第一章・八月三十日

第一章・その1

『間もなく名古屋、名古屋です』

 東海道新幹線のぞみ・東京発博多行きの車内。自動音声によるアナウンスが流れ、所々で席から立ち上がる乗客が出てくる。その中の一人の少年、十七歳の加藤翼が呟く。

「偉大なる田舎とは、よく言ったものだなあ」

 防音壁越しに微かに見えるのは、住宅街。緑地帯らしきものも見える。東京育ちでかつ、首都圏を出ることも数えるほどだった翼にとって、東京のような大都会というイメージは当てはまらなかった。

 商社勤めの母が海外に単身赴任、国家公務員の父も仕事が忙しくなって日本中を飛び回ることになる。それならば親戚のいる名古屋で独り暮らししないか。そんな提案に、独り暮らしに憧れていた翼は飛びついた。そしてたまたま空きがあった、名古屋でも有数の進学校である公立高校の編入試験を受け、無事合格。明後日、九月一日からは新たな学校で高二の二学期を迎える。予定通り、全てが動いているはずだった。

 大きな荷物はすでに送ってあるため、小さめのカバンだけを持って翼は乗降口の方へ向かう。ゆっくりと新幹線は減速、着実に名古屋駅へと近付いていく。

 JR名古屋駅十六番線・新大阪方面ホーム。ツインタワーがそびえる名古屋駅の一番西、大型電気量販店や大手予備校、歓楽街のある椿町が望める位置にある。再開発により超高層ビルが立ち並ぶ桜通口(東口)とは反対側にあり、どちらかといえば落ち着いた印象を持つ街。その線路に、流線形の十六両編成が滑り込む。

 緩やかに制動をかけ、列車は止まる。ホームドアが開いた後、空気圧により固定された片開きのドアが少し内側へと凹み、戸袋へと収納された。それと同時にスーツケースを抱えた女性や手ぶらの男性など、老若男女、様々な人々が名古屋の地を踏む。翼も例外ではない。流れにのまれつつ、改札の方へ翼は向かう。

 乗車券と指定席特急券の二枚の切符を改札機に通し出ると、翼はその意外な光景に思わず立ち尽くす。多くの人々が縦横無尽に行き交う、広大なコンコース。柱にはデジタルサイネージの広告。銀色の時計の周りでもたくさんの人々が時計を気にしつつ、待ち合わせのためか立っている。第一印象で「田舎」と決めつけていた翼にとっては、予想外だった。

(と、とりあえず、次は地下鉄に乗るんだから、地下に降りればいいんだよな……)

 翼の目に映ったのは、駅本体とは扉一つ隔てた地下街への出入り口。エスカレータも設けられた、大きな出入り口である。ここなら地下鉄にも直接つながっているだろう、そう翼は思ったのだった。しかしその判断は合理的に見えて、実は通用しない。翼が乗ろうとしている地下鉄桜通線の改札は、翼の向かう方向とは逆側にあるのだから。

 名古屋駅太閤通口地下に広がる地下街へ、翼は降りていく。


   * * *


 翼は地下街の中で迷い、途方に暮れていた。近くに見えるのは、豚が相撲取りに扮した立体造形が施された看板。名古屋で一番有名な味噌かつ専門店のそれである。

「あなたが、加藤翼くんね?」

 そこに、後ろから声をかけてくる少女がいた。翼は驚いて振り返る。知り合いか、と翼は思うが知った顔ではない。

 肩のラインで切り揃えられた、流れるような黒髪。白のセーラー服と紺色のスカート。じっと見つめる、二つの瞳。知らない美少女だ、と翼は改めて思う。

「……君は誰?」

 相手に心当たりがないのだから、当然の反応だった。

「セーラ。海部、セーラよ」

 少女は名乗るが、それでも覚えはない。

「そうね、私が一方的に知ってるだけだから、心当たりもあるはずないわ。でもね、私は知ってる、あなたが加藤克巳氏のご子息だって。あなたがここに来た、本当の理由もよ」

「……どういうこと?」

 翼は余計、訳が解らない。確かに父親の名前は克巳という。しかし、何故そのことを知っているのか。何故、自分が彼の息子だと知っているのか。気味が悪い、何かに取り憑かれているのではないか。そうとまで思った。

「とりあえず、私に付いてきてよ。迷ってるんでしょ?」

 しかし道案内してくれるのはありがたい。そう自分を誤魔化して、付いて行くことにした。

 少女はスタスタと、迷いなく地下街を歩いていく。

「えっと、地下鉄に乗りたいんだけど」

「知ってるわ。でもそのまま行くと危ないのよ。一旦、撒かなきゃ」

「まく、って何を」

「後で説明してあげるわ」

 翼には理解が追いつかない。何故、行き先を知っているのか。何をしようとしているのか。何処へ行こうとしているのか。

 階段を上り、地上へ出る。信号を渡り、右手にある青い看板を掲げた店舗へ少女は入っていった。翼も理由がわからないまま中に入る。

 店へ入ると、翼はその店内に圧倒された。本棚が林立しているあたりは普通の書店にも見えるが、あちらこちらに映像のディスプレイが設置され、アニメ映像が流されている。そしてその音声と店内に流されているBGM、加えて話し声で混沌を極めた空間。ここはいわゆるアニメショップ、しかもとある大手チェーンのそれだった。

