さよなら太陽

merongree

さよなら太陽

鈴木 宇宙(うちゅう)

鈴木 空美(くみ)

鈴木 太陽(たいよう)

鈴木 月奈(るな)


 いくぶんか日に灼けた、表札に並んだ文字を見て、弓(ゆ)狩(かり)大地(だいち)の方がそのことを口にした。

「コトナリィ、ここお前ん家だよな」

「そう、」コトナリと呼ばれた少年が、靴紐を結びつつ言った。

「弓狩くん、もう何度も来てるじゃん、オレんちだよ」

「気づいたんだけど、お前、居なくね?」

「うん、表札には出てないね」

「でもお前、ここに住んでんのに」別に不自由はしていない、とコトナリ少年は言った。前住んでたところの手紙とか、大体お母さん宛に届くしね。

「でも太陽はもう居ねーのに、まだここに住んでるみたいじゃん。そっちのがおかしいだろ。あいつが居なくてお前が居るのに、なんか逆みてー」あ弓狩くんちょっと待ってと言い、コトナリ少年が石でも蹴るように素早く奥の部屋へとすっ飛んでいき、辺りに微かな機械音が響いた。弓狩少年はひそめた声で、「お邪魔します、」と言い訳のように言い、マンションの部屋の中へと入った。そっとドアを閉めると、三つ編みに編まれた赤い紐の先に下げられた鈴がきりりと鳴った。

 この、弓狩少年らしからぬ礼儀の正しさは、彼の、この家の家族にたいする不信感めいた気分に裏打ちされているせいで、崩れることがなかった。彼はコトナリ少年から話に聞くだけでも、鈴木家の家族に一種の嫌悪感を抱いていた。弓狩少年が友人の中に見出している、自分のきらいな性質は、彼らからのわるい遺伝なのだろうとも思っていた。その家族が実際のところ、殆ど他人で構成されていると分かった後でも、「やっぱりあいつらは同じものを毎日食っているから、生まれとかは別でも、似たような血のいろをしているのに違いない」と思うくらいだった。彼はこの家の空気を吸うことですら、軽蔑しているものを舐めるような苦みを感じた。彼はこの家の中にいるとき、日ごろ己が軽蔑している、優しさという菰を身体に巻き、口元を汚すような笑みを浮かべ、足音を盗むように乱暴を働かずに過ごしていた。その努力のすべては、ここで目撃される自分の姿をごまかしておくためだった。彼に最後まで良い印象を持たなかったコトナリ少年の母親は、のちに弓狩少年のことを「髪の色が派手な子」と言い、それから「大人しい子だった」と証言した。

 リビングではテレビ画面の中で、魔法少女が低められた音声で何か叫んでいた。その画面の前で、コトナリ少年が四、五歳ぐらいの少女の背に触れつつ、藍色の筒型の機械を手で押さえつけていた。その機械に付属している半透明のチューブが盛んに白色の煙を吐くのを、彼が手でチューブを持ち上げて少女の口に入れて吸わせていた。「気管支拡張剤が入ってる、」と、かつてコトナリ少年が、弓狩少年に示して説明したことがあった。(フラジリテートだ、)と弓狩少年は内心、いま目の前で展開されている、彼らふたりの習慣と、その習慣の主役になっている薬の名前を思い返した。月奈、月奈と、弓狩少年が励ますように少女の名前を呼びつつ、この治療という軽い拷問を彼女にくわえていた。少女はたびたび、この白い煙を飲み切れずに口からこぼした。藍色の筒の機械の真ん中に、船室の窓のように透明な小窓がついており、どうやらフラジリテートらしい薬品の表面が震えている。眺めているうちに、機械音が微かに大きくなったようだった。その薬品の水面が、ふいに下がったように弓狩少年には見えた。「おい、」と弓狩少年がこの、習慣に浸り切っている兄妹に制止をかけるように声をかけた。

「もう少しだからごめんね、待ってて」その光景から締め出すように、コトナリ少年が弓狩少年に言った。「あとイップンで終わんなかったら、ぶっころす」コトナリ少年は、友のいつものぶっころすという言葉を聴き、殴られた後のように吹き出した。それから顎についた自分の唾液を手でぬぐった。

「待ってて、もう最後だから」

 フラジリテートの泡立つ表面をみて、その蒸発する過程の終わりを見越して言ったに過ぎない己の言葉が、今日は彼らの間でふいに湿った空気に変わるのを、コトナリ少年は感じた。

「晴れて良かったね、」と、お互いの会話がそれ以上、湿気ってゆくことを逃れようと口にした言葉が、ぱきりと音を立てて乾くのを彼は耳にした。自分で言っておいて、その言葉をもう一度耳にしたら、新品の紙に触れたように、耳が切れるのではないかと思った。


 あとで疑われたことであったが、十二歳だった彼ら二人の間に、確執めいたものは何もなかった。弓狩少年がコトナリ少年を殴り、脅し、一方的に厳しく命令している関係であったにもかかわらず。コトナリ少年は、誰よりも弓狩少年にとって、良きというどころか便利なほどの理解者だった。殴られても大した傷を負わないのも、自分が殴るやり方にまで通じてしまったためではないか、と弓狩少年が思うほどだった。コトナリ少年は、弓狩少年に言われるままに従い、また暴力も甘んじて受けていたので、事件の後、コトナリ少年が弓狩少年に恨みを持っていたためとか、または過剰防衛の結果だとも噂された。しかしコトナリ少年の方が、自分にかけられた疑いを断固として否定した。まるで自分の身の潔白を証明するように、きっぱりと「彼を恨んだりしたことはない」と断言した。その上でこういう内容を続けた。「自分たちは、あたかも同じ内臓を持つみたいに、心の一部に同じ構造を持っていた。ただその使い方が違っただけで。自分たちはそのことを、言葉にしないうちから互いのうちに嗅ぎ取り、分かっていた。自分たちの間に起こった暴力というのは、同じ角を持った動物同士、どちらの角がつよいかを比べた結果であるのに過ぎない」ただあの時はたまたまオレの攻撃の番で、それが偶然うまく当たったんです、と彼は確かな声で、他人には不確かな比喩をるると述べた。錯乱状態にある子供の言葉だと、大人には解釈された。


 お前本当にいいのかよ、と弓狩少年が尋ねた。彼らは月奈と呼ばれた少女を間にして、三人で電車に乗っていた。コトナリ少年は質問を聴きつつも、妹のためにDSでモンスターを倒すことに全身を傾けていた。「あっ死んだ」とコトナリ少年が小さく悲鳴を上げると、月奈が抗議らしい、動物のような長い悲鳴をあげ、乗客に目の端で睨まれた。

