第2話 凍れる都と二人の出逢い

 時は少し前に遡る。

 ノルニシュカ皇国の城は、真上から見ると、六つの花びらを持つ白い花のような形をしている。国の象徴であり、皇帝家ドーレスト一族の紋章のモチーフとなっている六枚花弁の花、フレイ・エリーシュカを模したと言われるその構造は、横から見れば重なった白い樹氷のようにも見えた。薄い紫や、淡い青に輝く壁面はノルニシュカの特産である稀少な鉱石で彩られ、可憐な花びらのような彫刻が施されたそれは万華鏡のようにまばゆかった。

 ノルニシュカの皇宮、その中心部の大広間。花をまいた毛氈の敷かれた上を、長い白金の髪を翻して、青年が歩いている。ダイヤモンドの内部のように美しい幾重もの透かしが施された天井からは、恵みの季節の光がきらきらと降り落ちてきていた。

 青年は、色が白く、清廉そうな面立ちをした二十代半ばほどの美男だった。まっすぐな長い髪を項近くで束ね、耳元で一度丸くまとめてから、肩章のついた青い礼服の肩に垂らしている。その佇まいは、この都に住まう者なら、誰もが一目でそうと解る――ノルニシュカ皇国第一皇子、エトリカ・ドーラー・ラ・ドーレスト。

「イフを見ていないか」

 彼は美しい形をした眉を少しあげ、広間の警備にあたっている兵士に問う。式典用の甲冑を着た兵士は敬礼し、首を振った。「いいえ。こちらにはいらしてません」

「そうか……」

 少し肩を落とし、彼は切り揃えた前髪をかきあげる。

「また何か危険なことをしているんじゃないだろうな、あいつは」

「エトリカ。イフのことですか」

 その背後から声がかかった。小さな声だが、鏡ばりのような壁や天井に反響し、よく通る。エトリカと呼ばれた青年は振り返った。「ムムリク」

 ムムリクと呼びかけられたのは、同じ白金の髪を結わずに背に垂らした、穏和な目をした二十歳そこそこに見える若者だった。お互いに、通った鼻梁や形のよい輪郭、涼しげな顔立ちがよく似ている。ノルニシュカ皇国第五皇子のムムリク・ドール・ラ・ドーレストだ。

「イフなら、朝方に東の塔で、風の向きを読んでいましたよ。あの子は魔術の才能がありますね」

「風の向き? ……嫌な予感しかしない」

 エトリカは眉間を揉む。身に付けた服の飾り房がしゃらしゃらと綺麗な音をたてた。ムムリクは首を傾け、少し下がり気味の眉の角度をさらに深めた。

「自由にさせてあげてはどうでしょう。僕も貴方も、そうはできなかった。弟たちくらいは、好きなことをさせてやりたくはありませんか」

「勿論、俺だってそうしたい。だが……」

 途方に暮れたようにエトリカは天を見上げる。花や雲、装飾が重なりあって多層の万華鏡のような世界をつくりだしている天井からは、水面を透かして踊るような光が、白く瞬いている。そこに風の音を聞き、エトリカは深くため息をついた。

