第5話 死にました

「ようこそいらっしゃいましたー!」


「……は?」


 部屋着であるジャージのままだった。それまではいい。記憶にあるのは、テーブルの上に広げたルーズリーフにボールペンを走らせていたところまで。


 次の記憶は、ここだ。真っ白な空間に、二人きり。見渡す限りの白で、壁に囲われているのか先が果てしないのか分からない。目が錯覚する程の白。目の前には、身長百五十センチ程の小柄な女性。青くて長い髪の毛で黒のスーツ姿。下がスラックスだったので生足が見えないのが少し残念だ。


「あ、あの——」


「分かります! 言いたい事聞きたい事沢山ありますよね!? でも、全部面倒なんで詳しくはこの紙に目を通しておいて下さーい!」


 言葉を遮られて捲し立てられる。早口の間も絶やす事のない笑顔を女性は向けてくるけれど、逆にそれが怖く見えた。


「は、はあ……」

 

 自己紹介もまだである女性に手渡された紙は、随分と枚数がある。大学に入学した時に渡された授業説明のレジュメとは大違いだ。百枚くらいあるだろうか。


「それじゃあ、自宅待機になるんで、行ってらっしゃーい!」


 間髪入れずに、女性が叫ぶ。瞬間、視界が歪んで白から黒へ。ブラックアウトしたかと思えば、今度は先程まで俺の居た自室に戻って来ていた。俺は声を上げる暇もなく、帰って来た?


 驚天動地においてやたら冷静なのは、リラリの存在があるのであろう。見慣れた自室に腰を下ろして先程までの光景を反芻する。理解は出来ないけれど、納得はする。なにかそういうものなのだろう。


 茫然としながらも、手渡された紙をテーブルに放り出す。今は多分読む気にならない。元より、文章に目を通すのは苦手だ。


 窓の外は暗い。俺は立ち上がってカーテンを閉めると、布団に身を投げる。今日は色々あり過ぎだ、脳みそが痛い。


 目を瞑ればすぐにでも眠れそうだ。シャワーを浴びるのも今は億劫。そんな事を考えている内にまどろんで、俺は眠りについた。



 ■■■■■■



 睡眠の終わりは、強い衝撃だった。


「痛い!」


 思わず声を上げて跳ね起きる。頭部への鈍痛は寝起きのそれではなく、外部からの打撃によるものであるのは明白だった。

 眠気覚ましには最適だけれど、寝起きとしては最悪。俺は目を擦りながら顔を上げると、正に鬼の形相をしたリラリが立っていた。


 昨日と変わらないスーツ姿。違いがあれば、言い争いの最中にすら見せなかった表情をしている。それが喜怒哀楽の二番目である事は誰の目にも明白。ここには俺の目しかないけれど。


「お、おはようリラリ」


 挨拶でお茶を濁そうとしてみたが、帰って来たのは挨拶ではなく中段蹴り。仰向けから上半身を起こした人間に対して放つ技ではない。もっとも、それが殺傷を目的としているのなら最適解だけれど。


「いってー! なにすんだ!?」


「一語一句残さずこっちの台詞! 本当に痛いしなにしてるの!?」 


 頭を抱える俺に掴み掛らんばかりの勢いで怒鳴り散らすリラリ。怖い、怖過ぎる。


「なにって、自分の家で寝ててなにが悪いんだよ!?」


「そうじゃない! あなたなに勝手に死んでるの!? 約束が違うでしょ!」


「別に死ぬ約束はしてない! 勝手に決めつけ……は? なに、死んだ?」


 リラリの放ったそれに、言葉を失う。


「私言ったよね? あなたを第三十八回のドラフト会議で一位指名するって! でも、昨日までに死んだ魂は第三十七回、今回のドラフト会議での転生対象になってしまう。そこで指名しなければ強制的に元の世界で転生する。だから、死ぬなら今日からにしてって……それを、なにを早まったのか……三十七回の指名は既に決めてる。私の計画がある。それが今全部崩れました! ボサボサ頭のくそ馬鹿アホ眼鏡の所為で!!」


