブに貯めるには汚れているぞ。


「いやあ、あんたが良い人でよかったよ。今もこうやって自分の怪我をよそにしてせっちゃんの心配なんかしてさ」


「しかもせっちゃんを見て安堵のため息ときた。これはもう心底の善人に違い無いよ」


なるほど、彼らは私の行動をかなり好意的に勘違いしているようである。


それからしばらく村人たちになされるがままにされ、ようやく人の波が切れたかと思うと、最後に瀬上父が文句ありげな顔で私を見下ろしていた。なぜ銃で撃たれた人間が私より元気なのか。私が骨をひりひりと痛めているというのに。


「ぼうず、助けてくれてありがとう」


紳士は頭も下げず呟くようにそう言った。


改めて、ありがとうとは、私にはとうてい似つかわしくない言葉である。はっきり言って気持ちが悪い。恋愛脳の三文小説を手にとってしまった時くらいに気持ち悪い。この衝動のまま吐瀉物を撒き散らしてやりたい。そうすれば彼らは私から離れていくだろうか。


ただそうなったとしても、今も一人ポツンと離れた場所で丸椅子に座っている瀬上さんだけは「気にしないで下さい」と平気な顔で床を拭きそうな気がした。


「そうだ、ぼうずだ。だが貴殿を助けたのはぼうずではない。貴殿の娘と末だろう。なぜ二人ではなく私が褒められるのだ」


気持ち悪い。これだから外はイヤなのだ


英雄も勇者も救世主も、惜しげもなく賛美され歓迎される。貴方が希望だとか貴方のおかげだとか、大した分析もなく感謝する。彼らの努力も心労も屈辱も恐怖も左肩の傷も涙も誰も顧みない。そして自分を守った彼らを、彼らは目先の銀貨で裏切るのである。


彼らも彼らである。自分の役目を終えたというのに、なぜ権力と虚構に押し負けたのか。なぜ銀貨などに負けたのか。なぜ涜神を認め魔女になったのか。処刑台で、火刑台でエリを仰いだくせに。


私は断じて彼らとは違う人種なのだ。


気づけば、皆が妙な視線を私に向けていた。

軽蔑の目ではない。囚人バラバに向ける狂気でもない。またその類いでもない。どちらかというとポジティブな視線である。部屋全体も、総督官邸や仮設法廷の雰囲気ではない。


そして、間を置いてわっと全員が沸いた。ある者は笑い、ある者は「これはいい!」と騒ぎ、ある者──ヤマさんは私の肩を叩いた。


「な、なんなのだ」


「あんちゃん、あんたすごいよ!」


「坊っちゃんはすごいぃ?」


「寄るな、この酔いどれが……!」


「まあまあ。斎藤さんのこれはいつものことだから。でも、あんた言うねえ。感心したよ」


「どこに感心する要素があった、私は褒められたことはしていないと言っているのに」


「せっちゃん、なかなか骨のある男を拾ったもんだねぇ」


「ばあさん、左は叩かんでくれ。傷がある」


「よかったですねー、博士さん?」


姿を見せぬと思っていれば、どこからともなくにょろりと馬鹿ウマゴヤシのように末が生えてきた。これにひっつかれてはたまらない。


「何もよくなどない。私は嫌味でも謙遜でもなく褒めてくれるなと言ったのだ。言うなれば願望だ。それをこやつらは曲解しているに違いない」


「あなたも正直な人ですねー。そういうことにしておけば博士は英雄扱いを受けるのに」


「私は英雄などゴメンだ。あんな偶像になどなってたまるものか。私はただ──」


そこで私は不穏な視線を感じた。相変わらず騒いでいる連中のものではない。辿ると、そこには瀬上さんが座っていた。しかし特に私を見てはいなかった。特に変わった様子もなく飄々としている。


「どうしたんです? 瀬上さんにほの字ですかあ?」


「おーいおーいせっちゃん、坊ちゃんが嬢ちゃんにほの字だとよぉ。うひひひ」


「おい斎藤さん、飲みすぎだって」


「末君、あまり余計なことは言わないでくれ。私はこれ以上目立つのは御免だ。こんな俗物どもに付き合って騒がれたくはない」


「またひどい言い方ですねえ。博士さんって、ちょっと変わってますよね?」


失礼な男である。こんな連中と一緒にされて普通だと言われるよりはいくらか慰めになるが。


「君に言われたくないな」


「へへへ。よく言われますー」


それにしてもこの衆愚どもはいつまでここに居座るつもりだろうか。宴会の場にしてもらっては困る。


「なあせっちゃん、そろそろ行こうぜ」


「そうだね。斉藤さんが限界超える前に」


「やっぱり今日みたいな日は行かないと。今日が月末でよかった」


「さあせっちゃん、行こう行こう」


「……そうしよう。みんな、移動だ」


瀬上父の一言で、全員が堰を切ったように動き始める。これで私は心安らかに本の世界に入れる。


そう思い落とした視線の端で、今や私の脚たる車椅子がベッド脇に寄せられた。


「瀬上さん、何を?」


その主は、瀬上さんだった。彼女は悪戯っぽく微笑むようなこともなく、相変わらずの無表情で答える。


「博士も行きましょう」


「は……?」

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