「そのガキ連れてきて良かったのかよ」

「ずっとじゃないよ、泣き止んだとこまで」あまりうるせーとその辺りに捨ててくからな、と不機嫌そうに弓狩少年は言った。

「たぶんオレが死ぬとこ見たら、喜んで黙ると思うよ、こいつそーゆー性格してるから」この冗談めいた言葉を受けて弓狩少年の方が目のいろを変えた。

「話したのか、そいつに」

「うん」月奈も見たいっていうから――でも、危ないから途中で捨てていくんだ、と彼は言った。(事実、彼女はその後の駅で、ペットボトルの水を手に、泣いているところを保護されている)

 コトナリ少年の返事に、弓狩少年が何か言うより前に、昔話の大入道の手のような黒い影がぬっと車内に来た。それから、青い巨大なけだものの背のように広い海が、鱗のように海面をぴかぴか光らせて彼らの眼下に登場した。反射した光は鉄砲の玉のように、車内にいる彼らの顔に雨あられと降り注いだ。

「見たいの、月奈――」コトナリ少年は妹を抱き上げ、目の前に広がった海を見せた。それからよく見えるかと言い、オレが死ぬとこ見たいかと尋ねた。彼の妹は見たい、見たいと手を打ち合わせるように叫んだ。

「もうすぐ着くよ、だからじっとしてて」と彼は妹に囁き、まるで戸締りをするかのようにサッと彼女の手を繋いだ。その素早さとやさしさを見て、まるで止血するみたいにやるのがコイツの仕方だ、と弓狩少年は忌々しく思った。

 やがて彼らに目隠しをするように、また幅の広い影がやって来た。目の前に現れたトンネルの岩壁をみて、ふいに声を低めた月奈が「さよなら、さよなら」と呟いた。ふいに見えなくなった青い水に対し、彼女は惜しむでもなく、その残像を手でちぎるように自ら決別していた。さよなら、さよならの後を、コトナリ少年が引き取って、弓狩少年の知らない童謡につなげた。彼は幼い妹を抱え、ふいに何か彼女に危機が及んだり、そのことで彼が不安になると自らと彼女をともに奮い立たせるように歌う癖があるのを、弓狩少年は見て知っていた。

 また弓狩少年は弓狩少年で、この幸福というニスを塗ったような兄妹を持て余していた。このどこか足取りの浮ついている二人に、首に縄でもかけるようにして死のもとへ一直線に引きずっていくことは、これまでの暴行がすべて、これをすることが出来ないための足踏みであったように思われるほどの重荷だった。彼は友に、友が慰めてやらなければならない妹のいることに今更苦しんだ。しかしこの妹がなくては、彼はわざわざこんな旅行へとついて来たりなどしないことも、弓狩少年は理解していた。彼は旅行に来たのでも、弓狩少年に誘われてついてきたのでもなく、妹との関係を壊すために出発したのに違いない――。友の歌う癖のことと同様に、弓狩少年はその推測を彼に告げなかった。


 優しいお父さんだね、と弓狩少年は何度となく他人から言われた。彼は、彼にしか分からない微妙な間を込めて仕方なく「そうだよ」と言った。他方、父親は自分という息子について、決して良い持ち物だとは褒められないことも知っていた。普段の素行のわるさに加え、母親の染めたオレンジ色の髪や、彼女譲りの言葉遣いの荒さが、彼の名前の代わりになっていた。小学校の担任教師から暴行のために呼び出され、髪の色を「素行の悪さ」として注意された時、しかしこの大人しい父親ははっきりと突っぱねたものだった。

「亡くなった妻が彼に残した物ですから、親としては今のまま、彼に残してやりたく思います」

 彼の妻、弓狩少年の母親はこの旅行の二年前、弓狩少年が十歳のときに事故死していた。彼女はだんだん衰えたのでなく若いまま、激しい気性のまま、突然鳴り止んだピアノのようにふいに家から居なくなった。彼女の姿や声の記憶が、彼らの家の中で、永遠に無くなることのない家具のように配置され、成り立ってしまうことを受け入れるのと、弓狩父子が彼女が本当にもう居ないのだということを理解するのとが同時だった。まるで太陽のようであり、また生活の司令塔でもあった彼女を失くし、弓狩少年の父はしばらくの間失明したかのように意気消沈し、自分はおろか息子の食事さえも忘れていたほどであった。そして彼女の死と、日々の生活の一部を仕舞う家具のように付き合い始めると、今度は彼女のしるしを現実にもとめ、それが彼の最も身近なところに在ることを発見した。彼の持っていた息子である。息子は彼よりも、彼女に大量に輸血されて産まれたと思われるほど面差しがよく似ていた。アーモンドの形の大きな瞳、少し上を向いた鼻、四方八方に散らばる、また部分的にオレンジ色に染めたその髪などは、彼女が書き散らした電話のメモ書きのように、弓狩少年の父には思われた。同級生にひどい負傷をさせる、息子の途方もない乱暴さをすら、気性の激しかった彼女の残した耳飾りのように愛した。赤ん坊の号泣が口から漏れ出るように、少年からこぼれだす額縁のない暴力は、彼には歌うことの出来ない高音の歌のように思われるのだった。彼じしん息子にそう認めていたのだったが、何にも遠慮することのない純粋な力、というもの自体、彼には生涯身につけることのなかった貴重な宝石のようなものだった。

「きみが産まれたときに僕はそれを失ったんです」とも、彼は息子に話した。


 俺ヒト殺したかもしれない、と弓狩少年は、野球中継を見ている父親の横顔に向かってつぶやいた。風呂上りの彼の掛けた眼鏡は半透明に曇っていた。息子の言葉の後、「打ちました」という中継の声が彼らの間に斜めに食い入った。父親は無言で立ち上がり、ふらふらと廊下に出た。それから受話器を持ち上げて「大地くん、相手は何番なんだい?」と底の抜けたような声で言った。

