亡霊×少年少女

ひなた

第1話

亡(ポルター)霊(ガイスト)×少年少女 第一話『亡霊×少年少女』


『彼女』と出会ったことで、オレははじめて生きる意味を与えられた気がした。

《彼女》と触れ合ったことで、オレはかけがえのない家族を見つけられた。

そんな大切な『彼女』を、オレは死なせてしまった。

大切にしたい《彼女》の手を、自ら放してしまった。

だからオレは、彼女たちが生きた意味をここに刻むためにこの手を伸ばし、そして歩きだす。

想いを強さに変えて、明日に一歩ずつ踏み出すんだ。あの日、君がくれた言葉を抱いて。

どんなに傷つき、折れて、泥だらけになり、汚れてしまっても。たとえこの脚が折れて砕けてしまっても、道が見えなくなっても這いずり回るのだ。

傷つかないものはない、その傷を背負って生きるのだ。

自分が生きる価値を、他人に預けてはいけない。

誰にも譲らない、誰にも汚させない。ましてや神様になんて不確かなものになんか預けない。

運命にだって、この脚で立ち向かう。ひととして当然の《愛》を求めて、オレは進むんだ。

オレはオレというたったひとりのひととして、人生を決める権利があるのだから。


————もう一度、彼女たちと出会うために。


これは、魂が幾度もめぐるとこしえのお話。悠久なる神々なんかいない、天国もないせかいのお話。

少年少女のながいながい、【生(アカシック)命(レコード)】を刻んだ物語。




————二〇〇六年十二月二十四日、世間はクリスマスイブでおおいに盛り上がっている。

時刻は午後十六時を少し回ったところで、今にも雪が降りそうな底冷えのする曇り空だ。その雲のすき間から一番星が遠くの空で瞬いて、日没を知らせている。灰色と藍色のまだらな空で冷たい銀色の月は下弦、まるでひとびとを見守っているように浮かんでいる。

少年は分厚い眼鏡を外して、空をあおいだ。

レンズ越しにはくっきり美しく映る銀色の月とその下に咲くきらびやかなネオンサインは、ひどい近眼で乱視を持つ少年には『無数の光の玉』に見える。

それとは別に、ひとびとから溢れる色とりどりの光がある。しゃぼん玉のようにゆらゆら揺れる光たちは、視えている一(いち)覇(は)に、しきりに話しかけてくるように色を変え揺らめいている。感情に応じて、その光たちは青や黄色、赤などに七変化する。最初のうちは法則性が見えなかったが、いつしか「こいつはいま楽しそうだ」「ちょっと不機嫌?」などとなんとなく理解できるようになっていった。

————あの日と同じ……だ。そしていつもの光景だ。

憧憬なのか感傷なのかわからない曖昧な想いを抱いて、眼鏡をしっかり掛け直してから硬いコンクリートを踏みしめた。視えているたくさんの声にならない声はまあ無視して、知らないふりをする。だいたいからして、一覇がこいつらに干渉することが間違いなのだ。人間には人間の世界がある。それを彼らも少しは理解するべきである。

ここは神奈川県横浜市の中心地である、日本でも海外でも有名な繁華街、横浜中華街だ。観光にはいささか遅い時間だが、ほとんどいつも通りに多くの人々で賑わっている。

今は夕食前ということもあり、空腹を魅惑するいい匂いがあちこちから漂っていて、特に食べ盛りの成長期にはとても刺激的だ。

そのせせこましくて誰かがチューイングガムを吐き捨てた黒い跡がいくつも残る小汚いコンクリートの路地を、小さな少年はひとり人ごみを縫うように歩いていた。

河(こう)本(もと)一覇は、今年の十月で十四歳になった。

身長は同年代の男子と比べると小さめで、体重は明らかに軽いと思えるほど痩せている。猫背で野暮ったい眼鏡をかけているのでやや内気な印象を受けるが、日本人にはいない綺麗な金髪碧眼が妙に主張していて、彼の存在を浮かせている。ブリーチやカラーコンタクトレンズなどではなく天然だ。

両親は黒髪黒目のごく一般的な日本人なのだが、どうしてか双子の弟共々そういう風に生まれた。幼い頃はなんとなく自慢できて嬉しかったが、思春期を迎えた頃からすごく目立つので嫌いになった。しかし髪の色は変えられても、目の色は簡単に変えられない。もう諦めたし、この悩みはだんだん慣れてきた。

部活動は陸上部に所属しているが、今日から冬休みに入る為に休みだった。

自宅は横浜駅から電車で揺られて二十分ほどの旭区にある。市立中学校の生徒だが、ここはもちろん学区ではない。

では何故中学生がこんなところまで来たのか。特にこれといった理由はない。

ただなんとなく、一人で遠く————といっても子供の“遠く”には限りがあるが————まで行ってみたかっただけだ。自分を呼ぶ声なんて聴こえない、誰もなにもいない世界へ……なんて馬鹿なこともこっそり思った。

もちろん無理なことだとは、承知している。帰宅せず家族に心配をかける勇気もないから、所持金のうちで行って帰ってこれる場所を選んだ結果、偶然この中華街になっただけだ。

近頃の学校では先生もクラスメイトも高校受験を見据えてピリピリしており、学業成績には甘い義母に育てられている一覇とても、こればかりは他人事とは思えない。

要領のいい一覇はわざわざ勉強の時間を作らずとも高成績をキープしているが、気が抜けないのは事実だ。周りがみんな学習塾に通っているからと、自分も義母に頼もうかと思って無料体験を受講したこともあるが、自他ともに認める気難しい性格なので集団の中でなにかをすることは苦手だった。

まぁ自習でも今は充分通じているので、三年生に進級してからでも遅くはないだろうと、現状維持を決めた。

毎日勉強に部活に家事にと忙しくしているのだから、たまには一人で遠くまで外出するのもいいものだと思ってのんびりしていたが、ふと腕時計を見てじわりと焦りが生まれた。今日は家で決められた炊事当番だから、もう帰らないといけない。基本的に甘くて緩い義母だが、約束事を疎かにすることは絶対に許さないのだ。

寒さで小さい身体をより一層縮めて、長めの白いマフラーを翻して足を早める。そして————脚が止まった。

剥がれかけた上に貼り付けられた出会い系サイトの汚らしい広告が貼られた電柱に、少女がうつむいて背を預けていた。

黒くて長い髪に、猫を思わせる赤いつり目。冬休みなのに服は学校の制服だ。全国でも有名な学校で、一覇ももちろん知っている。

私立久(ひさ)木(ぎ)学園。

その一部の施設は国立という、国内でも最大級の学園都市だ。コンビニや大きな書店、ショッピングモールにイベントホールも揃っていて、地元民なら一度は立ち寄ったことがある。中華街、ランドマークタワー、山下公園と並んで、横浜市の有名な観光名所となっている。

彼女はそこの高等部、しかももっとも有名な霊子科学科霊障士専攻のゴシック調の可愛らしい制服を着ていた。

霊子科学。それはこの世界のあまねくすべての物質における、基本的な構造の神秘を研究、分析する総合科学分野だ。

二十世紀後半頃までにわかっていること————この世界には、大きく分けて二種類の物質しか存在しない。

素粒子が「原(げん)子(し)」で出来ている、我々人間も含めた地球上でもっとも一般的な存在の“原(げん)子(し)体(たい)”。

そして、素粒子のパターンがきわめて不可思議かつもっとも美しい「霊(れい)子(し)」で出来ている————“霊(れい)子(し)体(たい)”。ときに『エクトプラズム』とも呼称されている。

これらふたつの物質は、きわめて一方通行な干渉で成り立っている。

原子体から微弱に発せられる霊子を頼りにしている霊子体は、原子体の存在なしには生きていけない。それは原子体は百パーセント原子で出来ているわけではなく、微量ながら霊子が組み込まれているということを意味する。詳しくはいまだに解明されていないが、原子体の『魂』なる部分がそうなのではないかと霊子科学者のあいだでは熱い議論が繰り返されている。

それから忘れてはならないのは、一部の霊子体は日本語名で「鬼(き)魔(ま)」と呼ばれて、原子体・霊子体に関わらずすべての生物に悪影響を与えるとして恐れられているという現実だ。

彼ら鬼魔は原子体を喰らって生きる。人間が家畜を食うことと、それは等しい。

しかしそのグレーゾーンは「幽霊」だ。幽霊は特定の原子体にとり憑くことで、その原子体から霊子を根こそぎ奪ってしまう。幽霊自身の意志に関わらず、必ずそうなってしまうのだ。

ところで原子体と霊子体の関係は一方通行だと前述したが、実は一部の原子体も霊子体に干渉出来る能力を有することが、もう二〇〇〇年も昔からわかっている。科学的に解明されたのは日本ではつい二〇〇年ほど前だが、それは俗に「霊能力」と呼ばれるものだった。

そのおかげで、彼ら霊能力者の存在と価値は大きく変わった。霊能力者は「胡散臭い」ものから、立派な科学者という地位と市民権を得た。

だが路傍の石というわけではなく、その希少価値は二十一世紀を迎えてもまだまだ高い。

一覇はその霊能力を持っているために、霊子体をほとんど制約なく視たり触れたりすることが出来る。

さきほどから一覇の目に映る、きらきら光る無数のしゃぼん玉。あれらはほとんどすべて霊子である。

そしていま目の前にいる少女が、幽霊であることも当然のように理解している。

彼女はひどく寒い冬まっただ中なのに、防寒具の類はなしの制服一着で平気な顔をしているのだ。そしてそれを、周囲の人々はわからない。みえていないから。

この手の存在は、一覇にとって害悪でしかない。霊子体の赤い瞳は、否応にも“あの日”のことを思い出す。だから一覇は、少女に気づかれないようにこそこそと迂回しようとした。こちらが気づいていると知ったら、きっと少女は何かしら反応をするだろう。それはもっとも避けたい事態だった。

誰にも気づかれない、気にされない、亡霊のような生活。それこそ一覇が渇望するものだった。もう絶対に、誰とも関わらない。オレは一人で生きていくんだ。

だが少女はおもむろに首を上げて、胡(う)乱(ろん)げな瞳を一覇にフォーカスする。

少女の赤い瞳は、一覇の青い瞳と交錯する。

なにかがかちりと動き出す————そんな音が響いた。

「君は、わたしのことがみえるの──……?」

鈴の音を思わせる透き通った声が、一覇の耳朶を激しく打つ。

少女はすっと立ち上がり、一覇にゆっくり近づいた。一覇よりわずかに背の高い少女は、青白く冷たい手で一覇の頬に触れる。

「君は……もしかして霊(れい)障(しょう)士(し)?」

霊障士。

それは日本では古く陰陽師と呼ばれた存在だが、明治維新で技術体系と制度を一変させて「霊障術」を使うようになった。現在の日本ではもっとも有名で、子供たちにとって憧れの職業である。

一覇はやや自嘲気味に鼻で笑って、素っ気なく答えた。

「……まさか。オレはただの霊子体嫌いな中学生だよ。……もう帰るから、そこを退け」

一覇は少女の手を、とりつくしまもなくしっしと冷たくはねのける。しかし少女は一覇の手を握り、希望を抱いた真剣な面もちで言った。

「よし、君に決めた。ねぇわたしのお願い、きいてくれる……?」

「やだ」

「がーん!!」

いかにもわざとらしく口にする少女に不審な目を向けて、一覇は再び少女の手を振り払い、そのまま横浜駅に向かって真っ直ぐ歩を進める。しかし彼女はなおも諦め悪く、一覇の前に立ちはだかる。

「まってまってまってストップ!!お願い、わたしの頼みをきいて!わたしは、わたしの記憶を取り戻したいの……!」

「きおく……?」

少女は気を取り直して、いたく真剣な瞳で頷く。

なにかがかちりと動き出す————そんな音が、響いた。


同日の午後十時。旭区にある児童養護施設「ひなぎく園」。

一応は県営機関なのだが、昨今の子供不足で充分な支援は受けられず、ほとんど個人で経営されていると言ってもいい。なので鉄筋コンクリート造の住居スペースはかなり広いが、あちこちぼろぼろだ。いま一覇が座っている木製の椅子も、この施設を十年前に卒業した青年が使っていたお古だ。年数にしては綺麗に使われているが、やはりあちこち削れて塗(ニ)装(ス)も剥げている。

