【3月刊試し読み】異世界の王に溺愛されています

角川ルビー文庫

第1話




 夏も終盤に差し掛かったある日の早朝。仕事へ向かう途中の山道で、神代有理がその祠を見つけたのはほんの偶然だった。ざわりと木々が擦れる音に誘われるようにして目を向けた先に、古ぼけた小さな屋根が見えたのだ。

「……?」

 高校を卒業してすぐに、地方公務員としてこの田舎町に越してきてから七年。ほぼ毎日通る道だが、これまで一度も祠の存在には気づかなかった。単調な繰り返しの毎日に飽いていた有理がその祠に近づいた時、何かが変わる予感があったのかもしれない。

「……お地蔵さん、ですね」

 山道を少し外れた草木が生い茂る場所にある祠の中には、小さな地蔵が祀られていた。長い間誰の目にも触れてこなかったのだろうということは、張り巡らされた蜘蛛の巣と、汚れた地蔵の肌を見れば分かった。

「今まで気づいてあげられなくてすみません。……あなたも、一人だったんですね」

 一人は、とても寂しい。

 そのことを嫌というほど知っている有理は、地蔵に勝手な親近感を抱いた。明日通る時には何かお供えものでも持ってこようか。そんなことを考えながら、足元に落ちていた木の枝を拾い、まずは簡単に蜘蛛の巣を払う。それからシャツの袖を捲って、持っていたバッグの中に入れていたウェットティッシュを取り出した。

「こんなものしかないんです。次に来る時は、もっとちゃんとしたものを持ってきますから」

 あまり信心深いほうではないので、地蔵をウェットティッシュで拭くという行為が罰当たりになるのかどうかも分からないが、このままでいるよりはましだろう。そう開き直って、なるべく優しく撫でるように拭いていく。

 そうしているうちに夢中になってきて、汗ばんだ体から熱を発散させるためにシャツの襟もとを開き、カット代をケチったせいで少し鬱陶しくなってきた前髪をかきあげる。

 ここに町役場の職員達がいなくてよかった。こんなところを見られたら、また色気がどうのとからかわれるに違いない。

 有理は身長も標準的だし、決して女性的な顔立ちではない。だが、下がり気味に生えた長い睫毛のせいか、男らしさにはどうも欠けるらしく、いつも職員達のからかいの的になっている。

 別に何もしてやしないのに、退廃的な色気があるだの男殺しだのと言われるのはまったくお門違いだと思う。町役場には女性職員が少ないため、たとえ男であってもセクハラの対象になるらしい。迷惑な話だ。

 高校を卒業して町役場に入るまでは、誰にもそんなことを言われたことはなかった。恰好にこだわりはなかったので、髪は伸ばしっぱなしで服も持ち物も常に誰かのお古で、冴えない部類に入っていたと思う。

 許されるなら、あの頃に戻りたい。そのほうがからかわれずに済んで楽だ。窓口業務でそんなことをしたら即刻クビになるに違いないが。

 窓口業務はサービス業と同じだ。身なりは綺麗に、笑顔を絶やさず、どんなことでも喜んで。まるで居酒屋のスローガーンのようだが、有理の働く町役場で毎朝復唱させられる言葉である。

 小さな田舎町では噂が回るのも早い。少しでも町の人の不興を買えば、町民全員を敵に回してしまう。それが分かっているから、なるべく円滑に業務を進めるための努力は惜しまない。

 窓口に来た人が有理の顔を眺めて話を聞いてくれずに何度も同じ話を繰り返す羽目になっても、有理を力仕事にでも借り出したい青年団の団長にしつこく連絡先を聞かれても、笑顔でやり過ごすぐらいの忍耐力は持ち合わせているつもりだ。

 だが時々は、そういう自分が嫌になる。本音を見せられる相手もおらず、作り笑顔だけを消費していく毎日。そういう時は、ただ無心に体を動かしたほうが落ち着けるのだ。

 ひたすら手を動かしていると、地蔵は見違えるように綺麗になった。そうしたら地蔵が微笑んだように見えて、有理はまさかと苦笑する。自分の行為に酔って幻覚を見てしまうなんて、よほど寂しい人間に思えた。

「でも、綺麗になってよかったですね。後は……えーと、お地蔵さんですから、お参りとかしておくべきなんですかね」

 口元に指を当てて、うーんと考える。もう長い間、神にも仏にも祈ったことがない。こういう時は何をお参りするべきなんだろうか。

 頑張ってください?……何を頑張ればいいのかお地蔵さんが戸惑いそうだ。何かお願い事でもすればいいのだろうか?

