室町時代(1333~)  「幕府支配の空白地帯出現『惣』が始まる」

武家でも、農村でも、あちこちで自治が始まる。

室町幕府は、求心力もなく、信頼も失いがちで、また、嫡子単独相続により、一族の跡継ぎ以外はすべて家来という、かなりのまとまった武家の集団ができていたから。

これがやがて戦国時代につながっていく。

【まず室町幕府の始まりのころの小競り合い一覧】

後醍醐天皇 事の発端はこの天皇である。天皇親政、幕府打倒を目指して、2回も討幕運動を計画し、2度とも阻止されて隠岐に流された。

しかし3度目に新田義貞・足利高氏の協力を得て幕府を倒した。

*後醍醐天皇は「大覚寺統」である。「ダイダイ」で覚えやすい。

もう一方の皇統は「持明院統」である。その当時天皇家はこの2つの皇統を交互に皇位につかせる「両統迭立(りょうとうてつりつ)」という原則をとっていた。

なぜこれが大事かと言えば、このあと後醍醐天皇と足利高氏が決裂して、「南北朝時代」がしばらく続くのだが、南に逃れた後醍醐天皇は当然「大覚寺統」を立て、対立する京都の北朝が「持明院統」の天皇を立てて、これが時々テストに出るから。

1333 鎌倉幕府滅亡 2人の武士が協力した。東の鎌倉は新田義貞が攻め落とし、西の六波羅探題は足利高氏(後で朝廷から「尊氏」と言う名前に変えてもらった)が攻め落とし、鎌倉幕府は滅亡した。

建武の新政 古代の天皇親政を復活させようとし、公家に手厚く武士を冷遇する後醍醐天皇の親政を開始。3年足らずで崩壊。 足利尊氏が反乱を起こした。

[建武の新政の失敗ポイント]

・綸旨で所領安堵すると決めた→綸旨は天皇の文書 所領の安堵は誰にとっても最大の関心事で、これを天皇の文書が他機関の決定を上回るとしたので、混乱を招いた。

まもなく撤回され、「雑訴決断所」が裁決を行った。

・恩賞方→建武の親政の論功行賞を行う機関。公正を欠いて武士の不満を招いた。

[失敗でないけどテストに出るポイント]

・後醍醐天皇は「鎌倉将軍府」と「陸奥将軍府」をおいて、それぞれに皇子を配置し、関東、奥羽支配を任せた。

[後醍醐天皇の味方]

・新田義貞 彼は南北朝でも南朝についたが敗死

・楠正成(くすのきまさしげ)天皇に対する忠義心が武士の鑑と言われていろんな話に登場する有名な武士。神社にもまつられている。足利尊氏に敗れて敗死。

・護良親王(もりよししんのう)後醍醐天皇の皇子 建武の親政では征夷大将軍に任命された。できる人だったらしく、警戒されて鎌倉に幽閉され、中先代の乱の混乱に乗じて尊氏の弟に鎌倉で殺された。

1335 中先代の乱 鎌倉幕府の残党が反乱 足利尊氏が鎮圧。

尊氏側vs後醍醐天皇側で激しい戦闘 尊氏勝利

1336 南北朝に分かれる 後醍醐天皇が吉野に逃れて南朝を立てた。以後動乱。一時後醍醐天皇の皇子が九州を制圧したこともあったが、九州探題に敗れた。しかし公家なので、理屈や文章はえらい。「神皇正統記」とか。

1338 尊氏 征夷大将軍に

1350~52 観応の擾乱(かんのうのじょうらん) 足利尊氏の部下(高師直)vs弟(足利直義)

弟は尊氏を助けて活躍していたが力を持ちすぎて二頭政治と呼ばれるほどになっていた。弟負ける。高師直勝利。

これによって南北朝の動乱は長期化

【室町幕府の機構】

ほぼ鎌倉幕府を踏襲したもの 幕府が鎌倉から京都へ移った。

名前が変わる。

六波羅探題(京都)鎮西探題(九州)→鎌倉府・鎌倉公方・関東管領(鎌倉) 九州探題(九州) 奥州探題(陸奥) 