 はい、はい、はい、と続けざまに父親が言うのを、弓狩少年は聞きながら、携帯電話を手の中で弄んでいた。

「あ、1‐0だって巨人負けた」

 彼はあてどなく呟いた。電話が終わった後、父親に教えてやる気でいた。

「大地くん、コトナリくんとは親しいのですか? といつの間にか電話を終えていたらしい父親が彼にたずねた。

「コトナリ? 鈴木でしょ? あいつ鈴木元就っつうんじゃないの? クラス一緒だけど別に仲良くない、なんで?」

「先方が、来てくれなくていいというんです」

「あいつ生きてたの? 動かねーからしんだかと思った。来なくていいって? 親がすげー怒ってるってこと?」

 父親はかぶりを振った。

「『コトナリが怪我してくるのはいつものことだから』って……、別に気にされてないそうだよ。それにどうも、」

 お母さんのご体調が良くないらしいんだ、失礼したいと先方のお父さんから、と彼は付け加えた。弓狩少年は、つまるところ自分が拒絶されている理由について、自分への憎しみのためというより、この病気の母親を庇ってのことらしいことを、彼の父親が気づく以上に敏感に察知した。彼のこの、弱者の身動きにたいする発達した嗅覚は、彼の母親にはなかったもので、実のところ、彼女に絶えずなぶられていた父親の姿を見ているうちに、自然と身についてしまったものだった。しかし当の父親は自分がこの輝かしい、野蛮な魂を持った息子に、自分なぞが影響を与えられるとは考えておらず、彼はあくまで自分から独立していて、たとえば彼の配偶者だった妻の残した身体の一部であるかのように考えていた。いかに彼が妻を愛したところで、妻の瞳の色を変えることなど出来ないように、弓狩大地を自分が変えることなどは出来ない。しかしその考えには養育者としての諦めなどは含まれておらず、ただ彼を恋人のように愛する者としての鈍感な喜びだけが含まれていた。弓狩少年がぼんやりと、個人的な慰めのようにその病身の母親のことを想像しているとき、彼の想像の内容も知らないまま、彼の父親は声を励まして、父親らしいようなことを言った。それが息子に影響を全く与えないことを、半ば喜んで受け入れながら。

「あちらの迷惑になってもいけないが……、明日学校へ行ったらきちんと謝りなさい。コトナリくんに許してもらわなくちゃいけないよ……、そうだ」

 母さんの所から花を一本、貰っていくと良いと言った。弓狩少年は答えた。

「だから、コトナリって鈴木元就? 父さん、間違ってかけてないよね?」

 それに答えず、父親が駆け込んだ隣の部屋から、チーンという薄暗い鐘の音が響いた。それから乾いた手を仏壇の前で擦り合わせる音と、洟をすする音が続いた。


 弓狩少年がチャイムを押すと、顔の半分をガーゼで覆った鈴木元就が出てきた。彼は自分のやったことにもかかわらず、こうして同い歳の少年の顔が腫れている様を見ると、まるで唾が出るように自分でも顔が痛む気がした。「弓狩くん、」とその痛々しい顔で言った彼は、弓狩少年が不思議に思うぐらい、彼にたいする恐怖心が欠けていた。犬の置物に吠えられないと思うのと同様、目の前にいるのが弓狩少年の実物でないと思っているかのようだった。

「よォ」

「なんでオレんち知ってるの?」

「先生に訊いた」

「なんで?」

「お前に謝らないといけないから」

 そう言って彼は、母の仏壇の花瓶から引き抜いてきた、赤いカーネーションを突き出した。母の日に大量にスーパーで売られているのを、母さんの日だとか言って父親が買ってきた花束の中の、枯れずに生き残った一輪だった。

「カオ痛かっただろ、悪かったな、これお前にやる」

 鈴木少年は茫然とした顔で、目の前にあるぎざぎざした花弁を辿るように眺め、手に受取ろうとした。その瞬間、弓狩少年が手を離した。鈴木少年がかがみこんで拾おうとすると、その手のひらごと弓狩少年が運動靴で踏みにじった。彼はしゃがみ込み、靴の下から汚れた花を取り上げ、

「綺麗になった、さあ食え」と鈴木少年の顔の前に突き出した。今度も、鈴木少年はまた茫然と、泥のついた花の輪郭を辿るように見つめていた。

 この眼つきは、鈴木少年の名前のようなものではないか、と弓狩少年は思った。自分の髪の色や言葉遣い、また付けた傷などが自分の名前の代わりを果たすように、この殴られたことをも理解しない、映らない鏡のような眼こそ、彼の「本名」のようなものではないか――と、この他人の弱さに目ざとい少年は思いつき、しかし自分でその考えに何らの名前も与えられず、ただ怒りに似た嫌悪感として己の中で仕方なく煮詰めていた。彼の見つけたその眼は、光をよく透すのだったが、底の方まで光を貫通させない青い水を湛えた池のようだった。その底の形までは見通せなかったが、その形は深い器のようで、いつもずっしりとした半透明な内容を湛えている。弓狩少年は同じ年頃の少年を殴ると、相手の眼がみるみる自分を詰る口の形のように拡がるのが面白い、と思っていたが、この鈴木少年だけは違った。彼は殴られても悲鳴すら上げず、抗議の言葉も吐かず、その眼を軽く抵抗の形に膨らませて押し黙っている。その眼の仕組みを見るのが快くて、彼は鈴木少年を愛した。また、彼は物に予め備わっている機能を使ってやるのは、力のある人間の義務のようなものだと考えた。仏壇の花を買いに行く花屋が、花束を作るとき、花の茎を切ったり葉を毟ったりするのを見て、彼はなるほどと思ったことがある。あらゆる物はその機能の輪郭に添って、余計な部分を刈り込んでくれる手を必要としており、また刈り込むのは力のある者、物を眺める立場にある者の義務である。太陽が照って植物の葉を伸ばしてやるように、鈴木少年の上に暴力を注ぎ、雨後の植物のようにあの特殊な眼を開かせてやるのは、力のある己の義務なのだ、と弓狩少年は考えていた。

 

 手のひらを太陽に 透かしてみいれーば


そのとき、弾けるような歌う声とともに、鈴木少年の背後から幼い少女が走り出てきた。

「コトナリ、コトナリ、どこ行くの」そのたずねる声には既に「自分も連れてゆけ」という命令が含まれているのが、弓狩少年にも伝わった。彼女は兄が、屈み込んで靴を履いていると思ったらしかった。これが弓狩少年が、コトナリ少年の妹を見た最初だった。彼女は人形を抱くように、兄の首の辺りに抱き付いた。「あっお花」と、彼女は目の前にあった汚れた花を、弓狩少年の手から毟り取った。彼女はまるで、目の前にいる知らない少年のことなど眼中にないかのようだった。それから汚れた花弁の匂いを嗅ぐと、自分の嗅いだ香を分けてやるかのように、コトナリ少年の顔の前に突き出した。

