第11話 菓子

 自身の置かれた境遇に理解が追いつかず、朔は固く瞼を落とした。どうして、こんなことになったのだったか。

 うら悲しげに思える晴の様子に耐えきれず、半ば自棄になりつつ布団を飛び出しやって来た客間であるが、今ここにいるのは、菓子入れから菓子を取り出し頬張る百花と、何故か頬を膨らませそっぽを向く今日子、それからこちらも理由は判らねど固く拳を握りしめ、背筋を伸ばして正座する晴。

 瞼の裏の暗闇の中で心を落ち着け、充分な時間を取った後にゆっくり上げる。しかし勿論のことながら、開けた視界の現状は何一つ変化してなどいなかった。黒檀の座卓に置かれた木製の菓子入れを意味もなく睨み、深い溜息をつく。そんな彼のあらゆる葛藤など知ってか知らずか――恐らく気づいてはいるが、彼女にとってごく些細なことに過ぎないのだろう――百花は手元の缶から顔を上げて、嬉しそうに笑った。

「朔さん。君の持ってきたという菓子、本当に美味いねェ」

「それは、どうも」

 どうにも落ち着かぬ心のままで、彼女の礼に返事をする。手のひらに載る程度の平たい缶は朔が昨日持ってきた菓子のうちの一つで、中身は金平糖である。店員曰く有名な和菓子屋の一品らしいが、朔には聞き覚えのない店だった。けれども現に、百花が口の中に放り込むたび嬉しそうな顔をするのだから、言った通りの品質のようだ。

「それに、缶の装飾も可愛らしい。うん、朔さん、この缶、私におくれよ。小物入れにしよう」

 どうやら、余程気に入ったようである。缶に描かれた山吹色の花を眺め、そう言った。

 ところで確か彼女等は勉強会ということで琥珀のもとを訪問してきたはずだが。筆記具の一本も出さず、菓子を頬張っているところを見ると、こちらに勉強をする気は毛頭ないようである。

「缶なんてごみになるだけだ、捨てるも持ち帰るも、好きにすればいいよ。――それより、百花の方は、どうなんだ。学校の成績は、取れているのかい」

「ご心配なくゥ」

 のんびりとした答え。一応聞いてはみたものの、百花の学力が優秀であることは朔も知っていた。あとは他者を思いやる心など兼ね備えてくれれば御の字なのだが、その点を彼女が気をかけることはないらしい。

「なら百花、お前が晴に教えるがいいよ。おれはもう、お前達の年の頃に何を学んだかなんて、すっかり忘れてしまった」

「何を言っているんだい、私なんかより朔さんの方が遥かに知識量は多かろうよ。亀の甲より年の功だ」

 確かに朔自身、生まれて十年そこそこの小娘に知識量で負けるとは到底思わないが。

「そもそも朔さんが私の年の頃に学んだことが、私たちの学ぶことと合致しているわけがなかろうよ。だって――いや、ほら、そのゥ――学習指導要領とか」

 妖怪なのだし。とでも続けようとしたのだろうが、晴の存在を思い出し慌てて変更したようだ。思わず吹き出してしまう。

 まァいいかと、少し笑って諦めた。出来る限りのことはやってやろう。

「わかった。けども、おれのわからないところは百花が教えてやってくれよ。それで、何の教科が解らないんだい、晴。……晴?」

「……あ、ええと、はい」

 隣に正座し、座卓に参考書と筆記具を並べた晴に声を掛けるが、返事は少し間があった。どうかしたのだろうかと思っていると、顔を背けてぽつりと答える。

「すみません。少し、ぼうっとしていました」

「体調でも悪いのかい」

「その、ええと、いいえ! 元気です。元気そのものです。体調には、問題ないのですが」

 そう断ってから、俯き、頬を赤くした。

「あまりに、その、私、理解力が。恥ずかしくて」

「なんだ。朔さんはそんなことで笑ったりはしないよ。彼は、何を見ても聞いても、何時でも何処でもぽえっとしているからね」

 なんとも酷い言い草である。

「そんなことより、ほら、晴さんも一つ。甘いものを食べれば、つまらない悩みなど吹き飛ぶよ」

 ぽんと一粒、薄水色の金平糖を晴の口に放り込む。彼女はそれを口の中で転がして、驚いたように口に手を当てた。

「あら、美味しい。ふんわりした甘み」

「でしょう? 金平糖なんてただの砂糖の塊のようなものだと思ってたから、私もびっくりしたよ。缶もほら、とても可愛らしいんだ。有り難く貰って帰ることにしたよ」

 缶を持った手を向け、御満悦、といった様子で百花が笑う。

 すると何故か、晴の視線が手元に落ち、ほんの少しだけ眉が寄った。けれど朔がおや、と思ったのは一瞬だけで、その表情はすぐに消え、彼女はにっこりと笑う。そしてこう、一言言ったのだ。