「ま、待ってくれよ!」


 昨日までなら、その罵詈雑言に嫌味を返すところではあるが、今はそんな気にならない。


 それよりも、大事な事がある。


「俺が死んだって……どういう事だよ!? 俺はただ寝てただけだぞ!」


「最終チェックに死亡者リストを眺めてたら偶々あなたの名前が流れて来てこっちは心臓飛び出るかと……ここに来る前にトゥラウトゥに会わなかった?」


「トゥ……トゥラウトゥ?」


「青い髪のチビ女。笑顔が張り付いた気持ち悪い顔した奴」


 随分な言い様だ。口が悪いどころの騒ぎではない。口が悪魔。


「会ったけど。その紙貰った」


 言いながら、俺はテーブルの上に置かれた紙の束を指差す。昨日、そのトゥラウトゥに貰った物だ。


「こんなの必要ない!!」


 リラリは叫ぶと、紙の束を手に取りぐしゃぐしゃに丸めた。厚みのあったそれは、対してまとまりはしなかったけれど。


「あれは死亡者受付。そこから死亡した魂は転送されるようになってる。ここは魂の待機場所。大体生前の自宅が再現される」


 立ち上がり、窓へと向かう。昨日閉めたカーテンを開くと、目の前にはいつもと変わらない景色。朝の街並み。


「なにも変わらないじゃん」


「あくまで景色を再現しているだけ。そこの玄関、どこにも繋がってないし出られない様になってるから。ここで魂は指名まで待機。暇は適当に潰してて!! ああ、もう! 全部狂った! 計画は破綻した! 馬鹿! 馬鹿! 馬鹿! なんで死んだの!!??」


「だから、死んでないって! 俺は昨日の出来事をルーズリーフにまとめてたんだよ……そしたら、いきなりその……トゥラウトゥ? さんだかのところに飛ばされて……」


「急病か……? 死因は後で調べられるけど、今はその時間すら惜しいし必要がない。死んだ時のショックで記憶が飛ぶのは珍しい話じゃないから、ここであなたと話している時間はもう無駄だ! 私はこれから今回のドラフトの対策を考える! あなたは無能で馬鹿でボサボサくそドジ人の話を聞かないマン眼鏡だけれど、獲得しない訳にはいかない! あーーー!! もう! 天才秀才美麗端麗な私の完っっっ璧な計画が砂塵の如く! 絶っっっっっっっっ対許さないからね! 指名当日までここで大人しくしてなさい!! 馬鹿!」


 罵詈雑言がもはやまともな形を成していない。口汚く俺を罵ると、リラリは玄関から飛び出し、怒りの限りを込めて扉を閉めた。お隣さんに苦情を貰いそうな程大きな音がした。


 と、思いきや、乱暴に扉が再度開き、リラリが顔を覗かせる。


「万が一誰かがあなたに接触して来ても、私と会った事は話さないで! それがお互いの為! 絶対だからね! その約束くらい守って!」


 それだけ捨て台詞の如く吐き捨て、また大きな音を立てて扉を閉めた。


 嵐が去った。


 未だに俺に死の実感はなく、あるのはリラリに蹴り飛ばされた鈍痛だけだ。


 俺が死んだ? そんな馬鹿な。繰り返される超常的な現象に、リラリが神である事は信じても良い。けれど、俺が死んでいる訳がない。その記憶がない。


 しかし、夢と呼ぶにはこの痛みはあまりに痛烈だ。俺は、リラリの言葉を思い出して、玄関へと向かう。


 その足取りは重くはない。大した緊張もない。そのまま玄関の扉に手をかけて、押す。扉はなんの問題もなく開き、先に見えるのはアパートの廊下。


 事件は、そこに踏み出した瞬間だ。


 外に出る用のサンダルで踏み出した足は、自宅と廊下の境界線で止まる。正確には、なにかに当たった。透明な壁にぶち当たっている。


「なっ!」


 見えない壁にそって手をなぞる。確かに、そこには境界が存在し、俺の行く手を阻んでいた。


 つまりそれは、リラリの言葉を肯定する。


 ここは魂の待機場所。死亡した魂が留まる場所。


 故に、結論が出る。俺は、死んだ。


 リラリの言っていた事は本当? 俺は死んだ? 死んだのか?


 そんな事をぐるぐる思考するが、間髪入れずにインターホンが鳴った。そこで、リラリは勝手に家に入って来たんだな、と思ったけれど、あの女にはそれを指摘しても無駄そうだ。


 俺は混乱したまま玄関へ。


 リラリが忘れ物でもしたのだろうか。しかし、それならまた勝手に部屋に入って来る筈だ。


 そんな事を考えながら扉を開けた。


「あ、こ、こんにちは!」


 声のボリュームを間違えた様な明朗な大声。扉を開けて立っていたのは、ピシッと着こなした黒いスーツ。リラリのそれとは違い、ワイシャツのボタンは首元まで留まっている。スカートから覗く白い足に一度目線を落としてから顔を見る。黒く長い髪の毛の間から、大人しそうな可愛らしい顔が覗いていた。


「あー……えーっと、どちら様ですか?」


 大凡人間ではない事は分かるが、俺は一応尋ねる。


 大人しそうな女性は、一度咳払いをしてから答える。


「こほん……私は、湯巳流ゆみるかみ。ユミルとお呼び下さい。今日は、江川真澄さんにご挨拶をと思いまして。私の世界を救う為に、私の世界に転生して下さい」


 言って、ユミルと名乗る女性は深々と頭を下げた。


 邂逅は、リラリのそれとは百八十度違うものだった。

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