第10話 外界

 リュウモは、村を出てからどれくらいの長さを走ったのかわからなくなるほど、足を動かし続けた。次第に、走る速度は遅くなり始め、身体が休息を求め始める。

 喉が焼き切れるほどに熱くなって、ようやくリュウモは村から相当遠くに離れたことを実感した。疲れた体を休めるために、暗い森の中で立ち止まる。


(星は……)


 息を整えながら、頭上に光る星々を見る。逃げた方角が間違っていないか確認した。〈九竜星〉と〈禍星〉は変わらず空にあり、走った方向が間違っていなかったことを証明してくれた。


「川……〈竜域〉から外れたなら、川が、あるはず――小さな、川が」


 リュウモは、村から大きく離れた川の先には行ってはいけないと言い聞かされてきた。

 その川が、村と外の世界とを区分する境界線である。リュウモは耳を澄ませて、真夜中の森から聞こえて来る川のせせらぎを聞き分けようとする。

 普通の人間ではまず無理だ。森には様々な音が溢れている。獣の足音や鳥の鳴き声、風で木々の葉が擦れる幾百以上の音が、静かに流れる小さな川の音を遮ってしまう。

 だが、リュウモの耳は、とくとくと進む水流の音を聞き分けた。迷うことなく音がする方へと進んでいく。数刻としない内に、リュウモが知らない世界が開けた。

 川は、脛あたりまでしか水位がない小規模なものだ。その奥には、言葉では言い表せないほどに大規模な光景が広がっていた。

 まず、木々が極端にすくない。川の上に浮かぶ岩のように、点々と生えている木は〈竜域〉の物と比べれば、小枝に等しい。

 視界はどこまでも見渡せるかと思えるほど開けている。遮蔽物がすくないと、こうも見晴らしがよくなるとは、リュウモは知らなかった。

 夜の月に照らされた草木たちは、眠っているかのように身動きしない。

 これが『草原』と呼ばれるものなのだと理解するまで、リュウモは茫然と立ちすくんでいた。未知がぱっくりと大口を開いて、喰い殺されそうで怖かったのだ。

 自分は今、間違いなく境界線の上に立っているのだという事実が身に染みた。


「――疲れた……」


 広大な世界に向けて、初めて口から出た言葉がそれだった。知らない場所に圧せられて尻もちをついた。


「これが……外」


 リュウモは、自分がもっと興奮するかと思っていた。好奇心に煽られて、平らなように見えて所々に凹凸がある草原に向けて、身体が勝手に走り出すのではないかと夢想していた。

 何のことはない。感じ入ることもなければ、興奮しもしない。身体中に蔓延る疲労が、思考能力を極限まで低下させていた。

 リュウモは、雑草がぼうぼうと生えている地面に寝ころんだ。羽織っている外套を掛布団代わりにして、身体を丸める。眠い、寝たい、という欲求に一切逆らわず、眠気に身をゆだねた。意識はすぐに途切れた。


 ぼんやりとした視界の中で、白い巨大な骨が目に映った。長い間、そこに在り続けた白骨は、緑色の苔が生えている。


(〈竜ノ墓〉……だ)


 人の何倍もある巨大な樹木に囲まれた『竜』の大きな墓。木々は彼らの墓標のようにも見える。地面には何百、何千もの『竜』の骨が埋まっていて、その多くは地表へ顔を出している。ひと際大きな遺骸の額にあたる部分が、削り出されたようにへこんでいた。

 『竜』は不思議な生き物で、自らの死期を悟ると必ず一定の場所に身を置く。そういった個体を、他の『竜』たちは獲物とすることはない。人間がむやみやたらに森の恵みを採り尽さないのと同じで、彼らにも暗黙の了解が本能として刻まれているのだ。

 死する『竜』はなにもしない。そこに敵がいようと、人がいようと関係はない。ただ死ぬために墓場へと赴き、そこに身を横たえる。

 そうやって数え切れないほどの骨が積み重なった場所を〈竜ノ墓〉と呼ぶ。


(懐かしい……そうだ、父さんと母さんと、一緒に、何回か行ったっけ)


 リュウモの遠い思い出の中で両親の顔は、すでに霞み始め、忘れ去られ始めている。だが、色あせること無い記憶がある。〈竜ノ墓〉で初めて、『竜』が死ぬところを見た時だ。

 よろよろと覚束ない足取りでやってきた『竜』は、やっと終わるのだと安堵を抱いたように、地に身を伏した。瞳にあった生気の光がすこしずつ消えていき、体が力を無くしていく。やがて、死が『竜』を包み込み、命が終わりを告げた瞬間、リュウモを底抜けの恐怖が襲い、身体中を総毛立たせた。

 そして、同じぐらい美しいとも思った。

 天寿を全うした骸は、一切の余分なものを残さない。自己だけではなく、他者も同じだ。

 すべてを使い果たして、息絶えた死者を見た人が思うことは、深い『納得』なのだ。

 張り裂けそうな悲しみが襲おうと、悲嘆に暮れようと、その先にあるのは自分の足を前に進めようとする強い力――『納得』という腹に収める行為だ。

 天寿を全うした者の死は、それを促す強い作用がある。諦めや逃げではない。死者は生者の感情と心と一体となって、明日へと足を踏み出させるのだ。

 それが、どれだけ美しく、難しいかをリュウモは身をもって知っている。自分の両親は道半ばで命を失ったからだ。

 『人』は『竜』ではない。どれだけ秩序だった集団の中にいても、突風のように吹き荒れる偶然の前には、命を散らすしかないこともある。

 そうやってもたらされた死を、親しい者は納得できない。腹に収められない悲しみは、やがて内側から心と体を食い破る。

 そうなってしまったら、前に進めなくなる。うずくまって、泣きはらして、立ち上がれなくなってしまう。喪失の悲しみは、底なし沼のようなもので、扱いを間違えて足を踏み入れてしまえば、簡単にはあがってこれない。