「羨ましいです」

 そのときにはもう、何かを我慢している様子はない。錯覚だったのだろうか? 否。

「勉強は進んでいるか」

 と、そのとき襖が開いて、琥珀が顔を出した。手は盆を支えており、どうやら湯呑を運んできたようだ。

「おォ。有難う、珀さん。丁度口の中が甘くなったところだった」

「お前は菓子ばかり食べていないで本分を果たせ。――国語の勉強かな」

 前半は百花に、後半は晴へ向けたものである。

 朔は視線を畳にやった。とはいえ、畳の目が気になってそうしたわけではない。琥珀の声には、百花に投げるものと晴に話し掛けるものとで違いがあるということに気がついたからだ。晴に掛ける声音の方が優しく、彼女を慮っているのである。長い付き合いですべて知っている百花と客人である晴に違いがあるのは当たり前で、彼が晴を特別視する理由もない。他意はないのは重々承知しているが、どうも腹の底がざわつくというか、妙に居心地が悪くなる。

「はい。その、現代文は得意なんですけど、古典が苦手で」

「そうだ。琥珀、あれはどうしたかな」

 会話を遮って、問いかけた。二人の視線が朔を向く。

「あったろう、おれが言葉を覚えるのに使った本。あれは確か、今は有名な古典文学となっているのではなかったか。あれはとても解りやすかったような気がする」

 かつて朔が妖になったばかりの頃に琥珀から借りて読んだ、人の本。それの存在を思い出し言うが、琥珀はそれに、呆れたような顔をした。

「いつの話をしているのだ、朔。あんなもの、とうに捨ててしまったよ。上手く覚えられず癇癪かんしゃくを起こしたお前が端を齧って破ってしまったこと、もう忘れたのか」

「そうだったろうか」

 もう、とは言うが、恐らく数百年は前の出来事だ。けれど言われて気づく、確かにあれから数百年は経っているのである。捨てられてしまっていてもおかしくはなかった。それもそうだと納得し、一人頷くそんな朔を、晴が目を丸くして見た。素っ頓狂な声を上げる。

「朔さん、本にそんなことを?」

 問われて、晴の存在を思い出した。そうだ、今は彼女がここに居たのだ。

「ああ、いや、その」

 頬が紅潮するのを感じながら、どうにか言い逃れようと必死に頭を巡らせる。しかしその甲斐もなく、肩を竦めて苦笑した琥珀が答えた。

「まったくこれは、昔は手の付けられない悪餓鬼わるがきだったよ。百花の比ではない」

「そこでどうして私の名が上がったのだろう」

「それこそ、何年前の話だ」

 百花の茶々は無視。眉を寄せて唇を尖らせ、罰の悪さを覚えながら朔は言った。

 勿論のことながら、朔は妖力を得て妖狐となるまで、ただの狐として生きていた。前の世、前々の世の記憶を持ち合わせている者も妖の中にはいるが、妖狐として目覚めた朔の頭には、残念ながら狐として生きるうちに見知ったもの以外の記憶が残ることはなく、結果、物の解らぬ半人半狐となっていた。そういう朔を拾い、人としての知識と作法を叩き込んだのは他でもない琥珀である。その当時のことを言っているのだろうが、今にして思えば恥であることこの上ない。朔は軽く手を振って、拒絶を示した。

「当時は幼かったのだ。今は真っ当な生き方をしているだろう、客人のいる前でおれの恥を語るのはやめてくれ」

「あら、私は聞きたいです」

 しかし、悪戯っぽく小首を傾げて晴が言った。

「朔さんの小さい頃のお話、興味あります。どんなお子さんだったんですか」

「そうかそうか、晴さんは気になるか。ならば幾つか話してあげよう。何がいいかな――そうだ、あの話をしようか。あれは確か秋も深まってきた頃のことで」

「やめてくれェ」

 哀願すれども琥珀は聞かず、晴と昔話に盛り上がる。なんとか止めてくれる者はいないものか、と見回して、部屋の端で三角座りをしている今日子が視界に入った。飛んで行って、彼女に向け手を合わす。