「最近はとみに機械などにも凝りだして……キアランの影響か? 機械仕掛けで空を飛ぶだの言っているが、まったく心配の種が尽きない」

「ひどい無茶はしない子だと思っていますが」ムムリクは指を組んで少し祈る仕草をした。「万が一があります。イフに神のご加護がありますように」

 エトリカも同じ仕草をする。ややあって指をほどいたムムリクは、思い出したように口を開いた。

「そういえば、ローゼルとリリエンがカールマリエから戻って、城に着きましたよ。早速喧嘩をして、今は西翼と東翼でそれぞれ荷物を解いています」

 問題児ばかりの弟に、エトリカはもはやなにも言わなかった。ドーレストの皇子たちはとりわけ癖が強い者が多いのだ。

「ギデオンはどうしていますか」

 皇子たちの中でも一際扱いが難しい第十皇子の名を挙げられたエトリカは、そっとかぶりを振る。

「今朝も声をかけたが、返事がない。決めなくてはならないことがあるから、戴冠式には出られるのかどうかが、知りたいんだが。……無理だろうな」

「あの子は仕方がありません。……もしかして、戴冠式に関わる用事があって、イフを探していたんですか」

「いや、図書室にも工房にも姿が見えなかったから不安になって……」

「そこにいないのならいつもの自分の部屋ではないでしょうか。エトリカ、貴方は多くのことを気にかけ過ぎのきらいがありますね。キアランからの手紙にもありましたが、そんな様子では皇帝になったら体を壊してしまいますよ」弟である第四皇子の名を出され、エトリカはゆるく頭を振った。

「そのキアランは明後日向こうを発つそうです」

「ああ、報せが来た。国境付近の中隊の訓練を終えてからと書いてあったが……どうしてこう、あいつは血腥い……」

 ムムリクは黙ってエトリカの愚痴を聞いている。エトリカの弟であり、ムムリクの兄である第四皇子キアランは、ノルニシュカの都ではなく郊外の街ベルンテにある士官学校で皇国騎士團第二連隊の指揮を執っているが、この戴冠式にあわせて戻ってくる予定だった。

 ムムリクはエトリカの愚痴が一息ついたのを見計らって、大広間をぐるりと見渡す。

「準備は順調のようですね」

 ノルニシュカ風の繊細な建築様式は隅から隅まで磨かれ、朝の雪原のようにほの淡く輝いている。花がまかれた絨毯は、式典ともなれば花でつくられたそれに変わるだろう。大きな大きな薔薇の形をした窓の外からは、氷を削るような音が遠く響く。装飾魔術師の使う鑿や、工具の鳴らす、楽団のように多様な音が城内の空気を微かに震わしていた。城の象徴である天文時計の仕掛けに少し手を加える、と父である皇帝が言っていたことを思いだしたムムリクは、数年前に病を得てからめっきり老け込んだ父のことを思って、窓の外を見つめていた。エトリカも、その気持ちを組んだのか、金の光を城に注ぐ薔薇の窓辺に歩み寄って呟く。

「父上の体調も悪くない。戴冠式が無事にすむといいが」

 ムムリクも黙って頷いた。ドーレストの者は短命が多く、病を得て若く死んでしまう者も多い。だからこそ、后妃を三人迎えてまでこんなにも皇子をもうけたのだ。

 エトリカは、窓の外を見つめたまま不意に口を開いた。

「―――ムムリク」

 弟の視線が自分に向いたのを悟りながら、エトリカは頑なに、時計の音が響く窓の外から目を離さず、ただ硬い声でこう言った。

「"幻の長子"のことを、どう思う」

 ムムリクの穏和そうな目が、刹那、割れた硝子の切っ先のように鋭くなった。あたりの温度が下がる。

「エトリカ。戴冠を控えた第一皇位継承者たる貴方がそれを口にすることはなりません。いないならばいないもの。いるのならばそのように扱わなくてはならないのです。言霊は恐ろしい」

 言葉や表情の圧し殺した険しさに、一滴の悲しみが混ざっていた。兄と揃いの万華鏡の瞳が揺れ、逸らされた。

「……それに、時は経ちすぎた。もう戻れはしない。貴方や僕がどう思おうと、父上がいないとするならば、それはいないものなのです」

 エトリカはなにも言わず、目を伏せた。言葉が過ぎたというように、ムムリクも顔をそらす。

 薔薇の形をした窓からは、花畑のような街並みとそれを囲む白い城壁、さらにその向こうの丘陵や森が一望できる。遠くからでも伝わる活況に、エトリカは苦しそうに目を細める。天文時計の装飾の一部が窓枠にかかり、硝子の向こうの青空に白い霜の花のような形を描いていた。