「……つまりお前は、死んだときの記憶がまったくなくて、成仏しようにも出来ない、と……?」

「うんうん!そうそう!」

非常に面倒くさそうに今まで彼女からきいた身の上話を、一覇が総括した。緑のカーペットが敷かれた床に正座した彼女は、なぜか楽しそうに頷く。

一覇はあの後急いで家に……このひなぎく園に帰って夕食を作り、施設の食べ盛りの子供たちと争うようにかき込んだ。手早く食器を片づけてお風呂に入り、二年前にあてがわれてからずっと使っているこの自室に引っ込んで少女の話をきいていた。

濡れた金髪をバスタオルで拭きながら、一覇は正直面倒だと思っていた。

今まで何度も、この手の幽霊に声をかけられてきた。そしてぞんざいにあしらって、強制退場させてきた。

霊子体なんかと関わりたくない。

怖いのだ。「あの日」を思い出して足が竦み、動けなくなってしまうのが。そんな今でも、やはり思い出してしまうのだが。

一覇は苦い顔をして、必死にあの記憶を排除しようとする。

「お願いできるかな……?」

少女は正座をして、机の椅子に座る一覇を上目遣いで見た。ぱっちりとした紅い猫目はビー玉のようにきらきらと輝き、その必死さが十分に伝わる。これまで霊子体とみれば無条件に必死であっちへ行けと振り払ってきた一覇だが、少女の可憐と言える平均を大きく上回った容姿からか、どうにも弱腰になる。

彼女は可愛い。

長い睫毛に縁取られたくっきりとした猫目、形のいい眉、小さめの鼻、ふっくらしたさくらんぼ色の唇、卵形の小顔、艶やかな長い黒髪、細く引き締まった凹凸のある体。すべてが完璧な美少女だった。

男兄弟に男の幼なじみという、母親以外の女性を知らない思春期真っ只中の一覇にとっては、それは破壊力抜群で刺激的な魅力だった。

「いや……でもオレは、霊能力があるだけで、お前と違って戦闘訓練とか受けたことないただの中学生だし」

「大丈夫だよ、君になら出来る!」

「いや、でも……」

彼女の妙な押しの強さにしどろもどろ。断る理由を思わず忘れて、少女の押しに負けそうだった。だが負けずに一覇は踏ん張った。

「お、オレは両親を霊子体……鬼魔に殺された!!だから、だから霊子体が嫌いだ!鬼魔はオレにとって、関わりたくない存在なの!」

あまりにも必死になって、息が上がって肩を上下させる。顔も紅潮しているのが、自分でもはっきりとわかる。

これだけはっきりと拒絶すれば、彼女も引き下がるだろう。しかし、少女の答えは一覇の予想に大きく反したものだった。

「わたしも……わたしも、お母さんを鬼魔に殺されたんだ」

「え……」

ぽつりぽつりと明かされる、少女の闇のような過去に、一覇は今度こそ言葉を失った。

「お母さんは霊障士だったの。仕事中、鬼魔に襲われて……だから君の気持ちはわかるよ」

淋しい背中は、とても切なくて小さい。

これがただのカウンセラーだの精神科医だのという仕(、)事(、)で(、)人生相談を受けるような存在であれば、「お前なんかになにがわかる!」と簡単に突っぱねることもできただろう。別にそういう仕事を否定するわけではないが、本当に経験した者にしかわからないことに簡単な気持ちで同意を示す人種が嫌いなだけだ。

彼女はゆっくりきびすを返して、部屋のドアに手をかける。

「ごめんね、君の事情も知らないで。もうしつこくしないから、安心して……」

ドアを半分ほど開けて、少女は半分泣いているような切なげな、しかしなおも枯れない花のようなひどく美しい笑顔を向ける。

「話をきいてくれてありがとう!じゃあね」

「……ま、待てよ!」

一覇の引き留める声に、少女は振り返った。

「なに……?」

「え、えと……」

伸ばしかけた手が、所在なげに空を切る。

引き留めた理由は一覇自身にもわからない。ただ、彼女の意外にも自分と似た過去を知り、同情したのかもしれない。同情というのもおかしいだろう。

協調?違う。じゃあなにかって問われても、やはり頭に浮かぶ正しい、かつ適当な言葉は浮かばない。

迷って代わりにただ一言、一覇の口からついて出た言葉。

「やっぱ……手伝う、よ」

「…………!」

どうにも気恥ずかしくて、目を合わせて言うことはできなかった。

一覇のその言葉をきいた瞬間、彼女の顔は満開の桜のような笑顔に変わる。ドアノブから手を離して、思いきり一覇に飛びついた。

「ありがとう!ありがとう少年!!」

「や、やめろよ苦しいって!」

少女の意外にも力強い腕の中から逃れて、一覇は絞められかけた首をさする。……ポルターガイストに殺されるところだった。先ほどから疑問ではあったが、なぜ彼女は自分に触れることができるのだろうか。

しかしその疑問符も、一瞬で吹き飛んだ。

「わたしは神(かみ)山(やま)菜(な)奈(な)、享年十七歳。君の名前は?」

彼女は意に介さぬ風な花のごとき凛とした笑顔で、青白く光る細い右手を差し出し、握手を求める。

「日(ひゅう)向(が)……あ、いや、違う河本一覇。現在進行形の十四歳」

少女————菜奈の手を握り返して、一覇はちらりと菜奈の宝石みたいな赤い瞳を見つめた。両親を殺した、恐ろしい怪物と同じ色の瞳を、やはり強く意識してしまう。菜奈はその視線の意味に気づいてなお、ただ柔らかく微笑んだ。

「よろしくね、一覇」

こうして一覇と菜奈の、短いような長いような一週間が始まった。

少年少女の、はじまりの音がする。


翌日の十二月二十五日。

今日は施設で毎年恒例のクリスマス会があるので、料理が得意な一覇は毎年のごとくケーキ作りを義妹に命じられていた。それゆえに、近所に昔からある馴染みの商店街へケーキの材料を買いに来ている。もちろん、菜奈も一緒だ。

商店街は最近できた大型スーパーマーケットの影響で寂れているが、それでもわざわざ選んで訪れる人は多くいる。

一覇もこの古く懐かしい気持ちになる場所が好きで、普段からよく足を運んでいる。

「悪いな、記憶を取り戻す手伝いする、なんて言っておいて……」

「んーん、わたしは別に平気だよ」

プラスチックの買い物かごを持って、一覇は一応素直に済まなさそうに言った。菜奈は言葉通り特に気にした様子もなく、店頭に並んでいる鮮やかな赤の苺とコンデンスミルクのコーナーを楽しそうに眺めている。

「それにしても一覇、妹さんに頼られているんだね。仲がよくて羨ましいな」

なんて本当に羨ましそうに語る菜奈に、一覇はつい嘆息ぎみに答えた。

「パシリっていうんだよ、こういうのは。それに……妹っていっても義理の妹だし」

「義理?」

一覇は買い物かごに色艶のいい苺を二パック入れて、慣れた足取りで次のコーナーに向かう。その道中、他の人にはみえない菜奈にぼそぼそと小声で答えた。

「言ったろ。オレは両親と双子の弟を鬼魔に殺されて、身よりのないオレは今の河本家に養子に出されたんだ」

あの日のことで覚えているのは、揺れるふたつの赤い瞳と、燃えさかる熱い炎。

両親の死体が転がる見慣れたリビングは、あちこちに鮮血が飛び散っている。

「あ……ごめん」

「どうして謝る?」

明らかな動揺を見せる菜奈に対して、一覇はなにも動じた様子を見せず、通路を右に曲がって薄力粉のコーナーにたどり着く。食べ盛りの子供たちと甘党の一覇は食べる量が多いので、大容量で比較的に安価な薄力粉を選んで、かごに放り込んだ。

「だって、その、きいちゃいけない話だと思ったから……」

だんだんとすぼまっていく菜奈の声を受けて、一覇は彼女に顔を向けた。赤い瞳はすっかり輝きが失せて、形のいい眉は見事に八の字を描いている。

たぶん本気で申し訳なく思っているのだろう。そんな表情をされたら、逆にこちらが申し訳なく思ってしまう。一覇は慌ててフォローしようとした。

「は、話したのはオレだ。オレは別に……そのことはなんとも思っていない」

「でも……霊子体が嫌いって」

「…………」

一覇は買い物メモを見るふりをして、今度こそ表情が見えないように俯いた。

確かに言っていた。嫌いだ。大嫌いだ。しかし霊子体が嫌いなのと、養子に迎えられたことは別物だ。今の生活に不便はないし、河本家の人たちが嫌だと感じたこともない。

————でも……。

誰にも打ち明けたことがないひそかな気持ちが、ほころぶ花弁のように少しずつ紐解かれていく。

「……強いて挙げるなら、苗字かな」

「苗字?」

今度こそ菜奈に向き合って、いまいち感情が曖昧な苦笑を浮かべた。

はっきりした理由は、自分でもよくわからない。

「養子にきて二年になるけど、河本って慣れなくて。つい日向って名乗っちまうんだ」

菜奈にもその名は聞き覚えがあった。

「二年……日向って、もしかしてあの日向家?」

「うん…………」

日向家は、絶対血統家の中でも有名な皇(こう)槻(づき)家の分家筋だ。

絶対血統家とは、霊障士を束ねる政府機関「霊障庁」のトップを治める三つの家柄の通称だ。

古くは安倍晴明、今は無き土(つち)御(み)門(かど)家の分家である皇槻家。由緒正しい神社の末裔である結城家。絶対血統家で唯一、鬼の血を引く矢(や)倉(くら)家。

その華々しい家系の中で、日向家は有名な霊子科学者を輩出する名家だった。

しかし一覇の祖父、一(いっ)誠(せい)の行きすぎた研究に疑念を抱いた実の息子、慶(けい)一(いち)は妻と子ども二人を連れて家を離れた。横浜市内で家族四人、慎ましやかな生活を送っていた。

しかし二年前、一覇の十二歳の誕生日に、一家は鬼魔に襲われる。一覇も殺されそうだったところを、当時現役の霊障士をしていた義父に救われて、しかも新しい家族を与えてもらった。

「八(や)尋(ひろ)さんには感謝してるんだ。明日香さんや妹……宝にも。でもさ、正直家族って言われても、イマイチぴんとこないんだ」

「……」

義母の明日香も義妹の宝も、今は海外で仕事をしていて滅多に帰らない義父の八尋だって、一覇が養子だからと態度を変えたりはしない。むしろ努めて優しく温かい、普通の家庭を与えてくれている。

「もう、かもしれないんだけど……オレにとってはまだ、二年で。その二年で、オレは“家族”と距離を縮めてきたかって言われると、全然そんなことしてない。むしろ遠ざけてたかも……だから他人って感じしかしない」

これは一覇の気持ち次第で変わることなのだ。

だが一覇はまだ、なにも心の準備ができていない。自分だけが燃えてしまったあの家でぽつんと取り残されていて、いつまでも歩きだせない。本当は歩けるはずなのに、立ち止まっているのだ。

想いを強さに変えられたら……弱い自分は踏み出せるのに。風に押される瞬間を、ただ待っているだけ。そんな自分も、嫌いなんだ。

「ごめん」

一覇の話を終えたところで、菜奈はまた謝った。

「な、なんで謝るんだよ……!?」

見ると菜奈の目尻には光るものが浮かんでいたので、一覇は動揺を取り繕うのも忘れてしまった。

「わたし、一覇の気持ち全然わかってなくて、自分のことでいっぱいで、頼みごとしちゃって……」

「…………」

一覇はなにも言葉をかけることができず、菜奈の少し高い肩に手を軽くかけた。自分でもその真意はわからない。ただ、菜奈に悪いことをしたと感じた。

そして一覇は次にバターとホイップクリームを求めて、冷蔵庫に向かった。

一通りの材料を揃えて家に帰り、まずは薄力粉を振るいにかける作業から始めた。二時間ほどで全行程を終えて、スポンジが焼きあがったところで泡立てて冷やしておいたホイップクリームを冷蔵庫から取り出し、苺を等間隔で盛りつけてからスポンジの上に乗せる。

