背徳の人

奏 舞音

背徳の人

 私が「木山きやまひろし」という名を再び見ることになったのは、介護福祉施設 月光げっこうえんに就職してから五年目の春だった。

 私には愛する妻がいて、まだ生まれたばかりの娘がいる。しかしその名を見て、私は自分の作り上げた幸福が、すべてはこの男の不幸の上に成り立っていたことを思い出した。


 七年前のたった一つの出会いから、この男の不幸、そして私の幸せは始まったのだ。


  ◆ ◇ ◆


 大学の正門前に、一人の女性が立っていた。物思いにふけっているのか、時折溜息を吐きながら、じっと学内の建物を見つめている。

 今日は、大学祭の日だ。

 普段より気軽に学内に入ることができるし、様々な催し物がある。あんな風に正門の前でじっとしている方が逆に目立つ。しかし、学生は屋台やら実行委員やらお店を見て回るのに忙しく、お客さんの方も他人なんか気にしていない。

 私、月下つきしたはるは、友人に呼ばれて学祭に来たものの、その友人は屋台で忙しそうにしているし、他に特に見たいものがなかったため、その女性を観察することにした。

 歳は二十代後半といったところ。服装は薄ピンクのカッターシャツに白のスキニーパンツ。長い黒髪、目鼻立ちの整った顔、色白の肌、彼女は間違いなく美人だった。私の周囲には、あんな正統派美人はいない。 それに、身体は華奢で、吹けば飛んでいってしまいそうだ。強く抱きしめたら、きっとすぐに壊れてしまうだろう。あまりにも自分好みの女性だったので、妄想が膨らむ。しかし、あるものを見て、現実に引き戻された。


(指輪、か……)


 不安そうに胸の前で握っている左手の薬指には、きらりと輝く指輪がはめてあった。結婚指輪か、婚約指輪だろう。美しい彼女がもう他人のものになってしまっていることを、私は残念に思った。

 誰かとの待ち合わせなのかと思ったが、彼女があそこに立ってからもう三十分以上が経っている。相手が遅刻しているのか、それともドタキャンされたのか、元々そんな予定などなかったのか。

 何故、彼女は一人で門の前に立っているのだろう。

 私が不思議に思っていると、突然彼女が意を決したように足を踏み出した。学内の正門近くのベンチに座っていた私も、彼女の後をつけてみようと腰を浮かせた。私は、彼女にかなりの興味を抱いていた。

しかし、彼女は正門に取り付けられた派手な風船のアーチをくぐることなく、背を向けてしまった。

 思わず、私は彼女を追いかけていた。今までの三十分あまりの時間はなんだったのか。何のためにこの場所へ来たのか、気になって仕方ない。こうなったら直接本人に確かめる他ないだろう。どうせだったら、私が学内を案内してやってもいい。そんなことを思いながら、あっという間に追いついた彼女の腕を掴み、私は言った。


「あの、さっきからずっと大学の方見てましたよね? よかったら、俺が案内しましょうか?」

 突然腕を掴まれ、声をかけられたせいで見開かれた彼女の黒く大きな瞳は、真っ直ぐに私を射抜いた。不審気なその視線を受けて、私は急に恥ずかしくなった。

 何故、赤の他人である彼女を追いかけてきてしまったのか。放っておけばよかったのに。きっと彼女は変な男に声をかけられたと思って逃げてしまうだろう。それでいい。自分の突発的な行動に驚いているのは、彼女だけではないのだから。

 それなのに、彼女は思いもよらない答えを返した。


「あなた、この大学の学生さんなの? じゃあ……案内、お願いしようかしら」

 最初、彼女が何を言ったのか理解出来なかった。見ず知らずの男に声をかけられて、のこのこついていくというのか。指輪をしているからといって警戒心が無さすぎではないか。

 しかし、この時の私には彼女をどうこうしようという気はなかった。あまりにも無邪気な少女のような笑顔を向けられていることに、邪な思いを抱かなかったといえば嘘になるが。

 私は名を名乗り、社会福祉学部の二年生であることや、友達に出店の手伝いを頼まれたこと、正門前で立っている彼女のことが気になって思わず追いかけてしまったことを話した。

