第12話 金平糖の缶

 琥珀の家の玄関には、牛車ぎっしゃの置物がある。

 四方を硝子に囲われており触れることは出来ないが、その美しさは訪れる人の目を奪う。特に屋形やかたを覆うきらびやかな青の糸と金の紋はひどく鮮やかで、色褪せることを知らぬようである。

 琥珀曰く、高貴な人の乗る牛車の模型だそうだが、朔は牛車の種類については詳しくないのでそれが良いものなのか悪いものなのかは定かでない。出衣がされているところを見るに乗車しているのは女性なのだろうが、実際に模型の中を覗いたことはなかったので、どんな婦人が中にいるのかもわからない。謎多き牛車である。昔、中を見ようと揺すっていたら琥珀に見つかりこっ酷く叱られたことがあって、それ以来この置物にはあまり触れたいとも思っていない。いか程の令嬢が乗っているのやらと空想したことは何度かあったが、良くない思い出を持ち合わせていることもあってか、それほど心躍る結論が出たことはなかった。

 それでも玄関で一人、下足を履いてぼんやりと立ち尽くしているときに視界にそれが入ると、見えぬ貴人の容貌を夢想してしまうのは雄のさがか。遮られた御簾みすの向こうで艶やかな着物を纏い、俯き物思う果敢無はかなげな女性――

「お待たせしました」

 ――声を掛けられて、朔は我に返った。

 脳裏に佇む女性の姿が霧散する。現実を見ると、学生鞄と小さな手提げ袋を握った晴がそこに立っていた。

「仕度はもう、いいのかい」

「ええ。お土産もこの通り、頂きました」

 答え、紙の手提げ袋を持ち上げる。中にはきっと先ほど作った羊羹が仕舞ってあるのだろう。

 なら良かった、と微笑んで見せてから、玄関の戸を少し開ける。予想はしていたが見事に広がる雨天に、浮かべた笑みが思わず引きった。

「……だから送るなら、百花の方が良かろうと言ったのに」

 勉強を終え、琥珀の指導の下に羊羹を作り上げ。味見と称した茶の時間を過ごした後、晴が「そろそろお暇を」と言ったのだが、それを朔に送って行くよう命じたのは百花である。最初は琥珀が百花に道案内を命じたけれども、百花がそれを了承しなかったのだ。とはいえそれは朔に対し何らかの気を利かせたわけではなく、単純に彼女が外に出るのを億劫に思ったからに思えてならない。

 そして自分が外に出るというのはつまるところそういうことだ。日を見せることなど許さぬとばかりにこちらを見下ろす曇天にどうしようもない憂いを覚える。自分だけならまだしも、この晴まで雨に打たせてしまうのは、どうにも。

 靴を履き終え隣に立った晴が、同じように外を伺い、くすりと笑って「雨ですね」と呟いた。

「申し訳ないね」

「いえ、朔さんのせいでは。折り畳み傘も持ってきましたし、大丈夫です」

 そして晴は、右手に握ったそれを掲げてみせる。小振りなそれだが、雨脚は今のところそれほど強くはない。今のうちに行けば、それでも耐えられるだろう。

 それなら良かった、と返事して、外に出る。傘を広げて雨の中へ一歩。

 と、そのとき晴が、あ、と小さく声を上げた。

「うん?」

 振り返る。傘が開かないのだろうかと思ったが、そういうわけでもないようだ。鞄と紙袋の持ち手を揃えて握り、俯いたまま何かを言いたそうにする。あの、その、と繰り返すがどうも自分からは言い出しにくいことのようで、そこから先は続かない。はて、何だろう。首を傾げ――ああ、そうかと悟る。

 これしかあるまい。朔は傘を握っていない方の手を、晴に向けて差し出した。はっと晴の顔が上がる。朔は微笑んだまま、彼女に向けてこう言った。

「鞄。おれが持って行くよ」

「えっ?」

 すると、何故だろう。告げられた言葉の意味が解らないかのように、彼女は目を丸くした。意外な反応に、続けて言う。

「重たいのだろう? 参考書や辞書やら、いろいろと詰め込んできたようだから、よかったら、バス停まで運んであげようか、と……思ったのだが」

 しかし、どうも予想は外れたらしく、彼女の表情が和らぐことはない。

 これではなかったのだろうか。しかし、だとしたら何を? 彼女の真意を測り兼ねながら、差し出した手の所在に悩んでいると、彼女はやや俯いたまま、どことなく罰の悪そうな表情で、握った鞄を朔の方に差し出した。

