智也のサドル

万里

智也のサドル

 智也さとやは焦茶色の引き戸を開け放つと玄関に黒いランドセルを投げ捨てる。そして、引き戸を勢いよく閉めると住居の隣にある車庫の前に立つ。灰色のシャッターを両手で持ち上げようとするが、古くて簡単には持ち上がらない。やっとの事でそれを持ち上げると車庫の中へ入り込む。


 薄暗い車庫の中には埃が被ったメタリックブルーの自転車が置かれていた。彼は手の平でサドルの埃を拭き取ると手を擦り合わせて手に付いた埃を払う。

 暫く自転車には乗っていなかったためタイヤの空気が少し減っていた。タイヤを指で軽く押すとそれは分かった。車庫の隅に置かれている空気入れを取りに行く。


 久しく使用されていなかった空気入れも埃を被っていた。それを持って来ると前輪タイヤの前にしゃがみ込む。タイヤに付いているバルブのキャップを外すとタイヤの空気が抜ける音がした。急いでトンボ口をバルブに装着する。音が止まった。

 立ち上がり、空気入れの黒いハンドルを両手で握ると何度かそれを上下させる。再びしゃがみ込みとタイヤを右の親指で押し、空気圧を確かめた。同じようにして後輪タイヤに空気を入れる。それが終わると空気入れを元の位置に戻す。


 智也は自転車のキックスタンドを蹴り上げる。サドルに座るとコンクリートの床を蹴り出す。ペダルを漕ぎ、アスファルトの道をゆっくり進み出す。道路の両脇には民家が軒を連ねる。海が近いので潮風が吹いている。


 一・五車線の直線道路の突き当たりを左に曲がると集合場所である黒い屋根の公民館に辿り着いた。左手で後輪のブレーキを掛けると公民館の前で自転車は停まった。


 もう既に数人の自転車に乗った子供達がそこに集合していた。島にあるたった一つの小学校の児童達だ。智也もその小学校の児童で、五年生である。子供達は自転車に跨ったまま話し込んでいる。何を話しているのかと思えば漫画やアニメの話だった。智也は彼等に挨拶をすると話の輪に加わる。離島とはいえ、テレビは本土と同じように視聴出来るし、他の地域よりも発売日が遅いものの漫画雑誌も売られている。


 待っていると次第に子供の数は増え、総勢十二人となった。上は小学六年生、下は小学一年生。男子が多いが女子の姿もある。

 十二人が輪を作るようにして立ち、じゃんけんをした。大人数でやるとなかなか勝負は決まらない。十回以上やった後にようやく勝負は着いた。負けたのは四年生の男の子。

 彼以外は自転車に跨がり、各々好きな方へ走り出す。四年生の男の子はその場に留まり、数字を一から数え始める。


 智也は来た道を立ち漕ぎで引き返す。車通りは皆無だ。それをいい事に智也達は自転車で道路を占有する。こちらの方には四人が来たようだ。車通りが少なく、信号が一つも無いこの島は鬼ごっこには格好の場所だった。


 智也は立ち漕ぎを止め、左手で少しブレーキを掛ける。自宅の前を通り過ぎて二軒隣の八百屋の角を曲がる。店内には所狭しと野菜が並んでいる。この八百屋は母親によくお遣いを頼まれて来る場所だ。店主のおじさんが元気に遊ぶ智也達の姿を見て思わず微笑んでいた。


 角を曲がると緩やかな下り坂が続く。ペダルを漕がなくても車輪の回転速度が上がる。心地良い風が吹いてきて彼が着ていた黒いTシャツの裾がはためく。そして、潮の臭いが強くなる。

 どうやら八百屋の角で曲がったのは智也だけのようだった。後ろに振り返ると彼の後に続く者は誰も居なかった。道路の向こうには青々とした海が広がっている。そして日の光に照らされて白く光っている。

