17.胸のトキメキ!図書館と優人のやさしい声

「榊乃くん、おはよう」

 教室に入るなり、由香利はランドセルを置くのも後回しにして、既に着席している優人へ声をかける。しかし、優人はそれに応える気配は無く、黙々と本を読んでいるだけだった。

(……今日もダメかあ)

 初めて優人と会話を交わした日から、少しでも彼に近づこうと、由香利は一言でも優人へ声をかける事を決めた。ただ、一方的にしゃべって嫌われるのも嫌なので、「おはよう」と「さよなら」の二つだけにしているのだが、それでも優人は返してくれる気配がない。

(うーん、これで三日目なのになあ……)

 気落ちしながらも由香利は席に着き、ランドセルの中身を移す。教室後ろのかばん入れにランドセルを入れ、いつもの通りに恩の席に向かう。

「おはよー、めぐみちゃん」

「あ、由香利ー。おはよ。なんだ、今日もダメなのか、アイツ」

「あはは……そうなの」

「愛想ないよなー。あいさつくらいすればいいのに。ま、気持ちはわからんでもないけど」

「そうだね。でも、私が好きでやってる事だし」

 恩には優人との1件を話してあるので、最近の話題はもっぱらこの事ばかりだった。恩も優人の置かれた状況を知ってはいるが、四年生の時の事を教訓にしているのか、下手に手を出そうとはしない。

 いじめというのは単純に見えてその実複雑で、いじめっこをヒーローのように懲らしめたところで、それが終わる訳ではないからだ。

「ふーん……ま、恋する乙女は違うって事だな」

 恩はにやり、と少しからかうような笑みを浮かべて言った。

「えっ?」

 由香利は突然出てきた『恋』という単語に、思わず驚きの声を上げた。そして、次の言葉が出てこなくて、口を魚のようにパクパクさせる事しか出来なかった。

「え、違うのか?」

「えっ、っていうか、そんな事、考えた事……」

 そこまで言いかけて、始業のチャイムが鳴ってしまった。チャイムの音にせかされるように、慌てて席に戻る由香利だったが、それでも『恋』というその言葉が、頭の中をぐるぐると駆け巡るばかりだった。



 由香利にとって『恋』は、少女漫画で見るようなロマンチックなものだと思っていた。

かっこいい男の子に憧れてがんばる女の子の話や、運命の相手と出会うお姫様と王子様のお話……それが恋なのだと思っていたからだ。それに、男子とはあまり話した事が無いし、むしろ苦手だったから、自分にはあまり縁の無いものだとも思っていた。

【ユカリ、意識が授業から遠のいているが……大丈夫か】

(あ、ご、ごめん、アルファ。ちょっと、恩ちゃんに言われた事が気になっちゃって)

 慌てて黒板を写し、先生の話に耳を傾けてみるが、それでも頭の中には『恋』の文字が躍る。

(そんな事、考えた事ない。恋、なんて)

 ちらりと横を見やる。やはり虚ろな表情の横顔が視界に入る。お世辞にも綺麗とは言い難い、伸び放題の髪の毛。ちゃんとブラシをかければ艶やかな髪になるだろうなと由香利は思った。

 この三日間、優人を見て気づいた事があった。

 まず、口を開く回数が極端に少ない事。先生にさえ「はい」か「いいえ」で答えていて、でも先生もそれ以上何も言わない所を見ると、お互いに諦めているような感じでもあった。

 そして、読んでいる本が毎日違う事。読書のスピードが速いのだろう。一週間かけて本を読む由香利とは大違いだった。

(あと、体育が苦手なところ)

 その事はちょっとだけ、由香利が共感出来る所でもあった。由香利もバトン以外は運動音痴だし、体育の授業は大嫌いだった。 

(でも、そういうところとは違うところで、なんか気がするの。説明できないけど)

【同じもの、か】

 もっと優人の事を知る事が出来れば、その、もやもやとしたものもわかるかもしれない。それまでは、恋なのかどうかは考えない事にしよう。由香利はそう思った。


 その日の放課後、由香利は図書室へと向かっていた。優人が今日読んでいた本が、今年の夏に映画化するファンタジー小説で、興味が湧いたからだった。

(なんか、ストーカーみたいだけど……ううん、気にしない、気にしない! だって、ハードカバーの本なんて、お小遣いで買えないもん)

 我ながらひどい言い訳だと思ったが、深く考える事は止めた。それに、読むスピードは遅いとはいえ、読書は好きな部類に入る。最近のゴタゴタのせいで、一冊もまともに読めていない。きっかけはどうであれ、面白そうな本が読みたかった。

 学校の渡り廊下を歩きながら、由香利は胸を弾ませた。本を読める期待と、もしかしたら、優人に会えるかもしれないという、二つの期待に。

 渡り廊下の先にある、第二校舎の一階と二階が図書室だった。常に学校司書がいるこの学校の図書室は、通常の小学校図書室よりも大きく、蔵書量も多い。どの学校にもある古典から、勉強に役立つ資料、そして由香利たちが好む流行のティーン向け小説もたくさんそろっている。