「お願い、します」

「あ、あァ、うん」

 言いたかったことは違うのかい、と聞くのもはばかられ、朔は差し出されるがままにそれらを受け取った。羊羹の紙袋はそれほどでもなかったが、黒い学生鞄の方はそれなりに重く、受け取ったことは間違っていなかったと再確認する。が。

「大丈夫かい。何か気になることでも」

「いえ、もう結構です、大丈夫です、本当に」

 念を押すように尋ねると、彼女は頬を赤らめて首を左右に大きく振った。真意の程は判らないが、どうもそれ以上は触れない方が良さそうだと察し、一言「それならいいのだけど」と告げることでその話題を終わらせることにした。

「じゃあ、行こうか。足元が良くないから、気をつけて」

「……はい」

 そうして二本の傘は、降る雨の中をゆっくりと歩き出す。



 いつもより少しだけ歩幅を狭め、肩を揃えて道を行く。

 さらさらと細かな雨が引っ切り無しに降ってくる。決して嬉しいとは言えない空模様だが、朔は落ちるものが大粒のそれでないことに感謝した。

「また、負けてしまいました」

 おかげで、囁くようなその言葉を聞き止めることができた。これが大雨であったら傘が煩くて、会話も碌々出来なかったろう。

 晴を見る。彼女は薄桃色の傘の下で、悪戯っぽく笑っていた。

「何か勝負でもしていたのかい」

 負けた、とは。発言の真意に思い当たらず首を傾げる。

「私、晴れ女なんですよ。何か行事のあるときは、絶対に晴れるんです。だけど」そこで一度言葉を切り、傘を傾け空を見上げる。「朔さんといるときには、まだ、晴れたことがないんです」

「成る程ね」

 晴れ女、か。名は体を表すと言うが、その性質は彼女の名前そのものである。名付け親は先見の明があったと言えるかもしれない、と朔は小さく笑った。

「ではいつか晴れることがあるかもしれないね、楽しみにしておこう」

「任せてください」

 空いた手を胸元に当て、自信満々に頷く晴。雨天の下でもなんと可愛らしいことか。思わず綻んだ表情を、傘を傾けることで隠した。

 腹の底を見透かされるのが嫌で、そっぽを向いたまま、話を変えることにする。

「百花と今日子は、君に迷惑をかけていないかな」

「百花さんと今日子さんですか」

 尋ねると名を繰り返し、ひとつ瞬きをする。

 話題転換のために出した名前ではあったが、何かの折に聞いてはおきたいことだった。何と言ってもその片方は、仲間の誰もが認めるトラブルメイカーだ。頼みの綱の制止係は、片割れが成長するにつれ用を為さなくなっている。そういう彼女等が誰かに迷惑をかけていないかということは、朔の懸念事項のひとつだった。

 しかしそれは杞憂だったようだ。晴はううん、と唸ってからこう言った。

「二人とも、いい人です。お話していて、とても楽しいし」

「そうかい」

 朔が見るに、その言葉に嘘はないようだった。それは良かった、とほほ笑むと、彼女も満面の笑みを返してくれる。

「今日子さんはすごく丁寧な方で、よく私のことも気にかけてくださって。百花さんには厳しいですけど、でもお二人が仲良しなんだなってよくわかります」

「今日子はあれの世話役というか、目付のようなものだからな。いろいろ苦労も多かろうが、これだけ離れないでいるのだから、嫌ってはいなかろう。あれはあれで釣り合いが取れているのだろうな」

「でしょうね。……百花さんは、とても自由な方なんですけど、でも、周りの人のことをよく見ていて、手を拱いていたら笑顔で手引きをしてくれるような。素敵な人です」

 お友達になれて嬉しいです、と、嘘のない表情で言う。――が、「素敵な人」だの「周りのことをよく見ている」だの。その二つの描写が朔の知る百花像とあまりにも合致しないもので、思わず眉を潜めてしまう。

「そうだろうかなァ」

「そうですよ。私はあまり、こうして欲しいとか、こうしたいとか、人に言えないんですけど、百花さんはそういう私の考えていることも全部見通しているような、不思議な感じがします。今日だって……」