 そろそろ鬼も動き出した頃だ。そう思い、自転車を加速させた。


 丁字路の突き当たりを右に曲がる。目の前に広がっていた海が今度は左手に来る。潮の満ち引きに合わせて、幾つもの小さな漁船が上下に動いている。漁船の向こう側には木製の桟橋が見えた。連絡船用の桟橋である。今は連絡船の姿は無い。船は十分ほど前に出発していた。


 桟橋を通り過ぎると港で三匹の猫が日光浴をしていた。雄の黒猫と雌の三毛猫が気持ち良さそうに寝転がっている。二匹の間で小さな子猫も寝そべっている。この三匹は智也が可愛がっている野良猫だった。


 野良猫達と別れると今度はクリームイエローの砂浜が視界に飛び込んで来る。夏はよく海水浴をしている場所だ。今は海水浴シーズンが到来していないので人気は全く無い。


 ふと後方を向くと十数メートル後ろで三年生の男子が前傾姿勢で自転車の立ち漕ぎをしていた。あの様子だと恐らく彼が鬼なのだろう。智也はそう予想する。彼はハンドルを右へ切り、右折する。そして浜辺に別れを告げた。


 今度は島の中央にある緑の山がよく見える。この時期は特に木々が生き生きとしている。智也は立ち漕ぎになり、前へ進む。上り坂のため立ち漕ぎしなければ進めない。道の両脇には寄棟屋根の和風住宅や切妻屋根の洋風住宅が入り交じっている。

 十字路に差し掛かる前に顔を一瞬後ろに向ける。鬼の姿はまだ無い。智也は鬼に見付かる前に交差点を左に曲がった。まだ油断は出来ない。行方を眩ます為に更に道を曲がる。


 道を曲がるとサドルに座り、ペダルを漕ぐ事をやめてゆっくりブレーキを握る。車体が停止すると智也は地面に足を着けた。肩で息をしていて、喉の乾きを覚えた。上半身から発汗している。身体に熱が帯びていた。幸い昼に比べて気温は下がってきているので、昼間に自転車で走るよりは暑くない。少し休めば暑さも感じなくなるだろうと思い、智也は休憩しながら鬼をやり過ごす事にした。


 彼は、ふと緩やかな下り坂の向こうにある海を眺めた。この島からは本土の街並みも眺望する事が出来る。島から本土までは三百メートルも離れていない。本土には十分ほど連絡船に乗れば着く。そして一日に何度も船は行き来する。運賃は電車やバスに比べて高いが連絡船は島民にとっては本土に行くための足となっている。智也もたまにこの船に乗って本土に遊びに行くことがある。同級生を誘って今度の土曜日か日曜日にまた遊びに行こうかと彼は思った。


 暫く休んでいると自転車のブレーキ音が智也の耳に届いた。彼はペダルに右足を乗せ、辺りを見渡すと耳を澄ませる。鼓動が高鳴っていた。鬼かどうかは分からないが、誰かが近くを走っていることには確信が持てる。

 絶えず周りを確認しているとタイヤが回転する音と共に背の高い少年が智也の前方に現れた。彼は学校の中でも運動神経が優れている小学六年生だ。年上だが、それを理由に負けたくない。

「もしかして鬼?」

 相手に向かって叫んでみた。智也は返事を聞く前に方向転換をする。少年は無言で上り坂を漕ぎ続ける。智也は背後から返事が無いことから彼が鬼だと理解した。


 智也は十字路を左へ曲がる。道を曲がってすぐの交差点で自転車に乗ったショートカットの少女の後ろ姿があった。智也と同じ五年生の里香子りかこだ。お転婆で身体を動かすことが好きな少女だ。智也の家の近所に住んでいて彼とは仲が良かった。彼女とはよく鬼ごっこや缶けりをやっている。