「はい、あーんして」

 それは全く、彼女たちの平素のままごとの続きらしいことが、彼らの安穏とした表情から、弓狩少年の目に読み取れた。コトナリ少年は目を細めつつ、彼女のために口を開いていた。その柔らかくて赤い粘膜が、弓狩少年の目にも映るような気がした。少女の桃色の服に包まれた白い手の甲が、コトナリ少年の口の中に、捩子を巻くようにして花の茎を捻じ込んでいった。弓狩少年は唾を吐くように、その場を立ち去った。螺旋階段を下りていくと、自分の冷たい足音が鉄製の階段に響き、自分の苛立ちをそこに記しているかのように思われた。先ほどの桃色の服の少女の歌声が、彼の足音の間に響いて聞こえてきた。てーのひらを、たいように、という叫ぶような声が、同じフレーズしか分からないものか、壊れた機械のようにずっと繰り返され、あたかも歌を練ることを楽しんでいるかのようだった。彼が建物の外に出ると、踊り場からぼんやりとコトナリ少年が、自分を見下ろして見ているのに気が付いた。視線が合っているのにもかかわらず、相変わらず写真でも見ているように彼は反応を寄越さず、また例の眼つきをしていた。その白っぽい表情のどこにも、花を食べた苦さは見当たらなかった。


手のひらを太陽に 透かしてみれば 

真っ赤に流れる 僕の血しお


「ぶっ」と、コトナリ少年は吹き出した。そのあと、息を吹き返したように咳き込んだ。片方の鼻孔からは血が出ており、それが頬に付着して固まっている。鼻血が出たら、飲みこまないように顔を横に向ける、という知識を彼は母親に教わっていたが、息を殺していた後に笑い出して、その笑いが止まらなくなってしまった時に、止める方法を教わらなかったことを悔やんだ。それから母親に、笑いが止まらなくなったと言えば、彼女がどんな表情をするか、ということを想像してふいに背筋が寒くなり、自然と笑いを止めることが出来た。

「……何ンだよ」

「だって、」弓狩くん歌うんだ、「歌なんか、歌うんだ……」と言い、彼はむしろ母親のことを言いたくない気分に駆られたところだったので、彼をいじめる人間がふいに歌を歌いだしたことを笑った、という秘密の方が言い易い気分になっていた。

「悪りーのかよ、俺だって人間だぞ」と、弓狩少年は妙な怒り方をした。それは冗談のようにも思われたが、こんな冗談を言って笑わせようとした後、ふいに腹を蹴ったりするのが彼のつねだったので、コトナリ少年は苦し気に笑いを殺した。

「あんまり人間だなんて思わなかったなァ……」

 なんでオレなの、と彼は自分でも驚くほど、子供っぽい悲鳴のような声で呟いた。その途端に、身体に塞いでいた栓が外れたように、彼の眼から涙がこぼれて、彼の頬を伝い道路のアスファルトの割れ目に染み透った。彼は笑いをこらえているような声で、身体をしばらく震わせていた。弓狩少年は倒れている彼の身体に近づき、まるで熱のある子の顔を見るような母親のような態度で、コトナリ少年の頭に手で触れた。

「べつに意味とかねーよ、こんなん暇つぶしだから」

 そういう顔もするんだな面白ぇ、と彼は続けた。このことは別に彼にとって告白でも何でもなかったが、コトナリ少年には、彼がそのように内面を明かすことが異様に思われているらしく、殴打したとき以上に、何か異形の人間を見るような眼で、地面から彼を見返した。

 月奈が居るからだよ、とコトナリ少年はつぶやいた。それが、弓狩少年の意にかなったらしいことを、彼は弓狩少年の身体に現れた波紋のような震えを見て感じ取った。

「オレが怪我をすると、月奈が痛くないって言い張って治してくれるから……」

「月奈ってこないだの奴? お前の妹?」

「みたいなもの」

 この答えは、むしろ弓狩少年には意外だった。

「産んだひとが違うから、他人なんだけど。はんぶんだけ同じってことにしてる。いまは一緒に住んでて、オレの妹」

 そう言うと、彼はふたたび咳き込み始めた。涙とも鼻血ともつかないものがふいに喉につまり、ひゅうっと音を立てたのを彼は再び噛み殺した。

 ふうん、と弓狩少年は、鼻歌でも歌うような調子でうなずき「今度またお前ん家行くわ」と言った。


 全員がそろった食卓、という光景は何とにぎにぎしいことだろう。父と息子のみでの食事は、いくら父親が努力してもどこか作業のような、何か生活のせわしない一過程のようであるのに。弓狩少年は、母親に父親、また彼がはんぶんだけそうなのだと言った妹の集まる、ふっくらとした手のひらのような、家族をかぞえる指のそろった食卓に、さらに自分が繰り込まれることの異形さを面白く見ていた。

 コトナリ少年の父親は、彼の話に一度も登場したことがなかった。しかしどこか静かな沼を思わせる瞳が、コトナリ少年に似ているように思われ、これは血縁者ではないかと弓狩少年は推測した。「息子の友達」に対し、父親はまるで知識からそうするかのような、整った歓迎の意を示していた。対照的に、どこか感情的な動揺を示しているのが母親の方で、年齢は三十過ぎ頃のようだったが、父親と並ぶとコトナリの姉のようにも見えた。弓狩少年自身、十二歳の子供なのだが、彼は大人にたいする漫然とした恐れというものがなく、年齢に関わりなく弱い獣の出す血の匂いを探して他人の顔を伺う癖があった。自分が弱い、また自分こそ弱い者の代表格として、息子にそんな嗅覚まで与えてしまった張本人だということを知らない、コトナリ少年の父親は、彼が幼い弱い子の癖などをすぐ見抜くのをみて、「大地くんは小さい子のことをよく見ているんだねえ」などと言った。彼はまた、眺めた相手が自分を眺め返す、という現象にもよく通じていた。彼の知っている限り、彼の父親のような鈍感さの方が稀である。実際には、コトナリ少年の母親のように、眺められるばかりの獣は、眺められているという事にもう耐えられないものを感じ、眺めた相手に火傷でも負わせるような目で、見返していることの方が多い。

