第33話 恐ろしき〈竜域〉

 ゼツは、竹の水筒の栓を抜いて、中身を口へ流し込んだ。温くなっていたが、揺れ動いていた心を多少なりとも落ち着けてくれた。一息ついて、さっきまでの自分を顧みた。


(ケイに疑いの目をかけるのは、明らかに早計だった。俺も、〈竜域〉が近くなって、気がおかしくなっているらしい)


 いかなる時においても、冷徹な刃のごとく平静でいよ。命を奪う時は、吹き荒れる嵐のごとく欠片も残すな。

 ――〈闇ノ司〉の教えは、忠実に実行に移すのは難しい。

 実際、ゼツは先ほど、判断を誤っていた。外部からの影響で正常な思考から逸れ、あやうく同僚に無駄な猜疑を抱かせるところだった。


「すまない、ケイ」

「ん? 謝るのは、こっちだ。悪かった」


 ケイはそう言って、袋から干し肉を取り出して、食いちぎった。腹を満たしすぎるのはまずいが、減りすぎているのもいけない。適度な食事は、追跡中であっても必要である。


「人間、腹を空かしていると、気が短くなって争い合うのは、真理かもな」


 同じように、干し肉を適度な大きさに千切って、口の中に放り込んだ。味と食感は、それなりに美味い。数回噛んで、飲み込む。


「『外様』じゃ、よくこう言うだろ? ――腹が減らないなら」

「誰も争わない」


 ケイの言葉を、ゼツが継いだ。ゼツは『譜代』の出だが、『外様』の生活を観察し、習慣や口癖を取り入れている。だから、ケイの言うことはすぐにわかった。


「ああ、まったく、腹がずっと満たされてたら、諍いなんて、起きねえよなあ」

「――例外も、あるだろう。あの少年など、最たるものだ」


 存在が、時に争いの火種となることがあるのを、ゼツは身に染みて知っている。そういった者たちを〈闇〉として何人も、死の底に葬ってきたからだ。


「オレぁ、十一の子供が、そんな大火事の火元になるとは、全然、思えないがね」


 吐き捨てるような響きだった。いくら〈禍ノ民〉であっても、子供を殺すことに、罪の意識を感じているようだった。ゼツは首を振って彼の罪悪感を否定する。


「直に見ていないから、戯けたことが言える」


 今度は、ゼツが吐き捨てた。


「前の任務、ガジン様の部隊に同行していた。だから、少年のことを見ていた」


 伝承とはかけ離れた、小さな子供の姿が浮かんだ。あの恐ろしい〈青眼〉も。


「かの民を調べに、東の小さな村に立ち寄った時だった」


 ゼツからすれば、子供ひとりを探しだすのは、難しくはない。子供の身体能力では一日に歩ける距離は、大抵目算がつく。大人と子供の歩幅の違いを考慮すれば、逃げ回られたとしても追いつくのは簡単であるはずだった。

 〈影〉を複数動員しての捜索は、しかし、難航した。かの民の子供は〈影〉の追跡速度をはるかに上回り、挙句、振り切った。そのせいで見つけるのに大いに時間がかかったのである。


「そこに、標的の子供がいた。そこまではいい――『竜』が襲い掛かってくるまでは、順調だった」


 震えそうになる右手を左手で掴んで抑えた。まだゼツの耳には『竜』の鳴き声がこびりついて離れていない。眼に焼きついた、あの赤い双眸が思い起こされる。


「大丈夫だったのか?」

「死んだと思ったが? 怪我は、軽かったが」

「だよな」


 『竜』に、両足で地面に押さえつけられ、死を覚悟した。口の奥より見えた、鉄を食い千切る牙。がっしりと押さえられ、脱け出すことができなくなった絶望。肝が縮みあがるどころか、魂まで冷える。


「で、少年が『竜』を操って、助けられたと」

「そうなる。結果的にはな」


 冷たく言い放った。


「結果的にはって……助けてくれた相手を問答無用で取っ捕まえて、処刑しようとすりゃ、ガジン様が少年を不憫に思うのは仕方ねーだろ」


 ケイの言い分は正しい。少年にどのような目的があったかは知らないが、あの場にいた全員が助けられたのは、紛れもない事実である。だが、ゼツは、命が助かった喜びよりも、国を転覆させかけない、嵐の到来に慄いた。