「……食べるか?」

不意の一覇の誘いに菜奈は首と両手をぶんぶん振って、慌てるように答えた。

「い、いいよ!ユーレイはお腹すかないもんっ!」

だらだらと滝のように流れる涎を見てしまうと、その言葉は説得力に欠ける。

「ならヨダレ隠せよ……」

と呆れながら言って、一覇はクリームを指につけてそれを菜奈の口に突っ込む。すると菜奈の口は素直にそれを吸い込み、

「……二ヶ月ぶりの食事……!!」

目を輝かせてじっくり味わっていた。

「あとでこっそりケーキもとっておいてやるよ」

「ほんと!?」

無邪気に喜ぶ菜奈を背に、切った苺を乗せて、半分にしたスポンジを上に乗せる。全体をクリームで均一にコーティングして、苺を等間隔に飾って残ったクリームをホイップして美しくデコレーションする。まるで本職のパティシエのような仕事ぶりだ。

仕上げに一緒に買った砂糖菓子の飾りものを真ん中に乗せて、クリスマスらしくしたら皿ごとラップに包んで冷蔵庫に入れる。

「さて、終わって時間もあることだし、中華街に行くか」

腰に巻いていたエプロンを外して洗濯かごに入れた一覇は、そう言って息付く間もなく自室に財布が入ったバックパックを取りに行く。

「え、なんで?パーティは?」

財布の中身を確認したあと、壁にかけられた時計を見て請け負った。

「七時からだから大丈夫。それより少しでもやることやろうぜ」

「やること?」

おいおい忘れてるのかよ……と少々ずっこけながらも、一覇はきちんと自分の考えを説明した。

「お前がいた場所に、何かヒントが残っているかもしれないだろ。お前の記憶に関するヒント」

「あぁ、うん、そうだね。行ってみよ!」

なんだか嬉しそうにスキップする菜奈を追いかけて、一覇がだだっ広い玄関ホールで靴を履いていると、

「おにいちゃん、どこか出かけるの?」

ふわふわした茶色いショートヘアをした長身の少女が、ちょうど外から帰ってきた。背中の大ぶりな水玉模様のリュックには、柔道で使う道着が入っていることを一覇は知っている。

「宝」

義妹はくんくんと小さな鼻をひくつかせた。

「ケーキの匂いがする……約束通りに作ってくれたんだね、ありがとう。それで、その人は誰?お友達?」

「え……?」

宝が指した先には、菜奈がいる。一覇も菜奈も驚いて目を見開いて顔を合わせる。

しばらく時間をかけて、宝におそるおそる問いかけた。

「……みえるの?」

「みえる、ってことはその人は幽霊なの?」

霊能力は遺伝することが多いらしい。そういった意味では、元霊障士を父に持つ宝は、自然なことかもしれない。今までそれに気づかなかった一覇は、内心で自分を馬鹿、と思いつく限りの言葉で罵った。

「おにいちゃん……」

案の定、宝はひどく心配そうな不安そうな顔をしていた。

両親に似て、お人好しの義妹のことだ。きっと事情を話せば手伝うと言うかもしれない。だが、一覇はそれはさせたくない。もう身近な人を、霊子体と関係させて失いたくないのだ。しかし

「わたしに出来ることがあったら、何でも言ってね」

宝は笑顔でそれだけ言って、自室に引っ込んでいった。ふたりは疑問に思って顔を見合わせた。彼女がなにを思ってそんなことを言ったのか、このときの二人には理解できなかった。

相鉄線の二俣川駅を出発して、おおよそ三十分くらいかけて終点の横浜駅まで来た。そこからしばらく歩いてようやく、目的の中華街に着く。それから雑踏のなかをまたしばらく歩いて、若干入り組んだとある路地までやってきた。

「ここが、お前がいた場所だったな」

「うん……」

ここが一覇と菜奈が出会った場所だ。一見してなんの変哲もない路地である。周囲を見回して、一覇は手近の店の入口に入った。そこはこの中華街でもわりと有名な、パンダの雑貨が所狭しと置いてある小さな土産物屋だった。

「いらっしゃいませ」

今は客入りが悪いのか、暇を持て余した大人しそうな女性の店員が穏やかな声で、客として一覇を出迎える。

「すいません、少しお話をききたいことがありまして……」

「はい、なんでしょうか」

一覇は用意していた言葉を、店員にかける。店員はとくに疑問に思わず、聞き入れてくれた。

「この辺で一ヶ月半前に、鬼魔関係で事件がありませんでしたか?」

一ヶ月半前、菜奈はこの場所で死んだ。

鬼魔関係だと踏んだのは、菜奈が第四種霊障士、霊障士の見習いだということだ。もちろん、ただの人間に殺された可能性だってある。だが、ここ最近は鬼魔による事件の方が多い。

何秒もかからないうちに、店員は思い至ったようで話してくれた。しかし、それは一覇の予想とは大きく違ったものだった。

「第四種霊障士による、父親殺害事件……?」

彼女は思い出しながら答えているのか、ときどき言葉を澱ませた。

「えぇ。久木の女子生徒が、霊障武具を使って実の父親を殺したらしいんです。えぇと、でも、その女の子はすぐあとに自殺したって……結構ニュースになってましたよ」

そういえば、一時期そんな話を耳にしたこともあった。一覇にもおぼろげだが覚えがある。それは確かに、よく思い返せばおおよそ一ヶ月半前の話だ。

ひとしきり感じのいい女性店員に話をきいて、店をあとにした。

「穏やかな話じゃないね」

菜奈の言葉に、一覇は重々しく首肯する。

「あぁ……って自分のことだろ。そんな他人事みたいに……」

「だって現実味がないんだもーん。お父さんを殺した、なんてさ」

菜奈は吹けもしない口笛を吹いて、両手を頭に当ててすたすたと歩く。

ふと、一覇は気になることがあった。

「なぁ菜奈。お前、生きていた頃の記憶はどれだけあるんだ?」

確か、母親が霊障士で、仕事中に死んだことはすでにきいた。自分が死ぬ直前の出来事をいくつか覚えていれば、なにか見落としていた手がかりがあったかもしれない。しかし菜奈は、うーんと腕を組んで首をひねる。考えをめぐらせながら指折り数え始めた。

「わたしは神山菜奈、十七歳。お母さんは霊障士で、お父さんは横浜銀行の銀行員。お母さんはわたしが七歳の頃に亡くなったから、それからずっとお父さんと二人暮らし。私立久木学園の外部生で、霊子科学科霊障士専攻の二年生。……って感じかな?」

「死ぬ直前はなにをしてたんだ?」

しかし菜奈は両手を外国人のオーバーアクションのように挙げて、へらっと笑う。

「さぁ?そこまでは思い出せないわ」

「……そっか」

手がかりが少なすぎて、どんな名探偵でも解けないだろう。少なくともただの中学生には無謀だ。などと諦めそうになるが、とりあえずさっきの女性店員が言っていた事件を出来うる限り調べてみようと決めた。

「一覇ー?一覇さん」

菜奈に肩をつつかれて、一覇ははっと思考の底から抜け出した。

「なんだよ」

「もう六時だけど、大丈夫?」

「あっ……」

一瞬、彼女がなにを言っているのかわからなかったが、すぐに思い至って腕時計を確認した。時刻はとうに、午後六時を過ぎている。

クリスマスパーティーは七時からで、ここから家までおおよそ一時間はかかる。遅刻すると義母も義妹もうるさいし、せっかくのご馳走は全部残らず子供たちの胃の中に入ってしまう。

走らなくては間に合わない。一覇は横浜駅まで全速力で走って、ちょうど来た電車に飛び乗って帰る。

運よくパーティーはぎりぎりで間に合い、子供たちが騒ぐなかでフルコースのご馳走にありつけた。


あっという間に十二月三十一日、大晦日になった。

あれからなんやかんやあって、事件のことは調べられていない。

なんやかんやとは、主に冬休みの宿題だ。肝心の事件については、宿題に追われて全く着手出来ずにいた。だが今日、死にもの狂いで宿題のドリルを片づけ、ついでに大掃除も手伝わされ、閉館ぎりぎりの図書館に来たのだ。

菜奈が相変わらず他人事のように遊んでいる間に、一覇は新聞のスクラップを漁っていた。十一月上旬の記事を席に持って行けるだけ図書館の司書に出してもらって、手当たり次第に漁っている。基本的に世間のニュースに興味が薄い一覇の記憶は定かではないので、いったい何日の事件かはわからないのだ。

「……っ」

そのとき。突然、目の前が真っ暗になりそうな感覚が襲った。堪えきれずに机に肘をついて、ひどく重く感じる頭を両手で支える。

こんなときに風邪だろうか。いや、そんなことは今はどうでもいい。とにかく事件の手がかりを探さなければと、新聞記事に手を伸ばす。

そこで、なぜかふと思った。

行きずりとはいえ、なぜ自分はこんなにも他人のことで必死になっているのだろうか。

霊子体と関わることは嫌いだ。それは今も変わらない気持ちだ。菜奈はその霊子体で、一覇とはなんの縁もない。

なのに、いったいなぜ……。

「なぁ……菜奈」

「なぁに、一覇」

子供向けの大判サイズの童話を読んでいた菜奈が、一覇に目を向けず返事をした。

「どうして……オレを選んだんだ?霊能力のある人間なんて、いまどき探せばたくさんいるだろ?」

自分には価値が見当たらないから、ひとが選んでくれた理由がわからない。

今も真っ黒な世界で、手さぐりで探している。

どうしてよりによって自分の家族がいなくなったのか。どうしてあの日、義父は自分を拾ってくれたのか。義母と義妹が優しい理由。

————オレが生きる理由があったら。

すると菜奈は絵本を閉じて、窓の外を眺めた。冬晴れの空は、もう日が傾いている。夕日の色と同じ赤に染まった瞳で一覇を捉えて、菜奈はゆっくりと自分の気持ちを確認するように答えた。

「……一覇が淋しそうな瞳をしていたから、かな」

「淋しそう……?」

一覇のおうむ返しに菜奈はこくりと肯いて、優しい光をたたえた瞳で一覇を見つめる。鬼魔と同じ鮮血の色なのに、どうして彼女の瞳はこんなにも真っ直ぐで温かいのだろうか。

そんな一覇の複雑な気持ちを知ってか知らずか、菜奈は優しく目を細めた。

「一覇がわたしと似ている気がしたから。生きている理由を探して、夜をさ迷っているような……」

生きる理由が見つからない。自分に価値なんてあるのだろうか。このままどこかへ消えて死んでしまっても、誰も悲しまない。だってオレには家族がいないから。

————でも。

「一覇にはもう、そんな悲しい思いをして欲しくなくて。それならわたしに出来ることを、少しでもしてみようって思って」

一覇は思わず笑った。彼女も大概お人好しだ。

「まず自分のことだろ。なんでそんなお節介なんだよ」

菜奈もそれはおおいに自覚しているらしく、妙に納得して瞳を閉じた。

「はは、お節介。そうだね、お節介だ。でもわたしはもう、誰にもわたしのような思いをさせたくないんだよ」

————でももし、こんなにも想ってくれるひとがいるなら。

菜奈のそのお節介が、気づいたら一覇の胸にこんなにも染み渡っていた。

一覇はこの二年間、積極的に他人と関わらないように生きてきた。

それは他人と関わることで、その人がいなくなったときに自分が傷つかないようにするためだった。両親と弟の死は、それほど一覇に深いトラウマを植え付けていたのだ。だからもう悲しまないように、傷つかないように、他人との距離を置こうと思っていた。それは霊子体も例外ではなく、一覇はこれまでたくさんの霊子体の声をはねのけていた。

でも菜奈だけは決して、はねのけられるようなものじゃなかった。どうして?