「今日だって?」

 何があったというのだろう――何気なく、彼女の言葉を繰り返す。すると晴は、言いかけた言葉を、はっと留めた。

「いえ、何でもありません」

 そして俯き、傘を少し傾けた。

 今日一日で晴が百花に助けられた面、何かあったろうか。琥珀の家に連れて来られ、勉強のためと言いつつ雑談は多く。どちらかといえば邪魔をしていたのでは。そう思ったけれど、結局晴がそれに対する答えを教えてくれることはなかった。

 暫くして晴が、「そうだ」と顔を上げた。隠れる前に見た彼女の頬は少し赤らんでいたようだったが、そのときには既に元に戻っていた。

「朔さんは、今日子さんとは、どういうご関係なんですか」

「今日子?」

「ええ。百花さんと今日子さんは、朔さんのこと、今日子さんの長い知り合いのように仰ってましたけれど。その、寝ているところを起こしに行ける間柄というのは、確かに浅くはないだろうな、と思ったので。でも、お二人と朔さんとは、少し年齢が離れていらっしゃるように思えて……何処で知り合ったのかな、と。変なことを聞いていたら、すみません」

「いいや」

 恐縮するそぶりを見せた晴へ、朔はゆるゆるとかぶりを振った。確かに今日子は、中身はどうあれ見た目は十代の少女で、百花に至っては嘘偽りない人の学生である。疑問に思うのは当たり前だ。

 傘を握り直し、どう説明したものか少し考えてから、こう答えた。

「今日子とは、そうだね、遠い親戚、のようなもので。あれが人の言葉を話すようになってすぐの頃からの付き合いだから、結構な長さではあるかな」

 『人の言葉を話すようになってすぐ』その年月の長さを、ただの人の子である彼女には、正しい理解は出来なかろうが。けれどそれでも、それなりに長い付き合いであるということは届いたようだ。

「仲が良くていらっしゃるんですね」

「まァ、そこそこには。妹のようなものだね」

 とはいえ兄と呼ばれたことはないし、向こうも兄として慕ってはいなかろう。彼女はもともと家猫であったこと、普通の猫としてそこそこ長い年月を過ごしていたおかげで、狐としての生き方しか知らなかった朔と違い、生活に苦慮することはほぼなかった。だから彼は今日子に何を教えたこともなく、そう考えると兄と慕えというほうが無理な相談なのであって。

 今日などは、狐の朔を片手で持ち上げたかと思ったら躊躇いなく落とされた。多少なりとも兄としての敬意を覚えているのなら、そんな真似はしないはずだ。

「うゥむ」

「どうしました?」

「訂正しよう。――仲間のようなもの、だ」

 感情に折り合いをつけるため、そう、重ねて言う。晴は、ハァ、と不思議そうに生返事をし、それから傘を背負い直すと、空いた左手を軽く広げた。

「それでは、今日子さんとはその、恋仲とかそういう、親しい間柄ということでは……」

「とんでもない」

 即答。何百歩譲ったところで有り得ない例えを出され、つい渋面を作った。そもそも元となった種族が違うのだから、生活環境も大きく異なり、相容れるのは難しい。それでなくてもあの今日子は、あまりに付き合いが長過ぎて、伴侶としての対象とはなりそうにない。もし万が一、いや億が一その辺りの思考に上手く折り合いをつけられたとしても、現在の彼女の脇には百花がいる。そんな修羅の道に好んで踏み出そうと思うほど、朔は被虐的嗜好を持ってはいない。

 それなりに親しくはあるが、それ以上に親しくはないし、なりたいとも思わない。そんなことを彼女にも解りやすく噛み砕いて伝えると、

「そうですか」

 と、言った。何故だか解らないが、朔にはそれが、安堵か安心に似た物言いのように聞こえた。

 ――そうして他愛もない話を続け、やがていつもの停留所に辿り着く。

 軒下に入った二人は、雨粒を軽く払って傘を畳んだ。曇天を見上げ、やっぱりやみませんね、とからかうように晴が言う。やまないなァ、と朔が曖昧に笑って返すと、彼女も声を上げて笑った。

 それに見惚れそうになる自分を落ちつける意味も込めて、朔は「ほら」と鞄と紙袋を差し出した。荷物の存在をすっかり忘れていたらしい晴は、笑うのをやめ、はっと息を呑むと、慌ててそれを受け取る。そして、恐縮したように眉を寄せた。

