立ち喰い無頼

阿井上夫

立ち喰い無頼

 予算の都合で郊外に自宅を購入したため、通勤に片道二時間かかるようになってしまった。

 朝の八時半には職場に到着する必要があるので、自宅を出るのは遅くても六時半となる。逆算すると起きる時間は五時半になるから、身支度を整えるぐらいの時間しかない。

 住宅ローンを返済するために妻もパートを掛け持ちしており、朝早く起こすのが忍びない。どうせ子供達が起きる七時半にはキッチンが戦場と化すのだから、少しでも長めに寝かせてやりたい。

 そのような配慮の結果として、私は少々早めの六時に自宅を出て、会社近くの店で朝食をとることが多くなった。

 私が勤めている会社は、繁華街を抱えた昇降客の多い駅の前にある。

 従って、二十四時間営業の牛丼屋やハンバーガーショップが周囲に多々あるのだが、きらびやかな電灯の下で極彩色のメニューから食べたいものを選ぶというのは、毎日だと極めて面倒になる。

 私は自然に、あまり気を使わなくてすむ立ち食い蕎麦屋に立ち寄ることが多くなった。

 駅前にはいくつか立ち食い蕎麦屋はあるのだが、それを食べ比べているうちに、次第に私の足は常にある一店に向かうこととなった。

 その店の名は『立ち喰い蕎麦 大将』という。(”立ち食い”ではないことに注意して頂きたい)

 さすがに毎日というのは成人男性としてどうかと思うので、時には他の店に足を運ぶものの、平日の八割ぐらいは『大将』を利用している。

「なぜ、そんなに頻繁に同じ店に通っているんですか?」

 と同僚に聞かれた時、私は遠い目をしてこう答えた。

「それは、今までまったく気が付かなかった世界があることに、気が付いたからだよ」


 *


 その名の通り『大将』にはバイトや雇われ店長ではなく、胡麻塩頭の大将がいる。彼は無口で、注文を了解した時の「あいよ」と、商品を渡す時の「お待たせ」ぐらいしか喋らない。

 客のほうも慣れたもので、

「天玉そば」

「春菊、うどんで」

 など、必要最小限の会話でテンポよく注文してゆく。

 たまに”立ち喰い蕎麦”の流儀に不慣れな客が、なかなか注文の声をあげることができずにあたふたしていることがある。

「天ぷらそば」

「あいよ」

「あ、私…」

「たぬき、そばで」

「あいよ」

「その、か…」

「わかめうどん」

「あいよ」

「かけ…」

「お待たせ」

 サラリーマンの朝のせわしない通勤から捻出された、貴重な貴重な食事時間である。真剣勝負であるから、テンポの悪い客は嫌がられるし、流れが途切れることを嫌って誰も助けようとしない。

 不慣れな者は”立ち喰い蕎麦”の暖簾を掲げる店には入ってはいけないのだ。そこは素人が安易に顔を突っ込んではいけない情け無用、自己責任の世界である。

 自力更生、独立独歩な”立ち喰い蕎麦”の常連客は、総称して『立喰者』と呼ばれていた。


 この、店主と客の極めて高度かつ濃密な間合いの中で、ときおり周囲を唸らせるような高度な『注文技オーダーテク』を繰り出す立喰者がいる。

 いつも八時半ちょうどに汗をかきながら駆け込んでくる、でっぷりと太った三十代後半の男がいる。彼はひとしきりぜいぜいと荒い息を整えると、おもむろに

「天ぷらそば、かたゆで、ねぎぬき、汁大目」

 と、一呼吸のうちに小気味よいテンポでオーダーする。彼は常連の間でひそかに『雪崩さん』と呼ばれている。

 それよりも少し前の時間になるが、ラメ入りのスーツに身をつつんだ五十代の少々身を持ち崩した男がやってくる。彼は、

「たぬき、そば、ネギてんこ(盛り)」

 と、枯れた渋い声で唄うようにオーダーするので、居合わせた者は一瞬聞きほれてしまうことがある。彼は常連から『てんこさん』とよばれている。


 まあ、このぐらいのことは激戦区の首都圏にある”立ち喰い蕎麦屋”であれば、普通にみられる光景であろう。しかし、私が通っている店は少々レベルが違う。

 なにしろ、首都圏の”立ち喰い蕎麦屋オーダーランキング”で、二十年間トップを張り続けている、その筋ではきわめて有名な店なのだ。

 常連はもちろん、この店には都内にあまたある激戦店で、オーダーの技術の粋を極めた猛者たちが訪れ、虎視眈々とオーダーをするタイミングを狙っているのだ。


 数ある勝負の中でも屈指の名勝負と呼ばれているものが二つある。


「天ぷらそばにネギを華麗に盛り付けてください」

「あいよ」


 残念ながら、出張で私はその場にはいなかった。

 後日、数少ない立喰者仲間(彼らは群れることを好まない)から話を聞いたところによると、

 出てきた天ぷらそばにはそれこそ青ネギが多すぎず少なすぎず、

 計算されつくした絶妙なバランスで載せられており、

 それを受け取った客がどうしてもそのバランスを崩すことなくドンブリを置くことができなくなって、

 とうとう観念したという。

 オーダーした人物は大将の手腕に惚れ込み、現在ではこの店の常連で『華麗さん』と呼ばれている。


 さらに凄いのは、


「おう、例のアレくれ」

「あいよ」


 だろう。

 この瞬間には私自身も立ち会っていたのだが、大将が「お待たせ」といって差し出したどんぶりには、

 なんというか、その、『例のアレ』といえばこれしかないと誰しもが納得せざるを得ないほど見事に『例のアレ』が鎮座ましましており、

 その精巧さは対決を見守っていた観衆からため息すらもれるほどだった。


 *


 そんな、店主と立喰者が日夜死闘を繰り広げる”立ち喰い蕎麦”オーダーの名店『大将』だが、蕎麦と出汁が不味いのは、そろそろ何とかしたほうがよいと私は思う。


( 終り )

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