 エトリカは、城内からは見ることができない天文時計を透かし見るように、淡く光る瞳を瞬かせた。

 ムムリクも窓辺に歩み寄る。広間の上階の機械室から、薇や発条の軋む音が聴こえてくる。窓の外では、都を見下ろす城の目、あるいはその心臓のように、十三本の針が微細な振動を繰り返し、それぞれの定められた時を刻んでいるのが見えなくとも知れる。

 ちょうどその時、正午の鐘が鳴り響いた。

 城全体がからくり仕掛けになったように、天文時計から響く音が大広間を満たす。春先に割れる氷のような希望の音が、夏でもどこか冷たさを感じさせる、美しい城をそっと祝福の気配で包んでいた。




 それは、正午の鐘が鳴り終わるのと同時だった。

 冬の王宮の奥深く、誰も気づかぬほど暗い、地の下に広がる無限の闇。幾千の夜と氷、血と呪いで編まれた虚の繭。

 誰かが、そこで、鍵を開いた。それは幾千もの光と炎、祈りと恐怖で組まれた古代の鍵、それは止まっていた時が再び動き出す合図であった。

 誰もそれに気がつかなかった。それは太古の呪い、誰もが忘れ去っても、地底に染み、大気に満ち、いつしかこの国と同化して共に巡っていた眠れるもの。皆が河に流れるその血を飲み、大地に融けるその肉体を食し、風にうたう声なき叫びを呼吸して、その魂の一部としていた。

 そこから混沌が這い出てくる。化石となった氷が、螺旋をめぐって、塔をのぼってくる。花が香り、人びとが笑いさざめいている街並みを余所に、厳かで美しく、どこかひやりと冷たい城の内部へ、無音の洪水のように流れ込み、皇帝が病んだまま座すそこで――繭のかたちをした呪いの種子が白く弾けた。

 天文時計の十三の針が、花の蕊のようにばらけたその中央から、音もなく空気がひび割れた。次の瞬間、溢れた全き白が、世界を支配した。闇と同じ白が、城の塔から津波のように溢れる。吹き上がる雪、色彩や音楽さえ凍りつかせる魔の力。形あるものを残さず消し去ろうとする力、冷たい爆風は億の剣となって、白い手にすくわれた花のような街中をまさに一息で覆い尽くした。その爪の切っ先は城壁の外にも及び、最も壁に近い樹木のてっぺんを吹き抜けた雪嵐は青々と繁っていたそれを一瞬で鍾乳石の尖端のように硬く凍らせてしまった。

 その瞬間、青空に放たれた光を感じて顔をあげたはるか遠くの山や、旅の道の途上にいたものは、ある信じられない光景を目撃することになる。

 "冬の王国"の首都は、まばたきほどの一瞬で、完全に、白い氷の結晶に閉ざされていた。




 ユリユールは、必死に森を駆けていた。

 鐘が鳴り終わるとき、ユリユールはかごを手に、城壁の外へ一歩踏み出していた。方向を失わない程度に森に分け入り、瑞々しい空気を肺いっぱいに吸い込んだ。悪夢はその少しあとに襲ってきた。…少し斜面になった木立に、苺の茂みらしい緑のふくらみを見つけて、見繕った最高の熟れ方をしている数粒をとったとき、ユリユールは首筋に氷の牙が突き立てられたように振り向いた。次の瞬間、彼女の目を射った千の光の束、つめたくて悲しいほどに澄んだ銀の輝き、それは可視化したあの旋風のように、その瞬間ユリユールの体を突き倒した。

 雪のひとひらのようにはね飛ばされた軽い肉体はゆるやかな森の斜面を転がったが、すぐに身を起こした彼女は、土に湿った自分の肩や頬が驚くほど冷たい空気にさらされていることに気がついた。春の陽気ではけしてない。吹雪の晩、旅の幌馬車の母衣がめくれて雪つぶてに打たれたときのことを思い出した。何かがおかしい。膝をついた草地がきらきらと輝いていて、なにかと目を凝らすと、それは驚いたことに霜の花や雪の結晶だった。