 少女は迷うことなく階段を上がり、二階のグッズコーナーの一角で足を止める。

「ここなら、他の人に話を聞かれるような心配はない」

 これだけうるさいのだから、声は通らないだろうな。翼は納得した。

「聞かれたとしても、中二病をこじらせたと思われるのがオチだし」

「チュウニビョウ?」

「ごめん、関係ない話」

少女は、日本刀を持つ赤い髪の女の子が描かれたアニメ調イラストのクリアファイルを手に取る。

「あなたは、NPAって知ってるかしら」

「……それは、暗号か何か?」

「あら、あなたなら警察庁とか答えてもおかしくなかったのだけど。何も、父親から教えてもらっていないのね」

 一体何を言っているのか。父親とどういう関係があるのか。翼には全く理解できない。

「そうね、一つは警察庁の英略称。警察組織の総本山よ」

 少女は、クリアファイルを見つめつつ、言う。

「でもね、アメリカにもNPAという組織がある。日本語に直せば国家平和計画局とでもいうのかしら。世界平和に貢献するようなイメージを受けるかもしれないけど実態は違う。アメリカが常にトップであり続けるために、秘密裏に活動する政府組織よ」

「それと、何の関係が」

「私を狙っているのが、そのNPAよ」

 彼女は一体何を。妄想の世界に捉われているのか。翼にはそうとしか思えない。

「日本国政府の内閣情報局も私をマークし始めている。その要員の一人よ、あなたは」

「……僕?」

 少女は、翼を見て言う。

「内閣情報局特別調査係・勝見健太郎。本名は、加藤克巳。あなたの父親よね?」

「父は国家公務員だけど……詳しいことまでは」

「偽名を使うくらいだものね、教えている訳はないか」

「しかし、何故僕がその、要員と言えるんだ? 何も教えられてないのに、出来るわけないじゃないか」

 翼は反論を試みる。

「では何故、私の通う星が丘高校をあなたに勧めたのかしら。私立なら編入くらい訳ないのに、なぜ公立校を? どうしてタイミング良く、枠が空いていたのかしら?」

「それは……、確かにそうかも、だけど……」

「……移動するわよ。予想外に早い」

 少女はクリアファイルを元の場所に戻し、翼の手を握る。

「早足で」

 翼は少女に引かれ、歩いていく。

 先ほどの出入り口から再び地下街に入り、途中で右に折れると翼がこの地下街に迷い込んだ、名古屋駅正面のエスカレータへと出る。少女はその右にある通路に入り、ロッカーの並ぶ空間を歩く。

「こんな通路、あったっけ」

 その翼の言葉を無視し、少女は早足で歩き続ける。

 中央コンコース地下街へ入る手前で階段を降り、地下鉄名古屋駅西改札口へ。少女はポケットからマナカを取り出す。

「スイカなりのICカード、持ってる?」

「一応は」

「だったらよかった。切符を買う時間が省けるわ」

 少女は自動改札機にマナカをタッチ、ピッと一回音がして改札が開く。翼も東京で使っていたスイカを機械にかざし、改札を通った。

「向かうのは、久屋大通駅よね」

 何故知っているんだ。翼はこの少女に恐怖さえ覚える。

「ちょっと遠回りするわよ、付いてきてる人間を撒かなきゃならないから」

「もう、何を言われても驚かないよ」

「そう? 解ってもらえてよかった」

 理解はしてないんだけどな、という言葉は翼の心の中だけで呟かれた。

 ホーム階に降りて、赤いラインの入ったステンレス車両に乗る。わざわざ先頭車両まで歩き、七人掛けのシートへ二人は座った。

『本日は市営地下鉄桜通線をご利用いただきまして、ありがとうございます。この電車は久屋大通、今池、御器所方面徳重ゆきです。次は、国際センター、国際センター』

 アナウンスが切れると、翼は少女に話しかける。

「どうして、追われてるんだ?」

「言ったじゃない、NPAに狙われているんだって」

「何故?」

「……私が、特別な存在だからよ」

 少女は、じっとどこかを見つめたまま、言う。

「特別な存在?」

「ええ」

『まもなく、国際センター、国際センター。お出口は右側です』

 ゆっくり、制動をかけ始める電車。

「何を考えているのかしらね。私はただの、情報屋なのに」

「情報屋?」

「何でもは知らないわよ? でも大抵の情報は把握してる」

 クス、と少女は笑う。

「そうね、情報で世界を支配してるか、ある意味では」

 電車は停まり、ドアが開く。

「名古屋で一番危険な──アメリカ領事館の真下で、笑うなんて私はなんて余裕なのかしら。まあ、情報戦で負ける訳はないけれど」

 少女は、さっと髪を撫でた。ぱらぱら、と艶やかな黒髪が零れ落ちる。

「……勝てるのか、国相手に」

「勝つわ、もちろん」

 予告音とともに、ドアが閉まる。

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