「弓狩くん、遠慮せずにたくさん食べてね」

 そう言うと彼女は、サラダを取分けるために大きなスプーンとフォークを手にした。そこに彼女が、全身を彼の視界から引き抜こうとする努力の影が現れ出た。いただきます、と弓狩少年は快活に言い、それが視界のはじに居る父親の気に入ったのを確かめて俯いた。

 席はコトナリ少年の隣だったが、彼が月奈を抱き上げ、父親の隣にある小さな椅子に座らせたのを見て、弓狩少年がふと「お前ここだろ、席一つ多くねえか」と言うと、その声が思いがけず強く響いた。コトナリ少年の母親はもう耐えきれずに、トイレと口に出して席を立った。何も起こっていないことを証明するかのように、父親が豊かな微笑をろ過したような声で「そこは太陽の席です」と言った。タイヨウ、タイヨウという単調な繰り返しが、月奈の口から歌になって漏れた。

「コトナリくんの弟とかですか、」

「みたいなもの、」とコトナリ少年が遮るように言った。

「というか、今はオレが太陽なんだ。ごめん、ちゃんと話してなくて」

「そっか、お前なんか名前違うもんな、」とスープを啜りつつ弓狩少年が言った。

「コトナリ、コトナリつうけどクラスじゃ誰もそう呼んでねーし。ずっと元就だと思ってたけど、太陽っつうのか、鈴木太陽」

 彼は、コトナリ少年がテーブルを叩いたように感じたが、実際には何も起こっていなかった。ただ、それと同じだけの衝撃が広がり、全員が同時に沈黙しただけだった。弓狩少年はその沈黙のうずに回収されることを拒み、ズッとスープを啜った。彼がとっさに盗み見たコトナリ少年の横顔には、押し殺した彼の怒りが、ニスを塗ったように薄く表れていた。


懐中電灯の光を目で追いつつ、忌々しげに弓狩少年が言った。

「お前の部屋、なんで電気ねーんだよ」

「夜は目が悪くなるから、勉強なんかしなくていいってお父さんが」

 昨日のうちに準備しておいたから、布団は敷いてあるとコトナリ少年が言った。いざ布団に入ると、この懐中電灯を使う仕組みが面白く、弓狩少年は「貸して、」と懐中電灯を奪い、興奮気味に部屋の中を照らし散らした。海の底に沈んだような部屋の中で、仄白い短冊や桃色の画用紙がその光彩を抑制しながら浮かんで見える。彼が散漫に投げた光の輪の中に、「太陽」という文字の姿が、時折現れては消えた。それらは絵画コンクールの賞状に書かれたものであり、また花丸の付けられた書道の作品であったりした。

「すげえな、お前大活躍じゃん、」と弓狩少年が言うと、うん、と衣擦れの音に紛れるほど、微かな声でコトナリ少年が呟いた。

「どっち? お前……」

 どっちもだよ、と煩げにコトナリ少年は答えた。

「太陽も元就も、どっちもオレだよ、ていうか、どっちかだけであることなんか、出来ないんだ。だからもう二度とお前はどっちだなんて、あの二人の前で訊かないで。弓狩くん殺されるかもしれないよ、どっちかに」

「あの二人?」

「お父さんとお母さん、」

「妹はいーのか」

「月奈は、オレよりも確かだよ」

 本当にオレがどちらでもあると思ってるんだ、月奈から太陽を毟り取るなんて、オレじしんにも出来ないと彼は言った。

 

 ダブル連れ子、と、誰がそう言ったのかは不明だが、コトナリ少年はまるでそれが一般に通じる言葉であるかのように、自分のことを軽く説明した。

「月奈を産んだのが、あの空美さん。オレたちのお母さんで、太陽を産んだ人でもある」

「お前を産んだのは?」

「違うひと。でもとっくに離婚しててここには居ないよ。お父さんが言うには『危ないから育てさせなかった』って」

 きみたち二人、母親と子供とを同時に育てることは僕には出来なかった、という彼の台詞をそのまま、コトナリ少年は口移しにした。

「子供が彼女にとっては危険だったし、またきみにとっても彼女は危険だった。だから引き離した。赤ん坊は僕が責任をもって育てる、だからきみは自分の身体のことだけを考えて、ただ健康になりなさいって」

 お母さんはお父さんの患者さんだったから、それで身体にわるいことはお父さんがよく分かってた、とコトナリ少年は付け加えた。

「世間が何て言うかは知ってるけど、でもその結論で僕らふたりは幸福になれたんだよ、幸福になるためにはほんの少し、元々のあるべき姿を捻じ曲げないといけないこともあるんだって」

 だからオレは引き剥がされて良かったんだって知ってる、とコトナリ少年は目を閉じたまま言った。

「でもお前、今あのお母さんに育てられてんじゃん、メシ作って貰ったりして」

「今日はね、割と元気なほう」

 お父さん、同じ失敗するのが好きなんだ。好きな失敗なんだと思う、優しくて壊れやすうい感じのひと好きになるの。

「オレもその血が入ってるから分かる、」と言って彼はにやりと微笑んだ。弓狩少年がぞっとするほど、その露わな弱い獣らしさは、彼のような人間に好餌らしく映る表情だった。

「結局、自分の母親に育てられるのと変わらなかったんじゃないかと思うよ。オレも好きなんだああいう、スープがこぼれちゃう感じのひと。でも月奈は不安になるから、嫌なんだって。だから太陽の方を頼って、好きだったんだ。でももう居ないから」

 そう言ってコトナリ少年が、弓狩少年の手から懐中電灯をもぎ取り、光の輪を放った先に、紅白帽子をかぶった少年の写真があった。

「オレより、弓狩くんの方があいつに似てる」

 微かな微笑の匂いのある声でコトナリ少年が言った。だから月奈は喜ぶし、お母さんはああして具合が悪くなるんだろうな。

「空美さんは空美さんで、離婚してたんだ。月奈が産まれるちょっと前。一人で太陽と月奈を育ててた。でも二年前に、太陽が川で溺れて死んじゃったんだって。月奈を助けようとして。それで空美さん、ちょっとおかしくなって、その頃にうちのお父さんに出会った。