「少年の目的は知らん。助けてくれたことに恩を感じていないわけではない。――だけれども、存在そのものが危険な人間は、得てしてこの世にいる。それを、未然に消すは我らの役目」

「…………わかってる。オレらの役目もな」


 ばつが悪そうに、ケイが顔を逸らした。


「でもよ、じゃあ、なんで、なんて命令が出るんだ? しかも、傷つけるなって、厳命もされたぞ」

「考えられる可能性は、いくつかあるが」

「他のかの民の所在を吐かせる、〈竜奴ノ業〉について厳重に封印、まあ、色々あるか……」


 ケイの言う通り、調べあげればならない件は多くある。しかし、本当にそれだけなのか、ゼツは疑問だった。命を受けた時から、違和感が胸の内に巣くい続けていたのだ。

 いつもならば理路整然とした帝の行動が、ちぐはぐとしていたからだった。

 少年の処刑命令も、まだ取り調べがろくに進んでいない状況で下された。あの帝が、伝承や言い伝えなどを恐れて、国の大事を解決するための手掛かりを消そうとするはずがない。

 仮に一刻も早く少年を消したいのであれば、生かして捕えろという命令が矛盾する。


(いったい、帝はどうされたいのだ?)


 ゼツは、自分の浅さに失笑しそうになった。

 ――余計なことだ。帝のお考えを、俺ごときが測ろうなど、不敬である。


「少年は、笛で『竜』を操っていた。音が聞こえたら注意しろ」

「げ……それじゃ、もう『竜』を操ってこっちに向かわせてるんじゃないか」

「いや、それはない、と思う」


 突然、倒れた少年の酷い疲労を思い出した。


「どうして?」

「笛を吹いたあと、凄まじい『气』の消費に、倒れ込むぐらいだ。追われているこの状況で、そんな馬鹿な真似はしないだろう。やろうとしてもガジン様が止めるだろう」


 ゼツは『竜』に襲われたさいに追った、腕の傷を押さえた。平然と『竜』について話し、負傷した槍士たちの手当てをしていた少年の、素朴な顔が浮かんだ。

 空のように青かった、人ならざる瞳。十一の年齢ではあまりに落ち着きすぎていた態度、『气』の動き。あれを子供だとは、とてもではないが、思えなかった。


「痛むのか?」

「大丈夫だ。もう十分に癒えている。任務に支障はない」


 言って、ゼツは立ち上がった。


「時間だ、行こう」


 訓練によって、正確に刻まれた体内時計が、四半刻経ったことを告げていた。


「ああ、ああ、わかったぜ、オレも腹ぁ括った……!」


 自分に気合を入れるように両膝を、ばんと叩いて、ケイは勢いよく立った。予定通り、休息を追えて、追跡を再開する。


「体を休めたんだ。お互い、気をつけて進むぞ。もう、無駄口は無しだ」

「ああ、了解」


 黙々と、ゼツとケイは標的の跡を追い始めた。獣道に生える草木をかき分け、地面に刻まれた痕跡を追い続けること、半刻。戸が開かれたように、ぱっと視界が変わった。

 草原が、半円形に広がっていた。ここは、四方を山の中に隠されていた草原だった。今まで歩き続けてきたか細い獣道は、この広間に通じていたのだ。

 肌を押しつけられる圧迫感がさらに強まり始め、いよいよ〈竜域〉が間近に迫って来ていることを、ゼツは察知する。


「〈竜域〉の入り口ってのは、あれだよな?」


 ケイが、半円形の土地の頂点部を指さした。門があるわけでも、変わったところがあるわけでもない。周囲に木々と、変化はないように見えた。


「ああ、間違いない、あそこが入り口だ」


 冷気。森の奥から、そうとしか形容できない、冷たい『气』が吹きつけてくる。暖かい春の気温を打ち消しているのではないか。そう感じるほどに、体が怖気を訴えてくる。

 ――行くな、死ぬぞ。

 体が訴えてきた。心臓あたりがおかしな動きをしたせいか、鼓動のたびに痛む。


