雪の積もらない街

星留悠紀

雪の積もらない街


 深いため息をついた。

 風景にではない。自分自身の酷さにだ。

 綿に墨汁を垂らし染み込ませた様な雲が、空一面に敷き詰められている。そこに 向かって、俺の口から弱々しい白煙が昇っていく。

 流れる水の音が、悴む指先を暖めようと両手を擦る音と顔に当たる風の冷気にかき消されていた。吸い込んだ空気は冷蔵庫の中にあったかのごとくで、肺の中に重みが与えられたのを感じる。

 視線を空から下に向けると、河原の細道の先がぽっかりと口を開けた化け物がいるかのような闇に飲み込まれていた。その口の中に一歩また一歩と、ゆっくりと、しかし確実に進む。黒曜石のような魅力的なその黒に吸い込まれるように。

 手持ちの懐中電灯が切れそうなのか、チカチカと点いては消えてを何度も繰り返す。それでも光に進む。

 河川敷には、かなりの遠間隔で街灯が置かれていて、次の光を求めることだけを頭に残して進み続けた。

 そうしなければ、考えないようにしていたことが浮かんできてしまう。忘れていられなくなる。

 迷惑なことに、考え始めて一度意識してしまったことはなかなか消えてくれない。服のほつれた糸やほどけた靴紐に気が付いた感じだ。正しくあるべき姿が崩れ、何かが確実に違うと感じる感覚。

 ほつれた糸は切ってしまって、靴紐は結び直さなくてはならない。間違いは正し、ルールは守る。自分の性格はそんなものだ。

 一般には美徳として扱われるそれが、今ではただただ呪わしかった。

 考え事は、俺の彼女のことだ。

 俺には付き合って一年になろうとしている彼女がいる。自分のことを好きになってくれる人がいることに驚きながらも今晩に似た冬の夜に関係を変化させた。

 あの日のことは、たぶん忘れることはないのだろうと思う。

 忘れていないあの日のことを、記憶の奥底からすくい出すことにした。


 「好きだよ」

 唐突な出来事だった。加えて、ひどく自然だった。違和感なんてものは無い程に。

 満天の星空を見て綺麗と呟くような。青い太平洋の海を見て広いと思うような。

 そんな、当たり前のような反応が言葉にして出されたような。

 え、という間の抜けた俺の一言だけが雫のように落ちる。

 思考がしっかり働いている気がしなかった。額が熱くなり、冷や汗をかいていたことが嫌でも分かった。

目の前の星空から目を背けられない。

自分の白い吐息が視界に入り込む度に、隣の彼女を見なくてはならないと言い聞かせる。それでも、横にいる彼女を見れない。

ビニールシートに横たわる二人はどんなふうに見られているのだろうと場違いなことを考える始末だった。

 「好きなの」

 今度ははっきりと聞き取れた。その声を聴いて逃げられないと思った。逃げるという考えを浮かばせた自分に驚く。

ようやく出た言葉も、そうかという短いものだった。

 流れる星がひとつふたつと見え、時間が流れるごとに少しずつだが冷静さを取り戻すことができた。

 冬の空気が冷や汗と相まって、肌を刺激して震えを走らせる。

 青いビニールシートに潰された植物のにおいが鼻を刺激する。

 少し離れた場所で同行していた天文サークルのメンバーの声が聞こえた。

 石膏で固められたような首を無理やり動かした。

 長い髪と白い肌、細い腕。こちらに顔は向いていないため表情は読み取れない。

 彼女と出会ったのは、大学に入ってからすぐの天文サークルの新歓だった。隣の席で初めて話すことになって、俺たちの会話はそれなりに弾んでいた。人と話すことが苦手なので、自分自身でも意外なものであったと覚えている。

 会話の内容は簡単なものだったが、星について話していたことを覚えていた。

 艶のある長い黒髪や華奢な体と細くて白い腕。顔もそれなりに整っていて、大和撫子とも言っても差し支えない彼女はそれなりにモテていた。

 一年関わり続けたそんな彼女に対する俺の感情は「友達」だった。

 理由は簡単だ。俺は誰かを好きになることができない。

 語弊があるかもしれないので言い換えると、誰かを恋愛的に好きになることができない。

 俺は愛や恋を信じていない。世の中にありふれているその言葉たちは、幻の存在であると思う。愛すると言っても、恋していると言っても、人は裏切る。自分の親を見ていればそれくらいのことは理解することができた。

 俺から言わせてもらえれば愛だの恋だのという言葉は裏切りの一歩目で、信頼なんてできるような言葉じゃなかった。

 きっと、彼女が今、俺に向けてくれてるものはそんなもので。

 だけど、自分が初めて向けられたと言ってもいいその好意という感情に。もしかしたら本物もあるのかもしれないと。

もしも、それがあるのなら、知ることができるならと、希望を持ってしまった俺は……。

 「よろしくね」

 彼女が笑顔を向ける。暗闇の中でもそれが分かった。

 俺がどんな表情をしていたかは、彼女しか知らないことだった。


 あの後、近くで聞いていた天文サークルのメンバーにひたすらいじられて酷い目にあった。

 あれから、もう一年。あるいは、もう一年。早いようで短い。短いようで早い。まさにそんな感じだった。

 あの日のような流星群は、今日の空には見えない。

 結果を言ってしまえば、俺は彼女を恋愛的な目で見ることは今もできていない。

 一度だけ。聞いてみたことがある。人を好きになれない自分をどうして好きになってくれたのか。

答えは難解だった。

 「あなたといるとドキドキする」と。「きっと、これが恋だ」とも。

 俺はそんな彼女と真逆だ。心臓の鼓動なんて早まらなかった。

 手を繋いだときも。肩に頭をのせたときも、のせられたときも。抱きしめたときも、抱きしめられたとき。キスをしたときも。たぶん少しも変化しなかった。

 だから。正直者な自分は、彼女に今も「好き」の一言すらかけることができていない。

 嘘でも言うべきだったのかもしれない。

 きっと、俺は彼女を恋せない。愛せない。最後までその言葉に対する嫌悪感は消すことができなかった。

 諦め始めたのはいつだっただろうか。

 何処かの誰かの言葉が浮かぶ。「愛されなかったということは、生きなかったことと同義である」。このままでは、俺は彼女に生かされるだけで彼女を生かすことができないだろう。

 そう思って、初めて自分が誰かを生かしてみたいと考えていたことを知れた。

 漫画とかドラマだとかに結局あこがれていたんだと思う。

 付き合ったのも、自分を好きな人がいることに酔っていたからだ。

 醜悪だ。誠実さの欠片もなく、呆れるしかない。

 目の前が明るくなる。交差点で信号機があった。手持ちの懐中電灯の灯りは切れていた。ただただ信号機の赤色が輝く。光に誘われる虫のように近づき、その前で何分も足を止めた。

 ふと、赤信号で足を止める俺を催促するように雪が降り始める。この町で雪が降るのは珍しい。でも、きっと、積もることはないのだろう。

 前には、変わらない信号機。

 後ろは、いつの間にか化け物が真っ黒な口を開けていた。

 無視して罪の意識を持ちながら知らん顔をして進むのか、元の場所に戻ろうと化け物に飲み込まれて楽になるのか。どちらが正しいのか決められないまま、積もるはずのない雪を見て俺はまた、深いため息をついた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

雪の積もらない街 星留悠紀 @fossil-snow

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