鎌倉時代(1192~1333)  「始めての武家社会」

初めて武家の法と制度ができる。

「武家諸法度」と「御恩と奉公」

与える土地がなくなったために、やがて崩壊。

政治は「執権政治」である。

源頼朝が名目上の将軍であるが、妻の北条氏が実権を握っていた。

源頼朝と北条政子の間にできた二人の息子は、幕府を継いだが、ごく早い段階で2人とも殺され、そののち将軍は藤原氏から迎えた「摂家将軍」 皇族から迎えた「皇族将軍」をすえるものの政治は北条氏が基礎を築き、発展させ、安定期を迎え、専制を行い、鎌倉幕府が滅びる時も、北条氏の集団自殺で終わる。

鎌倉約150年のうち、最初の50年は北条氏以外を滅ぼして基礎を整え、次の50年は「宝治合戦」「引付衆」で専制の始まり、最後の50年は「元寇」あり、「霜月騒動」ありで、内管領の圧政によって信用を失って足利尊氏に滅ぼされる。

[最初の50年(1192~1246ぐらい)]

北条3代(私が勝手にそう呼んでるだけで、そんな歴史用語はありません)が基礎を築く

北条時政(政子の父) 北条義時(政子の兄) 北条泰時(義時の息子)

侍所(軍事) 政所(行政) 問注所(裁判所)は鎌倉幕府の成立以前から設けられていた。

幕府が成立すると、まずは梶原氏 比企氏(頼家の妻の一族) 頼家(2代目将軍)殺害 畠山氏 和田氏と次々に滅ぼして、北条氏の権力を確立。

承久の乱(1221)で後鳥羽上皇が幕府を倒そうとするも乗り越え、逆に「六波羅探題」を置いて京都と西日本の監視を強める。

その後は連署(片腕)→評定衆(重要事案の合議制)→貞永式目(武家社会初めての成文法)

の順に (順序が大事!センターは順序を問う問題が多いから!) 制度を固める。

中でも重要なのは、「貞永式目(別名:御成敗式目)」である。

武家社会の「道理」(慣習)と「先例」を成文化し、裁判基準を明確にした。

朝廷の公家法、荘園の本所法とは別個のものと規定することで、朝廷や貴族との反発も避けて、武家社会にこの法律が浸透するようにした。

作ったのは3代執権の泰時である。

3代目北条泰時の時にすでに摂家将軍を迎える。(1226) その前の段階で頼朝の直系男子は全員殺されていたので、京都の摂関家に嫁いでいた頼朝の女孫の子孫を将軍に迎えた。

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[次の50年 1246~1284 北条の専制]

北条の専制が固まる。北条時頼 5代目執権

・宝治合戦(1247) 三浦㤗村一族が死亡

・引付衆(小さい裁判所) 裁判の迅速化

・皇族将軍を迎える(宗尊(むねたか)親王)

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何といっても「元寇」が大きい。8代目執権 北条時宗

まずはモンゴルの襲来に備えて九州の御家人に「異国警固番役」(お役目)を言いつける。

文永の役(1274) 弘安の役(1281)

モンゴルの元が2回攻めてくるが、辛くも撃退。

一度目は鉄砲で苦戦し、

そのあと石垣(石塁)を20キロ作って「長門探題」(お役所)を設置。

その甲斐あって2度目も何とか撃退。

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[最後の50年 1284~1333 専制の行き過ぎ]

元寇の時幕府は恩賞を出せなかったために、幕府の信頼は揺らいだ。

このため北条一族は専制を強めて対抗した。「得宗専制政治」である。

全国の守護職は北条氏が独占し、

評定衆による合議制は形骸化した。

(「得宗」は、北条の惣領家のこと)

困った御家人を助けるための「徳政令」(借金帳消し 質入れした土地の無償返却)を何度も出す。有名なのは「永仁の徳政令」(1297)

