20話  ゴム


「吉田……気持ちよかった?」


 事を終えると、いつものように神田かんだ先輩はうっすらとした微笑みを浮かべて、少し乱れた呼吸を抑えながらそう訊ねてきた。


「すごく」


 俺が頷くと、神田先輩は苦笑を浮かべる。


「うそ」

「嘘じゃないです」

「気持ちよかったら、もっとすぐにいっちゃうでしょ」


 その言葉に、俺はううん、と呻って首を横に振った。


「それとこれは、別ですよ」


 神田先輩の中に入ったまま力失ったそれを、腰を後ろに下げて引き抜く。それと同時に、「ん」と神田先輩はなやましい吐息を漏らした。後から遅れて出てきたコンドームには、俺の放出したものがたんまりと溜まっていた。


「生でいいって言ってるのに」


 神田先輩は俺の分身に取り付けられたゴムに目をやりながら、言った。


「生だったらもう少し早くいけるんじゃない」

「生はダメです。もしものことがあったら」

「だから、ピル飲んでるって言ってるじゃん」


 ピルを飲んでいても、妊娠することはあるのだという。父親の仕事用のパソコンを、彼の外出中に使って調べたのだ。


「あたしのこと、好きじゃないわけ」

「好きだから、生ではしないんです」


 神田先輩は上半身をベッドから起き上がらせて、髪の毛をぐしゃぐしゃと掻いた。


「よくわかんないなぁ。好きなら、中にくらい出すでしょ」


 俺から言わせれば、その価値観の方が意味不明だった。曖昧に笑ってから、首を横に振る。


「中に出すってことは、子供産ませたいってことでしょ。俺、まだそんなことまで考えたくないですよ」


 そう言うと、神田先輩は一瞬ぴくりと眉を動かした後に、「あー」と、気の抜けたような声を出した。


「だから、ピル飲んでればさ、子供はできないんだってば」

「子供作らないのに、中に出す必要ありますか?」


 俺が訊くと、神田先輩は少しイラついたようにううん、と低く呻ってから、それをごまかす様に、苦笑を浮かべる。


「生の方が、吉田は気持ちいいと思うよ」

「別に、気持ちよくなくてもいいです。先輩とこういうことできるだけで俺幸せですよ」


 本心だった。

 口にはしないが、正直、神田先輩とセックスをするのは心は満たされたが、単純な『下半身の』快感の度合いを考えれば自分でした方が圧倒的に気持ちが良かった。俺が彼女との性行為に求めるのは、彼女を、他の誰も知らないところで独り占めしているという優越感だとか、彼女の淫らな姿を見られる悦びだとか、そういうものだった。

 俺の言葉に、神田先輩はとりあえず笑顔を見せたが、どう見ても、納得した様子ではなかった。


「吉田って、あたしのこと、本当に好きなの?」

「好きですよ」

「だったら、次は生でしてよ」


 どうしてそこまでゴムをつけずにすることにこだわるのかが分からない。俺の表情を見て気持ちを悟ったのか、神田先輩はいたずらっぽく笑って、言った。


「生だったらどれくらいで吉田がいくのか見てみたい」

「生ではしません」


 俺がはっきりと言うと、先輩は溜め息をついて、首を傾げた。


「なんで?」


 なんで、はこちらのセリフだ。

 さっきから何度も説明しているというのに、どうして分かってくれないのだろうか。言い方を、変えることにした。


「そりゃ、いつかは、しますよ」


 俺がそう呟くと、神田先輩は首をもう一度逆方向にこくりと傾けた。


「いつかって、いつ?」


 その問いに、俺はすぐに答えられなかった。

 少し、鼻の頭が痒くなる。

 鼻を人差し指で掻いて。


「神田先輩のこと……ちゃんと養えるようになったらですよ」


 視線をベッドに落として、小さな声でそう答えた。恥ずかしすぎて、顔から火が出そうだった。

 神田先輩が何も言わないので視線を上げて彼女を見ると、先輩は今まで見たこともないような顔をしていた。

 驚いたとも、恐れているとも、分からない。『未知の生物』にでも遭遇したかのような、そんな表情をしていた。俺と目が合った瞬間に、神田先輩は慌てて笑顔を作った。しかし、その笑顔は少し引き攣っている。


「吉田は、重いなぁ」


 しみじみと、神田先輩は、空が青いなぁ、と言うようなリズムでそう言った。


「そこが可愛いんだけどさ」


 神田先輩はそう付け加えて、今度はにこりと笑った。


「重い、ですか」

「ああ、悪いって言ってるんじゃないよ。吉田のそういうとこ、ある意味すごいと思う。けど……」


 神田先輩はそこで言葉を選ぶように、視線をベッドのシーツに這わせた。


「もっと、気軽でいいと思うんだよね。今楽しむために、あたしたち、付き合ってるわけだしさ」

「でも、付き合うからには大切にしたいです」


 俺の言葉に神田先輩はくすりと笑って、それから、俺の頭に手を伸ばして、髪をわしゃわしゃと撫でた。


「嬉しいよ」


 ぐしゃぐしゃと荒っぽく俺の髪の毛を撫でてから、「でも」と先輩は付け加えた。

 視線を上げると、先輩と目が合う。

 ぎゅっと心臓を鷲掴みにされるような錯覚に襲われた。

 彼女のその目は、親が子供を諭すような、そういうものだった。およそ、彼氏に向けるようなまなざしだとは思えない。


「あたしは、そんなに大事にされるのを求めてるわけじゃない」


 先輩がそう言ったのと同時に、彼女の顔にノイズがかかった。時間が止まったような感覚。何が起こったのか分からないうちに、先輩の顔がCGのようになめらかに変化して、別の、見たことのある顔になった。


