転落

30話  罰


「これは……私のことを弄んだ罰なの」


 パンケーキナイフを震えた手に握りしめて、目尻に涙を溜めた当時の彼女がそう言ったのを、僕はどこか他人事のように聞いていた。

 弄んでなどいない。本気で愛していたのだ。

 一番ショックだったのは、当時付き合っていた7人の恋人の中で最も賢く、物分かりの良かったその彼女の口から、そんな言葉が出たことだった。

 僕は7人の恋人を分け隔てなく愛していたし、それを全員が喜んでいた。すべてが上手く行っていたのだ。

 他に6人恋人がいることを打ち明けた時の彼女の表情といったら、どう表現したらいいのか分からない奇妙なものだった。戸惑いと、悔しさと、悲しさと、怒りが次々と顔の表面を蠢くような、そんな変化の後に、彼女はこう言った。


「それで……この後どうするわけ?」


 質問の意図が分からなかった。


「どうって……これからも全員のことを愛していくつもりだけど……」

「何言ってるの? 馬鹿じゃないの!?」


 明確に彼女の怒りが露わになったところで、自分は失敗したのだと気が付いた。まだ、彼女を信頼すべき段階ではなかったのだ。


「7人と同時に恋人でいるなんて正気じゃない! 結婚とかどうするつもりなわけ!?」

「結婚なんてしなくてもいいじゃないか。愛してるなら問題ないでしょ」

「私はあなたと結婚したいと思ってたのに!」


 そう言って僕を睨みつけ、涙を流し、彼女は机の上に置いてあったパンケーキナイフを手に取った。

 そう、あれも失敗だった。

 パンケーキを食べているときに重要な話をすべきではない。学習した。


 その後本気でナイフを振り下ろされた時はひやっとした。そのまま僕が避けずに刺さっていたら、彼女は傷害罪に問われる羽目になっていただろう。

 そんなことは御免だし、そもそも怪我もしたくなかったので、僕は結局その場から逃げ出した。

 数日ネットカフェで夜をやり過ごし、おそるおそる自宅に帰ると、彼女の姿はなかった。その数日間に他の恋人からも何度も連絡が来たが、会いに行く気にはなれなかった。一つ失敗すれば、ほかも破綻する。あれは、そういうバランスで成り立っていた関係だったのだ。


 僕は引っ越しをした。一度やり直すべきだと思った。

 誰かから身を隠すならば、人の多いところだろうと考えて、東京に新たな住居を移した。当時の職場は恋人には教えていたから、上司には申し訳なかったけれども、勢いで退職して、今は東京でバイトをして暮らしている。

 働いていた頃の貯金がたんまりと残っているので、バイト程度の収入でもあと数年間は暮らしていけるだろう。その間に、就職活動をゆっくり進めればいい。


 それよりも、差し迫る問題は、この寂しさだ。

 引っ越しをする前は、ほぼ毎日、愛している女性と会うことができた。色とりどりの花を愛でているような充実感があの生活にはあった。しかし、今はどうだ。

 バイトをして、一人で家に帰り、特に見たい番組もないのに、誰かの声を聞きたいがためにテレビをつけて、飽きたら一人で寝る。

 潤いがまったくない。この生活に慣れていく自信がない。


 テレビをぼんやりと眺めながら、スーパーで買った味の濃い惣菜を口に運んでいると、ふと思い立った。

 こういう時に、家出娘を拾えるといい。

 以前、ちょうど7人の恋人がいた頃、たまたま近所のコンビニの前で座り込んでいた女子高生を拾ったことがあったのを思い出す。

 顔立ちが良く、胸も大きかった。

 連れて帰ると、その子は簡単に身体を許したし、具合も良かったのを覚えている。身体は柔らかくて、中は良く締まった。

 ただ、その女子高生は他の恋人と違い、僕のことをまったく求めていなかった。感じているフリをする様子も、僕の瞳を見つめているのにまったく別のことを考えているような様子も、少し不快だった。