「うーん、お願い事……」

 仕事はあるし、寝床もある。しばらく食べるのに困らない程度の蓄えもある。それ以外に何か――

 そこまで考えた時、不意に祠の背後の草木がざわりと揺れた。一瞬身構えかけた有理の目の前に、ひょっこりとたぬきの親子が現れる。目が合うと、たぬきの母親は警戒した様子で子供をかばうように前に出た。子供を守ろうとする母親の姿に、有理の口元が苦笑を形作る。

 無条件で守ってくれる人がいるなんて羨ましい。小さな子供の頃には、有理にもこうして守ってくれる人達がいたはずなのに、今は一人ぼっちだ。もうそんな昔の記憶などあいまいで、あんな風に誰かに大事にされるのはどんな心地なのだろうかと考える。

「……できれば、誰かの特別に……なってみたい、かな?」

 ふと頭に浮かんだ言葉をそのまま口にする。言った途端に馬鹿馬鹿しくなって、思わずぷっと吹き出してしまった。こんな漠然とした願いなど、一番困る類のものに違いない。まさか今更自分がそんなことを思いつくなんて、という呆れもあった。

「はは、駄目ですね。もっと何か――」

『その願い、確かに聞き届けた』

「え?」

 頭の中に直接語りかけてくるような声に、有理は驚いて辺りを見回す。一体何が起こったのか。考える余裕もなく、突然周囲を突風が駆け抜けた。

 そして次の瞬間。

「え? え? あれ? ええええええっ!?」

 地面があるはずの空間にぽっかりと大きな穴が開き、有理の体は闇に飲み込まれた。

 そして後に残るのは静寂。まるでずっとそうであったかのように、ただ木々がざわりと擦れる音だけが時折聞こえる、いつも通りの空間がそこにはあった。



「うわああああああっ!」

 落ちている。

 感覚的にそれは何となく分かったが、一体何事が起きたのかさっぱり分からない。恐怖心と必死に戦って凄まじい風圧の中で目を開けると、ついさっきまで地面に立っていたはずの体がどこやらも分からない空中をとんでもないスピードで落ちていて、夢なら今すぐ覚めて欲しいと思った。

 七歳の時に交通事故で両親を亡くして、親戚中をたらい回しにされながら何とか高校を卒業し、地方公務員として町役場に就職した。誰にも頼らず生きるためにせっせと貯蓄に励み、一日も休むことなく仕事に通い、趣味と言えば山で食べられる山菜を探すことぐらい。平穏をこよなく愛する有理なのに、これが夢だとしたってひどすぎる。

 無意識に両手と両足を広げて空気抵抗を増やしていたが、そんなものはこの凄まじい重力の前では何の慰めにもならない。夢なら空を飛ぶことぐらいできるんじゃないかと無理矢理イメージしてみようとしたが、いかんせん現実的すぎるきらいのある有理の頭は即座にそれを否定した。

 こうなれば後は落ちるに任せるしかなく、この勢いからして地面との激突死は免れそうにもない。視界一面に広がっているのはどうやら深い森のようだから、地面に激突する前に木々に激突するかもしれないが。もしかしたら激突死ではなく、木々に刺さって刺死? そんな言葉があるんだろうか、などと考え始めているのはただの現実逃避だ。

 生まれてからまだ二十五年。思えば短い人生だった。諦めの境地でそんなことを考えていると、森が近づいてくるにつれて、緑の中に青が広がった。

「湖!?」

 森の木々の間から、大きな湖が顔を出す。一瞬助かるかもしれないと思ったが、時速何キロで落ちているのだか知らないスピードを思えば、水面だとてコンクリートと大差ないのではなかろうか。

「せめてっ、痛いのだけは勘弁してください……っ!」

 ばしゃんっ!!

 遺言のような叫びを残して、体が水に飲み込まれた。それなりの衝撃はあったが、体がばらばらになるほどの痛みはない。こんなことがあるはずがないから、やはりこれは夢かと思ったが、水に沈む体が思い通りにならず、息苦しさに手足をばたつかせた。一難去ってまた一難。今度は水責めらしい。これが悪夢でなくて何だ。

 水中で目を開けるときらきら光る水面が目に入ったが、体はかなり沈み込んでしまっていた。慌てて水をかいて浮上する。

「ぷはっ! し、死ぬかと思ったっ!」

 息が持つかどうかのぎりぎりのラインで何とか水面から顔を出すことに成功して、有理ははくはくと荒い呼吸を繰り返しながら酸素を胸いっぱいに取り込んだ。

 かなり危なかった。後数メートル深く沈んでいたら、今頃は湖の底に沈んでいたかもしれない。

 すぐ背後まで来ていた死の恐怖と酸素の欠乏で心臓をばくばくとさせながら、とにかく岸を目指して体を動かすが、衣服が邪魔でうまく前に進まない。

 着衣水泳というものが以前町役場のセミナーで行われていたのを思い出し、どうしてあの時参加しておかなかったのかと後悔した。泳ぎには自信があったのに、濡れるだけでこんなにも体が重くなってしまうものなのか。