彼女は、雫(しずく》という名だった。透明感のある雰囲気に、その名前はぴったりだと思った。


「かっこいい男の子に声をかけられちゃったから、びっくりしたわ」

 春風のようにあたたかくて柔らかな声が、耳に心地よかった。美しい女性に、かっこいいと言われ、私は柄にもなく照れていた。

 しかし、この時ばかりは自分の髪が黒くてよかったと心の底から思った。少し前まで、私の髪はふざけたような金色だった。それを二日前、実習直前ということもあって、黒染めしておいたのだ。もし、金髪のままで声をかけていたら、かなり警戒されただろう。黒髪で短髪であれば、かなり真面目な印象を与えることができているはずだ。それに、私は自分でもかなり整った容姿をしていると思う。身長は180センチを超えているし、高校までずっと野球をしていたために身体つきもしっかりしている。

 雫は、女性の中では身長が高い方だろうが、私と並ぶとその差はかなり開いていた。いくらヒールを履いているからといっても、雫の頭は私の胸あたりにあった。



「……この大学で、夫と出会ったの」

 賑やかな学内を歩いていると、雫はぽとりと呟いた。

 左手薬指につけた指輪は結婚指輪だったらしい。

 雫は大学時代、この文化祭で友人を介して夫となる人物と知り合ったという。卒業後、二年の交際期間を経て結婚した。しかし夫は単身赴任で東京に住んでおり、雫は寂しい思いをしているという。だから毎年、二人が出会った大学祭には必ず行こう、と約束していた。それなのに、夫は約束を忘れて単身赴任先から帰って来ない。いつも雫だけが大学祭に来て、自分たちの青春の日々を思い出す。

「あ~! 若いっていいわね。羨ましいわ」

 雫は野外ステージではしゃぐ学生たちを見て、にっこりと笑った。大人っぽい雰囲気を持ちながら、その笑顔は本当に可愛らしかった。黙って立っていればクールビューティなのに、笑うといっきに可愛らしさが全面に出てくる。雫の持つそのギャップに、私は完全に虜になっていた。

「雫さんも、若いよ」

「嘘よ。こんなオバサン褒めたって何も出ないわよ」

 雫はわざとらしく肩をすくませて、ピンク色の舌をペロッと出して見せる。なんだかそれがとても子供っぽくて、それでいてすぐに元のすましたような顔に戻るものだから、私の中で生まれてはいけない感情が顔を出す。

「オバサンだなんて、雫さんは綺麗だよ」

「ふふ、口が上手いのね」

 自分が子供扱いされていることが悔しかった。少しは私を男として意識して、危機感を持ってほしい。拒絶されても悲しいが、全く意識されていないのも辛い。オバサンだから相手にしないだろう、なんて甘すぎる。

 雫はまだ十分若々しいし、大人の雰囲気と少女の無邪気さが絶妙に混ざりあった魅力的な女性だ。どんな男でも一目見れば雫の虜になるだろう、と私は心の内で断言する。

 どうにかして雫を自分のものにできないか、という思いが少しずつ大きくなっていった。

 シュークリームを売っていた屋台でシュークリームを買い、私たちはベンチに座る。隣では、シュークリームのクリームを、頬につけたまま雫が無邪気に話す。

 その頬についたクリームを舐めたい、そんな衝動を必死で抑えて、私は持っていたティッシュで拭いてやる。

「いい歳して、私ったら……恥ずかしいわ」

「いいんじゃない? 可愛いと思うけど」

「若い子にかわいいって言われちゃった! ふふ、嬉しいなあ」

 雫は、私の言葉をお世辞か冗談とでも受け取ったのか、ありがとう、と軽く笑ってみせる。相手にされていないどころか、本気だと思われていない。

 初対面で、さらには年下の後輩にあたる男に、恋愛感情のようなものを抱け、という方が難しいのかもしれない。しかし、これまでの人生でそこそこモテてきた私に、こんなにもなびかない女性は初めてだ。


「……わわっ!」

 野外ステージで軽音学部のバンド演奏が始まり、見に行こうとした雫が急に転びそうになった。私がその細い腕を掴んで地面とキスすることは防いだが、何とも庇護欲をかき立てられる。先程まではヒールをカツカツとかっこよく鳴らしながら歩いていたと思えば、何もないところでつまづく。なんだか、目を離せない。離したくない。

 私は雫に惹かれていることを自覚していた。結ばれることのない無駄な思いであるのに、閉じ込めておくことはできそうになかった。少しだけなら、許されるのではないか。そんな考えが頭の中をぐるぐると回る。