「二人一組じゃなく、三人一組にした方がよかったか」

「人数はもう、ここまで来たら関係ねえだろ……」


 低木が無くなったお陰で、痕跡は見つけやすくなったが、精神はぎりぎりと万力で締めつけられていた。汗が止まらない。額に浮かんだ汗が、玉になって雑草のうえに垂れた。


「ゼツ、見ろ」


 ケイが、足跡を指さした。二人の痕跡は〈竜域〉への道を逸れて、右側の山へ向かっている。


「どうやら、さすがに〈竜域〉に入るようなことはしなかったらしいぜ」


 心底、ほっとしたように、ケイは息を吐き出した。


「ここは……右の山を越えれば、一日ほど歩けば、小さな氏族の村に出たはず」


 頭の中にある地図を眺めて、先にあるものを導き出した。村に立ち寄れば、さらに別の村を経由して、街路を迂回しながら北へ向かえる。


「ガジン様は『外様』の出だし、誰かが庇って口をつぐんでいても、不思議はない」

「もう一度、近辺の村をすべて洗わせるか?」

「ああ、村に向かわせる者は、できればその近くの出身者がいい」


 鷹が戻って来るのはまだ当分先だ。一刻も早く、報告に戻り〈八竜槍〉に伝えなければならなくなった。ゼツは、ケイに向き直って言った。


「ケイ、先に戻ってロウハ様にこのことを伝えろ。俺は周囲を調べてみる」


 ケイが、驚いた顔をした。


「あ……? おいおい、報告はお前の役目だろ? それに、調べるならオレが」

「いや、俺がやる」


 ケイの提案を、ゼツは遮って続けた。


「無くなった俺の村は、この地域にあってな。追うなら、俺の方が適任だ」


 若干、苦しい言い訳だったが、ケイは苦々しくうなずいた。


「そう、か、わかった、任せる」


 ケイは、気まずそうにして顔を逸らした。『外様』にとって故郷とは自らの体の一部に等しい。それを失った者の胸中は、計り知れない。ゼツは、偽りの身分である。だが、生まれ故郷が無くなるのは、小さな出来事ではないのは、理解できる。


「陣営に戻り〈影〉の報告者が集まっても、俺が戻らなければ、なにかあったと思ってくれ」

「了解。気をつけろよ」


 ゼツは、笑った。


「なに、ガジン様は無為に人の命を奪う御方ではない。捕まったとして、殺されはせんよ。――行け」


 〈影〉らしく、風のような速さで、音も立てずに駆けて行った。

 ケイを見送り、痕跡を追おうとして、痛みが走った。ゼツは、すこし前に負傷していた右手を握った。


(なんだ……〈竜域〉に近づくごとに痛みが、強くなってきている?)


 傷口は塞がっているが、体内にわずかに留まっている〈竜气〉が、〈竜域〉から流れ込んで来る『气』に反応しているのか、痛みが増している。


(さっさと離れろと、体が警告してきているのか、これは)


 もしそうであれば、早く退散するにこしたことはない。ゼツは、右側の山に続く痕跡を追い始めた。〈竜域〉から離れるごとに、右手の痛みは次第に引いていった。何度か、手を開閉して調子を確かめると、歩く速度をあげた。

 目標の二人が逃げ込んだ山は、傾斜は緩く、足場もしっかりとしていて、進むのに苦労はなかった。小山を登り切ると、日差は弱まり始めていた。

 光が、新たに芽吹いた、新緑の葉を薄く透かせている。温暖な気候を感じさせる風が、木々の枝と葉を軽く揺らしている。――肩に、土が落ちて来た。


「土……木の枝から?」


 肩の土を手に取り、擦り、臭いを確かめる。


(この山の土ではない。なぜ、こんな物が枝から……)


 すこしばかりの疑問。なにか、おかしい。


「跡は、先に続いている……」


 だが、ゼツは足を止めた。長い間、〈闇〉として働いてきた経験によって培われた勘が、止まれ、よく考えれとささやいている。


(違和感、今までと、なにかが違う。だが、それはなんだ?)