 仕方なしに、もがきながら水中に衣服を脱ぎ捨てようとする。スラックスは何とか脱いだが、シャツがどうしても脱げない。ボタンだけは外すことができたが、水のせいで貼りついて、腕がどう頑張っても抜けそうになかった。

 シャツを脱ぐことを諦めて、もがきながら前に進む。いちいちシャツが絡まって泳ぎにくかったが、ひたすら泳いでようやく岸辺に辿り着いた。

「……はあ、はあっ……ふぅ、も、だめ……っ」

 這うように岸へと上がり、そのまま崩れ落ちるようにうつ伏せで寝転がる。役場ではデスクワークが主な仕事で、ここ何年も積極的に体を動かしたことなどない。いきなりスカイダイビングからの着衣水泳はハードモードすぎる。

 夢ならもうそろそろ覚めてもいい頃合いだ。何だか眠気が襲ってきた。このまま寝てしまえば、逆に現実世界での目覚めに繋がらないだろうか。

 半裸で行き倒れという現状も忘れて、うとうととしながらそんなことを考えていると、不意にばさばさと周囲の草木が揺れる音と共に生き物の息遣いと足音が近づいてきた。

 肉食の野生動物だったらまずい。そう思って起き上がろうとしたが、俊敏さとは程遠くのろのろとした動きになり、顔を上げる間もなく気配が近づいてくる。

「この辺りに辿り着いたように見えたが」

「ええ。この先じゃないですかね」

 人間だ。そのことにひどくほっとして、有理はゆっくりと顔を上げる。そして、目の前に現れた人間に視線を向けて絶句した。……悪夢はまだ続いているらしい。

 これがおとぎ話なら白馬に乗った王子様が登場しているのかもしれないが、さすがは悪夢、有理の視線の先にいたのは、漆黒の馬に跨った軍服姿の男である。いや、男の有理からしてみれば、白馬の王子様だとしても悪夢には変わりないか。どちらにしても恰好が異常だ。

 思わずじっと眺めていると、軍服の男と目が合ってしまった。

 整いすぎるぐらいに整った顔立ちは男をひどく冷たい人間に見せる。切れ長の目に真一文字に結ばれた唇はいかにも酷薄そうだ。だが何より印象的なのは、銀色の髪に灰色の瞳と、黒地に金糸の軍服にマントを羽織った、いかにも二次元から抜け出してきたようなスタイル。

「おや、これはまた刺激的な姿ですね」

 抗いがたい何かに引き寄せられるように男から目を離せないでいると、その後ろから新たな男が現れた。金髪の碧眼でこちらもかなり整った顔立ちだが、先の男とは違って人好きのしそうな風体だ。好青年風とでも言えばいいのか。

 こちらは葦毛の馬に乗って白地に黒糸の軍服を身に纏っているが、マントはしていない。その代わりといっては何だが、たとえ刃がついていないレプリカであったとしても十分に鈍器として活躍しそうな大剣を背中に背負っていた。

 ごくりと喉を鳴らし、濡れた前髪をかきあげながら自分に言い聞かせる。冷静になれ、神代有理。きっとこれはあれに違いない。コスプレイヤーの方々は、様々なシチュエーションを想定した屋外での撮影をすることがある。有理の町でも人気になっているスポットがあり、時折役場に問い合わせの電話がかかってきたりする。つまりそういうことだ。ここがどこかは分からないが、この方々はコスプレイヤーの方で――

「落ちるなら別のところへ落ちればいいものを」

「……え?」

 男の傲慢そうな眉が顰められる。低く咎めるような声だ。

 ここがどこだか分からないが、有理も選んでここへ落ちてきた訳ではない。そもそも落ちること自体想定外の出来事だ。えらそうに言われてむっと唇を尖らせると、馬から降りた男の手に顎を掴まれた。

「貴様、名は?」

「神代、有理……です」

「カミシロユウリ? 呼びにくい名だ。ユウリでいいな」

「え? ええ、それは構いませんが……」

「俺の名はバルド。この名を聞けたことを光栄に思うがいい」

「……ありがとう、ございます?」

 どうして名前を名乗るだけでここまで偉そうにされなければならないのか。何かしらキャラクターの設定があるのかもしれないが、あまりその手のことには詳しくないので反応に困る。