貞永式目(または御成敗式目)→建武式目

内容はほぼ同じ

重要なのは世襲の有力者の名前

「三管四職」管領三家と侍所四家

管領(将軍の補佐)=細川 斯波(しば) 畠山

侍所(京都の警備・刑事裁判)=赤松 一色 山名 京極

鎌倉公方(関東の統括)=足利基氏の子孫

関東管領(鎌倉公方の補佐)=上杉氏の世襲

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【争いは続く 今度は力をつけた守護大名との争い】

覚えるべきは、初代足利尊氏以外に3人いる。

守護大名を抑え、南北朝を統一し、金閣を建てて最盛期をもたらしたのは、

3代将軍 足利義満である。

将軍の権力を強化しようとして、次々に有力大名を滅ぼし、最後暗殺されたのは、

6代将軍 足利義教(よしのり)である。

趣味はよくて銀閣や書院造を作ったが、応仁の乱を招いて京都を戦乱におとしいれたのは、8代将軍 足利義政(よしまさ)である。

戦争は時々出るので順序だけ

土岐康行の乱(美濃の守護大名) 

→明徳の乱(山名氏 中国・近畿の守護大名全国の6分の1の領国を持っていたので「六分一殿」と呼ばれた) 

→南北朝の合体(ここまでが義満) 

→応永の乱(大内氏 堺) →上杉禅秀の乱(元関東管領 関東の大乱) 

→(このあたりから義教(よしのり)) 

→永享の乱(鎌倉公方 足利持氏 以後関東管領上杉氏が関東を支配) 

→結城合戦(ゆうきがっせん)(持氏の遺児を守ろうとしたが敗戦) 

→嘉吉の乱(かきつのらん)(次は自分だと思った赤松満祐が将軍を暗殺。赤松満祐を討った山名氏が強大になる とにかく義教将軍はやりすぎて殺される) 

→享徳の乱(関東で24年にわたる戦乱) 

→応仁の乱(京都で11年にわたる大乱) 

⇒戦国時代始まる

*足軽(歩兵)は応仁の乱から使われだした。

*頻出事項:「足利学校」

永享の乱で持氏を倒すのに協力したのは、関東管領 上杉憲実(のりざね)