 足跡を、もう一度よく観察する。二つの跡は、地面にはっきりとついて、村の方角に向かっている。ゼツは、はっとした。


(そうだ、これだ! 今までのガジン様は、これだけはっきりと手掛かりを残していなかった!)


 痕跡が見つかり難かったからこそ、追跡が難航していたのだ。だが、ここにきてまるで誘導するかのように、これみよがしに痕が残されている。


(それに、この足跡、よくいれば、少年のものが、すこしだが沈み込みが浅い。こちら側に誘われたッ)


 ゼツは、首筋に冷たい汗が伝ったのがわかった。狩人である自分が、相手の思惑の糸に絡めとられた哀れな獲物に成り下がったのを自覚する。


「……ッ!」


 腰の短刀に手を掛けた。意識を切り替える。木々の葉の揺れ、獣、虫が動く音と気配が、膨大な量の情報が一気に広がった知覚から入り込んで来る。緊張で、どっと、汗が噴き出た。

 視線を巡らせ、どの方向から襲撃が来てもいいように構えていたが、小鳥のせせらぎが辺りに響くだけで、攻撃はなかった。

 ゆっくりと短刀から手を離し、ゼツは全身の力を抜く。待ち伏せされていたわけではなく、こちら側に誘導されていただけだったようだ。罠もない。だが、これが誘導となると、彼らはどこにいるのかがわからなくなった。


(どこにいる? この先にいないなら、どこに向かった?)


 足元に落ちた、土が目に入った。


「土、枝から落ちて…………!」


 ゼツは、頭上を見あげた。視線の先には、太い幹が支える、頑丈な枝が生えている。それらはまるで橋を渡すかのように連なっていた。人がひとり乗っても、まったく問題がなさそうな枝だ。思わず、大きな舌打ちが出た。


(馬鹿か、俺はッ。下ばかりに目がいって、上を見ていなかった!)


 ここまで歩いて来たのだ。そして、この辺りまで来ると、木へと跳躍し、別の方向へ逃げた。土が落ちて来た枝の上へ跳んで、ゼツは痕跡を確かめた。葉が不自然に千切れている枝や、土、擦れている跡などが見つかった。


(逆方向へ、来た道を戻っている?)


 さらに別の枝に跳ぶ。やはり、跡は逆に向かっている。この先に戻ったとしても、逃げ道は無い。

 ――あるのは〈竜域〉だけで……。

 考えて、ゼツは寒気を覚えた。


(そうだ、最初、俺らはガジン様が〈竜域〉に行ったと予想していた)


 見事、予想は的中していたのだ。この状況で来た道を戻るなど、もう〈竜域〉へ入ったとした考えられない。

 枝から枝へ移り、跡を追い続けると、やはり〈竜域〉の入り口近くで、木から降りていた。

 我慢できないほどではないが、また右手の痛みが強まり出した。治りかけのかさぶたがはがれた程度の痛みだ。任務に支障をきたすものではない。

 問題があるのは俺だと、激しくなる動悸を抑え込む。


(行くべきか? いや、戻るか? だが、跡を見る限り、時間はそれほど経っていない。一刻、くらい前か。追いつけるかもしれないが……)


 追うか、退くか。発見される危険と、〈闇〉として与えられたもうひとつの任務との間で、決断を迷う。〈影〉であるゼツの仕事は、二人の行く先を突き止め、他の〈八竜槍〉に報告することだ。〈闇〉の役目をまっとうするには、他の〈影〉がいては不可能だった。

 今は、任務を果たす好機だ。相手が〈竜域〉などに入っていなければ。


「よし、行くぞ、行くぞ……」


 考え込んだ末、ゼツは進む意思を固めた。〈竜域〉の内部へと侵入する。

 地図に載っていない〈竜域〉に、明確な区分があるわけではない。が、この先がそうだと確信させる雰囲気が、周囲にはあった。ここでは、お前こそが異物なのだ――辺りにある植物たちが、耳元でささやいてきている気がした。