内管領(得宗家の執事のようなもの・家令) の力が強まり、

彼らは散々勝手な真似をしたために余計に幕府への反感は強まった。

もともと御家人たちはすでにこの時点でお金に困っている。

分割相続なのに、年貢、軍役は惣領がまとめて担うという制度、「惣領制」のためである。

窮乏するので、鎌倉末期には「単独相続」へと変わっていく。

御家人でないが武力をもって好き勝手をする「悪党」も生れた。

これらの専制を行ったのは 9代目執権 北条貞時

・霜月騒動(1285) 内管領の平頼綱が、讒言によって貞時の外祖父安達泰盛とその一族を滅亡させる。

・永仁の徳政令(1295) 

幕府はその次の10代目北条師時で滅びる。

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【守護と地頭】

「大犯三カ条」守護は3つのことをやる。

京都大番役の催促(=地頭の監督) 謀反人・殺害人の逮捕(=警察機関)

守護:国ごとに設置

地頭:公領・荘園ごとに設置 承久の乱以後全国に広がる。

本来は荘園領主の下で兵糧米の徴収・免田経営など「地頭職」という特権が認められるだけのものであったが、地頭は御家人で武力もあるので、立場は強い。

承久の乱以前の「本補地頭」は、荘官や郡司の権限を受け継いだもので権利にはばらつきがあり、

承久の乱以後の「新補地頭」は、「新補率法」によって権利が決まっている。

「11町につき1町の免田」「段別5升の加徴米」「山や川からの収益の半分」

当然もともとの荘園領主との争いは絶えない。

荘園領主は一切の経営を地頭に任せて年貢を入れてもらう「地頭請け」を行ったが、

年貢を入れてもらえない場合があり、荘園を半分に分ける「下地中分」を行うときもあった。

【鎌倉文化】

中心人物:運慶と快慶

写実的で豪放。

「大仏様」(東大寺南大門)「和様」(日本の伝統建築)「禅宗様」(宋からの伝来)の建築様式

「金沢(かねさわ)文庫」2代目執権義時の孫、北条実時が、自分の蔵書を公開した。つまり図書館を作った。実時は時頼時宗あたりの評定衆(合議制の一人) ちなみに金沢は「かねさわ」で横浜にある。

【鎌倉新興宗教6TOP】

鎌倉時代は、武士や庶民にも受け入れられる新しい宗教が流行った。

今も根付く宗教だってある。浄土宗とか。

主に念仏中心で手軽、分かりやすい。座禅が組まれたり、悟りのために禅問答をしたり、禁欲的で、面白いところも特徴。

・「浄土宗」(法然)=「専修念仏」(ひたすら念仏) 「選択本願念仏集」

・「浄土真宗」(親鸞)=法然の弟子 専修念仏を一歩進め「悪人正機説」(悪人だって救われる) 

・「時宗」(一遍)=踊念仏(踊りながら念仏を唱える。)

・「日蓮宗」(日蓮)=念仏ではなく題目「南無法蓮華経」(蓮華経)を唱える。攻撃的だったので、しばしば迫害される。「立正安国論」

・「臨済宗」(栄西)=座禅を組みながら公案を考える。

・「曹洞宗」(道元)=ひたすら座禅。公案なし 永平寺

幕府は宋の僧侶が好きで手厚く保護した。お寺を建ててやる。

北条時頼 蘭渓道隆・建長寺

北条時宗 無学祖元・円覚寺

【豊かになった鎌倉時代】

・貨幣経済の発達

平安時代は布や米で取引されていたものが、日宋貿易での宋銭の大量流入により、貨幣が広まった。

借上(かしあげ) 高利貸し

問丸(といまる) もとは輸送業者だったが、倉庫・流通業へ 問屋のもと

為替(かわせ) 手形決済 現金を持ち歩かずに遠隔地で安全取引できる。

銭納(せんのう) 年貢もお金で納めてよくなってくる。

定期市 三斎市は月三回 市日に市を開く。室町時代になると六斎市で月6回

座(ざ) 神社やお寺、公家が保護する同業者組合 関税の免除や独占権を認める代わりに「座役(ざやく)」を納めさせる。室町時代にさらに発達。

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・農業の発達

二毛作(にもうさく) 米の裏作で麦を作る。

刈敷き・草木灰 草を混ぜ込んだり、灰を混ぜたり、肥料を使うようになった。

牛馬耕 耕すのに牛や馬に犂を引かせるようにする。

水車

商品作物 藍 荏胡麻等

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