 数日間家に泊めてやったが、恋人がうちに来ると言い出した時に追い出した。


 あの頃は女性に困っていなかったのできっと贅沢になっていたのだ。

 今はそばに女性がいないのが寂しくてしようがない。

 自分を求めていようがいまいが、どうでもいいと思った。それはじっくりを時間をかければ良いことなのだ。

 柔らかく、良いにおいのする女を抱きたい。

 愛する対象が近くにいないことの苦しみから解放されたいと思った。


「よし」


 僕は決意して、箸を置いた。


「家出娘、探すか」






「はぁ? 家出娘ぇ?」


 露骨に眉をひそめて、あさみちゃんが言った。


「そう、家出娘。このあたりで見たことない?」

「ねーし。というかそんなん見つけてどうするつもりだし」

「いや、持って帰りたいなって」

「フツーに犯罪なんですけど……キモいわー」


 あさみちゃんは嫌悪感を丸出しにしながら首を横に振った。

 彼女は、同じコンビニでバイトをする女子高生だ。小麦色の肌に金髪、とギャルのような見た目をしているが、その印象とは裏腹に、とてもガードが堅い。何度かご飯に誘ってはみたものの、毎回やんわりと断られている。


「宿を提供してあげるんだから、えらいと思わない?」

「は、下心丸見えっしょ」

「男女で同じ屋根の下にいるわけだし、予定してなくても、そういうことが起こることもあるとは思うけど」

「まじキモいわー」


 冗談だと思っているようで、あさみちゃんは完全に僕の言葉を受け流していた。しかし、反応を見るに、本当に心当たりはないようだった。彼女は思っていることが“目”に出やすい。質問だけすれば、彼女の知っていることであればたいてい分かってしまうので、便利だ。


「そうかぁ……家出娘、いないのかぁ」


 落胆して見せると、あさみちゃんは鼻を鳴らす。


「そんなに女の子に飢えてるわけ?」

「僕には7人の恋人がいたんだよ。それが一気に失われたわけ。人恋しくもなるさ」

「7人! 日替わり彼女じゃん、クソ面白いねそれ」


 本当なんだけどなぁ。

 まったく信じていない様子のあさみちゃんはけたけたと笑いながら唐揚げ棒をフライヤーから取り出した。


「新しく入った子もJKだけどさ、ナンパとかしたらタダじゃおかないかんね」


 あさみちゃんがそう言ったのを聞いて、僕は首を傾げる。


「新しく入った子?」

「え、なに、聞いてないわけ」


 ホットフードのケースに唐揚げ棒をしまいながら、あさみちゃんが視線だけ僕に寄越した。


「最近入った子いるじゃん。沙優チャソだよ、沙優チャソ」

「ああ……そういえばそんな名前が名簿に増えてた気もするな。女子高生なんだ?」

「そそ、言っとくけど、ドチャクソ可愛いから」

「ドチャクソ可愛いのか。それは楽しみだな」


 僕が言うと、あさみちゃんは、自分で言い出したくせに眉をひそめる。


「手出したらブチギレすっからね」

「仲いいの?」

「もー仲良しよ。ソウルメイトだかんね」


 あさみちゃんはすぐに誰とでも仲良くなる。僕が苦手なパートおばさんとも、すぐに打ち解けていたのを思い出した。


「ふぅん」


 僕は生返事をしながら、会ったこともないその『沙優』という子を思い浮かべた。

 あさみちゃんと仲良しということは、同じくギャルだろうか。もしくは、気の弱い子だろうか。気の弱い子の方が良い。押していけば手に入るかもしれない。

 あさみちゃんからその話を聞いてから、僕はぼんやりと妄想を続けながら仕事をした。


 シフトの時間が終わり、コンビニの制服から着替えながら、壁に張り出されているシフト表を見ると、ちょうど次の日、その『荻原沙優』という子とシフトがかぶっていた。


 今から、顔を見るのが楽しみで仕方がない。




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