『彼女を蘇生させたい』って夜中に、オレお父さんに言われた。だから協力してくれって。太陽のふりしろとは言われなかったんだけど、月奈がときどき、太陽太陽って泣くんだ。まだ三歳だったから、お兄ちゃんの顔とかよく分かってないままだったんだろうけど、だから俺がときどき太陽になることにした。空美さんもね、たまにオレんとこ来て寝てる。コトナリくんごめんね、あなたは違うのにねって。コトナリって言いだしたの、月奈なんだけど、『モトナリ』が言えなくて『ココナリ』、それから『コトナリ』。もうこれでいいやって思ってたら、空美さんまで『異なり』くんって。太陽じゃないのにって意味だと思う。お父さんもお前だけ『異なり』だなって。みんな宇宙と星だとか太陽だとか名前につくのに、オレだけ毛利元就でしょ。空美さんが、そういう言葉遊びとか好きらしくて、仲間外れって意味でコトナリって呼んでる、とお父さんは思ってる。みんながコトナリって言うから、俺はコトナリ、それから太陽でもあるってこと」

 ふうん、と弓狩少年は手持無沙汰に、懐中電灯を振り回しながら返事した。紙で出来た象、「美しい星」と書かれた書道、夥しいメダルなどを光で撫でさすったのち、

「ここお前の部屋じゃねえな、居なくなった太陽の巣だ」と感想を言った。


僕らはみんな 生きている 生きているから


「なぁ父さん『手籠めにする』ってどういう意味?」

 大地くん何を読んでるんですか、と慌ただしい足音を立てて、父親が弓狩少年に近づいた。

「コレだよ、父さんの本棚にあったやつ」

 毛利元就、と書かれた背表紙を彼は父親の顔へと向けた。

「結構難しい言葉出て来るから分かんねえんだ。こないだ鈴木んちに泊まっただろ、あいつの名前元就って言うんだ。これの毛利元就」

「大地くん、きみは歴史小説に興味が出たんですか」

「じゃねーけど、あいつが何であんなことやってんのかには興味がある」

 自分で口をついて出た、コトナリ少年への関心の正体に彼は自分でやや驚いた。彼のそういう驚き、また彼の新しい友情などに一向に構わず、己の関心事から抜けださない父親の態度には、彼は慣れたものに対する安堵をしか感じなかったが。

「あと切腹、とか。武士の自殺ってことは分かるんだけど、武士って何でそんなに死ぬことにこだわんの」父親は顔を触り、一瞬の間沈黙し、「それは切腹が、自分の正しさを証明するための行為だからですよ」と言った。

「きみが見たのは恐らく、大将が切腹すれば家来は許してやるという話でしょう。この場合は、名誉ばかりは奪わないから、命だけ渡せという意味ですが。また罪人とされても、打ち首でなく切腹を命じられるのは、名誉は守られたということでもありました。自分で自分を裁く、という武士の特権を行使させることでもありましたから。己の正しさを己の手で示す、それは武士にのみ赦された特権で、その権利は持つ者にとって命以上に重いものでした。己の血や肉という、何とも換えの利かない物を秤の片側に乗せることで、もう片側にある正義の重さを他者に示したのでしょう。昔の人はそれだけ、命と引き換えてでも、自分が正しさを所有している者であるという名誉に拘ったんです」じゃあ泥棒とかしてもさ、と弓狩少年が付け加えた。

「犯人が切腹してオレは悪くないって言ったら、悪くないことになんの」

「そりゃ犯罪は犯罪ですよ、悪いに決まってます」

「でも悪いかどうかを決めるのは本人なんだろ」

「どんな時代でも法律のような、やってはいけない決まり事はありますよ。そして法律のあるところ、それを守らない人も必ず居る。罪あるところ裁きがありますが、他方で自分で自分を裁くことが出来ると認められている人たちには、それが特権的に許されていたということです。自分のすることに対して、確かな分別を持っていると認められた、ごく一部の勇敢なひとたちにだけ」


後日、彼は弓狩少年の同級生の親からの電話を受けた。

「右眼の視力は絶望的だそうです」

「あっそ、」

 父子は、彼らにしばしばある簡単な遣り取りをした。その後、父親がふいに寂し気な顔つきになって言った。

「きみの行いは乱暴そうに見えていつも何かしらの理由がつく。大地くん、きみは戦国時代に生まれていれば、僕なんか今頃一呑みにしたでしょうけど、」一呑み、という言い方の面白さに弓狩少年は笑った。その顔を常にない重苦しい調子で、父親が両手で挟んだ。

「きみはきみの思うとおり、信じる善も悪も働いたでしょう。でも、何かするごとに切腹するなんて言わないでください。善も悪ものちの歴史が決めますが、その時はきみの一生という単位で秤に乗せられるんです」

 そう言い、息子の伸ばした前髪を手で押し上げた。彼が片目を奪った少年に、彫刻刀で反撃された時の傷が、彼じしんの告白のように露わになった。

「僕には羨ましい。おそらく、僕が一生かかっても他人に打ち明けることの出来ないほどの恨み、敵愾心、その他手の施しようのない激情を、きみは既に他人に打ち明けてしまっているでしょう。誰が何と言おうとも、僕はきみを咎めるつもりは毛頭ありません。やった分だけ、やられなさい。実際のところ、きみを殺すことが出来るのはきみの敵ではなく、きみが感情を抑制する術です。あまり臆病になりすぎれば、きみはどうなるか――」

 そう言い、彼は自分の眼鏡を外して息子の顔にかけた。少しサイズの大きなそれは少年の鼻の上でずり下がり、父親は節くれだった指で、眼鏡の方をいたわるようにそっと抑えた。

「僕みたいになってしまいますから――」

 弓狩少年は、目の前にある父親の尖った喉仏が、何かを呑み込んだように動くのを見た。


僕らはみんな 生きている 生きているから、


「お前腹でも痛えのか、」と彼はコトナリ少年を気遣ったことを言い、我ながらいま彼をこんな風に気遣うことの可笑しさを感じ、乾いた笑い声を立てた。自分のその思いがけない、出血のような優しさが、いつもと同じ単調な暴力として、コトナリ少年の目に映るようにと願いながら。

「帰りたいンなら帰ってもいーぜ、ただしお前ひとりで帰れ」

「なんでオレなの?」

 コトナリ少年が山道の途中、ようやく口を開いた。その眼には確かに、いつもの抵抗の影が盛り上がって見えた。弓狩少年は満足を覚えた。

「なにが? 俺が連れてくのがお前だっていうことが?」

「うん、」

「同じだから、お前も俺も」弱いから誤解される、と彼は口早に言い、木の幹を掴んで先へと進んだ。

「切腹が必要だ、」

「セップク?」

「コトナリお前、あの家で生きてるって感じがするか」

彼らの間に、彼らの共有物のような陽の塊が落ちた。それが二人の間で不思議な媒介となり、しばらくの間会話をしたかのような融和が齎された。実際にはその間は、ぐっしょりと濡れた手触りのある二人分の沈黙だったのだが。

