2 そいつ
僕は、寝袋の中にいて、しかし、もう眠ることはできなかった。
僕は寝袋の中で、足をクロスさせ、股の間に両腕を突っ込んで丸まった。
じっとしていることができず、体の至る所を小刻みに動かした。
動くのを止めると、全くの静寂が降りた。
僕は寒さと静けさに耐えれず、またすぐに体を動かした。
時々息苦しくなると、顔のジッパーを少しだけ下ろした。
その度に冷たい雪が顔の上に落ちた。
ジッパーと雪の隙間から見える空には一向に変化がない。
そこには無限の闇が見えるだけだった。
早く時間が経てばいいのに、と切願しながらジッパーを閉めた。
どれくらい時間が経っただろう。
僕はただ凍えてばかりいるせいで、もう時間の感覚が分からない。
今が本当に朝に近い未明なのかどうかに、自信が持てなくなっていた。
ひょっとしたら、今はまだ夜中の二時くらいで、夜が明けるまでには気の遠くなるような果てしない時間があるのではないか、などと思い、ぞっとする。
そんな時、不意に声がした。
最初は気のせいかとも思ったが、体を揺らすのを止めて、じっと耳を澄ましていると、再び同じような声がした。
確かに声だ。
しかし何と言っているのかは分からない。
僕はすぐにジッパーを下ろし、寝袋から上半身を起こした。
すると、後ろで「きゃっ」と誰かの驚く声がした。
後ろを振り向くと、すぐ傍に眩しい光の玉が、ゆらゆらと揺れている。
「眩しい」と僕が言うと、そいつは懐中電灯を下に向けた。
光は地面に積もった雪に反射して、懐中電灯の持ち主を下からぼんやりと照らした。
黒いブーツが見え、灰色のコートが見えた。
懐中電灯は右手の黒い手袋に握られている。
左手の手袋は、傘の柄を掴んでいた。
そいつは色の分からない黒っぽいマフラーをして、黒っぽいニットを被っていた。
懐中電灯の光は、地面の雪を照らしながらまだ揺れている。
そのせいで、その僅かな光を頼りに浮かび上がっているこの世界全部が揺れているみたいだ。
「あなた本当の馬鹿ね。雪男にでもなったつもり? それとも自殺願望?」と、そいつは声を震わせながら言った。
声の震えは、光の揺れと同期していた。
僕は何も言わず、暗闇に浮かぶそいつの顔を見た。
そいつは何とか微笑んでいたが、さすがにこの寒さで表情が引きつっているのが分かる。
そいつは寒さで頬を赤くしていた。
この雪と暗がりの中で、そいつの頬だけが色を放っているように見える。
あとは全てが、黒か灰色か白。
「信じられないわ。こんな馬鹿げたことに何の意味があるの?」と、そいつは言った。
そいつの口の周りに白い息の塊が出現して、ゆっくりと暗闇に消える。
「『彼女』を待ってるんだ」と、僕は答えた。
この状況で、僕のその言葉は酷く不気味に響いたかもしれない。
真っ暗の中で、雪に埋まった寝袋から半身を起し、そんなことを言う僕は、どこからどう見たって狂人だろう。
そいつは溜め息をついた。
そいつの息を吐く音が、雪の中ではやけに際立った。
そいつの口から漏れた白い煙は、僕の方へ到達する前に消えたが、そいつの溜め息が随分と大きかったので、まるで僕の顔の所までそいつの息が届き、僕の顔の周囲の温度が僅かにも温められたようだった。
僕はそいつのことを気に食わないと思っていたはずだが、この時間の分からない暗闇と激しい寒さの中で一人ぼっちだった僕は、そいつが出現したことに、不本意にも安心した。
それくらい心細かったのだ。
しかし、安心する自分に気付くとすぐに、そいつに気を許すな、と僕は自らを戒めた。
「雪の中で凍死すれば現れるとでも思ったわけ? そこまでイカれてても不思議じゃないけど。でもそんなことしたって、彼女は現れたりしないわよ。あなたのやってることは丸っきりただの無駄。分かる?」
そいつはそう言いながら雪の上で足踏みをした。
両肩を上げ、脇を閉めて、ぶるぶると震えている。
「どうしてそう言い切れる」と、僕は言った。
僕の方は、不思議ともうそんなに震えていない。
体が興奮して、熱を発しているのかも。
「ええ、もちろん言い切ることなんてできないわ。でも、雪の中で寝たら彼女が出現するだなんてことも言い切れない。彼女は今までにも何度か姿を現したけど、それはいつも唐突で、不定期で、何がきっかけになってるかなんて少しも分からない。きっときっかけなんてないわ。偶発的なのよ」
「『彼女』のことを教えてくれる気になったの?」と、僕は皮肉のように言った。
「さあどうかしら」
そいつは少しも動揺したりしない。
ただ寒がっているだけだ。
「何にしても、これ以上ここにいるつもりはないわ」
そう言うと、そいつはくるりと振り返って、暗闇に降る雪に懐中電灯を向けた。
すると、急に僕の周囲が、唯一の光源を失い、再び闇に閉ざされた。
光を失うと、温度までもが下がったように感じられた。
そいつはふらふらとしながら暗闇の先へと歩き出した。その歩き方からして、雪は思ったよりも深く積もっているようだ。
「付いて来るか来ないかは自由だけど。どうしても凍死したいなら止めないわ」
そいつは向こうを向いたまま言った。
そいつの声はすぐに雪に吸い込まれた。
こっちを向いていた時より、ずっと小さい声に聞こえる。
「どこへ行くんだよ」と、後ろから訊いたが、そいつは僕の質問を無視して、暗い雪の中を進んで行く。
僕は寝袋やリュックをそのままにして、そいつのあとを追った。
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