医療事務員はタノシイオシゴトデスヨ

風嵐むげん

とある医療事務員の華麗なる一日


 私は新潟のとある大病院で働く医療事務員である。名乗る程の者ではない。というより、名乗る余裕がない。

 なぜなら私は現在、飛んでくる唾に顔面をしかめないようにたえることだけで精一杯なのだから。



【某日午前十時】


「ちょっと! どういうことなの!? 病院の前の道、雪が積もったままじゃない。さっき滑って転んじゃったわよ、何で雪かきしないの!?」


 年齢に捕らわれない真っ赤な口紅を塗りたくったバ……否、ご婦人がF1マシン並みの勢いで捲し立ててくる。早口な上にきいきいと甲高い声は、何を言っているのか半分も聞き取れない。

 大体、ここをどこだと思っているんだ。新潟だぞ? この時期の新潟を舐めてるのか? フェザーみたいな雪が途切れることなくモサモサ降り続いているんだぞ。一時間もすれば道路は真っ白になるのだ。

 転びたくないなら、そんな踵の高いブーツではなく長靴でも履いて来いよババ……という本音は飲み込む。


「申し訳ありません。すぐに担当者に連絡致しますので――」

「大体ね! この病院は全然患者のことを考えていないのよ! 売店は離れてるし、自販機も少ないし。会計は遅いし医療費は高いし何なの!? それでいて病気は全然良くならないし……この前貰った薬、全然効かないじゃない!  ジェネリックだか何だか知らないけど、 大して効き目のない薬で患者から金を巻き上げようとしてるんじゃないの!?」


 うわっほーい、長期戦のフラグ立っちゃったー! ちくしょう、こんな日にこんな患者に当たるとは運が悪い。


「E先生って無愛想だし、まだ若いし……あの先生どうにかならないの!? あの人に診て貰っても悪くなる一方だわ!」


 ご婦人の怒りは収まらず、周りの注目を集めていることにすら気が付いていないよう。そんなことを私に言われても、そもそも『E先生』って何科の先生なのか。

 私はただの医療事務員。クレーマー担当ではない。担当業務は入院、それも消化器内科の請求業務である。今日はただ案内当番で外来の方に立っていただけで、ぶっちゃけ外来のことなんか何もわからんのだ。

 とりあえず、消化器内科に『E先生』という先生は居ないことだけは知っている。


「……ご不快に思われたようでしたら、申し訳ありません」


 私は下げたくもない頭を何度も下げる。誰かが言っていた。病院は芸能事務所のようなもの。医師や看護師といったタレントを影で支えるのが、医療事務員の役割だと。

 そして、医師や看護師をこういう苦情から護るのも我等の仕事……なんだってさ。


「すみません、これ以上は他の患者さんのご迷惑になるので……続きは別室でお伺い致しますが」


 いかがでしょうか? 騒ぎに気がついたのだろう、上司が私達の元にやって来るなり相談室の方を示す。それで少しは頭が冷めたのか、ご婦人がふんっと鼻を鳴らす。


「もう良いわ。本当にこの病院はダメね!」


 そう吐き捨てて、ご婦人は肩を怒らせながらその場を立ち去った。薬はちゃんと用法容量を守って飲んでいるのか、医師に要望を伝えているのか、言い返したいことはたくさんあったのだけれども。院内ではああいうクレーマーに対してはきちんとルールが決まっているのだ。

 だから私は、ルールに沿って対応しただけのこと。


「……やれやれ、何を言ったかは知らないけど。今度は気を付けるようにね」


 なのに叱られるっていうね。おい、決してババアとは言ってないぞ。この上司、典型的な仕事出来ない系のイヤミ係長である……。



【午前十一時】



「あー、疲れたー」


 ようやく当番から解放されて、医事課へと戻ってきた。雑然とした机の上。請求業務は他の業務と違って、書類や資料が桁違いに多い。

 診療点数早見表――早見表とか言いながら、実際は千五百ページもある辞典である。全然早見させる気がない――や手術、検査の辞典、DPC点数早見表にICDコーディングブックなどなど。置き場がない。

 置き場を提供されないのに、片付けろと言われてもな。先日イヤミ係長に言われた小言を思い出し、すぐに忘れた。

 同時に、書類の山の中から内線電話が健気にコール音を鳴らす。


「はい、医事課入院係――」

『あ、お疲れ様です。消内のYですけど』


 うわ、Y先生か。見えていないのに、自然に居住まいを正してしまう。


『あのー、今月分のレセプトっていつ持って来て貰えます?』

「レセプトですか?」


 改めて、自分の机の上を眺める。レセプト――診療報酬明細書。患者一人に対して一件発行される――の山、出力したばかりで何も手を付けていない。これからホチキス止めして、担当の先生ごとに分けて。それから診療内容をチェックして……。

 うん、一日はかかるな。


「そうですね、明日の午後には――」

『今日の夕方までに持って来て欲しいんだけど』


 一日かかるってば!