 バンド演奏は大盛り上がりで、雫は終始楽しそうに笑っていた。しかし私は、自分の心に芽生えた雫への恋情をどうすべきか悩んでいた。


「もう帰らなきゃ。春くん、楽しかったわ。ありがとう」

 時刻は夕方の六時。

 まだいいじゃないか、どうせ旦那は東京だろう? と言いたいのを堪えて、私はまた会えないかと問うた。すると、しばし考えた後、雫はパート先のスーパーの名前を言った。

「じゃあ、またね。春くん」


  * * *


 親からの仕送りと奨学金で生活し、面倒だからとバイトもしていなかった私は、雫に出会ったあの日から毎日そのスーパーに通った。たまたま下宿から近かったから、などと言い訳をしながら、レジを打つ雫と数分の会話を重ねていった。


「春くんは、なんで私に拘るの?」


 ある日、雫は真面目な顔で聞いてきた。

 その瞳にはもう、私が子どもだと思っていた時の余裕はない。私がスーパーに会いに来るのがただの偶然ではなく、雫に会うためだということに、さすがに気付いたらしい。少しは男として意識されているだろうか。

「分かんない」

「……ふふ、何それ」

「でもさ、なんか淋しそうだったから。俺のこと嫌い?」

 雫は下を向いて、控えめに首を横にふった。私は今ここが大勢の人が出入りするスーパーであるということを忘れて、思わず雫を抱き締めたくなった。

「明日、デートしようよ」

 雫は水曜日と金曜日が休みだ。明日は水曜日。嫌われてないのなら、遊びに行くぐらいはいいだろう。

雫は頷いた。脈はある。


「遊園地なんて、何年ぶりかしら」

 ぱあっと明るい笑顔を見せる雫を見て、私も自然と笑顔になる。やって来た地元の遊園地は小さいが、いろいろなイベントを催している。今日は夜に花火が上がるらしい。昼間にショーもあるようだが、キャラクターがあまり可愛くない。私はそんな不細工なキャラクターのショーを見るより、雫と一緒にアトラクションに乗る方が断然いい。

 しかし。


「ねぇ、キャラクターショーだって! 見てみたいっ!」

 子どものようにはしゃぐ雫を見ては、私が断れるはずがない。

 雫は、鳥を模したキャラクターの、なんとも言えない顔が好きなのだと言う。仕方なく、私は雫とショーを見た。着ぐるみでありながらダンスにキレがあったり、トークショーや観客参加型の場面もあったりして、意外にも楽しめた。隣に座る雫は、満足気に笑っていた。

 夜の花火は観覧車の中から見たい、と言ったのは雫だった。夜八時からの花火が見られるよう観覧車に乗り込み、あのアトラクションは怖かっただの、面白かっただの、ショーがすごかっただのと今日の感想を話す。

 そして、観覧車はゆっくりとてっぺんに近づいていく。

 今日、雫は一度も夫の話をしていない。よく見ると、結婚指輪も外していた。雫が話さないから、私もどういうつもりなのかをあえて聞かなかった。


(夫のことは何も聞かない、けど……)

 雫の気持ちを知りたい。

 夫と別れてくれ、とは言えないが、今の関係から一歩踏み出したかった。雫に男としての欲望をぶつけたかった。

 遊びでもなんでもいいから、一時でも自分のものにしたかった。


「雫、嫌なら逃げて」

 と、逃げ場のない観覧車の中で私は雫に試すような視線を向けた。少し怯えた雫の顔に、逆にそそられる。逃げられても、逃がすつもりはなかった。あの日、初対面の男にのこのこついて来たように、雫に気がある男と二人きりになったのが悪い。

 私の口づけを、雫は受け入れた。

 そして、花火が夜空に輝いた。

 私と雫はメインの花火には目もくれず、ただただお互いの熱を分けあった。


「俺の家、来る?」

 雫は、まだ荒い息を吐きながらも頷いた。

 私がついに雫を手に入れたその時、観覧車は地上へたどり着いた。




 初めてデートをして共に一晩を過ごしてから、雫は夫が買った家ではなく私の家に帰ってくるようになり、半同棲状態となっていた。大学から帰れば雫がいて、お帰りなさいと迎えてくれる。それだけで、とんでもなく幸せだった。大学に行かず、雫もパートには行かせず、二人だけで家にこもっていた日もあった。雫の体に触れていると、何故だか落ち着いた。