 沈んでしまったら、あとは誰かに引き上げてもらうしかない。

 リュウモにとって、沼から引き上げてくれたのは、ジジだった。


(爺ちゃん……)


 もう会えなくなってしまった人の笑顔が浮かんできて、リュウモは悲しみから逃げるように目を覚ました。


 喉に強い乾きを覚えて、リュウモは動き出した。気管がくっついてしまったように息苦しい。よろよろと起き上がって川の水を両手ですくって飲んだ。喉全体に染み渡った水は、身体の中を潤した。

 清涼感が頭を冴えさせ、状況を確認させる余裕をくれた。頭上にある日は高くまで昇っている。おそらく、時間は昼頃だろう。人影と気配は周囲にない。あるのは、見慣れない『平原』だけだ。敵対するような者たちはいない。

 身体を少しの間休めて、リュウモはその場を後にした。その顔には、涙の痕がこびりついて離れなかった。

 未知の草原を歩き続けていると、リュウモの目に、人の集落らしきものが映った。遠目から見た家の構造は、故郷の村と大差ないようだ。リュウモは同じ人が住んでいるとわかって、ほっとした。すこし足を早めて集落へ向かう。

 村にはすくないが人の気配があった。朝と共に労働を始める村人たちを目に捉えるのは簡単だった。リュウモは、村へ入って一番手近な人へ声をかけた。


「あの、すいません」


 髪は真っ白に染まった老婆は、見知らぬ来訪者にうろんげな視線を投げかけ、リュウモと目があった。――直後、悲鳴があがった。


「ひ、ひえぇあ!? あ、〈青眼〉、ま、まま〈禍ノ民〉じゃああッ!?」


 凄い勢いで老婆が走り去って行く。あまりに突然な対応に、リュウモはその場でぽかんとしてしまった。老婆の金切り声は、村中に響いたらしく、すぐに人が集まってきた。


(え、え、え?)


 リュウモは、なにがどうなってしまっているのか、まったくわからない。わかるのは、集まって来た男たちが恐れと敵意をもっていることぐらいだった。彼らの態度は、いたずらをした子供を叱るような、生易しいものではない。縄張りに入って来た異物を排除しようとする、獣のそれだ。手には農具を持っているが、それとて人に振るえば凶器に早変わりする。


「おまえ、何者だッ!」


 いつの間にか、囲まれていた。注がれる視線。いくつもの目玉が恐ろしい光をもってリュウモを射殺すように突き刺す。囲んでいた中で、一人の男がリュウモに近寄って来て、大声で言った。


「こっちに来いッ!」


 大きな手が、腕を掴んだ。人に触れられるのが、これほどに気味が悪かったことは、リュウモにはなかった。裾を掴んだ手を、反射的に握ってしまった。


「さ、触んな!」


 掴んだ腕を、前方向に振り払った。


「っぎゃ?!」


 大柄な男が、地面に顔をぶつけて悲鳴をあげる。


(え……?)


 信じられないことが起きて、リュウモは呆然としてしまった。男は顔を強く打ったのか、頬を押さえて呻いている。――あり得ない。リュウモはあんなになるような力で振り払っていない。精々、手を叩く程度のものでしかなかったはずだ。どう考えても、大の男を地面に叩きつけて悶えさせるような力ではない。

 人垣が揺れた。


「北に、北にある〈竜域〉には、どうやって行けばいい?」


 自分でも驚くほどの冷たい声が出た。リュウモは、冷然と辺りの人間に問いただした。〈青眼〉が村人を捉えるたび、呪われるのではないかと彼らは目を逸らす。


「北にある〈竜域〉には、どうやって行けばいいッ」


 苛立ちを込めてもう一度言った。だが、村人たちは黙るばかりでなにも言わない。

 とうとう、リュウモの我慢の限界を超えた。


「どけッ! おれは、行かなきゃいけないんだ!」


 道を塞ぐ村人たちに、リュウモは怒鳴った。子供とは思えない凄まじい大声に、彼らが怯む。その隙を見逃さず、リュウモはわずかにできた人垣の隙間を走り抜けた。途中、誰かの手が身体に触れたが、かわまずに走った。

 ――なんでこんな目に遭わなきゃいけないだよッ!

 自分はなにも悪いことなんてしていない。彼らの言われようのない誹謗は的外れだ。〈禍ノ民〉だとか聞こえたが自分は〈竜守ノ民〉だ、人違いだ。

 訳が分からない責任を押し付けられて、悔しさと怒りで涙が出そうだった。

 あの様子では、早くここから離れないと、彼らは自分になにをするかわかったものではない。

 初めて人の冷たさに触れて、リュウモは彼らが自分とはまったく別の生き物なのではないかと思った。どうして全然関係のない人にすべて押し付けるのか、理解できない。


(ここは、おれの知ってる世界じゃない……ッ!)


 リュウモは、ようやくここが村の外だという自覚を得た。一刻も早く村人たちから離れるように、走る速度をあげた。

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