 ゼツは、自分の弱さがもたらす思い込みだ、と喝を入れて追跡を続ける。

 大きく息を吸って『气法』による身体強化を全開にし、異変をひとつも見逃さないよう意識を高めた。

 〈竜域〉の中は、ゼツが見たことのない植物がほとんどだった。毒を持つ種があるかもしれないので、細心の注意を払いながら進む。

 入る前に感じていた圧迫感は、今なお続いていたが、景色はそれに反して驚くほど穏やかだ。葉の隙間から差し込んでくる夕陽が、光の帯のようになり、森を照らしている。

 物語に出てくる悪党が住む、薄暗く、うっそうとしていて、不気味な森ではない。

 だが、ゼツは自らの手すら見えない暗闇に包まれたような怖さに包まれていた。

 ここには、人間の気配が、文明がない。人が、自分たちを守るために築いた規則、枠組みといった代物が、一切通用しない領域である。襤褸姿で雪原に放り出されたのと同じだ。

 非文明圏に己が身をたったひとりで置いていることが、心細さを加速させた。

 ――人の手が届いていない場所とは、こうも空恐ろしいものか

 一歩を踏み出すごとに、生還への確立が減り続けていると思った。


(苦しい、それに、体が、重い)


 頭上から、途轍もない巨大な力の一部が、膝を折ろうとしてくる。

 耳鳴りが酷い。脹脛が、鉛でも注入されたかのように重く、動かなくなり始めた。つむじあたりから、鋭い頭痛がし出した。


「な、なん、だ……?」


 〈竜域〉に入って、まだ四半刻と経っていない。突然の、凄まじい体調の変化に、ゼツは判断を誤ったことを思い知らされた。


(忘れて、いた。ここは……)


 ――人が近寄れぬ、『竜』が住まう地だ……。

 ぐらぐらと視界が揺れる。視覚に異常が出始めたのか、世界から色彩が失われた。灰色に変貌した森にある痕跡が、追えなくなる。挙句、上下左右すら覚束なくなり、すべてが溶け出して消えていこうとしていた。


(ま、ずい……)


 体から、意識がべりべりと音を立てて引き剥がされ始めていた。この〈竜域〉に満ちる神聖な力が、不埒者を排除しようとしている……。

 足が支えを失い、地面に突っ伏しかけた時だった。脳裏に〈闇ノ司〉の言葉が聞こえた。


『任を果たせず死ぬは、帝の顔に泥を塗ることと心得よ』


 初めて見た帝の尊顔が思い起こされる。

 ――あの御方の顔に、泥を塗る……?


「あ、が、ぬう……!」


 腹の奥に力を入れ、踏ん張り、乖離しかけていた意識を取り戻す。混濁していた思考が明瞭になり、視覚に色が舞い戻った。神聖な力との綱引きに、ゼツはなんとか打ち勝った。


(意志を、心を強くもて……でないと、呑み込まれて、俺は死ぬ)


 頭を強く振り、こめかみを叩いて気合を入れた。

 ゼツは、跡を見る。ふらついていたせいで、三間ほど離れてしまっていた。

 醜態にもほどがある。ゼツは自分の迂闊さと未熟さに苛立った。年季の差があるとはいえ〈闇ノ司〉は、何事にも動じず、予想外の事態にも冷静に対処していた。これが常時できるようにならなければ、この命、長くは帝のために使えない。

 改めて、自分の至らなさを確認し、ゼツが追跡を再開しようとした、その時だった。

 音が森中に響いた。


「――ッ!?」


 ようやく元に戻り始めていたゼツの顔色が、また青ざめた。

 似た音を最近、聞いた。結果、なにが起こったかを、ゼツは体験から知っている。

 咄嗟に、腰の短刀に手が伸びた。どこからまた、あの牙と爪が自分の喉元を目掛けて食い千切りに来るのではないかと警戒する。

 まだ、音は断続的に鳴っている。ゼツは、その場にじっとして動かず、『竜』が襲い掛かって来ないことを祈った。

 音が止むと、、今度は鳴き声が聞こえた。こちらは明らかに肉声だった。人が声を真似て空気を吹き込むことによって作り出した音ではない。一定の間隔で、音と鳴き声は響く。なにかを伝え合っているかのようでもある。

