イニング5 【 最終回◇これってずっと延長戦? 】 


 その夏は、ひどく暑かった。いや熱いんだと思う。

 毎朝目覚めては、素肌は汗ばんでいるし、少し早く起きてシャワーを浴びて出勤するのはいつもの夏と変わらないんだけど――。

 そうじゃなくて、身体中が常に熱いというか……。


「コタロー。お願いだから、冷房……入れてよ」

 なんで窓際にベッドなんて置いているのよー。毎朝、日射しが暑いんだけどー。

 汗くさいシーツにくるまって『毎日毎朝』、文句から始まる。

「朝から冷房なんて贅沢ですよ。まだ涼しいでしょう。それなら早くシャワー浴びてきたらいいでしょう」

 自分の自宅から持ち込んできたお気に入りのタオルケットを裸の身体に巻き付け、うんうん唸る。その時、目に入った時計を見てはっとする。

「まだ六時前じゃないーっ。なんでこんなに早いのよっ。コタローのせいで目が覚めちゃったじゃんっ」

 彼がごそごそと動き回っているから、その気配で千夏も目が覚めた。でもよく見ると婚約者の男は、もうきっちりとスラックスとシャツ姿、ネクタイを結んでいるところ。

 今度は時計が狂っているのかと、さすがに千夏もがばっと起きあがった。

「えー、もうそんな時間!」

 素肌を隠していたタオルケットがぱさりと落ちていったが、それどころじゃなかった。

 だが目の前の男は、自分で用意したコーヒーカップ片手にいつもの落ち着いた笑い声。

「俺、昨夜教えたでしょ。今日は県境の営業所のシステムアップに行くから朝早いよって」

「あ、そうだった」

 思いだし、完全に目が覚める。乳房も小股の間も丸出しでもまったく気にせずに頭をかくと、そんな女の寝ぼけた姿にも孝太郎は笑っているだけ。

「二度寝して寝坊しないでくださいよ。俺、六時半には出ますから。夕方、遅くなるけど帰ってくるからメールしますね。今日も俺の部屋に千夏さんは帰ってくるの?」

「うん」

 彼が笑った。

「たまには千夏さんの部屋でも良いんだけど。いい匂いがするから」

「こっちがいい。コタローの匂いがするから」

「そっか」

 嬉しそうに笑ってくれるあの目も変わらない彼。

 あれから直ぐに結婚をする準備を始めた。婚約も済ませ、互いの両親にも挨拶を済ませ――。いまは式の準備中。せっかちな千夏らしく最短コースで計画。晩秋には式を挙げられることになった。もう彼女のその手際に、孝太郎もついていくのが精一杯といった感じ。でも――『らしいっすねえ』といつも笑ってくれる。

「今日は遅くなりそうだから、焼き肉でも食べに行きませんか」

「そうね、暑いしねー。焼き肉に冷たいビールいいわねー」

「じゃあ、決まり。俺も楽しみにして、県境まで頑張りまーす」

 ついに彼が鞄を手にして『行ってきます』と軽やかに出かけていってしまう。

 ああ、もうちょっと一緒にいて欲しかった。いつもの朝なら、夏の早い日の出と朝日に目が覚めたら、向こうから『千夏さん、千夏さん』て抱きついて戯れて。時には、燃え上がっちゃったりして……。

 一人になった彼のベッドに千夏は横になる。既に隣がスースーして心許なかった。


 


 ―◆・◆・◆・◆・◆―


 


 あっという間に夕方になる。

 考えたくないけど、年相応なのかな。燃えるのはいいけど、あまり張り切ると夕方にはかなりだれてしまう。

 それともこれって既に結婚惚け? 婚前惚け? 