「持って頂いてしまって、すみませんでした。重かったでしょう?」

「いや。それほどでもないよ」

 辞書の幾つか入った程度の鞄を苦に思うほど、まだ衰えてはいない。――いや、そんなことよりも。

「それより、晴。手を少し、いいかな」

 先ほどまで鞄を下げていた右手のひらを、肩口で軽く広げる。

「手、ですか?」

「うん」

 繰り返される言葉に、肯定。晴は不思議そうにしながらも、受け取ったばかりの鞄をその場に下し、言われたとおりに胸の前で両手を広げた。

 それでいい。朔はそう、言葉にせずに呟くと、上着のポケットから小振りの缶を一つ取り出した。そして晴の手のひらにそっと置く。

 缶の見目に覚えがあったのだろう、彼女ははっと顔を上げた。

「あの、これ」

「自分用にひとつ、買っておいたのだけど。君に差し上げよう」

 驚く彼女へ、にっこりと笑って、朔は言った。

 朔が晴に渡したものは、金平糖の缶詰だった。百花が美味い美味いと独占していた、あれと同じものである。中身も同じで、ただ缶の模様だけが一部異なっている。百花の手の内で山吹色の花を描いていたそれは、こちらでは鴇色ときいろの蝶となっていた。

「百花が、金平糖が旨いだの缶を持って帰るだのという話をしたとき、何か、こう。言葉にしにくいのだけど、君も欲しかったのかな、と思ったのだ。勘違いだったら、申し訳ないが」

 百花が金平糖の話をしたときに彼女が浮かべた、不思議な表情。羨望のような、我慢のような、名状しがたいあの微笑みは、本当は彼女も金平糖を食べたかったからなのではないだろうか、と推察した。だから一つ、自分のために取っておいたそれを晴にと持ってきたのだが。

 予想通り彼女はそれに目を見開き、驚きと喜びの入り混じった表情をした。両手の上に置かれたそれをしばらく見つめ、それからもう一度、彼を見上げる。

「頂いて、いいのですか」

「うん。良かったら持って行っておくれ。店員の押しに負けてもう一つ買っただけなのだ、甘いものが好きな子に食べて貰えた方が、それとしても本望だろう」

 持って行きなさい、と言うと彼女は小声で礼を言って俯いた。

 それからじっと、押し黙る。何か不都合でもあったろうかと朔が訝しんでいると、彼女は小さく首を動かして左右を伺ってから、さっと顔を上げた。何かを決意したような大きな瞳が彼を見据え、そして彼女が言うことは。

「よかったら、その。今度、お出かけしませんか」

 外出?

 ――答えにきゅうしたのは、突然の思いがけない提案に驚いたから。それ以外の何でもない。

 朔にとってそれは願ってもない申し出であったが、どう答えたら彼女の気を損ねないか、自分の印象を悪くしないか、そこにどんな意味があるのか等、多くのことが同時に頭を巡って是非すら考えられなくなり、うっかり黙り込んでしまっただけのことである。

 しかし晴は、その無言を誤解したらしい。慌てた様子でこう続けた。

「その、変な意味ではなくて。私、今度、補修のテストがあるんです。それでいい点取れたら、ご褒美って言ったら変かも知れないですけど、良かったら、どこか。それに私、何か行事のあるときは、絶対に、晴れるんです。だから……その……いえ、すみません。私、図々しいお誘いしましたね。お嫌ですよね、ごめんなさい、すみません、どうぞ忘れてくださ――」

「そうだね。どこか、遊びに行こうか」

 少しずつ勢いが落ち、か細くなっていく言葉の羅列を遮って、朔は言った。図々しい願いであるものか、嫌なことがあるものか。折角の機会を自らの手で立ち消えさせてしまわぬよう、朔は一気に捲し立てる。

「どんなところがお好きかな。何か見たいものはあるだろうか。おれは君のような年頃の娘がどんなところを好むのか知らないから、君のテストが終わるまでに、いろいろと調べておこう」