「里香子! 鬼が来てる!」

 智也の呼び掛けに反応して里香子が一瞬振り向いた。もう一度前を向くと立ち漕ぎを始める。智也が里香子に追い付き、二人は横並びで走る。

 里香子の自転車に付いている籠には薄紅色のパーカーが丸めて入れられていた。最初は着ていたが、暑くなり脱いだようだ。

 今度は智也が顔を後ろに向けた。追っ手との距離を把握したかった。

「鬼来てる?」

 里香子は正面を向いたまま智也に話し掛ける。智也は顔を前に戻す。

「来てる。距離が縮まってるよ」

 二人はペダルを踏み込む。

 智也のハンドルを握る手が汗ばんでいた。

「智也、どうするの?」

 里香子の声は先程より少し不安そうだ。

「こっちに来て」

 智也は誘導するように里香子より少し前に出た。そして、交差点を左折したかと思うとすぐに道路を横断する。交差点に面している民家とその左隣の民家の間にある細い隙間に入って行く。里香子もその後を追う。


 道は狭く自転車が一台通るのに精一杯の幅だ。二つのコンクリートの壁に挟まれたこの道は光が遮られ薄暗い。地面の土は湿っぽい。そして時々石が落ちていて自転車がその上を通ると振動を感じる。

「こんな道、通るのは初めて」

 里香子は周りを見渡しながらゆっくり自転車を漕ぐ。彼女の息は少し切れていた。

「俺もこの道を見付けたのは最近だよ」

 智也は道を半分ほど進んだ所でブレーキを握った。自分も呼吸が荒くなっている事に気付く。

「暫くここでやり過ごそう」

 智也が後ろに振り返ると里香子が首を縦に振っている姿が彼の目に映った。


 上手くいくかは分からない。鬼にこの道を知られているかもしれない。細い道に張り詰めた空気が漂う。二人とも無言だ。お互い周りの様子を確かめたり、顔を見合わせたりしている。


 二人が息を潜めていると細い道の入口から鬼の横切る姿が一瞬見えた。鬼は二人の方へ見向きもせず、そのまま過ぎ去る。

「私達に気付かなかったみたいだね」

 里香子は安堵の表情を浮かべていた。

「鬼も行った事だし、俺は別の場所に行こうと思う」

「私も違う所に行こうかな」

 智也は右足をペダルに乗せ、左足で地面を蹴った。里香子もその後に続く。狭い道の出口に近付くと智也は里香子に手を振った。里香子も笑って手を振る。ここでお別れだ。


 智也と里香子は別々の方向に走り出す。一人で走っているせいか車輪が回転する音が小さく感じられた。少し寂しさを感じる。彼は丘の上にある小さな公園を目指し、平坦な道をゆっくり走る。空は少しだけ橙色に染まっていた。


 右手に島の小学校が見えてきた。二階建ての小さな象牙色の校舎が夕日に照らされている。そのせいで少し橙色に見える。職員室だけ灯りが点いていた。

 校庭には赤いペンキで塗られたブランコがある。ペンキは少し剥げていた。その隣には黄色のシーソーや青い鉄棒があった。


 校庭の隅にある緑の金網の中でウサギやチャボが飼育されている。

 先日、チャボの雛が生まれた。今までウサギにしか興味を示さなかった女子が手の平を返すようにチャボの方に集まっている様子を最近見掛ける。そして金網に張り付くようにしてチャボを眺めているのだ。


 いつも飼育小屋の側に生えているクローバーを食べさせてくれる女子がチャボに夢中であるためウサギ達はどこか寂しそうにしていた。実際どうなのかは分からないが智也にはそう見えた。何度か彼が代わりにクローバーを食べさせてやったことがある。金網の隙間から束にしたクローバーを差し出すとウサギが次々と彼の元へ駆けて来る。猫を可愛がる時のようにウサギを可愛がった。何日か続けているとクローバーを持っていなくてもウサギは彼に寄って来るようになってしまったことを彼は思い出す。


