春の香り

朝星青大

第1話


ほうずきさん企画・第三十回・三題噺参加作品




短編小説 『春の香り』





「マスター、人は何の為に生きるんでしょうね ?」


啓介がマスターの背中へ問いかけた。


マスターは棚からボトルを取り出していたが、その手を止めて向き直った。他に客は居ない。


「どうされました ? 彼女とうまく行ってませんか ?」


「えっ ? どうしてそれを ? 」


「ははは……青年が、そういう哲学的な質問をする時は、大抵、失恋か、交際中の相手と喧嘩をして、打開策が見つからない場合なのです」


「そうなんですか。驚いたな。まるでシャーロックホームズだ。ええ、その通りです。困っています」


啓介はジンフィズを一口含んだ。


「彼女のお名前は ? 」


マスターはタバコに火をつけながら尋ねた。


「みどり……橘みどりって言います」


「ふむ。みどりさんですか」


マスターはタバコを置いて、タブレットを手に取った。


「マスター、あれですか ? 名前の相性とか、そういう問題なんですか ?」


「いえ、そうではないのです。ちょっと待って下さい。念のため確認します」


マスターは、タブレットを操作して、何かを検索している。タバコを咥え一息吸うと、また置いてタブレットに眼を凝らした。


「うむ。これだ。見つけました」


「なんですか?」


「これを、彼女宛にメールしてみると良いでしょう」


マスターは、ペンを執り、タブレットから素早く転記したメモをカウンターに置いた。



高瀬さす 

六田の淀の 柳原 

緑も深く かすむ春かな




「これは、短歌ですよね ?」


「そうです。古典です。新古今和歌集」


「これを、彼女に送信すると、上手く行くんですか?」


啓介には訳が分からない。


「そうです。上手く行きます」


マスターは、にこやかに告げると、タバコを消してボトル棚へ手を伸ばした。


啓介は、メモを読みながらスマホに和歌を打ち込んだ。


「マスター、これって……」


「高瀬舟が棹をさして行く六田の淀の柳原は、緑も深く、その緑とひとつになって深く霞んでいる春の景色を詠んだものですが、ポイントは、緑と霞むです。みどりさんの名前に掛けた訳です。会えずにいると君の姿が霞んでしまうよと伝わるでしょう」


「ああ、そういう事なんですね。分かりました」


マスターの解説に納得して、啓介はメールを送信した。




「喧嘩の内容には関係が無いのです。行き違いの原因を躍起になって説明しようとするから、余計にこじらせてしまう。要は相手の気持ちになって、冷静に対処出来るかです。そこに男としての器量が問われる」


「男としての器量 ? 」


「人生には良くも悪くも絶えず色々な事が起こる。問題は何か不都合が生じた時です。それを相手のせいだと決めつけずに、どうすれば前を向いて手を携えて行けるか。特に男子には包容力が求められる」


マスターは棚を整理しながら、そう諭した。


「包容力ですか……うーん。そう言われると」


ほどなく、彼女から返信が入る。


「あっ ! もう来た ! マスター、不思議ですね。今まで何度もメールしたけど無視されてたのに」




Re : 今、どこに居るの ?


ReRe : 体育館前のバス停の近くだよ


ReReRe : 市民体育館 ?