 ユリユールは身一つで駆け出した。

 苺を入れようと持ってきたかごはどこかへ吹き飛ばされてしまっていて、中に入れていたまじないの石やナイフも無くなってしまっていた。向かい風が身を切るように冷たく、城壁の化粧石が異様なほどに白銀にぎらぎらと光っているのが木々の隙間から見えた。

 雪まじりの草地を走り抜けて城壁にたどり着いたユリユールは言葉を失った。

 城壁は、真っ白に凍りついていた。

 城壁の周りをさらに一巡する濠も、波立ったままの形で時が止まっている。信じられない思いで、ユリユールは屈んで、石畳の化粧石の上をさらに覆う霜に手を伸ばした。

 指で触れた途端、ぴりっと火花が散るほどの痛みを感じ、思わず引いた手の皮膚が剥がれる感触に歯を食い縛った。…指先の皮膚が、凍った石にくっついてしまったのだ。

 あっという間に血が滲んで溢れる傷口をくわえ、上着のポケットに入れていた木綿でくるむ。

 門の方へ回らなくちゃ、と考えた。門には人もいるし、何が起きたのか訊ける。とにかく、すぐに戻らないと―――そう思いながら、何の気なしに天を仰いだユリユールは動きを止めた。

 彼女の背後にそびえ立つ菩提樹のてっぺんに、霜にまみれた銀色の回転木馬――歯車とか発条とかなんだかおかしな機械がくっついているけれど――が、大きく傾いて引っかかっていて、そのきらびやかに飾り立てられたおもちゃの鞍から、ひとりの少年がさかさまに落っこちそうになっていて、やっと鐙にブーツのつま先をひっかけて踏みとどまっていた。金色の巻き毛がふわふわ冷たい風に揺れていて、その万華鏡のように輝く瞳と目が合った。

「……やあ。元気?」

 片手をあげた少年に、ユリユールはただぽかんと口をあけていることしかできなかった。




「まったく、夏が冬にかわってしまった!」

 菩提樹の下、ユリユールの髪と同じ紅色の肩掛けにちゃっかりくるまりながら、頭の上のゴーグルについた雪を払っていた少年に、ユリユールは名前を訊いた。「あなたは誰? なぜあんな馬に乗って木の上に引っかかってたの?」

「馬じゃなくて飛行機さ。名前はジルだよ」心外だというふうに少年は目を見開き、言った。それから、樹の脇に立て掛けてある、回転翼や発条、歯車や薇がついた不思議な馬を指差す。「ジルってのは、もちろん、あの飛行機の名前ね」

「飛行機ではなくて、あなたの名前を教えてくれないかしら」

「イフさ」少年は簡単に答えた。「イフ・ドーレスト」

「ドーレスト?」ユリユールは訝しげに眉をひそめて腕を組んだ。「あなたの苗字がドーレストなんてありえないわ。それはこの国の皇族の名前よ」

「ぼくは皇族だよ」イフは溶け出した雪の水滴がつたうゴーグルを袖で拭きながら淡々と言った。「ノルニシュカ皇国第十二皇子、イフ・ドール・ラ・ドーレスト」名乗りながら、ゴーグルを木洩れ日にかざし、汚れや傷がないか確かめる。ユリユールは、猫のような銀色の瞳できっと少年を強く睨んだ。「……本当なの?」

「お望みなら皇族のブローチを見せるけど?」

 そう言ってイフが細めた瞳に、虹が弾けた。ユリユールは驚いてその瞳に見入る。元素灯の色鮮やかな火を閉じ込めたような瞳をしていた。「ほら」その瞳の真横に、イフは銀色のブローチを掲げる。水晶と大理石が、皇族の紋章をかたどっている、魔法のようにきらきら光る重い品だった。ユリユールはそれを眺め、「きれいね」と呟いた。