『用事があるんだよねー。じゃあ、そういうことで』


 よろしく。一方的に切れる電話。やり場の無い怒りに、受話器を置く手には自然に力が入る。

 もっと早く言えよ! 医者というものは頭は良い癖に常識というか、他人を思いやる心が足りない。しかし、ここは病院という名の芸能事務所。

 主役に活躍してもらう為に、少しくらいのわがままは聞いてやらねば。


「……昼休憩取らずやれば、何とかなるかな」


 今日は仲の良い同僚達と外にランチへ行く予定だったのだが。さようなら、私の癒しの時間。



【午後三時】


「うあ……腹減った……死ぬ、死ぬぅ……」


 タケプロン――胃液の分泌を抑える薬剤。胃潰瘍とかに処方される――という薬剤名がなぜか美味しそうに見えてきた頃。やっとレセプトの山が半分程の大きさになったレセプトに希望が見えかけて安堵していると、イヤミ係長に名前を呼ばれてしまった。

 無視してやろうかと思ったけど、後が怖いので顔を上げて返事をした。


「悪いんだけど、車椅子患者さんの案内をお願いして良い? 外来玄関のところで待ってるDさんっていうお婆さん。整形外科まで」

「え……あの、今日は車椅子の当番じゃないですけど」

「じゃあ、頼んだよ」


 言い返す間もなく、去って行くイヤミ係長。くそう、押し付けられた。空腹を訴え続けるお腹を撫でて慰めながら、私は整形外科外来へと向かった。



【午後四時】


「あら、今何か聞こえなかった? ごろごろって……雷かしら」

「ははは、今日は天気が悪いデスカラネー」


 車椅子を押しながら、自分の腹が奏でる旋律をクールに誤魔化す。小柄で人の良さそうな老齢のDさんに付いて、検査室やらCT室と診察室を往復していたらいつの間にか一時間も経ってしまっていた。

 空腹のせいか頭はふらふら。腹はぐうぐう。イライラは最高潮で、何らかの事故を起こさないのが不思議な状態だ。


「ごめんなさいねぇ、こんなところまで付き合って貰っちゃって」

「いえいえ、仕事ですのでー」


 診察を終えて会計も済ませて、タクシーで帰るとのことなので玄関前の乗り場まで車椅子を押す。車椅子は病院の備品で、Dさんのように高齢な方や自力で歩くのが困難な方に自由に貸し出している。

 こういう患者さんには、多くの場合家族や友人の方が付き添ってくれている筈なのだが。


「今日は息子も、息子のお嫁さんも仕事でね? 夫は十年も前にガンで死んでしまったし……この年齢としになると、自分の身体でさえ思い通りに動かせなくなっちゃうものなのよねぇ。あなた、事務員さんでしょう? 忙しいのに、悪いわねぇ」

「いえいえ、お気になさらず。仕事デスノデー」

「でも、こんなにお若いお嬢さんとお話出来たの久しぶりだから……お婆ちゃん、嬉しいわ。若いからって無理しないで、ご飯はしっかり食べなきゃだめよー?」

「いえいえ……え?」

「うふふっ、図星だったかしら」


 皴だらけの顔に、しわくちゃの笑顔を飾って。待機していたタクシーが目の前に停車し、後部座席のドアが開く。病院で待機しているだけあって、運転手さんの対応も慣れたもの。

 車椅子から降りて、後部座席に座ったDさんが私を見た。


「今日は助かったわ、ありがとう。この病院の事務員さんは、他の病院の人よりも優しくて好きよ」

「え、あ……ありがとう、ございます」

「お仕事お疲れ様。これからも頑張ってね」


 そう言って、Dさんを乗せたタクシーは走り出した。今朝から降り続く大雪の中、車はすぐに見えなくなってしまう。

 車椅子のグリップを握ったまま、無意識に口から言葉が漏れる。


「ありがとう、なんて……久しぶり、いや……この仕事に就いてから初めて言われたかも」


 罵詈雑言を投げ付けられることはあるものの、医師や看護師ならばまだしも事務員にお礼を言ってくれる患者さんが居るとは。たったその一言で、向けられた笑顔で、胸中に蟠っていた苛立ちの塊が溶けていくよう。

 患者さんが降りて、軽くなった車椅子を元の置き場まで押す。大勢の患者に、イヤミな上司に自分勝手な医師。患者案内に、レセプトに。病院での仕事は多種多様で、関わりを持つ人も色々だ。

 忙しくて、割に合わないこともたくさんある。でも、たまに良いこともある。だから、私は決めた。


 ――そう、私は決意したのだ。



「よし……とりあえず、お昼食べて来よう」


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