ReReReRe : そうだよ。道路を挟んで反対側のバイク屋さんの隣り。バー【みちしるべ】っていう店


ReReReReRe : わかった。すぐ行く。30分か40分ぐらい。待ってて




「マスター ! ありがとうございます。彼女がここへ来るって言ってます」


「それは良かった。それが歌の力なのです。もう喧嘩の件には触れずに、次のデートをどうするか、そちらへ話題を振るのですよ 」


マスターは、ボトルの棚へ水槽を据え付けて照明を灯した。







カラカランッとドアベルが響いた。車の発進音が聞こえたのでタクシーで駆けつけたと分かる。


「こんばんは」


若い女性が顔を出した。啓介の相手、みどりが訪ねて来たのだ。


「いらっしゃい」


マスターが、にこやかに招き入れ、啓介の隣りの席へ座るよう促した。


「やあ、待ってたよ」


啓介が一度、席を立って座り直した。そのようにせよとマスターから言われたのだ。


マスターは外に出ると、営業中の札を準備中の札に掛け替えて戻った。


「春らしい陽気になりましたね」


「ええ。本当に。昼間は汗ばむぐらいに暖かくて」


みどりが応じた。


マスターは、みどりの前に置いたグラスにミネラルウォーターを注いだ。次いで冷蔵庫から小皿に載せた料理を取り出してカウンターに並べる。割り箸も添えられた。


「今が旬の食材を使って作ってみたのです。さっぱりとして美味しいですよ」


みどりと啓介の前に置かれた料理は、一見しただけでは分からない。棒状の物を切ったように見える。


「マスター、これ、何ですか?」啓介が尋ねる。


「鶏肉ミンチの蒸し焼きです。油揚げを開いてミンチを包んだものです」


「この緑色のは何ですか?」


みどりが尋ねた。


「それが旬の食材、三つ葉です。バラけないように糸三つ葉で縛ってあるのです。今、ネットで人気になっているメニューの一つです」


みどりはミネラルウォーターを一口飲んでから箸をつけた。


「ああ、ほんと美味しい。さっぱりしていて。ほのかに三つ葉の香りが漂って。春が来たって感じ」


「そうでしょう。春の香りです。飲み物は啓介くんと同じジンフィズで良いですか ? 」


「あっ、はい。それでいいです」


みどりは迷いなく答えた。


マスターはボトルを取り出しながらオーディオを操作してBGMを流した。



♪ 水面(みずも)をわたる 風さみし

♪ 阿寒の山の 湖に

♪ 浮かぶマリモよ なに思う

♪ マリモよマリモ 緑のマリモ 



「マスター、これは ? 初めて聞く歌ですね」


啓介が興味深げに訊いた。


「そうでしょう。古い流行歌で、マリモの歌というのです」


「マリモのうた……いい歌ですね。でも、なんだか少し悲しそうな感じも……あら、それ、何ですか ?」


みどりが、ボトル棚の一角に据えられた水槽で緑色に光る球状のものに眼を留めた。


「これがマリモです。毬のように丸く成長するので毬藻。昨日、友人が届けてくれたので、早速、据えてみたのです。CDも」


「ああ、だからですか」


「この緑色が人の心を和ませる。インテリアとしても華美でなく可愛らしい。自力で浮き沈みするのが楽しいと、愛好家が意外に多いようです。私は初心者ですけどね」


「素敵 ! 」


みどりが箸を止めてマリモに魅入っていた。


「マスター、それって植物なんですか、動物なんですか ? 」


啓介が尋ねた。


「ははは……淡水の藻ですからね。もちろん植物です。植物なので、光合成をしながら成長するのです。二酸化炭素を吸収して酸素を吐き出す。酸素の吐き出し具合で浮き沈みするのです」


マスターはロンググラスを二つカウンターに置いた。


「はあ。光合成してるんですか。すごいなあ」


啓介は改めてマリモを見つめた。


「ですから、濁りの少ない湖に生息するのです。湖底の深さが20〜30mぐらいのところで。光の届かない深さではダメです。暑い所もダメ。必然的に寒冷な地域、そして濁りの無い湖でしか見られないという訳です」


マスターは、ドライジンとレモンジュースとガムシロップをシェイカーに入れてシェイクした後、グラスに注ぎ入れ、ソーダを加えた。それを軽くステアして、最後にグラスの縁へレモンを飾った。


「さあ。どうぞ」


グラスを二人の前に滑らせると、マスターは自分用のタンブラーを置き、ミネラルウォーターを注いだ。


「ああ、これもサッパリ系で美味しい」


みどりはロンググラスを持ったままカクテルの感想を漏らした。


「マリモって、北海道の阿寒湖とか摩周湖でしたっけ ?」


啓介が訊いた。


「そうです。マリモと言えば北海道の阿寒湖が有名ですが、何故、有名かと言えば、湖底に適度な水流が常にあって、それがマリモを丸く成長させるからです」


「水流がですか ?」


「そうです。マリモは沢山の糸状の藻が絡み合って丸い形状になるのです。この美しく真ん丸なマリモの出来る条件を備えた湖は、実は阿寒湖だけなのです」



  ♪アイヌの村に 今もなお

  ♪悲しくのこる ロマンスを


芹洋子の澄んだ歌声が響き渡る。


  ♪歌うマリモの 影さみし

  ♪マリモよマリモ 緑のマリモ



やがて演奏が終わった。



「マスター、この歌…………悲しく残るロマンスって何ですか?」


みどりが尋ねた。


「アイヌの伝説ですね。マリモの会というホームページに紹介されています」


「そんな会があるんですか ? 」


「ええ、あるのです。世の中は広いものです」


マスターはミネラルウォーターを飲み干してから語り出した。


「その昔、阿寒湖畔の小さな村にセトナという美しい娘が居ました。セトナはその村の酋長の娘で、酋長が定めた男と結婚する約束がありました。ところが、セトナはそのしもべ、マニベといつしか恋仲となってしまったのです。マニベが下僕であるために、二人の恋は叶わず、やがてセトナは約束の男と結婚することになりました。けれども婚礼の夜、セトナはマニベを忘れることが出来ず、遠くから聞こえるマニベの奏でる美しい草笛に誘われて湖畔にさまよい出たのです。月淡き湖に二人は丸木舟で漕ぎ出しました。 この世で結ばれぬ運命ならば、この湖底で結ばれようと身を投げたのです。酋長をはじめ村人達は、二人の深く清い想いを、その時に初めて知り、二人の永遠の幸せを祈りました。セトナとマニベの強く求め合う恋の魂は、やがてマリモへと姿を変え、湖の中で永遠に生き続けている……という訳です。阿寒湖では、今でも相思相愛の男女がマリモに祈りを捧げると、いつまでも幸せになると言われています」



「うわあっ ! 素敵な伝説ですね」


みどりが感激して声を上げた。


「ねえ、啓介さん、そこへ行きたくなっちゃった」


「えっ ? 阿寒湖へ ? 」


「そうよ。連れてって」


「う、うん。そうだね。行こうか。いつがいいかな」


「来月の中旬か下旬、ゴールデンウイークの後がいいわね。連休中は何もかも高いから」


「じゃあ調べてみようか。旅行サイトで」


二人はスマホを取り出して調べ出した。




マスターは、BGMを映画音楽に変え、外に出ると、ドアに掛けた準備中の札を営業中に掛け替えた。



ー了ー





お題【マリモ】【三つ葉】【体育館】


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春の香り 朝星青大 @asahosi

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