「吉田さん」


 彼女は、俺の目を見つめて、にこりともせずに、言った。


「そんなに大事にしてくれなんて、求めてないよ」


 目の前に座る沙優が、そう言った。







 飛び起きると、全身が汗まみれだった。

 タオルケットが身体から剥がれて、一気に汗が冷える感覚がした。

 息が上がっている。

 時計を見ると、13時を過ぎたところだった。窓から差し込んだ日光で部屋が明るい。

 ぼんやりと部屋の中を見渡したところで、急に現実に引き戻されるような感覚を味わった。


「夢か」


 呟いて、深く息を吐いた。

 やけに、リアルに思い出してしまったものだ。夢を見るまで、『神田先輩』の存在自体を忘れていた。いや……忘れようと、していただけかもしれない。

 精神と共に身体が起きてくるにつれて、一気に自分の身体に汗で貼り付く衣服の気持ち悪さを感じた。

 ベッドから降りて、乱雑に寝間着にしていたTシャツを脱ぎ捨てた。

 ふと居室のテーブルの上を見ると、小さなメモ用紙が置いてあった。手に取って、書いてある文字に目を通す。


『バイトに行ってきます。炊飯器に白米、お鍋に味噌汁、レンジにおかずが入ってます。起きたら食べてね』


 お手本のような綺麗な字で、そう書いてあった。沙優が書いたものだろう。こんなに字が綺麗だとは知らなかった。

 ふと、先刻まで見ていた夢が頭をよぎる。


『そんなに大事にしてくれなんて、求めてないよ』


 頭を振って、その声を振り払った。

 神田先輩との会話は、実際にした覚えがある。ほとんど改変のない、妙にリアルな夢だった。しかし、沙優のあの言葉は紛れもなく、夢だ。どうして、あんな夢を見たのだろうか。


 上半身裸のまま洗面所まで歩いていき、水道水でばしゃばしゃと顔を洗った。ぼやけていた意識が引き締まり、妙な夢で沈みかけていた気分も少しすっきりする。


 居室に戻ると、妙に部屋が広く感じた。その原因を一人で考えて、すぐに理解した。


「ああ、そうか……」


 今日は、沙優がいないのだ。

 俺の休日に、沙優がいないことは今まで一度もなかった。沙優がアルバイトを始めてから、初めての俺の休日だ。

 俺は溜め息一つついて、煙草を持ってベランダに出る。


「いるのが当たり前になってんなぁ……」


 呟いてから、煙を吸い込むと、思ったよりも深く吸い込んでしまって咳き込んだ。


「あークソ」


 咳き込んだことで目尻にじわりと溜まった涙を腕でぬぐった。

 人が、一人いたりいなかったりするだけで、ここまでペースが狂うとは思わなかった。






 前まで、どういうふうに休日を過ごしていたのか忘れてしまった。

 話し相手のいない家でぼんやりと過ごすのに耐えかねて、適当に外行きの服を引っかけて外に出た。

 行き先は決めていない。とりあえず、適当に駅前まで出ようと思った。


 歩いていると、また、夢のことを思い出す。

 神田先輩。

 俺の初めての恋人で、最後の恋人でもある。同じ高校に通っていた、一つ上の先輩だった。高校2年生の初夏に付き合い始めて、先輩が学校を卒業してから、自然消滅した。

 彼女は、とても自由奔放で、とても魅力的だった。俺よりも前に何人もの男と付き合って、別れたということは知っていたが、そんなことはどうでも良かった。俺は本気で彼女に惚れていたし、漠然と、自分は彼女といつまでも上手くやっていけると思っていた。


「……もったいないことしたかなぁ」


 小さく呟いて、ぽりぽりと頭を掻いた。

 ぼんやりと、ベッドで喘ぎ声を上げる神田先輩を思い出した。もう、何年前の話だろう。彼女が、最初で最後の恋人で。つまりは、彼女とのセックスが、俺にとっての最初で最後だった。

 一度くらい、生で彼女の身体を味わっておけばよかったかもしれない、と思った。

 思ってから、すぐに失笑する。


「ないな」


 あれから何年も経ったというのに、俺の価値観は大して変わっていなかった。

 責任をとれない相手に、そういうことをする気にはなれない。

 それよりも今は、何故、こんなタイミングで、彼女のことを思い出すような夢を見たのかということの方が、気になった。


 考え事をしながら歩いていると、気付いた時にはもう駅前まで出てしまっていた。行先も決めずに、ぼんやりと、とりあえず駅に行こうなんて考えていたものだから、あっさりとそれを達成してしまって少し困惑した。

 ここから、どうしたものか。


「あれ、吉田センパイ?」


 突然後ろから声をかけられて、びくりと肩が跳ねる。

 振り向くと、そこには見慣れた栗色のミディアムショートの髪が揺れていた。


「は?」


 思わず、声を上げた。


「なんでこんなとこにいるんだよ、三島」

「吉田センパイこそ」


 私服姿で突っ立つ三島は、目と口を阿呆のように開けたまま、首をこくりと傾げた。







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