「内部はもっと美しいさ。みる?」

 水晶を傾けたとたん、そこから無数の色彩がとびだした。さくらんぼ色、青磁色、紺碧、琥珀色、すみれ色――イフ自身の瞳とよく似た、そのなかに世界を閉じ込めたような水晶……! 木洩れ日の複雑な反射がその内なる世界に月や、雲のように流れる陰影を与えていた。

 角度を変えたある一点で、その中央に、虹色の霧のように紋章が浮かび上がった。はっとユリユールは身を引いて息を飲む。雪の結晶と六枚花弁の花を合わせた、複雑きわまりない、魔方陣のような紋章。彼女の父も扱う装飾魔術でしか刻印できないそれは、並みの人間では――それこそ、皇宮に召し抱えられるほどの装飾魔術師以外は不可能だろう細工だった。

 ユリユールはそれを見て、この子の言ってることはいよいよ本当かもしれないと思った。皇族の苗字を名のった彼の、色の淡い磨かれたような金髪は、市場では最も上等な、魔法の蜘蛛の刺繍糸よりもなめらかで、肌の白さは薄紅の石に積もった新雪。そして、何より、見たこともないほど複雑な色が混ざった万華鏡のような瞳は、とても普通の人とは思えなかった。

 ユリユールは一度咳をして、慎重に口を開く。

「あたしはユリユール。父が時計職人をしていて――装飾魔術を使うの――一緒に旅をしているわ」

 イフはブローチを回して首をかしげた。ユリユールの父譲りの赤毛と、滅多に見られない金属光沢のある虹彩をじっくりと観察する。

「もしかして、父が天文時計のために呼んだ職人の娘さんかな」

「……そう」ユリユールは首肯する。天文時計の装飾を、父が頼まれたことを知っている。やはりこの子は本当の皇族かもしれないと感じた。

「ねえ、あなたの正体がどうであれ、あなたはあの街のなかから来たことは確かよね」

「ああ、確かにね。……君、意外に疑い深いなぁ」

 まあ当然か、とイフは腕を組んだ。その横顔は幼げで、けれど喋り方はまるで大人のように淡々としている。ユリユールは、あたしと同い年か少し下かと思ったけど、そうでもないのかしらと、イフの年齢について疑問を抱いた。

 ぱた、と草地に大きな雫が落ちた。氷雪の冠を戴く菩提樹のてっぺんから落ちてきたものだ。ユリユールはその白いところを不安そうに見上げながらイフに訊ねた。

「あの風と光は何? どうして城壁は凍っているの? 街のなかはどうなっているの?」

「その質問について、ぼくが明確に答えられるのは最後のひとつだけだな」イフはゴーグルを首にかけながらマイペースに答えた。

「街のなかは凍りついている。――人も、ものも、真っ白にね」

 ユリユールは絶句した。

 イフは目を細めて、今や氷の塊と化したような城壁を仰ぎ見た。虹色の光を反射して輝くその目映さは、見るものの血を冷たくさせる白さだった。

「ぼくは、ジル――この人力飛行機の試運転をしたくて、正午少し前に城を出た。追い風をつかまえて、城壁をこえる算段だったんだ――こいつは魔力とかんたんな科学と火で動くけど、そこまで馬力はないから。恐らく落下による加速もあるけれど、思いのほか風が強くて、ぼくは西側の城壁近くまで一気に到達した。……そこで、ものすごく冷たい、ブリザードのような追い風に突き飛ばされて、思いっきり城壁をこえて、ハンドルから手が離れたばっかりにジルとぼくは、君がぼくらを見つけた状態に陥った。そのまま、ぼくは、城壁の内部を目にした―――」