————わからない。この必死さは、どこから来るものなのだろう。

「菜奈」

「なに?」

「菜奈はどうして、記憶を取り戻したいんだ?」

きいてはいけないことかもしれない。浅慮な質問かもしれない。それでもきかずにはいられなかった。彼女はどうして、こんなにも必死に“生きて”いるのだろうか。

自分の答えは迷ってしまってわからないから、どうか教えて。

彼女のこころの奥を見たい。少しでもいい知りたいんだ、菜奈のこと。彼女の答えがわかったら、自分にも光が差し込む気がする。

菜奈は絵本を両手で弄びながら、一覇の問いにかなり曖昧に答えた。

「……思い出さなきゃいけない気がするから……じゃだめ?」

「どうして……?」

菜奈は喉がつかえたように、胸に手を当てる。ゆっくり、ゆっくりでいい。自分の本心にそっとノックをして。

「こころの奥がざわざわするの。覚えてないなら、それは思い出さなくてもいいことだって思うかもしれないけど……。でもね、事件のことを知って、余計に思ったんだ。もしあれがわたしのことだったなら、思い出すべきなんだって」

大好きなお父さんを殺したわたし。

そんな自分は信じられないから、だから記憶の扉を閉じてしまったのかもしれない。逃げてしまったのかも。

真実を知ることは堅く信じていた世界をひっくり返すことに等しく、すごく怖い。けれど、知らないままでいることは許されないから。

だから今は、少しだけ歯を食いしばって。この身に風を受けるの。

「……そっか」

菜奈の本当の気持ちに、ほんの少しだけ触れられた気がする。一覇の表情がわずかにほころんだ気がした。

そして一覇にはもうひとつ、気がついてしまったことがあった。

「菜奈は……強いな」

家族を失ってもなおそう思えるのは、芯の強さ以外にないと思う。

「オレには出来ない……」

弱々しく反響する一覇の声。

家族を失ったとき、一覇の中には絶望と淋しさしかなかった。今もそう。常に守ってくれる誰かを求め、しかし失う怖さを思い出して怯え、誰にも支えを必要としない。

オレはひとりで生きていけるんだ、って無駄な意地を張っている。

それは……。

「一覇は……弱いね」

落胆でも同情でもない、菜奈の言葉はただ一覇が逸らしていた真実を的確に突いている。

『オレは弱い』。そう口にすると、本当に弱い気がして怖かった。言葉は吐き出した途端に、ホンモノになるから。

実際は弱いんだと思う。でも何も言わずに、ただ誰かが気づいてくれるのを待っていた。そしてそれは————彼女のことだったのかもしれない。

「はは……そうだな、オレは弱い」

どこか乾いた笑いがこみ上げる。目の奥がじんと熱くなる。

ついに言った。認めた。

もし……もし、両親と弟が意思のある幽霊として存在していたら、きっと生き残った自分を責めたかもしれない。

ひとりだけ守られて、生き残って。

「お前がいたから自分を守れずに死んだんだ」って言われたかもしれない。罵って、見放されたかもしれない。

霊子体を恐れていた本当の理由は、家族が霊子体になっていたら、合わせる顔がないからかもしれない。

責められてなじられることが一番怖いから。「お前が死ねばよかったんだ」って、存在の否定をされるのが嫌だから。嫌われたくないから。だから……たぶん……。

「でも……一覇は強いよ」

「……え?」

菜奈が言わんとしている真意が読めなくて、一覇はきょとんとした顔をした。

彼女も自分の言葉が足りないことは理解しており、慎重に選びとった答えを告げる。

「どんなに怖い目に遭っても、苦しい思いをしても、泣かないでこうして立ち向かってる。暗い道でも、脚が折れてしまっても進んでる。一覇は弱くて、強いんだよ」

「…………なんだよそれ、矛盾しすぎ」

一覇と菜奈、ふたり揃って顔を示し合わせてくすりと笑った。

そんなこと、思ってもみなかった。

「立ち向かっている」?ただ逃げ回っているだけではないか。誰とも関わらずに生きていこうと、そうしているだけだ。死ぬことだって何度も考えた。

でも、怖くて出来なかった。自分が一番可愛いのだ。痛いことも苦しいことも嫌だ。それから全部、逃げてしまいたい。

自分の弱さと向き合えないから、生きることも死ぬことも、どちらも等しい選択だとは思えない。生きることも死ぬことも、どちらも生き残った自分には罪だから。

「一覇……ひとつ、信じてもらいたいの」

菜奈はそっと、震える一覇の手を取って自分の手のひらで包み込んだ。霊子となって冷たいはずのその手は、太陽のようにとても温かい。

「一覇はとっても愛されていたんだよ。愛していたから、だから家族はその命を守ってくれたんだよ」

「でも……そんなの逃げだ、都合のいい綺麗事だ!本当のところは……わからないだろ……?」

喉が震えて、弱々しい声が反響する。目頭が熱く、今にも泣きだしてしまいそうだ。

答えが欲しいのか、いらないのかわからない。なんて言ってもらえば気が済むのか、それともこのまま嫌いになって離れてもらいたいのか。

一覇の震える小さな肩を、菜奈は落ち着かせようと手のひらで包むようにさすった。

「愛していなくちゃ、本当に命を投げ出すことはできないよ。皮肉かもしれないけど、散っていった家族の命がその証として刻まれている。一覇ができることは、その愛に報いて一生懸命生きること。その義務を投げ出すことこそが罪だよ」

「……そう、なのかな……?」

そうなのかな。

家族は今も、自分を愛してくれているのだろうか。自分は、生きてもいいのだろうか。ここにいてもいいのだろうか。

雲が晴れて淡い銀色の月灯りが広い窓に差し込み、一覇と菜奈の空間を静(せい)謐(ひつ)に照らしだした。

白くなめらかな菜奈の頬を影がなぞる。

「……残酷なこと言ってるよね。生き残った君に、『生きろ』なんて。でもね」

彼女の顔に迷いや同情、嘘偽りといった負の感情は一切見えない。ただその石(ざく)榴(ろ)石(いし)のような透き通った紅色の瞳に、死者ならではの深い悲しみが浮かんでいる。

「少なくともわたしは君に生きて欲しいって、思っているんだ。たとえわたしが世界から消えちゃっても……その想いは消えないから」

ふわりと、甘いミルクのような香りが一覇の鼻腔をくすぐった。菜奈に抱きしめられて、彼女の肩に頬を埋める。視界が歪んで、嗚咽がこぼれる。

「君は生きていいんだよ」

ひとは必ず、誰かに望まれて生まれる。君の生命そのものがその証なのだ。

どこかで迷ったときは、自分の生命に触れてみて。答えは流れ星が教えてくれる。


図書館が閉館する時刻まで、もうあとわずかになった。

片付けがしたい司書の女性に半眼で見られながらも、一覇と菜奈は一所懸命に新聞記事に目を通す。

「あ、もしかしてこの記事じゃない?」

ふいに菜奈が、一覇がほとんど無意識にめくったページを指した。そこには確かに、あの土産屋の店員が言っていたと思われる事件の記事が載っていた。一覇は眼鏡を押し上げて、記事の一部を読み上げる。

「『被害者は神(かみ)山(やま)嗣(つぐ)春(はる)、四十三歳』……菜奈の父親で間違いないか?」

「うん……お父さんの名前だ」

菜奈は懐かしいように愛おしそうに、新聞の面を指の腹で撫でている。

「「…………」」

ふたりは黙りこんで、そのこじんまりとした記事を凝視した。

事件の概要は、店員の言っていた通りでおおむね合っている。久木学園の霊障士専攻の女子生徒が、霊障士専用の武器である霊障武具を不正に使用して父親を殺害、その後自害したという凄惨な内容だ。犯人死亡で不起訴、それ以上事件について調べられることはないようだった。

「あはは」

「?」

突然笑いだした菜奈を、一覇は怪訝な表情で見上げた。菜奈は眉を八の字にした、感情が曖昧な笑みを浮かべている。

「わたしも……とんだ化け物だねぇ」

「そ、そんなこと……っ……」

————本当にあったとは限らないだろ!

否定しようと立ち上がった途端、一覇に先ほどの立ちくらみのような感覚が襲った。床に倒れて、迫りくる吐き気を抑えるように毛の短い絨毯を握りしめた。

そのすぐそばに、唇をかんだ菜奈が膝をついていた。

「ね……一覇。君も本当は気づいてるよね?わたしに霊子を奪われていっていること」

「……!?なにいって……」

菜奈は改めて一覇の手に触れる。

数日前までなかった“生き物としての当然の温かさ”がある。

幽霊には絶対にないはずの温かみ。青白かったはずの肌は、ほんのり桃色が差している。毛細血管と心臓の生々しい鼓動すら感じられるほど、菜奈の身体は生きていた。

本当は気づいていたはずだ。いや、気づけたはずだ。この一週間、菜奈はずっと一覇のそばにいたのだから。

ひとはときどき、現実を見失うように出来ている。

恋に焦がれる乙女と同じだ。恋に恋して人生を棒にふる、茶番を見せられてようやく覚める馬鹿な娘。

菜奈自身も感じている、自分の身体の確実な変化。

「わたし……一覇の霊子を奪って、どんどん本当の化け物になっていってる。このままじゃ、一覇は死んじゃうよ……」

「し……」

————死ぬ?

一覇は言葉を失った。

現実味が無さすぎて、思考が追いつかない。自分が死ぬなんて、そんなこと考えられない。

でも確かに、幽霊にとり憑かれた人間は霊子を奪われて死ぬと、学校の科学の授業でも学習している。

素粒子が原子の人間でも、根幹の魂と表記される部分は霊子でできているのだ。その霊子を、霊障士は霊障武具に転用しているのだ。人間にとっても霊子はとても大切で、切っても切れない関係なのだ。

その霊子————つまるところ魂が奪われたら、どうなるのか。

もちろん魂のない生物は存在しない。さまざまな方法にせよ、魂を抜かれた生物は、その時点で死ぬ。

————死んだら……どこへ行くのだろう。

天国?地獄?

黄泉の国?あの世とこの世?