 さぁ……と、骨身にまで染み渡る底冷えする風が、ゼツの内に吹いた。鳥肌が立つ。


「『竜』と、会話を、している?」


 理解不能、意味不明な現実が、驟雨のごとく降り注いできた。あの少年は、確かに、今、『竜』と互いの意志を伝え合っている。その現実に、ゼツはしばし呆然としてしまった。


(……! 呆けている場合かッ。音が聞こえるなら、そう遠くないところにいる!)


 初めて、相手を捉える距離まで接近できたのだ。慎重に行かなければならなかった。もし、一目散に逃げられれば、今までの苦労は水の泡になる。


(落ち着け、あの音は、おそらく俺を襲わせるためのものじゃない。笛の音と違っていた。『竜』の声とかなり似ていた。多分、指笛だ)


 『竜』を操るには、相応の負荷が体にのしかかる。ゼツは、少年の消耗具合から、そう分析していた。

 着実に、しっかりと対象との距離を縮めて行く。予想していたよりずっと走り易い。下半身への負担は最小限で済み、ゼツにとっては幸運であった。『竜』と遭遇もせず、順調に進むことができた。

 やがて、足跡がどんどん新しい物へと変わっていった。大地に刻まれた微弱な『气』も、徐々に濃く残り始めている。


(捉えた……!)


 目標との距離、およそ三百間。ゼツは、ついに相手を自分の射程距離に収めた。これならば、よほどのことがない限り、振り切られる心配はない。

 足運びを変える。走りから、歩きへ。

 相手は〈八竜槍〉である。焦って無理に追いつこうとすれば、たちまち勘づかれてしまう。


(この行動が正解かは、わからないが……)


 まだ、ゼツはガジンの『本気』を知らない。彼が稽古をしている姿を見たことはあった。だが、そのどれもが、全身全霊を傾けていたとは、とてもではないが思えない。相手の底が真っ暗闇であるせいで、結局、ゼツは定石通りに動くしかなかった。

 恐ろしい。底が見えない相手とは、どこまでも不気味。覚悟はしていても、全身に纏わりついてくる粘っこい圧力は消えなかった。

 静かに息を吐き出し、追い続ける。つかず、離れず、機を窺いながら、一歩ずつ距離を詰めて行く。百間を切ったあたりから、ゼツはさらに歩く速度を緩め、水滴が岩を穿つような動きで、接近していく。

 いつの間にか、日は傾き、空は暗くなり始めていた。

 より一層、彼らを見失わないよう、細心の注意を払いながら追いかける。あの二人は、今のゼツにとって命綱に等しい。『竜』と話せるのならば、野宿するさい近くにいれば襲われる心配はないはずだからだ。

 日が完全に落ち切る前、とうとうゼツは標的を視界に捉えた。


(ここで、野宿するつもりか)


 森の割れ目のような場所だ。彼らが野営に選んだところは、地域を区切る線のように草木がない。手前と奥では植生も見るからに違う。なにかの境界線のようにゼツには見えた。

 少年が薪に火をつけていた。彼の周囲には、四方に地面へ打った杭を縄で繋ぎ、鳴子、のようなものがぶら下がっている。用途は侵入者が近づいて来た時のためのものだろうが、こんな杜撰な仕掛け方では〈影〉どころか、素人にだって簡単に見つけられる。

 どうして、こんな仕掛け方をするのだろうか。まるで獣を対象としたかのようなやり方だ。

 ゼツは、木陰から読み取れるだけの情報を分析していた。すると、いい具合に火を熾せた少年は、声をあげた。


「ガジンさん、火、つきましたよ。大丈夫そうです」


 だが、少年の目線の先には、誰もいない。


(……? ――ッ! しま)


 首筋に、ひんやりとした固い物が当たった。

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