第4話 洗い場の神

 洗い場にはベテランの六〇代のおばあちゃんがいた。頭に白い木綿のタオルを巻きメガネをかけた非常に小柄な、何も言わなければ農作業に従事してそうな女性である。


 店では小さなシンクが二つあり一つ目にゴミを捨てる水切りカゴ、隙間に洗剤をためた四角いカゴをはめて、二つ目に器を洗い流す水を溜めていた。隣の台には器の水切り用カゴを置いてある。目の前の高い位置にある四角いお盆に拭きあげた器を乗せ、溜まったら厨房の人間がカウンターに入り板前の後ろにある棚に器を収める。手洗いで洗わなければならず決して広い場所ではない。


 洗い場はドリンク場も兼ねていて真後ろの冷蔵庫から瓶ビールを出したり、焼酎の水割りを作ったりしなければならない。一度に複数のオーダーが入るので裏の厨房の人間やホールの女性がサポートにまわる。


 Sさんは仕事が早くどんなに店が忙しくても洗い場がパンクしたことがない。これが新人にやらせるとあっという間に間に合わなくなり、器を下げることができずに店が回らなくなってしまう。


 出勤するとその日の予約状況を確認しおしぼりを巻く数を決めてウォーマーに入れて温める。冷蔵庫の在庫状況を確認して補充して、生ビールサーバーにガスを通す。自分で味見をして必ず味を確かめる。


 常連客が予約に入っていれば必要になってくる酒をソムリエに伝え準備し、よく出るお茶っ葉の補充と予備が置いてある場所の確認を必ずしてから営業に備える。


 営業になれば新人の男だろうがホールの女だろうが容赦せずに指示を飛ばす。


「お盆を置く時は縦に置け! 高いグラスは別にして纏めてそっち側に置いて! 私がウィスキーの水割り作るから、あんたは生を入れて! 」


 指示は的確であり長年の経験に裏打ちされた、そうしなければならない理由が必ずあった。間違えると罵られる。


「バカ! そうじゃないだろう! 何度言ったらわかるんだ! だったらお前がやってみろ! 焼酎の量が違うだろう! それじゃ薄すぎる! 氷ぐらい自分で取れ! 」


 器が溜まれば場所がなくなり指を引っ掛けてグラスを割ったり、乱暴にシンクに器を放り込むと縁が欠けたりするが、Sさんはノーミスで行なっていた。視野が広いサッカーの司令塔の様である。


 私は最初Sさんと喧嘩した。冷静に考えれば私が分かっていないのに彼女のルールを破り適当に器をさげてしまったのが悪いのだが、当時の私は「アルバイトになんで叱られなければならないんだ」と憤慨していた。


「このババア、誰に口聞いてるんだ! 」


 あまりに遠慮なく罵るのでこちらも口が汚くなるがSさんは絶対に引かなかった。しばらくしてSさんが休みの時に自分が洗い場を担当してパンクし、Sさんの実力を目の当たりして考えを改めた。


 私はSさんに教えを乞い態度を変えた。Sさんもそれを感じ取り私たちは徐々に仲良くなり始めた。Sさんの営業に関する知識や準備する心得などを学んで吸収した。


「体力と運動量は俺たちの方が上なのになんで営業が忙しくなると間に合わないんですかね? 」

「無駄な動きが多いんだよ。自分でやるべき事と人に振った方が早いことを瞬時に見分けなきゃいけないよ。ぼさっと突っ立てる奴が必ずいるんだから、周りの状況に気を配るんだね」


 その内に手作りの饅頭などを持ってきてもらうようになり、私は完全に飼いならされいつしか心の中で師匠と呼ぶようになった。


 店の従業員全員が認めている。Sさんが洗い場は一番早く誰も勝てない。年の差関係なく現役で働く洗い場のプロフェッショナルだった。世の中には凄い老人がいる。






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