「あー。課長がこれ飲むの、わかるわー」

 コンビニで、栄養ドリンクを手に取る千夏。

 定時が過ぎ、孝太郎が帰ってくるまでの時間を残業をして待つことにする。

 その前にちょっと気分転換。外に出てコンビニエンスストアまで。

 そこで栄養ドリンクを手にする三十後半の女。甘い夜と朝を繰り返す夏の日。でも現実に戻った日常でやっていることは、まるで親父みたいだった。

 ざっくりと着たストライプのシャツも首元のボタンも外したまま。眼鏡もうっかり家用の安い黒縁眼鏡をかけてきてしまい、その上、二度寝をしたのでシャワーをざっと浴び、慌ててブローをしただけの髪で出勤してしまった。

 そんな最近の『ゆるい落合主任』になって、皆に心配されるかと思ったらそうでもなく……。『いいすねー、主任のそのラフな感じ』、『主任、なんだか色っぽくなりましたよね』。青年達からも、そして女性の後輩からもそう言われるようになったり? しかも佐川課長に至っては『落合さんはちょっとルーズになった方が、魅力的だ』だなんて言ってくれたり。

 それでも仕事はきちんとやる。これだけは譲らなかった。孝太郎とも約束している。仕事はきちんとやろう――と。職場で出会ったので互いの責務を知り尽くしていることもあるが、特に彼は『落合主任の仕事姿から惚れたから、俺とつきあって変わったとか言われたくない』と強く願っているし、千夏自身も『佐川課長の補佐』としてのプライドは、落合千夏という個人として絶対に捨てたくなかった。

「でも。乱れているわー、これ」

 栄養ドリンク片手に会社前を歩きながら思った。ちょっと前まで、ボタンはきちんと締め、髪もきっちりまとめるか束ねていたのに。

 コンサル室に戻ると、同じく若い彼らも残業に突入する前のちょっとした休憩時間を取っているところだった。

『風に押し戻された打球、すごいバックホーム! なんと同点のまま……!』

 実況アナウンサーの興奮した声が響く。そしてその実況に千夏の胸がどきりとうごめく。

 いつもの青年二人、そろってオンライン接続が出来るデスクにてなにやら盛り上がっている。

「なに見ているの?」

 気になって覗いてみる。

「商業校が優勝したときの、奇跡のバックホームですよ」

 やっぱり。と、どきりとした。つい最近、それをきっかけにして千夏は結婚を決めたから。それにしても最近、この名場面とご縁があるなあと思ってしまったのだが。

「なんか知らないけど。この前から佐川課長がしきりにこれを見ているんですよ」

「課長が?」

「うん。なんか泣けるって何度も言ってリプレイしていましたよ」

「なんか知らないんですけど。『僕も歳取ったのかな、妹を嫁に出す気分』とか変なこと言っていたよな」

「ああ。変だよな。それって奇跡のバックホームとなんか関係あるのかなって、なあ」

 そ、そうなの――と、千夏は言葉を失ってしまう。

 あれから佐川課長には真っ先に結婚を決めたことを報告。もう一夜で決まった報告に彼も唖然としていたというか、判っているけど驚かずにはいられないようだった。

 そんな佐川課長が一番に言ってくれた。『おめでとう』。こんな日が来るんだね。僕と一緒に仕事をしている間に、僕の立ち会いで幸せになる姿を見届けられて嬉しいよ。これでもう僕達の間で昔のことを口にすることはなくなるだろう――と。過去が綺麗に昇華されていく。千夏もそれを噛みしめた。

 恋い焦がれた男性からの祝福を心から喜べる自分になれたこと、これもまたは『奇跡』かもしれない。

 かつての名勝負。今ではオンラインでそこだけ見られる。

「いろいろなことが重なった奇跡だよな」

「うん。課長もそう言っていた」

 彼らがあれこれ、選手のエピソードに監督の采配、そして打球を押し戻した風の幸運などの話で盛り上がる。

 千夏も心で『そうね。それが奇跡を生んだ』とそっと微笑む……。

 結婚は奇跡? それまでの様々なこと、二人の道が交差したとき。互いの目を見て、気持ちを思いやって重なった、ひとつになった。――その時こそ『奇跡』と言っても許される瞬間。


 


 ―◆・◆・◆・◆・◆―


 


「いただきます!」

 空が暗くなり始めた頃、県境の出張に出かけていた孝太郎が無事帰還。

 コンサル室で残業をしている千夏を迎えに来てくれたので、他のコンサル員達の冷やかしをもらいながら、二人そろって退出。予定通り、焼肉店へ。

 テーブルには既に肉を並べている沢山の皿、ジュウジュウと音を立てる鉄板。二人で向かい合って、微笑み合いながら会話をする。

「はあ、遠かったよう。県境の営業所。いっとき、携帯電話のアンテナも表示されない道があってさあ」

「でも営業所はわりと街中なんでしょう?」

「うん。行く道はすごい田舎道にも遭遇するんだけれど、それを抜けたら市街だからね。それにあそこは田舎都市だけど、土地持ち山持ちとかの先祖代々大金持ちの顧客が多い地域だから、馬鹿に出来ないんだ。金の動きが大きいから、システムもきちんとしておかないと」