 イフはそっと指を伸ばす。ぱちん、と、イフの目の前で氷の花が弾けた。微細なその破片が、彼の真剣な表情を照らす。

「――街も人も風が吹いた瞬間そのまま、時が止まったように白くなっていた。なびいた髪も、服も、誰かと話していた人も、歩いていた人も、馬車もすべて」

 ユリユールはその光景を想像しようとしてもうまくいかなかった。様々な国を旅してきたが、ときに戦乱に巻き込まれた村にいたとしても、そんなものは目にしたことがなかった。血が流れる石畳よりも、燃え盛る山入端の村影よりも、ずっとそれは奇妙で恐ろしいもののように思えたのだ。

「そんなこと――そんなことって、あるの」

「まあ、普通はないだろうね」イフはまたも淡々と言った。彼の白い頬を、ブローチから放たれる光の舌がなめる。万華鏡の瞳は、燃える色彩を映して水面のように輝いていた。

 ユリユールは膝で立ち、たまらずイフににじりよった。「どういうこと? 人も凍ってるって……それは、死んだってことなの?」

「どちらとも言えない」イフはかぶりを振った。ユリユールの顔が青ざめる。少し心苦しそうに、イフは続けた。

「この国や大陸の戦史や魔術史の文献に、人を凍らせた事例は無いわけじゃないけど、それは元々相手の体を氷で固定するタイプの魔術だ。自由を奪って、殺す。その枷に使ったに過ぎない。今回は、少し見ただけだけど、肉体ごと…人がまるごと、凍りついていたように思えた。体内がどうなっているのか、魔術の作用がどう生命に及んでいるのかわからないし、受けた魔障が、術が解けたときに消えるのかも……最悪の事態も充分、覚悟すべきだと思う」

「どうしてあなたはそんなに冷静なの!?」

 とうとう、ユリユールが大きな声をあげてイフの肩をつかんだ。イフは体勢を崩してよろめく、勢いで額がぶつかり合いそうなほど二人は接近した。

「あなたは皇族なんでしょ! 家族が、街の人が心配じゃないの!?」

 イフは少しだけ眉根を寄せて、震えながら彼の肩をつかむユリユールの手をぽんぽんと叩いた。

「……少し力を緩めて」

 ユリユールは力を抜こうとして上手くいかず、動揺したままイフの体を揺さぶった。

「……君は見たところ東の方から来たんだね」イフは目を細めて、異国らしい刺繍の施されたユリユールの上衣を観察する。「……家族は城壁のなかに?」

「街のなかには、あたしのお父さんがいるのよ!」

 堪らず叫んだユリユールの声は、宝石が砕けたような響きで以てあたりの静寂を浮き彫りにした。少女の荒い呼吸音が、無音の森に響く。動物や風の音ひとつしない空間は、まるで水晶のなかのようだった。

 ユリユールが呼吸を整えるのを、イフは黙って待っていた。……澄んだつめたい空気が、熱くなった彼女の喉を冷やす。

 頃合いを見計らって、イフは柔らかな声音で、しかし淡々と言った。

「……現時点で、ぼくはこの状況へ対処できる方法を持ち合わせない。だから、まず自分に何ができるかを考えている」イフは目を閉じ、かぶりを振った。「ぼくが悠長に構えて見えるのなら、それは違うよ。ぼくは今、やるべきことを探している。……見方を変えれば、時間を浪費している、とも言えるかもしれないけど」戸惑った表情を見せるユリユールに、イフは抑えた声で続ける。彼の、たくさんの色彩が混ざる瞳を統べる透明な光が、鏡のようにユリユールをまっすぐに見つめた。