 雫を手に入れた喜びから、私は考えなければいけないことをすべて放棄し、ただただ雫を求めていた。

 しかし時々、雫には夫からの電話があった。その度に、今の自分たちの幸せな状態がいかに不安定なものなのかを思い知らされた。

 夫の話をしなかった雫も、少しずつ話してくれるようになった。


 夫、木山きやまひろしは、結婚当初は離れている雫に対しても気遣う素振りを見せていたが、最近ではほとんどなくなってしまった。一か月に一度東京から帰って来た時には、雫が東京に来ないのが悪い、と一方的に責められるという。雫の母親は身体が弱い。だから側にいてやりたいのだ、という雫の気持ちは理解してもらえない。一人の時間ばかりが多くなって、寂しさは募るばかり。単身赴任から夫が帰ってきて、身体は愛されたとしても、心には響かない。ただ虚しいだけの思いを抱えて、雫はあの日学祭に来た。夫と出会った時の気持ちを思い出そうと。しかし、思い出ばかりを並べても悲しいだけだった。


「せめて、子どもでもいれば私も……」

 と、雫がベッドの上で蹲り、噛みしめるように言ったことがあった。二人の間に子どもはいない。もし子どもがいれば寂しくはなかったし、夫への愛情がなくなったとしても一緒にいられたのに……。夫の話をする時、雫はいつも悲しい目をしていた。

「春くん、私以外の女の子のところに行ってもいいのよ。私じゃ、あなたを幸せにはできないわ」

 夫からの連絡があると、雫は決まってこう言った。自分が夫のいる身である、ということをまざまざと実感せずにはいられないからだ。

 雫が一人の女として私と愛し合っているのに、いい雰囲気をいつも夫が邪魔をする。まともな現実なんて見なくてもいい。雫は今、目の前の私だけを見ていればいい。

 何度もそう言い聞かせて、余計なことを考えさせないように強引にベッドに押し倒した。

 また、スマホの呼び出し音が鳴る。

 出ようとする雫の腕を引っ張り、腕の中に抱き寄せた。

「出るなよ。今は俺だけの雫だろ?」

 雫は一瞬悲しそうな目をした後、何の抵抗もせず私に身体を預けた。

 その間、何度も電子音は部屋に鳴り響いたが、私たちには聞こえていなかった。


 翌日になってようやく電話に出てみると、それは夫からではなく国立の病院からだった。病院の医師の話を聞いているうちに、雫はパニックを起こしたように泣き出した。


「……お、夫が、帰って来る途中……事故に遭って……意識不明の重体だって……私のせいよ! どうしよう」

 そう言って雫は泣き崩れた。

 昨日鳴り続けていた電話は病院からの連絡だったのだ。雫がそれを無視し続けたのは、私が止めたからだ。誰のせいか、と問うなら私のせいに違いない。しかし、私のせいで事故が起きた訳ではない。だから、私のせいではないはずだ。

 私が止めても止めなくても、どちらにせよ雫の夫は事故に遭っていたのだ。そう自分を落ち着かせ、雫の肩を抱き寄せる。


「とりあえず、落ち着いて。病院に行ってみよう」

 私に連れられ、真っ赤な目をして病院に向かった雫は、そこに夫の家族を見つけて私には家に帰るようにと促した。だが、ふらふらの雫が心配で、先に帰ることなどできなかった。

 聞こえてきた話によると、雫の夫はスマートフォンを見ながら運転していたために、正面から来るトラックに気付くのが遅れてぶつかったらしい。トラックの運転手は飲酒による眠気でハンドルを誤り、車に突っ込んでしまったそうだ。

 雫の夫が持っていたスマートフォンの最後の履歴が雫だったために、病院から何度も電話がかかってきていたのだという。容体は非常に悪く、命が助かったとしても重い障害が残るだろうと医者は言った。その話を聞いて、家族も雫も大きなショックを受けた。

 しかし、私はその瞬間チャンスだと思った。

 雫を本当に自分のものにするチャンスだと。天は私に味方をしたのだ。単純に、邪魔者が消えたことに喜んでいた私だが、現実的に考えれば大学生の自分に女性一人を養うことなどできない。ましてやバイトも何もしていないのだから。雫に私の元へ来いと言うのは簡単だが、生活していけるのか。周囲の反対はもちろんのこと、雫に悲しい思いはさせやしないだろうか。私は初めて自分がこの社会の中で何の役割も担っていないことを実感した。雫を受け入れられるだけの器を身に着けなければいけない。