 遠くまでご苦労様――と、千夏も笑った。

 相変わらず、千夏の熊君は見事なまでの大食らい。重なっていく肉の銀皿はほとんどは彼が食べたもの。車の運転をするので彼は自宅までビールはお預けなので、ひたすら食べていた。その代わり、千夏はジョッキのビールを少しずつ味わいながら、肉もゆったり少しずつ食べる。

「もう、本当に千夏さんは食べないな」

 目の前の孝太郎が急に不服そうに拗ねた顔になる。

「え、いいよ。コタローが沢山食べなさいよ。身体も大きいし外回りが多いし、今から残暑も厳しいからスタミナつけておかないと」

 私に遠慮するなと沢山食べさせてあげようと思ったのに――。

「いや、千夏さんこそ沢山食べた方がいい」

 鉄板に焼けた肉を、片っ端に千夏の銘々皿にのっけられ、あっという間に肉盛りが出来てしまいびっくり。

「いいってばっ。コタローが食べなよ」

 しかも嫌いなレバーまで入れられているっ。だが孝太郎が、またあのシビアな時に見せる怖い顔で千夏を見ているのでどきっと固まる。年下だけど、普段はやっぱり千夏が姉御になってしまうんだけど。この顔をされると千夏は大人しくなってしまう。怖い顔。

 その顔で彼が言った。

「スタミナつけなくちゃいけないのは、千夏さんの方だよ」

「どうして。私は沢山は食べられないわよ」

 だが、次に孝太郎はちょっと周りを確かめてから、小声でなにかを言い出した。

「大きな声でいいたくないんだけど。あのさ、千夏さん、夜の体力なさすぎ」

 ビールを飲んでいた千夏は『夜の体力』と言われ、噴き出しそうになった。

「し、失礼ね。私のこと、年上でもうへたれているって言いたいの!? だいたい、コタローは元気すぎるのよ。なんであんなに有り余っているのよっ」

 まったくもってその通りで、孝太郎という男は身体も大きいそのイメージのまま、よく食べるし……。あっちの精力もとんでもなかった。まさに今が男盛りと言うほどの……。

 また今まで通りの気強さで言い返したが、向こうもあのシビア顔で対抗してくる。

「だから。千夏さんにぜーんぶその身体で受け止めて欲しいから、体力つけて欲しいんですよ」

 さらに肉を盛られて、千夏はますます対抗心を燃やした。

「ちょっと。いくら体力有り余っていても、限度ってもんがあるでしょ」

「限度? 俺、『恋人ができたら、その女性だけを思いっきり抱いてあげよう』と思って、この精力を温存してきたんだから。いまこそ千夏さんが受けてくれなくて、俺の精力どーすればいいんですか」

 だから受け止めるためにスタミナつけろとなんだか向こうも負けん気ばっちりで向かってくるではないか。

 しかもとどめ。

「それとも俺のこの精力、他で発散してもいいんすかね」

「だ、だめに決まっているじゃないっ」

 この熊君がそんなことをするとは微塵も思っていないが、そんなことを言うだけでも絶対に絶対に許せなかったから、思わず叫んでしまう。

 そこで、熊君が『にんまり』。勝ち誇った顔を見せたので、千夏は我に返る。

 しまった、またやられた! この男にまた『ひっかけられた』!

「千夏さんって。ほんと真面目。隠れ乙女だよね。男は絶対に浮気しちゃだめって憤慨するタイプ」

「そ、そんなの当たり前じゃない。どの女性だって思っていることじゃないっ」

「横恋慕や不倫が許せないって正義感。千夏さんの弱点だよね」

「弱点じゃないわよ!」

 いや、弱点だった。それでやり方を間違えて『悪者』になって遠回りをしてきたから。それを孝太郎にも告白して『貴方とは付き合えない』と言ったこともあったから、ほんとうにほんとうにこの年下彼氏には『千夏の全て』を握られているから、困ってしまう。