「お前があれで生きてるっつうんならいーんだぜ、俺はそう理解する、お前のこと。でもお前見てるとそうは思えねえな。コトナリ、お前だって本当は自分の名前で呼ばれてーんじゃねえの。お前が殴られても痛くも痒くもないって顔してる、あの優しそうな家族本当に好きか。お前がやってることと言ってることとが、俺には合ってるように見えねえし、お前見てると何で何もしねーんだって苛々すんだよ。だから誘った、でもてめーの足で来たのはお前だぜ、俺は、」

 そう言い、彼はふと雨粒でも見つけたかのように己の手の甲を見つけた。この何気ないしぐさが、コトナリ少年の眼の中に弓狩少年の生涯の肖像画のように残った。

「俺にある力を全部、自分のために使うことに決めた。誰のためでもなく、父さんの代わりでもない、これは全部俺じしんのための暴力だってことをさ。言うんじゃなく、やることで示すんだ。コトナリ、お前だってそういう眼が出来るってこと、自分で知らねえだろ。お前の家族だって、お前の顔まるで見ちゃいねえんだ。怪我しても、お前が睨んでてもさ。コトナリ、お前のやってることの正しさを、力で証明してみせろよ。お前が誰かってことを証明できるのは、お前のほかにこの世に誰も居ないんだぜ。てめーの正体はてめーで取り戻せよ、『コトナリ君』」

 コトナリ少年の目にはこのときふいに、友の姿が欠けたように見えた。実際には、彼はただ垂直に下の小路に飛び降りたのだったが。

 コトナリ少年はキリリ、と己の手の中に響く金属音を聴いた。ポケットに入れてきた緑色のワニを模したカッターナイフだった。それから汗を払うような仕草で、地面にそれを取り落した。「自分で決められるのなら……刃物は、イヤだな、」彼じしんを除いて、このつぶやきを聞いた人間はほかに誰も居なかった。


 まだ夜になるには早く、旅館の大浴場にはほかに誰も来客がなかった。裸になると、彼らは急に子供らしい快活さを取り戻した。衣服を自分から引き剥がすことで、しばらく、彼らは自分の肌に貼りついている現実の手触りを忘れることが出来た。いま彼らの身体の周りには、日常に垂れこめている空気の代わりに、新鮮な熱い水があった。

「あっちいな、」と弓狩少年が笑った。彼がコトナリ少年に、こんな風にポケットの中の飴玉のような軽い笑顔を向けることは稀で、今は全身に噛みつくようなこの熱い湯の刺激が、彼の暴力の代わりをしているのかとコトナリ少年は思った。彼の指が動き、コトナリ少年の腹を押した。まるで死んだ魚の解剖をするような、無感動で馴れ馴れしい、不躾な指先がコトナリ少年に触れた。

「立ってみ、お前」

 いつもの命令的で短い声が、湯の上を滑り、コトナリ少年は滴を垂らして立ち上がった。弓狩少年は尋ねた。

「……俺のほかにも、お前をいじめてる奴っていんの」

 俺こんなことしたっけお前に、と彼は続けて言い、自分に身に覚えのない傷の痕跡に触れた。コトナリ少年は彼の手を払うように、湯の中に勢いよくしゃがみ込んだ。透明な熱い湯が彼の全身を覆い、とっさに彼の拒絶と沈黙との代わりをした。彼はそれ以上、弓狩少年に何か発見されることを拒むかのように、告白に相当する内容を口早に言った。

「空美さんだよ、何となく分かるでしょう」

 ふうん、と弓狩少年は言って手を湯の中に沈めた。コトナリ少年はこれまで、どんな暴力にも、自分じしんの身体を影のように路上に投げ出し、雨が止むのを待つかのように無抵抗でいた。しかしこの時はじめて、彼は見られることに微かに抵抗をした。自分の全身をさらけだすことの代わりに、彼はそれを告白し、彼の宿敵である弓狩少年の前に、自分の微笑む顔を晒した。

 

 布団の手触りは冷たく、日常からかけ離れたようなその感触はなお、彼らを非日常の居心地の良さの中に包んでくれているかのようだった。コトナリ少年はなお、自分の居る場所が現実の一隅であることが信じられず、この巨大な布団も、彼らがここに宿泊するまでに大人に吐いてきた沢山の嘘の塊であるかのような気がした。

「お前に選ばせてやるよ、」と、弓狩少年は携帯電話、インク壺、万能ナイフ、縄跳びの紐などをシーツの上につぎつぎと投げ出した。コンセント式の蚊取り器があるのが、コトナリ少年の腹をくすぐった。もし大量に失うのなら、自分ならば血ぐらい虫にくれてやると思ったが、弓狩少年は自分に噛みつく弱い力を、こんな風に虐殺する方を好むだろうと思った。

「たくさんあるんだね、」と彼は玩具を取り上げるように、彼の持ち出した道具をひとつひとつ取り上げた。

 ふと、彼の中に(本気じゃないのかもしれない、)という思案が浮かんだ。彼はつねに、弱い者を苦しめることに、快楽さえも感じず、ただ弱く出来ているという道具を使ってやっているだけだ、ということを言う。この旅行自体、もしかしたらこれから先も苦しめ続けようとする、自分を驚かせ苦しめるための遊びに過ぎないのではないか。

(だって心臓がいくつあっても足りないじゃないか、)と彼は心の中で言った。この選択肢の夥しさは、弓狩少年が自分の死を、たとえば完結した円のように描き切れていないことの表れではないか、とふと彼は思った。自分の心臓を止めるところを、正確に想像しきった人間が、これほど雑多な選択肢を己の心臓ひとつのために準備するだろうか? 彼の中で、自分の死というものはまだどのように辿り着いていいのか分からない、地図のない道の先にある宿泊施設のようなもので、彼は実際にそこに辿り着くことより、そこに向かおうとする過程を楽しもうとしているだけなのではないか? ちょうどこの旅行自体がそんな計画であったのではないか? コトナリ少年はふいにそう考え、答え合わせをするかのように弓狩少年の顔を覗き見た。

 そこにはコトナリ少年が失望するほど、満ち足りたと言ってもいいほどに落ち着いた彼の表情があった。彼はすでに、コトナリ少年の知らない仕方で気持ちの準備を整え、コトナリ少年に向かい、労わるような微笑さえ浮かべていた。「お前が選んでいい」と言うのは脅しでもなく、紛れもなく示されたコトナリ少年への譲歩であり、優しさだった。

