風景

 理性は、一杯で十分と言っている。


 だけども本能はそれでは満足せず、結果間をとって二杯目をちびりちびりと飲み続けていた。


 残る水はこのカップ代わりの樽一杯分ほど、それも傾けてやっとの分量、一人では十分だが二人ではガキでも足りない量だった。


 それでも一服、水分補給は大きかった。


 束の間、一息、張り詰めていた緊張を緩める。休息は大変ありがたかった。


 ……だけども椅子には座れない。


 止まって分かる、思いの他の疲労、これで座ってしまうと次が立てない。それどこか、うたた寝の恐れまである。目覚めたら蟻だらけ、なんてのも、冗談ではない。


 だから立ったまま、側に斧を置きながら、ドア横の壁にもたれ掛かって片足ずつ上げ、揉んでほぐしている。


 ……反対側、部屋の角に、プシュチナは丸まっていた。壁に背を付け、膝を抱え、声を殺して泣いているようだった。


 体はまだしも、心が折れてる。これで歩けないようなら置いてくか、殺すか、考えるも、億劫でそれもできそうになかった。


 ガタリ。


 音、外、下、敵襲、緊張、斧を持ち、音のする方、来た方、外壁側へ素早く移動し、そっと窓から覗く。


 真下に、男の頭が見える。


 汚い金髪、半端な長さ、顔は見えないが腹は出てない。武器は大鎌とあと何か、腰にぶら下げているようだった。


 そいつが、ドアを開けようとノブを回し、押して開かないで、首を傾げてる。


 頭は悪い。だが武装の量から雑魚ではない。そんなのがなんのためかこの家に入ろうとしている。


 面倒だ。


 上がってくるとは限らないし、来たところでドア影から一撃、それで色々手に入る。殺すべきだ。


 だが疲労感が、それを拒否した。


 体力の温存は必須と理性も賛同し、それでも殺すべきなのは変わらず、そこから導き出された手は一つだった。


 そっと斧を持ち上げる。


 ズシリと重い斧、こんなのを持ち歩いてたから疲れたんだと思いつつ窓の外へ、狙いを定めてそっと手放す。


 音のない自由落下、相手の背丈と窓の高さ合わせても二階分、斧の重量は十分だが当たったのは刃でなく平らな先端、それでもガズンと、見えてないが頭頂に当たった。


 ゆっくりと倒れる斧と男、ばら撒かれる武器、そして出血、死んでるかは見えないが動かない。気絶はしたようだ。


 これで安心、思い、視野を上げて、今更に気付いた。


 ……外壁からドーム状の天井、縦から横へと変わる曲線の辺りまで、灰色が赤く染まっていた。


 その赤、動いてる。


 あれは間違いなく蟻だった。


 夥しい数、地面を這うだけでは飽き足らず天井も進む群れ、見れば始めの村はもう全て赤に染まっていた。


 派手な光景、にもかかわらず今の今まで気付きもしなかった。


 現状把握ができてない。それは危険だ。


 慌てて遅れを取り戻すべく反対側へ。


 ……同じく向こう側も赤くなっていたが、やはり遠い。


 手前の町並みはもう少し続くようで、だが終わりは近い。


 その終わりの先にまた途切れた空間があって、そしてその奥にまた、ここより高い建物が見えた。


 ただしそこに道は見えない。ただの壁、巨大な建造物だった。


 その奥、中央に塔、そこまでの距離は外壁から見てやっと半分、だろうか。


「……なんで」


 ボソリと呟いたのはプシュチナ、その顔にはもう、またズボンが巻きつけてあった。


「ゆうことちゃんときいて、いい子にしてたんですよ?」


 独り言のような小声、だけども俺に向けてるとはわかる。


「それで、相手が結婚してたとか、偉い人だったとか、嫌がったら殴られるのに、どうしろってんですか?」


 これは愚痴だった。


 母親からも上官からも看守からも散々聞かされてきた、無意味な会話、その度に殺してやりたい衝動に襲われてきたが、なんとか我慢してきた。


 だが、こいつには、我慢する必要はない。


 ……プシュチナが体を起こし、俺を見上げるのは。


 残る左目が問いかけてるのは『なんでお前はここにいるのか?』と、訊いてるとわかる。


 答える必要などない。


「命令不服従だ」


 ……だが、答えたのは、眠気覚ましか、その方が簡単に黙らせられるからか、あるいは単に誰かに話したいだけか、なんでか考えられないほどに疲れが溜まっていて、なのに口は閉じれなかった。


「上から友軍を殺せと命じられた。それを断った。それが全部だ」


 言ってみればそれだけのこと、それが死に値する罪だとは、今も思っていない。


 これに満足したのか、してないのか、プシュチナが何かを言いかけて、口を閉じた。


 これで黙るなら、余計な手間が省ける。


「ぁ! ぁ! ぁ! ぁ! ぁ! あああああああ!」


 絶叫、急いで戻れば下、斧で頭頂割られた男が蟻の中で暴れまわっていた。


 赤、蟻、線はもうすぐそこまで迫っていた。


 危なかった。想定よりも早い蟻、もう前の道はほぼ覆い尽くされ、最前線はドアにかかる手前まで来ていた。


 天井の蟻と歩調が同じだと無意識に思っていた。いや、同じだけども目測を誤っただけか、とにかく休んでる余裕はなくなった。


「出るぞ。蟻だ」


 命じ、壁より離れ、まだ半分残ってる水の処遇を一瞬考え、左手の盾にかける。結ぶシャツが湿めればそれだけ頑強になるだろう。


 なら早めにやればよかったと後悔しながら小さな樽を水の入った大きな樽へ投げ入れる。


 ……そこからプシュチナ、わざわざここまで戻ってきて、それを掬い上げた。


 一気に中身飲み干すと二杯目を、満たした状態でドアへと向かった。


 水筒代わり、片手を封じるほどではないが有益ではある。先にまた水があるとは限らない。すぐに奪えるプシュチナに持たせれば、その片手分を封じて余計なことさせる恐れが下がる。


 先は長い。やれることはやっておこう。


 思い、気が重くなった。


 ……これから先、まだ半分以上ある。


 それでも死にたくなければ進まねばならない。


 疲労も含めて、重くなった足取りで、プシュチナに続いて部屋を出た。

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