 訳が分からずバルドをじっと見ていると、バルドがちっと舌打ちをした。

「お前に何の力があるというんだ。見た目が少しばかりいいからと言って、美しいだけならこの国にもいくらでもいる。連れ帰る必要があるとは思えんがな」

「バルド様、何にせよ城に連れていかないとまずいですよ。このままここに放置したら、あっという間に他国に攫われてしまいますって。みすみす他国に渡したなんて知れたら、国の面目が立ちません」

「……面倒な」

 白い軍服の男の言葉に、バルドが心底嫌そうにため息を吐いた。

「いや、あの……俺はついていくなんて一言も――」

「黙れ。この土地でお前に拒否権はない」

 もしかして、ここはこの男の私有地なのだろうか。だとしたら、不可抗力とはいえ勝手に入った有理のほうが明らかに分が悪い。

 白い軍服の男が面白いものを見るような顔で、まじまじと有理を観察する。

「初めて見ましたが、我々とそう変わりないように見えますね」

「ふん。大方色仕掛けか何かで権力者に取り入っているだけだろう」

 クラウスと呼ばれた白い軍服の男は、バルドの言葉に耳を傾けながらも、不躾なまでの視線を有理に送り続ける。恰好も恰好だし、そんな風にじろじろと見られると居心地が悪い。何となくみっともない気持ちになって、有理はさりげなく濡れたシャツで体を隠そうとした。

「ちょっと見ないぐらいに蠱惑的な魅力がありますよね。こういう人ばかりだと言うなら、色香に惑わされて閉じ込めたくなる気持ちも分からなくはないですね」

「いろ、色香? あの、何か激しく誤解があるような気がするんですが――」

「お前がそんな恰好をしているのが悪い。さっさとこっちへ来い」

 有理の言葉を最後まで聞かず、バルドの手が有理の腰を掴んで無理矢理立ち上がらせる。そうしてあれよあれよという間に、バルドと共に馬上に乗せられてしまった。

「あ、あのっ、どこに行くつも――」

「舌を噛むぞ。少し黙っていろ」

 勝手なことを言ったバルドは、またしても有理の話など聞きもせず、手綱を動かして馬を歩かせ始めた。そうすると確かに舌を噛みそうなほどに揺れるので、黙っているしかなくなる。

 馬上は想像よりも高くて、落とされたらかなり痛そうだ。しかも背中に感じるバルドの胸板は厚く、すぐ後ろにはクラウスもいる。どう考えても戦力差は明らかだ。

 抵抗したところで逃げられる可能性は低い。この男達を信じた訳ではないが、とりあえずはおとなしくしているほうが賢明だろう。こんな状況ではどうせどうすることもできない、という投げやりな気持ちもあった。

 現状にまったく納得はできていないが、少なくともこの男はここがどこなのか知っているのだろうし、いつまでも森の中をシャツとボクサーパンツという半裸状態でうろついている訳にもいかない。ここでこの男に出会ってよかったのだと無理矢理自分に言い聞かせて、有理は諦めのため息を吐いておとなしくしていることにする。それにしても勝手な男だ。

「……っ、くしゅっ」

 今更ながらに、濡れた体に寒さを覚えてくしゃみが出た。ここまで怒涛の展開で気がつく余裕もなかったが、夏のはずなのにこの辺りはとても涼しい。それどころか、日本の夏特有のあの纏わりつくような湿度が感じられない。ここは一体どの辺りなのだろう。

 きょろきょろと辺りを見回していると、またくしゅんとくしゃみが出た。するとバルドがふわりとマントの裾を片手で掴んで自分ごと有理を包む。

「湖になど入るからだ、馬鹿者め」

「好きで入った訳ではないです」

 まるで好き好んで湖で泳いでいたみたいな言われ方をされて、少しだけむっとする。とっさに言い返してしまったのは、普段あまり自己主張するほうではない有理には珍しかった。ここまであまりに勝手ばかりされているせいかもしれない。

 だが危うく舌を噛みそうになったので、それ以上の反論は諦める。

「好きでないなら、何故そんな姿で湖に入った」

「…………」

「おい、何とか言ったらどうだ」

 さっきは黙っていろと言ったくせに。

「舌を噛むので黙っています」

「ははは、これはバルト様の負けですね」

「……城に着いたら覚えていろ」

 今のセリフはクラウスに向けたものか、それとも有理に向けたものか。どちらも正解のような気がして、有理は顔を顰めた。

 どうしてわざわざバルドを怒らせるようなことを言ってしまったのか。自分らしくないことばかりしてしまうのは、冷静なつもりでいても、やはり動揺しているのかもしれない。

 これ以上バルトを怒らせるのは得策ではないと、今度こそ有理はおとなしく口を噤んだ。

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