彼には暴力があった――、と、コトナリ少年は内心、悲鳴のように思った。彼の前では、自分は何にもしなかったみたいなものだ、とさえとっさに思い、彼は顔を伏せた。彼は自分の考えを表す手段として、暴力を選べということを自分に迫る。泳いだことのない魚のように自分のことを言い、またその暴力は勇気のために起こったことを証明しなくてはならないから、何によっても事故のように思われてはならない、一切を自分で選べと彼は言う。

(弓狩くんにはこんな気持ちのこと、とっくに分かっていることだったんだ――)と彼は思った。(オレは誰かを殴ったり、殺してしまったと思うほど酷いことをしたことはない――でも弓狩くんはそうじゃない。彼はもう知ってる――でも、今度はオレの番になった? 誘ったのは弓狩くんだけれど、ついてきたのはオレじしんだ。オレはこれから初めて、死ぬほど誰かを傷つける――それも自分じしんを。痛いのなんか慣れたつもりだったけれど、自分を殴るなんて、それも死ぬほどだなんて怖くて出来ない。弓狩くんはそれを知ってて、こんなに、こんなにたくさん――)

 あ、巨人戦速報来た、と弓狩少年は投げ出した携帯電話を拾い上げ、画面に現れた表示を嬉しげに拡大した。コトナリ少年が拍子抜けするほど、彼はその操作に夢中になった。

「弓狩くん、」

「いーよ選べないんなら明日選べ」

 そう言い彼は電気を消した。部屋の中で、点けっぱなしにしていたテレビ画面がわずかな照明となり、彼のひらく携帯電話の画面が手鏡のように光った。

「今のうち父さんにラインしとこう、」

「何て?」

「巨人2‐0で勝ったって」

 あとごめんさよならだって、それも言っとく、何か誤解されそうだからと彼は付け加えた。


『父さん』『ごめん騙してた』『こいつも連れていく、』『俺のトモダチ』


操作を終えると、弓狩少年は携帯電話の主電源を長く押した。彼らは布団にくるまり、どちらから何を言うでもなく、テレビから流れて来るクイズ番組の正解を告げる機械音に耳を澄ませていた。

「ここ出るか、」

「え、」

「そとでもいーぜ、昨日見つけた川があっただろ」

「川に入るのは好きじゃない」

「それじゃ太陽が死んだのと変わんねーからか」

「……」

 弓狩少年は寝返りを打った。

「言っちゃわりーと思ったけど、月奈がいるからだろ。お前がやる気になったの。お前の方が太陽より強いって証明したくて、それで死ぬ気になったんじゃねえの」

「……」

 弓狩少年がチャンネルを変えた。

「明日、午後から雨だな」と言った。コトナリ少年が、そうだよと呟いた。彼もまた、自分の携帯電話の震えを見て手に取った。既に電池の残量が少ないことを示す赤いランプが点滅していた。彼は慌てて、自分の母親でもない空美宛にメッセージを送った。

 

 携帯電話の時計の画面で、三時間ほどが過ぎた。点けっぱなしになっていたテレビの画面では、放送時間外を示す秋桜の写真がながながと表示されていた。

「起きてる?」とコトナリ少年はつぶやいた。彼はすでに布団の中で上半身を起こし、寝て居る弓狩少年の頭を見下ろしていた。暗闇の中で、数秒ののちに弓狩少年が物憂げに身体を転がした。

「……うん?」

 そう言って見上げた目には、コトナリ少年が目をそむけたくなるほど、かつてない優しさがはっきりと血のいろのように透けて見えた。コトナリ少年はひるんだ。恐れつつも、彼は一語一語を区切るようにして、弓狩少年に言った。

「ごめん、オレ行けない」

 弓狩少年は聴いているのかどうか、曖昧な微笑を浮かべたまま布団の中で身体を転がしていた。コトナリ少年は手の中に携帯電話を握りしめつつ、口早に言い続けた。

「……空美さん、ケータイ見てない。病院に居るのかもしれない」

「だから?」

「月奈の薬のこと、ラインで言った」

「だから?」

「空美さん、フラジリテートのやり方分かんないんだ。オレが家に残らないと、月奈が死んじゃう」

「だから?」

「きみとは一緒に行けない」

 弓狩少年はふいに沈黙した。それから身体を半分に折り、身体の上に微笑を浮かべたような声で続けた。

「お前さー、全部他人のせいな、」

 太陽と、あと月奈のせい、母親のせい、あのひと本当の母ちゃんじゃないんだっけ? ……どーでもいいや、全部お前にとっては他人だろ、「ここまで来たのも、やっぱ死ねないっつうのも、全部他人のせーか。あいつらお前がいなくても……あいつらのまんま、変わんねーだろ、いいやどうだって……お前がそれでいいんなら、さよならだな、コトナリ君」そう言い、彼は身体を閉じるように寝返りを打った。そのこめかみに、コトナリ少年が垂直にガラスのインク壺を振り下ろした。弓狩少年の左の足首が、何かの返事の代わりのように一度跳ねた。


 手のひらを太陽に 透かしてみれば 真っ赤に流れる 


 翌朝、コトナリ少年は他人に目撃されるのもかまわず、その場所を探して回った。そうしてようやく、駅のホームで保護されたという月奈が、預けられている交番に辿り着いた。彼女は持たされていたメモの連絡先に連絡してもつながらず、誰も引き取りに来ないので留め置かれていた。彼は月奈に飛びつくと、彼女の泣きぬれている顔を強引に抱き締めた。

彼の顔や手に夥しく付いた黒いインクが、月奈の唾液や涙で濡れた頬や髪に付着した。

「ごめん、ごめんな月奈……弓狩はもう戻ってこないよ、うちにはもう二度と来ない」と彼は警官の隣で、低めた、しかし叫ぶような声で、月奈の耳元で囁いた。

「あんなにたくさん血が出てたんじゃ……もう駄目だよ。今日は雨が降るって言うから……しばらく上がってこないだろうし……またオレたち二人になるけど、もうずっとずっと二人だけで暮らそう」

 月奈は引き剥がすようにコトナリ少年の胸を押すと、その目に唾を吐くように叫んだ。

「太陽、あなた嘘ついたのね。今度こそさよならするって、さよならするって言ったじゃない」

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さよなら太陽 merongree @merongree

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