そんなもの、死者への未練がある生者が勝手に造り出した、くだらない妄想だ。離れてしまって淋しいから、ここにいるんだって縛って感じたいだけ。

死んだらどこへ行くか……本当に知ることはできない。誰も知らない。

ひとが死を恐れる理由は、どこに行くのかわからないから。

————わたしも……怖いよ……。でもね。

突然菜奈が立ち上がり、一覇は目で追う。菜奈の表情は俯いていてよく見えない。だが温かく光る雫がこぼれて、一覇の手のひらにはらりと落ちた。

「巻き込んで……ごめんね。ばいばい」

菜奈は走り出して、一直線に図書館の出口に向かった。その背に向かって、一覇は叫んだ。

「菜奈……っ!」

叫ぶことしか、できなかった。体が重くて動かないので、腕を伸ばすだけで精いっぱいだった。瞼も異様に重い。でも決して閉じまいとして、必死に膝を伸ばす。鉛のような身体に鞭を打って走り、司書の女性の怪訝な顔も無視して図書館を飛び出す。外に出ると太陽はとうに沈んでいて、深い紫色の空が広がっていた。学校や会社から帰宅するひとびとの波の中で、いくら周囲を見回しても菜奈の姿はどこにもない。

「くそっ」

一覇は寒さに悪態をつきながら、思いつく限りの場所を探した。公園、施設、商店街。そして最後に来たのが、菜奈と最初に出会ったあのなんの変哲もない路地だった。

時刻はとっくに七時を過ぎている。冬至を過ぎた横浜の寒さは厳しく、空のどんよりとした雪雲による暗さも相まって、一段と冷ややかに感じられる。繁華街は色とりどりのネオンに煌々と照らされて、行き交う大人たちは皆疲れているようにも見えた。

その大人たちの波を押し退けて、一覇は路地へとたどり着いた。しかし、そこには散乱したゴミと野良猫だけで誰もいない。

「どこにいるんだよ……菜奈……」

たちのぼる湯気が混じった吐息とともに、吐き出すように呟いた。

一覇にはもう、菜奈がどこにいるのか見当もつかない。

菜奈がいまなにを思っているのかわからないし、そもそも彼女のことは名前くらいしか知らない。好きな色とか、嫌いな食べ物とか、どこに住んでいて、なにが得意なのかとか。全然知らない。

結局のところ、一覇と菜奈はたった一週間という短い時間を共有しただけの仲だ。たったそれだけなのに、なにもかもわかった気になっていたけれど、しょせんはその程度だったのだ。

「…………っ!」

あの日の菜奈のように、汚れた電柱の根元に身を寄せて静かに泣き崩れる。

行き交うひとびとの不審がる視線も無視して、ただいつもの菜奈の姿を思い浮かべる。とびきりの笑顔、ちょっと不安そうな横顔、悪戯っぽいウインク、一覇を想うときの優しい微笑み。

本当の菜奈は、鬼魔とか幽霊とか人間とか関係ない、ただの女の子なんだ。

自分が情けない。こんなときに、なにもできない自分が悔しい。

行き場のない憤怒の感情があふれて、拳がコンクリートをむなしく叩く。

————優しい言葉をかけることも、そばにいてあげることすらできないなんて……っ!!

菜奈の温もりがそこに残っているのを惜しむかのように、一覇はしばらくその場を離れようとしなかった。どこかにいる菜奈を探すように、地面にぺたぺた触れる。

しかしやがて、諦めを覚えるようになる。

もう彼女のことは忘れよう。離れて、とり憑かれた状態をリセットしよう。そうすることが、自分のためにも、菜奈のためにもなるのだ。

そうよく言い聞かせて、一覇は路地を出ようとしたのだが、その瞬間ふいに体が浮いた。

「!?」

鋭い痛みが腹と背中を襲った。確かな浮遊感が去って路地に投げ出されたとき、一覇は肋骨に鈍い痛みを感じた。これは多分、骨が折れている。呻きながら痛い部分をさすったが、痛みを誤魔化すどころか痛覚が強まった。

「あ……しゅで……しゅでん……どうじ、さま……?」

次いでやけに掠れて耳障りな声が、一覇の耳を打つ。痛みをこらえて視線を上げると、細くて大きなシルエットが目の前にあった。

暗い中でもぬらぬらと輝く、皮を剥いだような赤黒い肌は、心臓のようにどくんどくんとやや不規則に脈打っている。ぎょろりと大きな双眸はぎらぎらと赤く輝き、ひどく血走っている。手足が異様に長く、黒い爪は恐怖を覚える鋭さを誇っている。耳は尖って横に張り出していて、さながらロールプレイングゲームに出てくるクリーチャーのようだった。

霊子体……いや、これは原子体に害なす「鬼魔」にカテゴライズされる————悪魔だ。

悪魔は大きな口を三日月型に開き、黄ばんだ鋭い歯を見せつける。肉を削がれた骨だけのような手には、血で錆び付いた汚いノコギリ。そのノコギリを紙を持つように軽々と持ち上げて、ひたひたと近づいてくる。

「しゅで、ん……どうじ……さま……」

相変わらず、言葉が不明瞭である。察するに「酒(しゅ)呑(てん)童(どう)子(じ)」とでも言いたいのだろうか。

酒呑童子といえば、確か鬼魔カテゴライズの最上位・鬼の中でも最強の頭領だ。

平安時代にかの安(あ)倍(べの)晴(せい)明(めい)の子孫である高名な陰陽師、安(あ)倍(べの)藤(ふじ)波(なみ)が封印しているという横浜でも有名な伝説があることをちらりと思い出した。

しかし今はそんなこと、どうでもいい。

にじり寄ってくる悪魔から逃れるために、一覇は痛む体を無理矢理に引きずる。

だがそれも、長くは続かなかった。背中と踵に冷たいコンクリートの感触が当たったので振り向くと、そこはもう袋小路だった。三階以上ある雑居ビルに囲まれていて、どう足掻いても逃げ場はない。

死を、覚悟した。

両親に、弟に、義父に、義母に義妹に心底で申し訳なく思う。せっかく助けてくれた命を、こんな形でこんな簡単に終わらせてしまうなんて。

そしてそれよりもなによりも単純に、死に対する純然たる恐怖が胸を貫いた。

死んだら、どこへ行くの?ここより痛くて暗くて怖くて、冷たいところ?

「……あ……っ」

助けを求めようと、声をあげようとした。

だが変声期前の甲高い声は、今は嗄れて詰まり、声というものにならない。感情に呼応して肋骨が痛み、苦痛で顔を歪める。歯を食いしばり、心拍数が上がって、冷たい汗が流れる。

じゃり、と自分の足がコンクリートを踏みつける音も、遠くで響いているように聴こえる。悪魔との距離は、目に見えて近くなっている。

————……誰か、誰か助けて。

あと数歩で悪魔と一覇の距離がゼロになる、そのときだった。

突然、悪魔の長躯は右に吹き飛ばされ、冷たいコンクリートに乱暴に打ち付けられた。悪魔の体を打ったのは、そこら辺に転がっていたはずの古びた角材だった。

悪魔は何が起きたのかわからず、ただ痛みに呻いている。

その間に、一覇の左腕が誰かに強く引っ張られて、無理矢理立ち上がらせてくれた。その誰かは夜の闇のように長く美しい黒髪をたなびかせて、一覇の腕を強く引いて夜の街を駆け出した。

————菜奈……。

一覇はその背を映画館のスクリーンで見ているような遠い感覚で、ただ黙って全力疾走した。

中華街のネオンサインがだんだん遠ざかっていって、


すぐ近くの山下公園まで来て、適当な茂みに隠れた二人の息は上がっていた。冷たい空気をいっぱい吸い込んで、荒くなった息を整える。

「……どうしてあそこにいるって、わかったんだ?」

開口一番に尋ねると、菜奈は無理矢理に笑ったような努めて明るい声音で答えた。

「偶然だよ」

そこで一覇は、菜奈と手を繋げたままであることに気づいて、頬の温度が一気に熱くなる感じを覚えた。悟られないように離そうとするが、菜奈は一覇の腕をがっちりと握っていて無理だった。なかば自(や)棄(け)になって、話を逸らせる。

「……悪魔は?」

一覇の問いに答えるために菜奈は茂みからそっと顔を出して、周囲を見回す。それから柔らかい芝生に腰を掛けて、

「追いついていないみたい」

菜奈のその答えを聴いて、一覇は心底安堵した。いかり上がっていた肩が、すとんと落ちる。だが菜奈は体を強ばらせて、きわめて真剣な声を引き絞る。

「でも、どちらにしろわたしたちがあいつを引きつけて、時間を稼がないと。このままにしていたら、あいつは……たくさんの人を殺すかもしれない」

「そう……そうか……」

それもそうだ。あの悪魔を放っておいたら、何人もの、何十人もの死者が出ることは請け負える。

頼りの霊能力者は近年では科学的に証明、立証された存在だが、本来はそうそういないものである。そして霊障士は、その霊能力者の中でもほんの一握りの希(け)有(う)な存在なのだ。その辺を適当に探して、すぐに見つかるようなものではない。

となると、一覇たちに残された選択肢はたったひとつ。

一人が囮(おとり)としてあの悪魔をできる限り引きつけて、残る一人が短時間でどこかの電話を借りて通報するか、警察に直接赴いて知らせる。霊障士を呼び、退治してもらうのだ。

二〇〇六年現在の日本において、有事の際に霊障士に直接繋がるようなホットラインはいまだ普及していない。関連法案が先月初めの国会で、ようやく提出されたレベルだ。肝心のそれも議員の間でひどく揉めていて、いつ成立するのか見通しがまったく立たないと、今朝のテレビニュースでも混乱の議事堂内が放映されていた。

「……囮役は、わたしがやる」

「え……」

菜奈の静かな決意と熱い闘志に、一覇の心臓はひどく跳ね上がった。

今はそれしかない、と頭では理解できる。

一覇には霊子科学において、一般以上の知識があるわけではない。喧嘩もろくに経験がなく、ましてや自分の手でひとを傷つけたことなんてほとんどない。

そんな一覇と、かたや国内最高峰の霊子科学学科在学の————比較的に最近のことだが、生前において————菜奈を比較すれば、これが今の最善の選択であると、誰が見ても理解できる。だが、それでも。

「だめだ」

「なんでよ!?」

どんな反論を受けても一覇の気持ちは、なによりも固いものだった。

菜奈も必死に訴えるが、それでも一覇の想いは一ミリとも揺るがない。

「もう二度と、大切な人を失いたくないんだ」

両親、双子の弟。

みんな、自分を守ってくれて死んだ。もうそんなことは御免だ。もう守られるだけなんてことは、絶対にあってはならない。

オレにだって誰かを守ることができるんだって、そのために生きているんだって、証が欲しい。

誰かを愛する資格が……。

「それって……」

————わたしのこと、少しでも大切だって思ってくれてるってこと?

菜奈の言いたいことを最後まで聞かずとも、一覇は自分が言った意味のすべてを理解したらしい。意識して、真っ赤に染まった顔をうつむけ、こくんと首を前に傾ける。

その瞬間、菜奈の頬は急激に熱くなり、蒸気する。

十七年と少しだけ生きてきて、男の子に告白されることなど初めてのことだった。しかも年下の男の子に。いや、これを告白ととっていいものか、一覇の真意はわからない。

一覇は顔をうつむけたまま、菜奈の手を握った。その手は成長期の少年らしくやや骨ばっていて、ひどく熱い。一覇の熱が霊子が、じんわりと菜奈に移動するさまがわかった。

「だから……行くな、菜奈」

ようやっと合った視線は、痛いほどの悲しみに溢れていた。一覇の青く大きな瞳は、心なしか潤んでいるように見える。

違う……違うよ、これは《恋》じゃない。

この子はただ純粋に、わたしのことをひととして大事に想っているんだ。それだけ……なんだよね?