 引き戸を引くと、図書室特有の紙とインクの匂いが由香利の鼻孔をくすぐる。由香利は図書室に入る瞬間が好きだった。ほんの少し、父親の研究室に似ているからだ。

 自然の光が入る、白っぽくて明るい図書室は、学校の中では一番綺麗で静かな場所だった。常駐する男性の司書の先生はとても厳しくて、大きな声で騒いだり、ふざけていようものなら、低い、落ち着きのある声で叱りつける。

 しかし本を好きな児童にはとても親切だ。タイトルや内容がうろ覚えでも、すぐにどこにあるか教えてくれる。検索する機械はあるが、大半の児童は司書の先生に尋ねる。だから児童からは人気があったし、由香利も同じように好感を抱いていた。

 早速お目当ての本を探そうと、司書の先生の姿を探したが、彼は低学年の児童たちに囲まれていた。さすがに低学年を押しのけて聞く事は出来ないので、検索機を使おうとしたら、機械に『調整中』の張り紙がしてあるのが見えた。

(自分で探せ、ってことかあ)

 司書の先生と話が出来ないのは残念だったが、仕方がない。記憶を頼りに、自分で探し出す事に決めた。

(文学、て、何処だっけ? 2階だっけ)

 由香利はお勧めの本棚や絵本、紙芝居などの本棚、自由に読書や調べものが出来る開放スペースを抜け、螺旋階段で2階へ上がる。みっしりと本で埋まった本棚がそびえ立つ二階は、1階の明るい雰囲気とは違い、落ち着いている。

 うろ覚えの記憶を頼りに、由香利は背表紙を眺めた。

「えっと……」

 背表紙を指と視線でなぞりながら、由香利はゆっくり本棚と平行に歩く。すると誰かにぶつかってしまい、由香利は驚いて声を上げた。慌ててごめんなさい、と謝りながら顔を上げると、そこにはここ数日で見慣れた少年の横顔があった。


「榊乃、くん……?」


 由香利が名を呼ぶと、そこで初めて優人は顔を向けた。かすかに驚きを含んだ表情が現れ、目が合った。瞬間、由香利は何故か顔が赤くなるのが分かった。

(なんで、顔あっついの!?)

 由香利が謎の体温上昇に戸惑っている間に、優人は視線をそらし、無言のまま、近づきすぎた由香利から離れるように後ずさりをした。

「あ、ま、待って、榊乃くん。あの、私、聞きたい事があるの!」

 我に返った由香利は、思い切って優人に声をかけた。応えてくれるだろうか、緊張で胸がどきどきする。思わず「お願い……」と祈るような呟きを漏らした。

「……何、聞きたいことって」

 少しの沈黙の後、優人のぼそぼそとした声が返ってきた。

 視線は合わなくとも、答えてくれた。ただ、それだけで由香利は嬉しかった。

「あ、あのね。榊乃くんが、今、読んでる本の一巻、何処にあるか教えてほしいの。あの、映画化する、長いやつ。先生も捕まらないし、検索機も使えないし、ここ、本たくさんあるし」

 言い訳をたくさん並べて、どうにか理由をつけようとする自分を少し浅ましいと感じた。本が読みたいのも嘘ではないが、優人と話す、何かしらのきっかけも欲しかった。なんだか自分が少しだけ、ずるい子になってしまったような感覚になった。

「……こっち」

 由香利の言い訳が通じたのか、優人は別の本棚を指差しながら歩き出した。優人は迷う事なく本棚に沿って進んでいく。由香利は控えめに揺れる優人のランドセルを眺めながら、その後を追った。

「ここ」

 少し奥まった本棚の一角を優人が指差す。その先には、件のシリーズがずらりと並んでいた。

「ここだったんだ。ありがとう、榊乃くん」

 心からの感謝をこめてお礼を言う。優人は無言のまま、由香利が一巻を手に取る様子を眺めていた。やがて、由香利に何か問いかけようとしているのか、少しだけ口を開いた。しかし由香利が本を抱えて優人を見やった瞬間、彼は口をきゅっと閉じた。

 由香利は優人の様子には気づく事なく「見つかってよかった」と優人に向かって微笑む。優人はそんな由香利を一瞥し、戸惑いの表情を見せた。あ、こんな顔もするんだ。由香利は新たな優人の顔を見て、新しい発見を喜んだ。

 優人は由香利の微笑を振り払うように視線をそらす。そして、無言でシリーズの中から1冊、手に取ると、壁沿いの椅子に座り、背負っていたランドセルを床に置き、ページを広げ始めた。またいつもの様子に戻ってしまった優人に、ちょっぴりの失望を覚えた由香利は、ほんの少しの抵抗を試みる事にした。

「隣、座っていい?」

 壁沿いの椅子は2脚。優人の右隣はぽっかりと空いている。

 本からゆっくりと目を離し、優人の琥珀色の瞳が由香利を見上げた。さすがに二回目の「お願い」は聞いてもらえないかもしれない。今度こそ、嫌がられるかもしれない。少しだけ怖かった。

 しかし、


「君の好きに、すればいい」


 優人は、驚くほど優しい声音で答えてくれた。

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