月に還れよかぐや姫

隠し子ですか


神崎律は舌打ちをした。

今日の分の電話に誰も出なかったからだ。机に頬杖をついて、事務所の電話を三度爪で叩いた。その隣の机では同期の宮武が大きく欠伸をする。それを上司の能見が睨んだときだった。


「うーす」


事務所の扉が開けられた。現れた男に、能見の怒りのボルテージは最頂点に達した。神崎は先に耳を塞ぐ。


「てめえ今何時だと思ってんだ! 次遅刻したらクビだっつったろうが!」


ばりばりと事務所の壁が振動している気がした。築何年だったか、神崎は少し考える。宮武がハッと起きて扉の方を見た。遅刻常習犯の矢田だ。


「理由があんすよ! ほらこの子!」


能見の剣幕に気圧されて、扉に半分身を隠して弁解をする。神崎は耳から手を離してその向こうに視線を移した。「ああ!?」と未だ凄む能見も、一度口を閉じる。

ビクビクとしながらその注目を集めていたのは、小さな女児だった。ランドセルは背負っていなかったが、小学生低学年であることは予想できる。ぽかんと口を開けたのは宮武だけではなかった。


「事務所に子供連れてくるたあ良い度胸だ……」

「いや俺の子供じゃねーんですよ、下に立ってて、聞いたらママに会いに来たって!」

「……ママ?」


宮武が少し考えてから、神崎の方を見た。

次に注目を受けたのは神崎だった。


「マジか」

「神崎、お前」

「だから連れて来たんすよ!」


その衝撃に能見の頭は持っていかれそうになるが、矢田の遅刻とそれとは全く関係のないものである。遅刻は遅刻だ。


「寝言は寝て言え」

「えっ」

「お前どこの女児拐かしてきたんだよ。遅刻の言い訳に誘拐か」


神崎の暴言に目を丸くする矢田。宮武も神崎の静かな怒りに直視できないでいた。怒るのは珍しいことではないが、熱くなるより冷たくなる怒りなので、周りはヒヤヒヤとさせられる。

話の中心となっている女児はワンピースの裾を掴んで震えている。階段の方から足音が聞こえた。この革靴は倉木のものだと誰もが知っているが、事務所の空気に夢中で誰も気付かない。倉木は扉で矢田が突っ立っているのを見て、また遅刻かと呆れる。


「……え、誰?」


上司である倉木の声に神崎は舌打ちをして溜息を吐いた。能見は「矢田が誘拐したか、迷子のどちらかだ」と説明する。その両極端の選択に苦笑して、通り過ぎ事務所に入った。能見の机に書類を提出してから神崎の前の机に座る。

硬直した事態に、能見は手を払った。


「もう良いからお前は交番に子供連れていけ」

「俺がっすか!?」

「おめーが連れてきたんだろうが」

「この前職質かけられたんすよ。特定されたら……」

「神崎が行ってくれば良いじゃん。カタギに見えるし」


倉木の提案に神崎は睨んだ。その機嫌の悪さに「なんかあったの?」と宮武に尋ねる。「あの子、母親に会いに来たらしいんですけど、神崎さんではないらしいっていう件がありました」と簡潔に答えた。倉木がそれに肩を震わせて笑ったのを見て、神崎は更に睨みつける。


「神崎、お前行ってこい。そのまま直帰して良い」

「ええ!? それなら俺が!」

「おめーはここに残れ。話すことが山ほどある」

「行ってきまーす」


事務所の壁が少し心配ではあったが、神崎は怒号を聞くよりはマシだと踏んで素早く立ち上がった。しかも直帰つきだ。棚ぼたとはまさにこのこと。

書類を机にぶち込み、鍵をかけてジャケットのポケットに入れた。事務所の電話を宮武の方へ向けてから「電話よろしく」と短く言って携帯を持ち、扉の方へ向かう。


「ま、ママに会いに来たんです」


女児が再度口を開く。その震えた声に事務所の連中の視線が集まった。先程も同じことを聞いたから知っている。


「ここにはいない。オマワリさんのところに行って捜してもらえ」

「ママに会いに来たんです!」

「は?」

「ママが……」


ぼろぼろと泣き始める。なんだ、生理中の女かよ。と神崎はその情緒不安定さにぎょっとする。いや、この歳でそれは無いかと冷静に判断する自分もいた。

泣き始めた女児に矢田はおろおろしながら遠退いた。厄介なのを連れ込んで来たな、と神崎は溜息を吐いた。


「まあ一旦座ったら」


倉木がのんびりと言った。指した応接用のソファーに神崎と女児が座る。どっかの店で買ったらしい唯一の高級革のソファー。嗚咽する女児にティッシュとお茶請けとして今日は欠勤の関が買い置きしておいたクッキーを出した。倉木がどこかからチョコレートも出した。


「名前は?」

「……ささ、きも、も」

「名前に三文字しか音がないって不思議な名前だな」


倉木が立ったまま感想を漏らす。コーヒーを飲むためにこちらに来たらしい。パーテーションで遮られた向こうでは矢田が比較的小さめの声で能見に話をしている。

この事務所で一番まともなのは倉木だ。それは学歴及び家柄を含めて。矢田は一ヶ月程前に入ってきた新人だったが、遅刻癖が酷く毎度のように叱られている。能見もよくここまで耐えてきたと神崎は感心すらしてしまう。自分なら疾うの昔にきっているだろう。


「じゃあ母親の名前は? ママの名前」

「ママ……」

「分かんないのか」

「りつって、ひと」


ティッシュにもクッキーにもチョコレートにも手を伸ばさなかった笹木桃は真っ直ぐに神崎を見た。背もたれに背中を預けていた神崎は顔を顰める。


「はあ?」

「神崎、どこの女に孕ませたの?」

「こっちが聞きたいですよ」

「まあ、そんなことが出来たら神崎なら何人子供居ても可笑しくないな」

「セクハラで訴えますよ」

「俺は暗にモテるって言いたかっただけ」

「ここにお前のママはいないよ。交番に行けばママ捜しを手伝ってくれる」


手を引いた。桃は大人しく立ち上がる。倉木はその手にチョコレートとクッキーを持たせた。「お土産。ママに会えると良いな」と言葉をかけながら。

それを見ていると、どうしてこの人はここにいるのかと疑問を感じる。こちら側で過ごす誰もが、あちら側では生きていけなかった人間だ。生きにくかった、生きられなかった、追い出された人間の巣窟。その中で倉木は異彩を放っている気がする。まあ、その仕草を見ればホスト上がりかと予想する人間の方が多いだろう。あれは根っからの紳士だ。

能見に挨拶をして事務所を出た。エレベーターのボタンを押して待っていると、桃がその手をぎゅっと握った。


「りつさん……ママが居なくなっちゃった」


その声はやはり震えていて、か弱い。

どこかで見たことがあった。

その声の出し方や、何かをぎゅっと掴む癖。


エレベーターが来て、扉が開いた。





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