「俺がそんなこと出来る男じゃないってわかっているでしょう? なのにマジになって『そんなことダメ』て言うんだから、よっぽど弱点ってことだよ。だって俺、千夏さんを捕まえるだけでもいっぱいいっぱいだったのに。本当に本当に好きでたまらない女をやっと捕まえたんですよっ。他の女性なんて、興味もないっすよ」

 でたーでたっ。熊君、無意識の女の子を喜ばせちゃう文句が……。

 そんな彼だから、千夏は大人しく降参して箸を持つ。

「レバー、食べる」

「うんうん。だめっすよ。ちゃんと食べないと。千夏さんたら『あれ』が終わった後、真っ先に寝落ちしちゃうんだから」

 『あれ』がまた何かわかって、千夏は再び噴き出しそうになる。

「ちょっと。もういい加減にしてよ」

「俺、困っているんですよ。もっとじっくり話したいのに。千夏さんたら、俺を放ってさっさと寝ちゃって。『イタズラ』しても起きないし」

「い、いたずらって……なに……、それっ」

 また熊君がニンマリ。

「今度、起きているときに同じ事してあげますから。だから頑張って起きていられるぐらいになってくださいね」

 と言って、またレバーを皿に入れられてしまった。

「ひどい、コタロー」

 それでも、孝太郎は余裕で笑っている。いつもこうして、おおらかに笑って全てを上手く流せる男。

「あはは。でも、いつもキリキリめいっぱい動き回っている落合主任が、もうくったり眠っちゃった顔なんか、俺、すっげー可愛いって思っているんだけど。ああ、みんなに教えてやりたい」

 また、でたー。何気なく『可愛い』とか平気でさらっと嫌みなく言ってくれて……。もう千夏の顔は熱くてしようがなかった。

「悔しい。コタローがびくともしないのが悔しいっ。今夜は絶対に寝ないから、私っ」

 そう言って、盛られた肉を一気に食べ尽くしてやった。

 それを彼はとっても楽しそうに見て、笑ってくれている。

 熊君は、いつもドンと大きく構えてくれている。もし千夏が機関銃のように怒りまくっても、きっと彼はシビアな顔でじっと仁王立ちでびくともせずに黙って受ける男。

 千夏の『最強に優しいドカベン』。勝てそうで勝てなくて、これがいつまで経っても続きそうだった。

「結婚て、終わらない延長戦なのかもね~」

 ふとつぶやくと、元球児の孝太郎もそっと笑う。

「俺、負けませんよ。なにせ落合主任の旦那になるんだから、負けてちゃ旦那失格でしょ」

「な、生意気っ」

「俺、落合主任の旦那だって認めてもらえる男になる」

 こんなこと堂々と吐いても嫌味がないのは、優しいドカベンだからなのだろうか。でも、千夏は既に沸騰状態で目眩がしていた。顔では困っても、内心とっても嬉しくて――。

 


 


 ―◆・◆・◆・◆・◆―


 


 堀端の木陰はとても涼しいが、シャワシャワと蝉の合唱が賑やかすぎる。

 

「千夏さーーーん」

 

 散策道のベンチに座っている千夏は、その声を聞き届け微笑む。そして路面電車がゆっくり走っているお堀の向こうへと手を振った。

 真っ白いシャツに水色のネクタイを翻しながら、堀の橋を渡ってこちらに一直線に向かってくる彼。

「よかった、まにあった、今日はここかなって、おもって、いそいで、きたっ」

 息を切らして汗びっしょりの彼に、バッグの中から冷蔵庫で冷やしておいた『おしぼり』を出してあげる。

「来るかもしれない、と思って。汗びっしょりじゃない。相変わらずね」

「わ、有り難う。千夏さん」

 受け取るとそれで嬉しそうに顔を拭いて首元の汗をぬぐって――。木漏れ日を見上げながら、千夏は微笑む。

「ほんと、千夏さんって良い奥さんになるよ。俺、すっげー嬉しい」

 この季節だから用意していただけなのだけれど、でも孝太郎はそんな女性らしい気遣いに触れるととっても感激してしまうらしい。あんまり大げさに喜ぶので、千夏はちょっと照れくさい。でもやっぱり幸せだった。

