金木犀

川島健一

 

 東横線を走る電車は間もなく自由が丘の駅に着く。

 つり革に捉まってぼんやりと外を眺めていた。窓の外に見えるのは、空から垂れ下がった湿って重そうな灰色の雲だ。太陽は分厚い雲に遮られて見えない。朝だというのになんでこうなんだろう? 朝陽を電車の中から見るのが楽しみだったのに。

 わたしは自由が丘で電車を降りた。プラットホームに立つと、湿った空気が鼻の周りにまとわりついて、そのまま肺に流れ込んできた。それがなんとなく嫌な気がした。ふと、起き抜けに鏡を見た時を思い出した。鏡の中のわたしは眉をひそめていた。

 プラットホームいる乗客たちからは生気を感じられない。皆一様に自分の向かう先に歩を進めているだけだ。亡霊のように。

 気分が乗らない日もある。天候に左右されるわけではないが、心が重い。なにが原因なのかと考えるのも煩わしかった。何もかもどうでもいいという思いがふつふつと心の奥底から湧いてくるようだった。

 大井町線は土曜日だというのに意外にも早く来た。朝の時間だからだろうか?

 この電車で二子玉川駅まで行き、更に田園都市線に乗り換えるのだ。行き先は用賀にある施設である。そこでパソコン教室の講師をしている。生徒は決まっておらず、毎回2〜3名だ。いない時は何もすることがない。土曜日だけで午前と午後の各2時間。

 半年前に10年勤めた会社をやめた。程なくして知人がから連絡があり、この講師を紹介された。週一回なので、報酬の方は全く期待していなかった。ただ、家に居るよりは気晴らしになるだろうと請け負ったのだ。生徒さんたちは素直であり、会社員時代と比べてのんびりと人と接する事ができてそれなりに楽しかった。

 電車の乗ってくる人も平日に比べて多くない。座ることも出来るのだが、わたしはつり革に捉まり窓の外を眺めていた。電車で座るのが苦手だった。

 いつも見る汚れた濃紺の看板が間もなく二子玉川駅であることを教えてくれる。

 用賀駅方面に行くにはプラットホームを移らないといけない。少し急ぎ足で階段を降りて、登って用賀駅行きのプラットホームに行く。足の周りに空気がまとわりついて早く歩けなかった。空気が重いのか?

 プラットホームから多摩川の方を眺めると、空から押し下げられた雲が遠くまで続いていた。さっきより雲が押し下げられたように感じた。

 しばらくすると構内アナウンスが流れて、電車が間もなく到着することを知らせてくれた。

 渋谷方面行きの電車も乗客は多くはなかった。ドア近くのつり革に捉まり相変わらず窓の外を眺めていた。

 二子玉川駅を出るとすぐに電車は地下に入っていった。

 窓に自分の顔が映る。どことなく強張った表情の顔。わたしはますます気持ちが重くなった。

 用賀駅では乗客が電車を待っており、わたしが降りるより先に入ってこようとしたスーツの男性と肩がぶつかった。

「あ すみません」という感情のない挨拶をしてその男性は遠ざかっていった。それをわたしはただ眺めていた。

 わたしはまた眉をひそめているのだろうか?

 用賀駅は地下にある。わたしは改札を抜け地上に出る。曇ったままだった。灰色の雲の位置も触れそうなくらい低いままだ。用賀の商店街をさけて目的の施設に向かう。裏の道は住宅街で車もあまり通らず静かだった。離れた所から鳥の鳴き声が聞こえた。

 施設までは歩いて10分程度。暑くもないし、寒くもない。ただ、どんよりした空気が歩くのを妨げるような気がした。

 角を曲がり、あとはまっすぐの道のりだ。

 はじめの十字路近くに来て、ほんのりと甘く鼻腔に残る香りがした。懐かしく感じるのは以前も嗅いだことのある匂いだからか?

 ふと立ち止まり見上げると、鮮やかな黄色の金木犀が目の前にあった。金木犀はそのみずみずしい黄色の花弁から、周囲の湿った空気にたっぷりと自分の香りを移してばらまいてる。

 わたしは金木犀ってこんなに美しい黄色だったのかと見とれていた。強烈な金木犀の香りと、美しい姿に心が奪われたのだ。

 重く灰色がかった雲を背景に活き活きとした花弁を満開にした金木犀。生命力あふれるその香りがわたしの心を穏やかにさせてくれる。わたしはもう一度、ゆっくりと息を吸い込み金木犀の香りを肺に入れた。

 自然と顔の表情が緩んでいるのを感じた。

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