 すると落ち込んでいた晴の表情が、見る見るうちに温かいものへと変わっていく。

「いいんですか」

 念を押すような、晴の問いかけ。

 それに朔は大きく頷いた。

「うん。きっと晴と今日子も喜ぶだろう」

 大人しいこの少女のことである、自分と二人きりではきっと恐縮してしまうだろうと慮ったことから出た言葉だったが――なぜだろう。「そうですね」と頷いた彼女の声からは、取り戻したはずの元気が幾分沈んだような感じを覚えた。

 丁度そのとき、遠くにバスが一台現れた。細かい雨の向こうに目を凝らすと、バスの行き先が見える。朔は、その行き先が彼女の家に向かうものだということを、これまでの経験上知っていた。

「来たようだね。それでは晴、道中くれぐれも気をつけて」

「あの、朔さん」

 別れの挨拶を口にしたが、彼女はそれに応じる言葉を言わなかった。

 名を呼ばれ、首を傾げる。晴は鞄を地に置いたまま、体の前で手を組んで、言った。

「私と握手して頂けませんか」

「握手?」

「はい。駄目ですか」

「いや」

 駄目ということは決してないが、今この瞬間に求める意味がよくわからなかった。別れの挨拶ということだろうか?

 幾ら考えれども、晴がそんなことを言い出したのか解らない。けれど握手、その程度のことである。理由こそ解らねど拒絶するほどのことでもなく、彼女が望むのならばと、朔は服の裾で右手の水滴を拭ってから、「どうぞ」と差し出した。

 すると晴は嬉しそうに微笑み、両手で朔の手を取った。細く白く、朔の手より一回り小さい。

 右手を包んだ温もり、その思いがけぬ柔らかさに、朔は思わずぎょっとする。はて握手とはどの程度力を入れて握るものだったか、下手に力を入れて晴の指を痛めてしまわないか。そんな彼是を悩んでいる時間は、実際には数秒でしかなかったのだろうが、朔には結構な長さに思えた。

 ともかくそうして手を離すと、晴は嬉しそうに「ありがとう御座います」と言った。

「今はこれで、充分です」

 隣でシュウ、と音がした。いつのまにやら停留所に辿り着いていた、バスの扉が開いたのだ。

 晴は足元から鞄を取り上げると、深く深く頭を下げた。

「それでは、また」

「あァ、うん。また」

 頭を上げるとにっこり笑って、背を向けた。

 乗降口の階段を駆け上る。上りきったところでくるりと方向転換し、一番近い席に急いで座ると、彼女は急いで窓を開けた。

「朔さん」

 そして外に佇む朔に向けて、呼ぶ。

 どうしたね、と尋ねると、晴は片手を掲げて見せた。その手には例の、金平糖の缶が握られている。それを彼に向けたまま、続けて彼女はこう言った。

「私、金平糖が欲しかったんじゃ、ないんですよ」

 突然の告白に、朔は目を見開いた。喜んで受け取ってくれたものだから、すっかり勘違いをしてしまっていた。てっきり彼女は、金平糖が欲しかったものだとばかり――謝罪をするべきだろうかと案ずるが、しかし晴は笑顔だった。驚いた表情の朔を見て、更に目を細めると、握った缶に頬を寄せた。

「でも、とても嬉しいです。大事に、頂きます」

 それこそ写真に収めておきたいと思うほど、鮮やかな笑顔であった。

 やがてバスは動き出す。朔はそれを、見えなくなるまで見送った。



 変化へんげを解いて帰ろうか。

 停留所に一人残され、朔はぼんやり考える。狐の姿であれば傘など要らない。濡れたところで放っておけば毛皮は乾く。濡れた身で屋内に上がられることを琥珀は嫌がるだろうが、効率を考えればそれが一番いい。しかし、なぜだろう。今は右前足で地を蹴りたいとは到底思えなかった。

 自身の力で作り出した傘である、面倒な手作業は要らない。先を天に向けふいと軽く降ってやるだけで、それは音もなく咲いた。

 傘を肩にかけ、人の姿のまま雨の中に足を踏み出しながら、先ほどのことを思い出す。車内から手を振る晴はとても愛らしく、雨の中でも栄えて見えた。

 しかし。

 彼女は送った金平糖を、嬉しいと言った。けれど、それが欲しいわけではないとも言った。

 であるならば。首を傾げる。

 彼女が欲しがったものとは?

「缶の方、だったのだろうか?」

 ――帰路にていろいろ思いを巡らせてみたものの、結局、正しいと思われる答えを導き出すことは出来なかった。

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