彼はもともと足利氏一族のためにあった「足利学校」を再興し、発展させた。

学ぶのは僧侶が多い。戦国時代「坂東の大学」と呼ばれた。

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【力をつけたのは守護と百姓と国人である】

守護

守護の権限が拡大した。

一番大きいのは「使節遵行権」(幕府の判決の執行権)「半済令(はんぜいれい)」(年貢の半分を軍事費に徴収)である。

中でも「半済令」重要。徴税権を与えてしまうのは、支配権を与えたも同然である。

「半済令」は足利尊氏が観応の擾乱の際、近江・美濃・尾張に1年のみ臨時に認めた。

しかしその後拡大し、地頭の時と同じく年貢を守護が請け負う「守護請」が進み、荘園を崩壊させた。

百姓

「惣百姓」が生まれる

地下検断(警察権) 惣掟(きまり) 寄合(入会地・用水の共同利用や祭礼を決定) 地下請(じげうけ)(年貢徴収請負) リーダーは「おとな(乙名 長)」

まとまることで自治を行う力を得る。

集団を結成して要求を通そうとすることを「一揆(いっき)」という。

百姓の一揆は「土一揆」

「国人(こくじん)」(土着の有力武士)生まれる。もとは地頭などなど。

「国人一揆」もあり。

有名な一揆

1428「正長の徳政一揆」失敗 近江坂元の馬借が徳政を要求した。

1441「嘉吉の徳政一揆」成功 義教の死後、「代初めの徳政」を要求。京都 地侍指導

1485「山城国一揆」成功 国人一揆が畠山両軍を退けて月行事が8年の自治

1488「加賀の一向一揆」成功 一向宗徒が守護の富樫政親(まさちか)殺害 100年の自治

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【室町幕府の一番の特徴は税金をたくさんかけたこと】

段銭 臨時の増税 田畑の段別にかける

棟別銭 お寺や神社の修復のために家の棟別にかける

徳政分一銭 債権者もしくは債務者が幕府に手数料を払うと徳政令に入れてもらえるもしくはのぞかれる。 徳政令すら税金にする。

津料・関料 入港税・通行税 室町時代は関所が多かった。

年貢 年貢は年貢で税金とは別にあった。幕府の直轄地は「御料所」という。

五山献上銭 お寺からも取る 五山とは、五山禅院の有力寺院のこと

*「撰銭令」質の悪い銭を規制する基準法

鎌倉時代は宋銭が使われたが、室町時代は明銭が流通した。

「土倉・酒屋」高利貸し

【貿易はもうかる 対明貿易流れ】

この時代の中国は「明」 「朝貢貿易」という、天子に貢物を送り、その返礼をもらうという形をとり、もうけは大きかった。割符「勘合」で相手を確認する。

対中国では、輸出品は銅・硫黄 輸入品は銅銭・生糸

対朝鮮では(朝貢貿易ではない) 輸出は香木・銅・刀剣 輸入は木綿・人参

足利義満が始めて、子の義持が中断 義教が再開

「日本国王」は天皇ではなく義満だった。

邪魔をするのは海賊の「倭寇」である。前期倭寇は日本人・朝鮮人 後期倭寇は中国人である。

流れは以下の通り

1325鎌倉時代に建長寺を修復するための「建長寺船(時頼が建てたが高時が送る)」が送られる。

1342室町時代に天竜寺を建てるための「天竜寺船(尊氏)」が送られる。

明の建国者が倭寇取り締まりを求めるも効果なし

1404義満が「日本国王」として勘合貿易開始

1411子供の義持が、朝貢貿易を屈辱とみなして国交中断 貿易停止

1419朝鮮が倭寇の本拠地とみなして対馬を攻撃(応永の外寇)対朝貿易はしばらく中断

1432義教が貿易再開

(1467応仁の乱から、すでに戦国時代に入る)

1510三浦の乱 日本人居留民が朝鮮でおこした反乱 鎮圧 以後対朝貿易衰退

1523寧波の乱 大内氏(博多)と細川氏(堺)が寧波で紛争。以後大内氏が独占。

1547最後の勘合船 1551大内氏滅亡

1588秀吉の海賊取締令 倭寇衰退

【さらに豊かになった】

農業

二毛作三毛作 灌漑や排水の改善

商業

六斎市広まる(月6回 5日に一度)

農業工業が発達してお店が出せるようになった。露天売りから屋内売り(見世棚・店)へ

専門職の手工業者が出た。 紙漉き 研ぎ師 

行商人もできた。 問丸は鎌倉時代からあるが、大原女 振売 連雀商人(中距離)

座が発達した

専売権をもつ座

有名どころは 祇園社の綿座 淀の魚座 興福寺大乗院の油座 離宮八幡宮の油座

【南北朝文化】

中心 北朝・南朝の正統派争い。

とにかく難しい文章が多い。

「神皇正統記」(北畠親房・南朝) 「梅松論」(北朝) 「太平記」(南北朝の軍記物)

連歌の「菟玖波集」(二条良基 準勅撰)も。

【北山文化】

中心人物:足利義満

金閣とか。「五山文学」発達

能を保護する 観阿弥・世阿弥「風姿花伝(世阿弥)」

【東山文化】

中心人物:足利義政

銀閣とか。他、書院造、石庭など。

*ちなみに有名な銀閣寺は、寺とつくけど山荘の1建物。正式名称は「慈照寺銀閣」同じ寺内で他に「東求堂(とうぐどう)」が有名。

「新撰菟玖波集」(宗祇)(準勅撰連歌集 連歌を芸術に)

「犬菟玖波集」(山崎宗鑑)(自由で庶民的な連歌 「犬」は「滑稽」)

【宗教 五山・十刹の制】

鎌倉室町と、中国から多くの僧が来て、権力者はそれを信仰し、寺を立ててやった。

南禅寺を頂点とする五山・十刹の制で、幕府は税金を取った。

五山は「祠堂銭貸付」(貸付業)によって収入を得ていた。

京都五山 1天竜寺(足利尊氏/夢窓疎石)

2相国寺(足利義満/夢窓春屋)

3建仁寺(栄西)

鎌倉五山 1建長寺(北条時頼/蘭渓道隆)

2円覚寺(北条時宗/無学祖元)

3寿福寺(北条政子/栄西)

他にも五山に入らない「林下」の私寺も民衆の支持を得ることがあった。

一休宗純(大徳寺)とか

民衆に支持を広げると強大な力を持つ。

2大宗教は 浄土真宗(一向宗)と日蓮宗

一向宗で力を持つのは「本願寺派」 8代法主 蓮如の布教が発展期

御文(蓮如の手紙) 門徒・講(信者を「講」という団体で結ぶ) 

武装的で寺の周りを特に「寺内町」と呼ぶ。普通は「門前町」(神社・お寺の周りにできる街)という。

大阪石山御坊が本拠 のちに信長が焼き討ちする。

加賀の一向一揆で100年の自治を保ったのはこの「一向宗」加賀はその間寺領となる。

日蓮宗の団結は「法華一揆」と呼ばれる。日親の布教が発展期 

有名なのは「天文法華の乱」(1536)

日蓮宗は京都で一揆を結んで一向一揆の本願寺を焼き討ちにし、自治を行っていたが、延暦寺からの焼き討ちにあって寺院21を焼かれた。

京都から追い出されたのが、「天文法華の乱」

1542年に京都に戻ってきた。

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「唯一神道」(吉田兼倶)反本地垂迹説 神道・儒教・仏教を統合

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