そう気づいたら、なんだか恥ずかしくて更に頬が上気する。なにを勘違いしていたんだろう。期待していたのだろう。

「で、でもね一覇……一覇は携帯、持ってる?」

照れ隠しで菜奈の方から顔を逸らして、たなびく艶やかな黒髪をするりとかきあげる。

「……ない」

そういえば、とたったいま気づいたような暗い顔をして、一覇は頷いた。

携帯電話は義母が一覇の身の安全のために持たせたがっていたが、一覇本人と義父が必要性を感じないからと突っぱねたのだ。普及が進んではいるものの、中学生で持っている子の方が少ないし、なによりべつにそこまでマメに連絡をとる相手もいない。

だがよもや、こんなときにあればよかったと後悔する羽目になるとは。

菜奈も弱ったな、とため息混じりに相槌を打つ。

「でしょ。わたしも死んだときには持ってなかったみたいだし。ここから派出所とかがある通りもない。つまり、助けを呼ぶには公衆電話を頼るしかないんだけど、それも無理じゃない」

携帯電話の広まりに伴って、公衆電話は町から徐々に姿を消してきている。公衆電話を探すよりは、交番を探した方がまだ確率は高いと思われる。

だがここから一番近くの派出所は、せいぜいみなとみらい線の元町駅の前だろう。少なく見積もっても、走って五分はかかる。

それでも一覇は反論の言葉を探した。

「でも」

「でもじゃない。わたしに……今はわたしたちにしか出来ないことなの。あいつをこのまま放っておいたら、絶対に死者が出る」

「…………」

形成は逆転した。

一覇はこれ以上は一言も発さずに不承不承で頷き、呑み込んだいろいろな言葉の代わりに菜奈の手をいっそう強く握った。

菜奈は微笑んで一覇の手を優しくふりほどき、スカートに付いている右側のポケットを探る。指先に冷たいそれが触れ、たどって引っ張り出した。

強がりかもしれないが、一覇に堅い笑みを向けた。

「希望がないわけじゃないよ。わたしには、武器がある」

長さ十五センチほど、厚みは一センチくらいの細い銀の板。彫り込みなどの余計な装飾は一切なく、無骨なボルトで四辺が留められている。

それは————霊(れい)障(しょう)武(ぶ)具(ぐ)基(き)盤(ばん)。

霊子科学と古来からの陰陽術、最先端の機械工学を融合させて作られた、発現者の霊子をエンジンにして駆動する霊障士唯一無二の武器だ。

一部の高位な鬼魔しか持っていない武器に限りなく近い構造を再現しているため、原子が通じない鬼魔に唯一有効とされている攻撃方法である。

菜奈は物言わぬ基盤にささやかな祈りを捧げて、強く握る。

一覇はそれを不安そうに見つめる。

「来たよ、一覇……お願いね」

菜奈は悪魔の姿を遠目から確認すると、勢いよく茂みから飛び出した。その菜奈の勇敢な背に、一覇は投げかける。

「絶対……絶対に死ぬなよ……っ!」

菜奈は有名なアクション映画さながら、角材を握った左手の親指を突き立てて返事をした。


茂みから勢いよく身を踊らせた菜奈は背の高い悪魔を目の前に、思わずその身を竦めた。

一覇にあんなかっこいいことを言ったものの、菜奈には勝算も勝つ自信もまるでなかった。

菜奈の戦力は、正直に言って全然強くない。学校の成績もいつも真ん中より少し下だし、授業では基本的にチーム戦なので、一人で戦うのには慣れていない。ついでに加えるなら集団戦が得意なわけでもない。

それでもやらなくちゃ、と思ったのは、きっと母のような強い霊障士に憧れていたからだろう。

母はとても強かった。プロの霊障士の中でも上級の、第二種免許を取得出来るほどだ。

一度だけ、模擬戦闘を見せてもらったことがある。母は美しく強く華麗で、幼い菜奈の瞳にはきらきらと鮮烈な光を与えた。いつかわたしもこんなふうに……と、夢をふくらませて母の背中を見ていた。母もそれが嬉しいのか、たまの休みの日は熱心に剣技の指導をしてくれた。

そんな母が戦死するなんてことは、到底信じられない現実だった。

母の葬儀の日、母の部下だという男が一度だけ挨拶に来た。

その男によると、母は彼を庇って死んだのだという。母らしい最期だったのだと、妙に納得して涙は止まった。かといって、その男を責めることもしなかった。ただただ純粋に、母への憧れと尊敬を強めるだけだった。

だからだろうか。菜奈には鬼魔に対する憎悪というものが、一般の霊障士よりも希薄である。

憎いから戦って、殺す。それが当たり前の世界で、菜奈はきわめて異質な存在だった。

それはもちろん自覚していて、鬼魔のすべてが悪いわけではないと、今でも信じている。

小学生の中学年頃から、菜奈は霊障士になりたいと父に打ち明けた。妻を亡くした父はやはり強く反対したが、それでも菜奈は引き下がらなかった。粘りに粘って中学三年の春、父はようやく折れてくれた。

それからの菜奈は苦心しただろう父の想いに報いるべく毎日猛勉強をして、ようやく私立久木学園の入学模試判定Aを得るまでになり、ついには入学を果たした。

しかし、現実は甘くはない。どんなに勉強しても、埋まらない実力差が菜奈を苦しめた。一度は父にすがって辞めようとも思った。

だがそれでも菜奈は、厳しい世界を生き残った。母のように強くなれなくても、せめて優しい霊障士になりたいから。母が守った世界を、守り続けたいから。

その穏やかな気持ちだけが、菜奈の心を支えていた。

今、菜奈は人生で初めての「戦闘」というものに立ち向かっている。

菜奈の腕には何人、何十人もの命がかかっている。

学生が浸かっているぬるい世界ではなく、生死を賭けた殺伐のせかいにいる。

そう思うと、自分が死ぬという恐怖ではなく、プレッシャーに襲われた。その何人かには、もちろん一覇の命もかかっているのだ。

……一覇。自分が初めて愛した少年。

彼と出逢えたから、菜奈は優しく温かい《愛》を知れた。さまよう亡霊の時間が覚めた。

————これが無事終わったら、告白しよう。君が好きです、って。

なんて思うかな、なんて言うかな?びっくりするよね?

でもきっと、ちょっと目を上に逸らして顔を赤くして、口元を隠して照れるよね。口ごもって結局、なにも言ってくれないだろうな。

そんな君を、わたしはもっと愛おしく想うの。あぁ好きだなぁって、深く思い直すんだよ。

————ねぇ一覇。もし君と生きるなら……。

「……『具(あら)現(わ)せ、“かぐや”』!!」

深く息を吸いこんで、霊障武具基盤の起動音声コマンドを入力。菜奈のオレンジ色の霊子が唸りをあげて、右手に握られた小さな基盤に吸い込まれていく。

月の國(くに)の美姫。その名を冠した、滑らかで美しい銀盤の中に組み込まれたエンジンが駆動する音を待った。しかし。

————起動、しない……!?

いくら待っても、手の中の基盤はなにも反応しない。

何故。どうして。

だがそんなことを考えている暇はない。今は戦わなくては。

————わたしが……みんなを守るんだ。

菜奈は気を取り直して、左手に握ったままの古びた角材を正眼に構え、気勢とともに悪魔に突進する。

「やぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!!!!!!!!!!!!!!!!!」

しかし悪魔はそれを避けて、骨ばった細い右手に握るノコギリをのろのろした勢いのまま振りかぶる。菜奈はそれを後方に宙返りしてかわす。乾いた砂ぼこりが舞い、両者の間にもうもうと立ち込める。

今、自分はなにをするべきか。なにができるか。

それは、一覇が助けを呼べる時間を稼いで、この悪魔をここに出来るだけ長く引き留めること。犠牲者など出してはいけない。わたしはわたしのやり方で、いまと戦うんだ。

————だったら……!

角材をこれでもかと強く握り直して、自分を鼓舞する。その瞳には、《生きる力》が宿った。

「かかってきなさい悪魔!わたしがお前の相手をするんだから……!!」

————もしも君と生きるなら……わたしはきっと、この命さえ惜しまず棄てられる。君のそばにいられるなら、どうなっても構わない。

矛盾した奇妙な気持ちが激しく燃えて、菜奈のこころを巻き込んでいく。

これが《恋》、これが《愛》。

凄絶なる深く原始的な感情が、熱く燃えたぎる。

一覇を想うたびに、強くなれる。どこまでも飛んでいける羽が生えたみたいに。

だが。

悪魔はきょろきょろとなにかを探すように周囲を見回して、ややあってもそもそと途切れ途切れの言葉を発した。

「……おまえ……ちが、う……しゅで、んどうじ……さま、じゃ、ない……」

「……酒呑、童子?」

菜奈の感情が、わずかに落ち着いた。

菜奈も酒呑童子の伝説は授業で習った。それどころか、幼い頃は夢中になって難しい漢字で書かれた伝記すら読みふけった。

それは酒呑童子と、腹違いの妹の茨(いばら)木(き)童子の悲しい物語。

二人は京都のとある山に住んでいて、仲むつまじやかに暮らしていた。近くの村人とも仲がよく、皆が平和に暮らしていた。

だがある日酒呑童子は人を喰ったことで、朝廷直属の機関である中(なか)務(つかさ)省(しょう)に追われ、茨木童子とともに京都を離れる。

相模……今の神奈川まで逃れたところで、伝説の陰陽師・安倍藤波に封印された。その封印された土地が、久木学園内に建(こん)立(りゅう)された皇(こう)槻(づき)家が治める皇槻神社だとされている。

そう、酒呑童子は殺されたのではなく、封印されたのだ。

なぜ殺害ではなく『封印』なのか————その詳細はいまだに解明されていない。

ただ、封印の儀式を行える者は、この世でもごくわずか。

その筆頭が、皇槻神社の第十九代目神主にして予見者、《最上の巫女》の二つ名を欲しいがままにする現代の【陰陽師】皇槻鷹(たか)乃(の)その人である。

菜奈もテレビでしか見たことがないが、長く美しい銀髪と穏やかな瞳が印象的な妙齢の女性だ。

会ったこともない女性の顔を思い浮かべて、菜奈は慎重に口を開いた。

「……酒呑童子がいるのはここじゃない、久木学園よ」

もしこの悪魔が酒呑童子を探してうろついているのだとしたら、封印設備の整った久木学園までうまく誘導してしまえばいい。職員の中には当然、霊障士もいるし、件の《最上の巫女》がいる皇槻神社は学園内にある。だが。

悪魔はなおも、淋しそうに視線をうろうろさせていた。

「しゅでん……どうじさま……さっきまでいた……どこ……?」

「さっきまでいた……?どういうこと?」

————……あ。

伝説では酒呑童子は、遠く唐から来た金髪碧眼の蛇男の息子で、父の血を色濃く受け継いで美しい金髪碧眼の姿らしい。まるで……

「……一覇のことを、言っているの……?」

「いち……は?」

菜奈の愕然とした小さな呟きに、悪魔はやや鋭く反応した。うろうろ、うろうろと首をさまよわせている。

「いち……は、どこ……?」

————だめ。

瞬間的に菜奈は角材を真っ直ぐに構え直し、悪魔をひたと睨み付ける。————悪魔と同じ赤い瞳で。

「行かせないわ……っ!!」

一覇はいまきっと、霊障士の助けを呼びに街まで向かっているはず。悪魔がそんな彼を追っていってしまったら、抑えていたはずの被害者が出かねない。

なんとしても、どんな荒業を使ってでも、こいつはここで食い止めないといけない。

菜奈はちらりと、右手のなかで沈黙したままの銀盤を見つめる。もう一度強く、今度は深く念じる。

お願い……お願い。弱いわたしに力を貸して、“かぐや”。

守りたいものを守る力を……あのとき出来なかったことを、約束を果たすための力を……。

————“あ(、)の(、)と(、)き(、)”?