 小学校を通り越すと今度は公園のある丘が見えてくる。公園に辿り着くためには勾配が急な坂を上らなくてはならない。立ち漕ぎをして勢いを付け、その勢いのまま坂を上っていく。

 しかし勢いは坂の中腹で途絶える。自分の漕ぐ力だけで進まなければならない。公園までの道のりが長く感じられる。自転車はゆっくりと前進する。だんだん息が切れてくる。頂上までもう少しの所まで来た。智也は最後の力を振り絞る。遂に坂を上り切った。智也は達成感を一杯だった。


 丘の上の公園は人気が無く静かだ。誰かが作った砂山が残されたままの砂場。木製の遊具。鎖が錆びているブランコ。智也より幼い子供がたまにここで遊んでいる。もう帰ってしまったのか今は智也以外誰も居ない。

 彼も昔、ここでよく遊んでいた。遊び相手は専ら里香子だった。彼女とは鬼ごっこやかくれんぼをよくやっていた。

 智也は丘の上に設置されている木の柵に近付く。丘からは島が見下ろせる。自転車を走らせている小学生の姿が目に映る。下で走り回っている人に智也は気付かれていないようだ。

 このまま日が暮れるまでここに居れば鬼にならずに済むのではないかと智也は考えた。彼は夕日に染まった島を眺めながら時が流れるのを待った。


 静寂に包まれた公園に突如、物と物が擦れ合う音が響いた。自転車のブレーキ音だ。智也は音がした方へ思わず顔を向ける。そこに居たのは里香子だ。

「智也は鬼じゃないよね?」

 里香子に疑いの眼差しを向けられた智也は首を何度も横に振った。

「そんな訳無いよ! 鬼ならこんな所でサボってないよ! そっちこそ鬼じゃないよね?」

 智也は自転車に跨がったまま身構える。鬼ごっこでお決まりの疑い合いだ。

「鬼じゃないよ」

 里香子は自転車をゆっくり漕ぎながら智也に近寄る。そして智也の横に停車する。

 智也は彼女をじっと見詰めた。彼女が鬼ならばいつでも彼にタッチ出来る距離だ。もしタッチされそうになったなら逃げなければならない。

 しかし彼女はそんなことをせずただ遠くの方を見詰めていた。島を見ているのか、海を見ているのか、空を見ているのかは分からない。里香子の頬は橙色に染まっていた。


 二人は暫く無言で同じ方向を見詰めた。今、鬼ごっこの最中であることを忘れてしまいそうだ。

「え、えーと、夕日が綺麗だね」

 智也は気不味くなり思い付いた言葉を発した。里香子は智也のぎこちない喋りに思わず吹き出してしまった。智也も苦笑した。


 もうすぐ鬼ごっこも終わりだ。空が橙色から少しずつ紫や藍色に変わっていく。

「今日も楽しかった」

 里香子の笑顔を見て智也は、またいつか自転車で鬼ごっこをやりたくなった。

「俺も楽しかったよ。明日は缶けりをやるんだっけ?」

「そうだよ。雨が降ったら中止だけどね。明日も来るよね?」

「勿論行くよ」

 智也はもう既に明日のことを考え始めていた。


 空から橙色が殆ど消え、藍色の空に星が一つ輝いていた。

「今日はもう帰ろうか。鬼ごっこも、もう終わりだし」

 智也はハンドルを握り、ペダルに右足を乗せた。里香子は無言で首を縦に振る。二人は自転車の向きを変え、公園の出口へ向かおうとした。


 その時、里香子が右手で智也の左肩を軽く叩いた。里香子は地面を蹴り、自転車を走らせた。智也はなぜ左肩を叩かれたのか理解出来ずにいた。

「智也の鬼!」

 里香子は一瞬振り返る。

「おい! 待て!」

 智也は地面を強く蹴るとペダルを力一杯漕ぎ出した。里香子を目掛けて突き進む。

 彼らの鬼ごっこはまだ終わりそうになかった。




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