「き、今日子。頼む、お前も何とか言ってやってくれ」

 しかし彼女はつん、とそっぽを向くだけである。

「僕は知らないよ。虫の居所が悪いんだ、放っておいてくれ。ぷん」

「お、お前にだって人の生き方を知らぬ時期があったろう。ならば解るだろう、おれの気持ち」

「生憎と僕には解らないよ。僕は、そうなる前から人と暮らしていたから、既に人の作法は知っていたしね。ぷん」

 言われて思い出す。そういえば、そうだった。

 ならば他にはと辺りに視線を巡らすが、今なおもぐもぐと菓子を頬張っている百花は、まず庇ってはくれなかろう。

 何処にも味方がいないことが確定し、情けなく朔の眉が寄る。そんな彼を見て、琥珀はいかにも楽しそうに笑った。

「まァ、朔を苛めて遊ぶのはその程度にしておこう。勉強が捗っているのなら応援に、と菓子を勧めに来たのだが、まだ進んでいないようならもう少し後にしようかな」

「菓子。美味しいものかい」

 真っ先に反応したのは目を輝かせた百花である。琥珀は「仕方のない奴だ」と苦笑すると立ち上がって、一度台所に戻り、今度は別の盆を持ってきた。

 そして載せた小皿を各々に差し出す。見ると、何やら立方体が乗っていた。下半分は桜色、上半分は白色で、その上には萎れた花のようなものが座している。

「羊羹?」

「そうだ。上に乗っているのは桜の花の塩漬」

 相変わらず小器用な奴である。

「お可愛らしい。これも、朔さんが?」

「いや。琥珀が作ったんじゃないのかな」

「僭越ながら自作だ。和菓子が嫌いでなかったら、どうぞ。――今日子も、いつまでも拗ねていないでこっちに来い。お前の分も、百花に食われてしまうぞ」

「おお、貰ってしまっていいのかい、今日子。ご馳走様」

「食べるとも!」

 和装の裾を翻し、畳を踏み抜かんばかりの勢いでどすどすとこちらにやって来る。不機嫌そうな様子で皿を受け取るが、小皿で上品にきらきら光る桜色を見ると、すぐに頬が緩んだ。

 静かに黒文字を刺し入れると、羊羹はするりと分かれる。小さい方を刺し、口へ運んだ。白餡と桜餡の二層の甘みと桜の塩気が口に広がる。

「琥珀さん、お料理がお上手なんですね」

「生半可な料理人では敵わないさ」

おだてるな、朔。そうたいそうなものではないよ」

 謙遜するように言うが、その顔は嬉しそうにほころんでいる。

 晴はというと、それの味が余程気に入ったようだ。自分の羊羹を半分ほど食べた頃、こんなことを言い出した。

「あのう、良かったらなんですが、レシピを教えては頂けませんか」

「これの?」

「はい。私の兄が、羊羹好きなんです。だから、良かったら」

 すると琥珀は顎に手を当て、何かを考えるように俯く。何を黙考しているのだろうと怪訝に思ったが、そうしていた時間は長くなく、すぐに顔を上げるとにっこりと笑った。

「それなら、お兄さんへのお土産、今からうちで作っていくかい。材料はまだいくらか残っているはずだ、もし晴さんがやりたいのなら、準備をしておこう。そうだ、味見は朔に頼むとしようかな」

 意味有な目で突然話を振られて、食っていた羊羹が気管に入りそうになる。喉の強烈な異物感に何も言えないでいると、晴が彼を見た。

「味見――。して頂けるんですか、朔さん」

「案ずることはない、これは君の作ったものなら何でも食うさ。なァ、朔?」

 勝手に答え、からかうようにこちらを見る。晴の手前文句を言うことも出来ず、軽く咳払いをすると、そっぽを向いたまま答えた。

「うん、まァ。甘いものはおれも、嫌いではないから。おれで良かったら、味見をさせて貰うよ」

「ありがとう御座います。それでは琥珀さん、是非、お願いします!」

「それでは私は台所の準備をしておこう。準備が整うまでに、しっかりと勉強を済ませておいておくれ」

 琥珀は盆を持って立ち上がり、来た時と同じように静かに襖を滑らせ部屋を出ていった。

「それでは朔さん、よろしくお願いします。さ、百花さん、そろそろお勉強を始めましょう」

 そして百花に向け、にっこりとほほ笑んだ。

 ――それに驚いたのは、百花である。

 まさか自分に話の先が向くとは欠片も予想していなかったようだ。彼女は黒文字を握ったまま、目を丸くして、笑顔の晴を見返した。

「わ、私も勉強、するのかい?」

 すると晴は、不思議なことを、とばかりに首を傾げた。

「昨晩お電話で一緒に勉強を教えてもらいに行こう、と私を誘って下さったのは百花さんじゃありませんか」

「そ、それはそうだけどォ」

「それに、お勉強は、一人でやるより複数でやった方が捗るものです。さ、やりましょう」

 唇を尖らせるが、良い言い訳は思いつかないらしい。彼女の口から流れ出る非のつけどころのない正論に暫く口籠っていたが、結局は諦めたようだ。晴の催促に負けた百花はのろのろと立ち上がると、近くに放った鞄を引き、中を探り始めた。

 筆記具、帳面、参考書。百花の鞄から勉強道具が出揃っていくのをぼんやり眺めていると、不意に、晴の視線がこちらを向いた。

「あの」

「うん?」

 彼だけに聞こえるような小さな声に、朔は首を傾げて返す。

 晴は目を伏せ、暫く何かを迷っていたようであったが、やがて上目遣いに彼を伺うと、囁くように、ぽつりと言った。

「頑張って、作りますから。――羊羹、期待していて下さいね」

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