「————あ……」

記憶が、置いてきた感情とともによみがえる。記憶の渦のなかで、菜奈は真珠のような涙をひとつぶ流した。

あのとき。

一ヶ月半前のあのとき。十一月五日、菜奈の十七歳の誕生日だった。

学校の帰りが遅くなると、父の嗣春はいつも急いで仕事を片づけて学校まで迎えに来てくれる。なにがあっても必ず来てくれる。父は約束を違えることはしない。

その日も菜奈は日課にしている自主練習で夜遅くなり、久木学園高等部の大きな校門の前で嗣春の迎えを待っていた。別にいつものことなので、特に携帯電話に連絡を入れなくてもよかった。

だがこの日に限って、いつまで経っても父はやって来ない。もうかれこれ一時間以上は待っている。

しびれを切らした菜奈は、ここでようやく嗣春の携帯に電話をかけた。しかし、コールはしているが父は出ない。嫌な汗が背中を伝った。

菜奈はたまらず学校を飛び出して、嗣春がいつも通る道を汗で滑る手で電話をかけながら走った。

「……お父さん……!!」

祈るように父を思い浮かべて呼んだ。

————なんでもありませんように。いつもみたいに、笑って迎えてくれますように。

嗣春は菜奈の誕生日に、内緒でプレゼントを用意していたのだ。

あらかじめ予約をしていた店でケーキとプレゼントを受け取るのに思っていたより時間がかかり、いつも通りの中華街を急いで横断していた。するとその道で、幼い男の子がひとりぼっちで泣いていた。

「どうかしたのかい?」

迷子だと思ってつとめて優しく声をかけると、男の子は泣きじゃくって後ろを指した。振り返って見てみると、そこには首だけになった女性が浮いていた。

明らかに嫌な感じがした。

嗣春に特別な能力はないが、反射的にこれは鬼魔の仕業だと感じた。いまだ泣きじゃくる男の子を連れて走ろうとするが、その途端に女性の首がぽろっと落ちて、何者かが迫ってくる気配がした。

咄嗟に男の子を庇うように抱えて、次にくると思われる痛みなり衝撃を覚悟した。

そのとき。

鬼魔と嗣春、そして男の子の間に、黒い小さな影が素早く入り込んだ。

それは霊障武具で武装した菜奈だった。息が荒く、額に汗を浮かべている様子から察するに、ここまで走ってきたのだろう。

「お父さん……早くその子を連れて逃げて……っ!」

息と息のあいだに、歯を食いしばって菜奈は言った。

妻や娘と違って霊能力のない嗣春には見えないが、菜奈はまさに今、鬼魔の武器と鍔迫り合いをしているのだろう。嗣春は急いで男の子をその辺の通行人に預けて、菜奈の元へ駆けつける。

娘を守らなくては。

あの日、墓前で亡き妻に約束した。自分はなにがあっても必ず、菜奈を守ると。

————君が大切にしてきた宝物、おれがそっちに行くまで守り続けるよ。

もしかしたら娘はもう、おれの手を離れて自分の脚で歩き続けているかもしれない。守る必要なんてなかったかもしれない。でも。

おれが菜奈の父親であることは、たとえこのせかいが消えてしまっても変わらないことだから。

「お父さんっ、来ちゃだめ……っ!!」

菜奈の悲痛な叫びはむなしく空気に消えて、悪魔の手で菜奈の“かぐや”が浮(、)い(、)て(、)嗣春の胸を貫いた。父の骸はまるでゴム人形のように飛び跳ねて、コンクリートの地面に落ちた。

目の前で父が死に、残るは武器を奪われて丸腰の自分だけ。絶望的な状況のなかで、どうすることもできなくなって菜奈は死んだ。

そう、わたしが無力だったから。あのとき一瞬で悪魔をほふる力があれば、せめて父が死ぬことはなかったのに。

涙だけは流さないように、歯を食いしばる。しかし嗚咽がこぼれ、涙腺からじわりと溢れそうになる。

今もそう。わたしの無力のせいで、大切だと思える人が危機に瀕している。わたしに力がないから、わたしが何も出来ないから。わたしが……わたしが……!!

————そうじゃない、でしょう?

『————いい、菜奈』

母の言葉がよみがえる。

『力がないひとなんていない。それを振るえるか振るえないか、勇気があるかないか。たったそれだけでしょう?』

わたしは父が死んだあのとき、振るえなかった。自らの弱さに挫けて、力を使えなかった。

でも今は、今は違う。わたしは……

母の嬉しそうな笑顔が浮かんだ。

————『わたしは、まだ戦える。泣くのはあとで。ね?』

「っ……『具現せ、“かぐや”』!!!!!」

叫びにも似た、強くなれる魔法の言葉。

菜奈の強い感情に従って、右手のなかにある銀盤は今度こそ生気に満ちたオレンジの燐光を纏い、ほんの一瞬で形を変えた。刀身が六十センチほどの、熱く鮮やかな炎を纏った曲刀が菜奈の右手に収まっていた。

固有名の通り昔話の『かぐや姫』そのもののような、とてつもなく美しい刃だ。刀身自体から輝きが溢れているかと思うほど、それは薄く透き通っていて研ぎ澄まされている。

菜奈は角材を悪魔に投げつけて、その作り上げた一瞬で悪魔に迫る。刀を右下から切り上げて、左上にあげる。紙のように悪魔の左腕を斬り飛ばした。

さしもの悪魔も突然のことで驚愕し、その動きを止める。————この一瞬で、止めをさす……!!

だが。

悪魔もただでやられたりはしない。

大きな口をにたりと歪めて、ぎざぎざのひどく黄ばんだ歯が丸見えになる。————ぞくりと、菜奈の背筋が凍った。だが即座の対応ができない。

悪魔は残った右腕を使い、人間業ではない恐ろしい速さでノコギリを振りあげた。それは不思議と吸い込まれるように菜奈の左肩に食い込み、そして見事に斬りあげる。

「っ…………ああああああああああああああああああああああああああああああっっっっっっっっ!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!」

奇しくも同じ左腕を斬られた菜奈は、いままでに経験したこともない痛みでその場にうずくまり、絶叫した。

赤黒い血溜まりが生まれ、煉瓦の地面にじわじわ拡がっていく。

灰色の雪雲空の下、冷たい風が吹きすさぶ。

そんななかでも月だけは不自然にぽっかり浮かんでいて、まるでこの様子を眺めているようだった。


菜奈と分かれてから、何分経っただろうか。一覇は公園のなかを走り回りながら、このまま街へ行こうかどうしようか迷っていた。

公園の敷地内に公衆電話があればいいが、携帯電話が普及し始めた昨今ではその保証はない。探し回って徒労に終わることが一番怖い。しかし街まで出て、もし菜奈が失敗して悪魔を取り逃がし、その悪魔が一覇を追ってきたら。

鬼魔という生き物はたいていの場合、より強大で強力な霊子の持ち主を喰(、)う(、)という統計データがある。霊子体である彼らは、自分の存在を維持し続けるために霊子を補給しようとするからだ。原子体である人間の霊子は、鬼魔から見ると存外上質である。

単に人殺しが好きな血の気の多い者もいるので、すべての鬼魔に当てはまるものではないが、一覇を襲ったあいつも強い霊子の持ち主に惹かれると仮定しよう。

一覇の霊子は、とびきり上質だと思われる。いままで霊子体に追いかけられた経験から、たぶんそうだ。

だとしたら、あいつが追ってくる可能性はありえること。

————……街へ行こう。その方が派出所があって確実だ。

街の知っている限りでもっとも近い派出所を目指して、一覇は迷った足をふたたび走らせる。と。

「ちょっと君ィ、待ちなさい!」

急に呼び止められて、一覇の足が止まる。煩わしそうに振り返って見ると声の主は、懐中電灯を持って紺の上下とぶ厚いベストを着込んだ壮年の男性だった。帽子と胸元に輝く金の紀章から、彼は警官のようだとわかる。

警官は一覇の顔、髪、服装を胡散臭そうに順番にじろじろ見てから、帽子のつばと腰に手を当てて唇をひん曲げた。

「君、小学……中学生だよねェ?だめじゃないかァ、こんな時間に一人で出歩いてェ。お家はどこ?家族の人は家にいるの?」

なんとなく鼻にかかった口調の警官だ。口は最初よりひん曲がっていて、現職の警官にしてはやや痩せているように見える。髭が丁寧に剃られているので清潔感はあるが、口調のせいでべっとりとした印象を持った。

しかしこれは最初で最後のチャンスだと思った。

この警官に言えば、きっとすぐに肩口の無線機で警察本部経由で霊障士を呼んでくれる。霊障士を呼べば、菜奈が危険を冒してまで戦わなくていい。

ちらりと目だけを動かして背後を向くと、遠くに剣戟らしき橙色の光が見える。

一覇は急いで状況を手短に説明した。

「あのっ……今、悪魔がいて……女の子がひとりで戦っているんですっ」

しかしまったく絶望的なことに、一覇の希望とは真逆の答えが出された。

警官は曲がった口をさらに歪めて、あからさまに信じていない、むしろ非難するような顔をした。

「なにを馬鹿なこと言っているんだね。さァ、早く帰りなさい。最近ここら辺は物騒だから……」

「っああああああああああああああああああああああああああああああっっっっっっっっ!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!」

「!!!!」

大晦日の割に人が少ない夜の山下公園に、鼓膜をつんざくような絶叫がこだました。

菜奈の声だ。

そのあまりにも痛々しい悲鳴に、思考がホワイトアウトしそうになる。

「っくそっ……!」

「ちょ、ちょっと君ィ!どこに行くんだい!」

だが一覇は一秒も考えず、自然と毒づいて走り出した。警官が慌てて止める声も無視して、一覇はひたすら走った。光のあった方向へ。

「菜奈っ!!」

菜奈のうずくまる姿を見た途端、一覇は思わず息をのんだ。

見たことがない恐ろしい光景だった。

菜奈の左腕は肩から斬り落とされ、おどろおどろしい黒い血がぼたぼたと止めどなく流れている。悪魔も同じように左腕を失っているが、菜奈と違ってなんでもないように平然としている。むしろ一覇の姿を見つけた瞬間、血走った目を歪ませて歓喜のような声を上げた。

「しゅで、ん……どうじ、さま……おぉ……おもどりに、なられ、た……」

一覇は狂喜乱舞する悪魔を無視してしゃがみ込み、菜奈のすぐ側に落ちている銀盤を手にした。

菜奈の霊障武具基盤だ。菜奈が霊子を枯渇させたために、今はただの鉄塊と化している。しかしほんの先ほどまでちゃんと駆動していた証拠に、そのものが熱を帯びている。

「……『具現せ』……」

一覇は基本中の基本である、基盤の起動音声コマンドを知っている。

父は霊子科学者だし、母は霊障士だった。一覇も双子の弟も、幼い頃から霊障術に触れていて、一(、)般(、)人(、)の(、)割(、)に(、)は(、)深い知識がある。だが、その基盤の固有名を知らない。固有名を知らなければ、基盤は起動しない。固有名こそが、本物の起動コマンドなのだ。

「…………“かぐや”」

振り向くと、菜奈が重傷の左側を押さえて、無理矢理微笑んでいた。だがその笑みは、どこか無限の力を与えてくれるように力強かった。

「ごめんね、一覇……わたし……」

「オレも、ごめん。遅くなった……」

「「……一緒に」」

声が重なり、思わず見合わせて笑った。同時に頷く。

————……「一緒に戦おう」。

人はひとりでは生きていけない。ひとりでは戦えない、歩けない。

ひとが戦うとき、そのとき必ず、誰かも一緒に戦っている。たとえその場にいなくても……。

一覇の基盤を握った左手に、菜奈の右手がそっと添えられる。ふたり同時に、口を開いた。

「「『具現せ、“かぐや”』っっっっっっっっ!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!」」

無言を貫いていた銀盤————“かぐや”は一覇たちの激情に呼応したように、鮮やかなライムグリーンの輝きを放ち、その姿を再び刹那に美しい曲刀へと変化させる。

霊子には、霊障術の前進である陰陽術における、陰陽五行思想に基づいた五つの性質がある。

火、水、土、木、そして————金。

霊子の性質の数だけそれぞれに色と特徴があり、火はオレンジ、金はライムグリーンだ。菜奈の持つ火の霊子と違う色ということは、いま“かぐや”を起動させた霊子は、金の霊子。一覇の持つ霊子だ。

ライムグリーンの温かくて力強い光に全身を包まれて、二人は場違いなほど穏やかに微笑んだ。そして

「うぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉっっっっっっっっ!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!」

「はぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁっっっっっっっっ!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!」

ふたりの雄叫びが同時に空へ高く響き、同時に

「しゅでん……どうじ、さま……?どうし、て……」

悪魔の深い悲しみと絶望に満ちた断末魔が、公園中にこだました。


「……ちは、いちは……っ」

声が、聴こえた。大切な『彼女』の声が。

どこかとても遠くで響いているような気がする。

『大丈夫だ』って言って手を伸ばしたいけれど、体が動かない。視界も、なんだかぼやけている。

冬の空気で透き通っているはずの夜の星空が、ひどく滲んでいる。

雲に隠れていたはずの下弦の月は、銀色の光を放ってぽっかり浮かんでいる。まるで見守っている————あるいはことの顛末をじっと観察しているように感じた。

そういえば眼鏡はどこに行ったのだろう。いつの間にか無くしていたことに気がついたが、すぐにどうでもよくなった。

胸にはかすかな温かさと重みを感じるが、なにが載っているのか確認することができない。

すぐに視界が反転する。最後にもうひと目だけ見えた月が、ふっと微笑んだように感じた。


「あなたたち、大丈夫!?」

霊障士が駆けつけてきたのは、そのすぐ後のことだった。

誰が通報したのかわからないが、今の状況ではものすごくありがたいが予断を許さない状況なので、とくに尋ねることはなかった。

菜奈は手早く現在の状況を可能なかぎり細かく早口で説明して、幸いにもすぐに理解してくれた霊障士たちが急いで一覇と菜奈の応急手当を始める。彼女たちは意識のない一覇を優先して、てきぱきと手当にあたった。