「こう言ったら君は気を悪くするかもしれない。だが、ぼくは、今ここで城壁内の人たちの心配をしても始まらないと思う」

 ユリユールは、イフの肩を掴んでいた手を力なく落とした。火に晒された銀のように揺らいでいた目が伏せられる。

「……ごめんなさい」

 イフは眉をあげた。「なぜ謝るの?」

 躊躇ったようにユリユールは唇を動かして、やがてかすれた声で喋りだした。

「……あたしは、旅の途中で、何度も、同じことをお父さんに教わったわ。

 嵐の予兆を感じたとき。河の向こうに厭な気配が迫っているとき。闇夜に、森に一人きりでいなければならないとき。……やみくもに心配したり、焦ったりすることが最もまずい。冷静になり、自分が今何をすべきか考え、行動しなさい、って」

 イフは頭を振って額を押さえた。異国の赤い髪が揺れて、唇を噛む彼女の表情を隠す。

「あなたは正しい。それに腹をたてた自分が悔しい」

「人は心なくしては人ではない」イフはブローチを胸元に留めなおして呟いた。人形のような白い横顔は、どこか眩しそうに、ユリユールの逸らされたかんばせを見つめていた。

「……ある意味では君の方が、"正しい"反応だとぼくは思うよ」

 かたり、と、主人に同意を示すように、人力飛行機の馬が小さな音をたてた。

 菩提樹の上から、光と一緒に真珠のような雪の粒が滴った。その粒が二人の間に、断続的に落ちてくる。それを見ていたイフは、そっとユリユールの前に膝をついた。

「今、ぼくは城壁内のことをどうこうする手立ては持っていない。……ただ、君の言った、前のふたつの質問について、心当たり…は、ないでもないよ」

 ユリユールがはっと顔をあげた。イフは、生乾きの小枝を手持ち無沙汰につまみ上げて見つめながら、小さな声で喋りだした。

「ドーレスト一族には代々不思議な力があってね、まあ有名な話だし隠してもいないけど……長子、次子に、魔術のなかでも特に、冬をつかさどる力が遺伝するんだ」

「冬を?」思わず聞き返したユリユールに、イフは頷き。指を二本立てた。

「不思議と二人だけでね。あとはいくら子どもがいようが、小さい頃はすこしはつかえても、成長するにしたがってつかえなくなる。普通の魔術師になるのが精々さ。成人の儀まで、その力を持っているのは、長子と次子だけなんだ」

「それなら」ユリユールは合点がいったように頷き、急いて身を乗り出した。「こんど戴冠なさる、第一皇子のエトリカ・ドーラー・ラ・ドーレスト皇子は、まだその力があるってことなんだ。じゃあ、もしかしてこれもなにかの儀式だったりするのかしら……」

「それがね」イフはちらりと少女の銀色の瞳を見上げた。「国中を凍らせるようなつよい力は長子にしかなくって、次子にはそこまでつよい力はないのさ。せいぜい、粉雪を散らせて、霜で花を描くくらい。まあ、季節に介入することが高等魔術なんだから、充分かもしれないけど……」

「だから、長子であるエトリカ第一皇子が、これをしたんでしょう?」風が吹き抜けた先端だけ、氷の花が咲いているような樅の木を示し、ユリユールは問うた。

「ぼくは第十二皇子だって自己紹介したよね」それには答えず、イフは確認するように問い返す。ユリユールが頷くと、「ぼくの上には十二人の兄がいるんだ」

「おかしいわ。計算があわない」ユリユールは眉をひそめた。「あなたが十二番目の皇子というなら、あなたの上には、いち、に、さん、し、…じゅういちにんの皇子しかいないはずよ。足し算もつかわないわ」

 彼女の訝しげな声に、イフはまばたきして事もなげにこういった。「皇子じゃない皇帝の長子がいるんだよ」

 いよいよ、こんな話を信じていいのかしらというユリユールの表情が濃くなり始めた。イフは小さく肩をすくめる。もてあそんでいた小枝を、不意にペンのように持つと、意味をなさないながらも濡れた草の上にある文言を書き付ける仕種をした。

「ラルカ・ドーレスト・ラ・ドーレスト。呪われた雪の王」イフの瞳のなかに、吹雪のような銀色がちらついた。「――"まぼろしの長子"さ」

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