 数日後、雫は病院から私の家に帰ってきた。

 しかしそれは戻ってきたのではなく、出て行くためだった。脊髄損傷で動けなくなった夫の介護のために。

「行くなよ! 雫は俺のものだろう? 雫のために、俺は今勉強もしてるし、バイトだって始めたんだ!」

「でも、夫には頼る人はいないのよ。ご両親も介護をする体力なんて残っていないわ」

 いつもは素直に私の言うことを聞く雫がなかなか首を縦に振らない。むかつく。どうして分かってくれないんだ。今雫を夫の元へ行かせれば、確実にもう私のところへは帰ってこない。そんな気がした。

「じゃあ、雫は俺を捨てるの?」

「そんなんじゃないわ! でも、私はあの人の妻だから……」

「そっか。雫はもう俺のこと何とも思ってないんだ」

「違うわ! どうしてそういう言い方をするの? 私にはこうするしか……!」

 目に涙を溜めて訴える雫を力任せに抱きしめた。苦しいのか、腕の中から逃れようと雫がもがく。絶対に逃がしてやるものか。夫のところへなど行かせるものか。

「聞かせてよ。雫の本当の気持ち」

 耳元で甘えるように囁く。

 雫は私が甘えるのに弱いのだ。顔をぐしゃぐしゃにして、私の言葉を聞くまいとしている。しかし、私の言葉に逆らえるはずもなく、その形のいい唇が震えながら開かれる。

「……春くんのこと、愛してる……でも」

「それ以上は聞かない」

 強引に引き止めて口づけると、雫はそのうち抵抗するのをやめた。

「このまま、二人だけで生きていこうよ」

 長い沈黙の後、雫はゆっくり、覚悟を決めた顔で頷いた。

 雫は寝たきり状態になった夫を捨て、私を選んだのだ。雫に選ばれた。雫を自分だけのものにできた。人の不幸の上に成り立ったこの幸せを、本当の幸せにしてやる。

 私はその思いを胸に、社会福祉士の資格を取得し、大学卒業後、月光園に就職したのだ。


  ◆ ◇ ◆


「どうしたんすか、春さん?」


 まだ新卒の介護福祉士の佐藤に声をかけられ、ようやく私の意識は過去から現実に戻って来た。

 忘れてはいけない過去を、記憶の奥底に封じ込めていた。

 あまりにも、今が幸せ過ぎたから。


「もしかして知り合いだったりするんすか、この木山浩さん。それにしても可哀想ですよね~、奥さんがいたみたいですけど事故の後に離婚されて、家族も面倒みきれないんで施設を転々としてるって。元々は東京で働いてたバリバリのサラリーマンだったらしいですよ」

 私はただ、そうかと相槌を打ち、木山浩の部屋へと足を運んだ。どんな顔をして会えばいいのだろうか。木山浩は私と雫の仲をおそらく知らない。不倫を疑ったことがないかは分からないが、雫が大学生の愛人を作っているなんてことは予想だにしなかっただろう。

「失礼します」

 木山浩は一人部屋だった。真っ白なシーツに身体を横たえ、ただ虚空を見つめている。呼吸は機械に任せていて、話すこともできない。ただ、その眼は生きていた。

「あなたの担当になりました、月下です。よろしくお願いします」

 白々しい、と自分でも思う。この男の関係者から何も言われないために、雫と二人で逃げるようにして引っ越した。知り合いのいない場所に。それなのに、木山浩は偶然私の前に現れた。これを偶然と言っていいのか、私には分からないが。

「雫は元気です。可愛い娘もいます。私たちは幸せです」

 私は、木山浩に雫に出会ってからのことをすべて話した。雫が急にいなくなったことをこの男はきっと気にしていたはずだろうから。雫のことを、まさか愛人から教えてもらうとは思っていなかっただろう。これはとても残酷なことだ。しかし私はこの哀れな男にすべてを隠していることはできなかった。木山浩の目から、透明の雫が流れ落ちた。

 これは、どういう意味の涙だろうか。

 話せないこの男からは直接聞くことはできない。こればっかりは想像するしかないのだ。私は、やっと事実を知ることができた安堵の涙だと信じたい。

 そうすれば、この背徳感が少しは薄れる気がしたから。

 しかし、雫がここにいたら、自分のせいだと嘆いたことだろう。


 私の務める施設に木山浩が入所したことは、雫には黙っておこう。

 雫には、悲しい思いをさせたくない。今の幸せだけを見て生きて欲しい。


 この幸福の影にある不幸を、罪を知るのは私だけで十分だ。

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