 彼の手には、また大量に購入したランチ。

「早く食べないと、昼休み終わるわよ」

「あ、俺。いま外回りから帰ったばかりだから、ちょっとゆっくり出来るんだ」

 『それなら良かった』と、千夏も微笑み返す。

 既に食事を終えている千夏の隣に、大柄な彼が座る。

「いただきまーす」

 美味しそうになんでも食べる彼が、にこにこ至福の笑顔になるのを見つめているのも好きだった。

 緑の木陰、晩夏の蝉の音の中、今は二人で肩を並べて座っている。

 ちょっと前のことを思うと考えられないことだったのに――。 ――これも奇跡なのかな。

 二人の結婚の報せは、本部でも『電撃婚』と騒がれた。きっちり仕事の鬼で年上独身主任の千夏と、おおらかなシステム技術者体育会系年下男のカップルに、『何故何故、いつの間に』という質問を良くされる。

 『なんで俺が落合主任みたいな美人を嫁さんに出来たんだって。もう何度も聞かれて流石に俺も疲れちゃった』――と、質問攻めに辟易していた孝太郎だが、最後には一人でニンマリとしているのを千夏は知っている。そしてそんな彼を知るとちょっと可愛く思ったり。

「そうだわ。コタロー、これ見て」

 お弁当をかき込んでいる彼に、バッグから取り出した白い封筒を差し出す。

「それ。結婚式の招待状だね。誰かからの返信、また届いたの」

「そう。誰だと思う?」

 孝太郎が白い封筒を手に取る。そしてゆっくり丁寧に招待状の返信はがきを封筒から出した。

「佐川課長宛の……だね」

 だが孝太郎はその返信葉書の全貌を知ると、もう驚きの満面の笑みになりちょっと興奮気味に千夏を見ている。

「やった、やったじゃん! 千夏さん、佐川課長の奥さんも出席だって!!」

「そうなの! それに、見て見てここ!! メッセージがあるのっ」

「見た見た、これ!」

 返信葉書を挟んで、肩を寄せ合い、いつの間にか頬も触れそうになって二人で顔を見合わせた。

「熱いよ、コタロー」

「そうかな」

 ここがお城ふもとの中心街でなければ。沢山の人が行き交う城山公園でなければ。きっと、夜のように……。

 もう婚約して何度も抱き合って、夜も朝も真夏のような毎日を一緒に分け合っているのに。胸が苦しくなるほど見つめ合って戸惑っている。

 でも千夏は、彼のつぶらな目から絶対に逸らさなかった。負けたくないもの。一直線にまっすぐに、私のところに駆けてきてくれたこの人に。これから負けないぐらいの剛速球で返したいから。

 すると彼から恥ずかしそうにして、目線を逸らしてしまった。『今日は、私の勝ち』。千夏はそっとニンマリ。

「ね、奥さんのこの一言。ずしっとくるよ、俺」

 照れた孝太郎が、太い指で華奢で綺麗な字を指した。

 そこには、いつか会いたいと思って怖じ気づいたまま会えずじまいだった人の声があった。

 ――『男は生き様』。

 同じ男で失敗し、最後は同じような男性にたどり着いた女同士だからこそ通じる、一言。なんだか十何年も会っていないけれど、それが合い言葉のようで不思議な一言。

「佐川課長の奥さんらしいな~。あの男性を選んだ女性ってかんじだよ」

「そうね。生き様の男を選んだ奥様だもの」

 そして千夏は、暑くて堪らない夏空を見上げる。

「私の憧れのご夫妻だからね」

 隣で孝太郎も『俺も』と、一緒に微笑んでくれた。

「良かったな、千夏さん。一番、気にしていたもんな。美佳子さんが来てくれるかどうかって」

「うん、嬉しい!」

 どんな顔で会えばいいか、どんな時に会えばいいか判らなかった。いつか謝りたいと思っていた。でも……きっと、もう『ごめんなさい』は無粋なのかもしれない。

 『千夏さん、おめでとう。主人からいつも話に聞いていた河野君とご結婚されると知り、二人でとても喜んでいました。いつか会いたいと思っていた貴女との再会が、貴女が幸せになれる日で、その日へのご招待された日で、本当に本当に嬉しいです。貴女のドレス姿、楽しみにしていますね』。

 きっとこれも毎日毎日を積んできた『奇跡』。

 ああ、なにもかも。この澄み切った青の中に綺麗に飛んでいく!




 ◆ お局様に、片思い/完 ◆



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奥さんに、片想い 市來 茉莉 @marikadrug

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