だが……

最初に声をかけてくれた女性の霊障士が、一覇を診てから悲愴の表情でうなだれる。

「この子……もうだめね……」

「そ、そんな……一覇は……一覇はどうなるの!?」

菜奈の声に、霊障士はただ首を横に振った。

一覇は未熟ゆえに霊子を一度で大量に失ったショックと菜奈に取り憑かれた影響で、死の淵に立たされている。霊子欠乏症だ。

霊障士の女性は、とても難しい顔で呟いた。

「せめて彼と同じ霊子があれば……」

霊子欠乏症は、実のところそこまで難しい症状ではない。正しく処置すれば、必ず回復する。

しかし。

この場にいる霊障士の中で、一覇に輸液する必要のある金の霊子を持ち合わせている者はいなかった。金霊子自体、別に珍しいものではない。通常の戦闘であれば、五つの性質それぞれを持つ霊障士のグループを応援に寄越すのだが、今日はあいにく非番の霊障士が多く、間に合わせのチームを編成して来たのだ。運が悪かったとしか言いようがない。

一覇を救うには、一覇の霊子と同じものを用意しないといけない。……一覇と、同じもの。

————……まだ間に合うはず。

「……彼の霊子なら、ここにあります」

「なんですって?」

菜奈の言葉に、霊障士は目を剥いた。

「わたしはさっきまで彼に憑いていたから、多少なりともまだ持っているはずです」

幽霊は取り憑いた原子体の、霊子を奪って分解し、自分のものにする。

今の菜奈にはきっと、自分が元々持っていた火の霊子に、わずかながら分解されきっていない一覇の金の霊子が含まれているはずだ。

霊障士は急いで、検査キットで菜奈の霊子を調べる。

結果が出て仲間と目を見はって、すぐに霊子用輸液チューブを用意し、専用の機械にそれぞれの先端を繋いだ。それの片方を菜奈の右腕に刺し、もう片方を寝かせた一覇の左腕に刺そうとして……手を止めた。

「でも……いいの?もちろん彼は助かるけど、あなたは……」

霊子を奪われた霊子体は、死ぬ。

こんな結果、1+1より簡単にわかることだ。

だけど

「いいんです……わたしは十分“生きた”から」

花のような笑顔で、菜奈は言い切った。

————君には大切なことを教わった。大切なものをもらった。だから……だから今度は、わたしがあげる番だよ、一覇。

《愛》を知ることができた。《恋》をすることができた。

この気持ちは、永遠の宝物だ。

眠っている一覇の無防備な手を、自分の手で握りしめる。とくんとくんと、心臓の鼓動を感じた。

「絶対、絶対に死なせないよ。君だけは……」


柔らかな冷たい風が、頬を優しく撫でる。

————体が……温かい。まるで、誰かに抱かれているような感じだ。

五感が徐々に戻ってくる感覚。ざわざわと喧騒が耳に触れた。

一覇はそっと目を開ける。すると滲んだ満点の星空が浮かんでいるのがわかる。

「ここは……」

左手で前髪を払おうとする。しかし、その左腕に明らかな異変を感じた。

持ち上げてみると、上着を脱がされてシャツの袖を捲られたそこには薄紫色をしたチューブが刺さっていた。これは確か、霊子専用の輸液チューブだ。霊子が不足したときに使われるもので……

「……菜奈っ!?」

と、先ほどの戦闘を思い出し、彼女の名を呼びながら起き上がった。だが体が妙に揺れるので、慌ててバランスをとろうとする。救急車に設置されているストレッチャーに乗せられているのだと気づいた。

「ぐっもーにん一覇!調子はいかがかね?」

菜奈の声だ。いつもの軽口に安心して振り向くと、気を失う前に見た、左腕をもがれた痛々しい姿は変わらなかった。猫っぽい可愛い顔も。

菜奈も一覇と同じように、ストレッチャーに乗せられていた。

変わったものといえば、服を捲られて右腕に繋がれた薄紫色のチューブ。その先を辿ると、計器類がいくつもついた複雑な機械に繋がっていて、もう一本チューブが繋がれていた。それを辿ると自分の腕に————

「くそっ……!」

一覇はそこでようやく思考が追いついた。

おそらく、菜奈が言い出したことだろう。だからこそ悔しい。彼女にそこまでさせるなんて、自分が情けない。

チューブを引き抜こうとする一覇の右手に、ふわりと菜奈の右手が重なる。彼女の手は数時間前と違い、ひどく冷たかった。

「菜奈……?」

菜奈はなにも答えず、ただ夜の空を見上げた。北の空にひとすじの流れ星が見えた。

流れ星は思っていたよりずっと遅く、涙のように輝いている。

かたわらにいる少年を見た。溢れそうになる涙を必死にこらえるけれど、やっぱり止まらなかった。

「……ごめんね」

一覇の頬をするりと撫でる。最後に流れ星に願うこと、それだけ許してください。

————「君と生きてみたい」なんて、叶わない願いだから……。

「……“一覇”」

女神みたいな微笑みと一緒に、一覇の唇に柔らかいものが触れられた。

————せめて君だけは、生きて。

「                                  」

「……!!」

菜奈はオレンジの美しい燐光をはかなく残して、このせかいから消えた。

横浜に新年を告げる船の汽笛とともに、空から雪が静かに降り注ぐ。オレンジの淡い光が、雪と一緒に一覇の上に降りそそいだ。

しんしんと、ただしんしんと。

それらは一覇に優しいメッセージを送っているように、ゆらゆら揺れて消えていった。



その後の話だが、大事をとって港南区の霊子専門病院に一週間の入院を余儀なくされた一覇は、新学期早々に学校を休む羽目になった。

警察からも霊障庁からもいろいろ聴取をされてクタクタになって、機関が聴取のために用意した個室の大きなベッドで横になった。最初のうちは学校を堂々と休めることにほのかな喜びを覚えていたが、聴取とやらが根掘り葉掘りの面倒事だったので、もう日常生活に戻りたいとクサクサしていた。

「…………」

はたと思い出したように一度起き上がって、見張りの看護師が来ないことを確かめてから、上着のポケットを漁って美しい銀盤を取り出した。

菜奈の霊障武具基盤は、本来であれば事件の証拠品として、あるいは持ち主死亡で警察か霊障庁に回収されるはずだった。基盤というものは、その危険性から免許証を国から交付された人間にしか与えられないものだ。

だがどんな運命の悪戯なのか、あらゆる人の目をかいくぐり、その存在を知られることなく一覇の手にこうして遺された。

人差し指の腹で、表面についた無数の傷とデザインスリットをなぞる。

あのとき————菜奈と一緒に戦ったとき。確かに“かぐや”は、一覇の霊子に呼応した。

他人の基盤を使って戦って悪魔を殲滅するなんて芸当は、一覇が知っている限りではどんなに訓練しても不可能だ。

基盤というものは専門の技師が使用者に合わせてネジ一本にいたるまでの素材から選び、組み立てられたあとさらに細かなチューニングを行(おこな)って初めてものになる。どんな第一種霊障士であっても、他人のために合わせて作られた基盤で戦うことはほとんど出来ない。

……のはずなのだが。

ここでなぜか何度も感じた、月が見ているような感覚を思い出した。

優しく、心地のいい、そして無性な懐かしさがこみ上げるあの銀色の月。

病室の広くとられた窓からは、いつものように少しずつ膨らんできた上弦の月が見える。

ゆっくり瞬きをするように、毎日膨らんだり細くなったりする月。銀の輝きが灯りを消された病室を、温かく穏やかに照らしている。

「かぐや姫が……呼んでたのかな?」

————なんて、恥ずかし。

いつになくセンチメンタルな自分が自分らしくなくて、正直に言うと馬鹿みたいだとさえ思う。

白く清潔なベッドに潜り込み、基盤を大事に握りしめて眠りについた。

その夜は不思議な夢をみた。

気がついたら一覇は、常夜の町が一望できる空中庭園にいた。風が心地よく髪と頬を撫でる。空を見ると、不思議なことに幾千万の星はあれど月がない。

庭園は手入れが行き届いていて、四季折々の植物が楽しめるように工夫が凝らされている。だが、キンモクセイがたった一本しかない。

長い金髪と艶やかな顔立ちをした巫女服の女性が、そのキンモクセイのしたで自分を待っている。そんな気がした。

「————ンド」

誰を呼んでいるの?

「……君は……」

彼女には会ったこともないはずなのに、とても懐かしくて嬉しかった。

彼女は穏やかに微笑んだ。胸には、美しい金細工が施された丸い鏡が抱えられている。

「……待っているぞ」

ぴんと張った上質の琴のような美しい声が、遠くに聴こえる。

眩しい陽光の中で起きたら目尻には涙がたまっていて、看護師が来る前に起きていたことを切に願った。


年が明けて二〇〇七年一月八日、児童養護施設ひなぎく園。

病院から用意されたタクシーに乗り込んで三十分。門扉で降りて義母の明日香とともに礼を述べ、その広い玄関までたどり着くと、義妹と施設の子どもたちが待っていた。

「一覇、退院おめでとーっ!」

すぱーんすぱぱーん、と小気味のいいクラッカーの音とともに、一覇は明るい顔と声で出迎えられた。

「……おう」

一覇はその集まりように驚きつつも、なんとか彼らに応えることができた。

「よかったわ、一覇くんが無事に帰ってきて」

「一覇っあとで宿題うつさせてね!」

「もう始業式終わってるでしょ!りょうちゃんは自分でやりなさいっ」

それぞれに会話を繰り広げて去っていく面々の背中に、一覇は思いきって問いかけた。

「なぁっ……なんで、ここまでしてくれるの?オレたち……つまり他人じゃん!?」

たとえばここで「家族なんだから」とか、テンプレートな答えが返ってきたら、一覇はいつも通りでいられたのかもしれない。

だけど一覇の曖昧な問いに、残っていた義妹がきょとんとしたあと、当然のような笑顔で答えた。

「おにいちゃんは淋しがりだから」

『“……一覇”』

菜奈の声があの優しい笑顔と一緒に、脳裏で鮮やかによみがえる。

一覇の内包された悲しみと淋しさは、みんな気づいてくれていたのだ。

『「傷つくこと、傷つけられることを恐れないで。それがきっと、君の力になる」』

ひとは傷つくもの。

どんなに傷つき、折れて、泥だらけになり、汚れてしまっても。たとえこの脚が折れて砕けてしまっても、それでもオレたちは進むのだ。

大丈夫、オレはこの世界で“生きて”いける。歩いていけるよ。

できるよ、菜奈。

もし神様がいるのだとしたら、きっとオレのもとに彼女を遣わせてくれたのだろう。

なんて、柄にもないことを考えた。

一覇は一歩ずつ踏み出して、すべての傷を背負って光のなかを進んだ。


————そしてオレたちは、もう一度出会うんだ。


これは、少年少女のはじまりの物語。

彼らがせかいの真実を知るのは、それからおよそ四年後のことだった。



《ボックスガーデン・プロジェクト》の発動まで、35,064時間。

下弦の月はまだ遠く、國はひどく荒れている。

太陽は深く沈み、ひとびとは怒り狂っている。

それでも彼女は、いつまでも彼を待ち続ける。

すべてはあの日の約束のために、あの気高く揺れるキンモクセイのしたで待っている。




                       亡霊×少年少女 第一話 了

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亡霊×少年少女 ひなた @hinahina2729

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