スリーピング・オン・ザ・ヒル Chapter 4 未明
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Chapter 4 未明
1 雪の中にて
狭山の留学記を最後まで読んだ日の夜、僕は部屋で描き掛けだった漫画を仕上げた。
銀行強盗をして逮捕されたビッケ君は、留置所で知り合った僕や飯沼と結託し、脱獄を試みるのだが、建物を出る前に、警察署であるアドミニストレーションビルの出口が全て外側から封鎖されてしまう。
仕方なく上の階へ、上の階へと追い詰められていくうち、まず女警官の色仕掛けに騙された飯沼が捕まり、次に主犯のビッケ君が、UFOが飛んでいるからちょっと窓の外を見てみろと言われ、ついつい近寄った隙にまんまと捕まってしまう。
残された僕は、ついに突風の吹き荒れる屋上まで追い詰められてしまう。
もうあとがない。
その時、僕を追い詰めていたのは、女刑事のエヴァだった。
エヴァは、警防と拳銃の両方を振り回しながら、僕の方へとにじり寄ってくる。
僕は、エヴァとの間に一定距離を保とうと後退するのだが、屋上を囲う木の柵が、とうとう僕の腰に触れる。
僕は柵を乗り越えて、赤レンガの先端に立ち、そこから身を投げることを覚悟する。
映画の刑事役が着ているようなロングコートを纏ったエヴァが、飛び降りようとする僕に訊く。
「死ぬの?」
僕は十年前の狭山のように答える。
「ああ、死ぬよ」
エヴァは余裕の微笑みを浮かべながら、「どうして?」
エヴァの方を見ていた僕は、外側へと振り向き直り、恐る恐る体を少しだけ傾け、赤レンガの先の、塔の遥か下を見下ろす。
すると、塔のずっと下には、僕が寝起きしている芝生の丘が見え、そこに水色の光に包まれた紫の猫のちょこんと立っている姿が見える。
猫は、塔の上から飛び降りようとしている僕を、不安そうな表情で見上げている。
「君には分からないよ」と、僕はエヴァに言う。
「僕がどんなに彼女のことを想っていて、信じていて、待っているか、君には分からない」
「それはどうかしら」と、エヴァは強気に言い掛けるのだが、僕はそんなエヴァを無視し、意を決すると、塔に下にいる『彼女』目掛けて身を投げ出したのだった。
原稿をノートからカッターで切り離し、ホッチキスで留める。
表紙には僕らの三人と一匹の猫を描いて、『our crime』というタイトルを付けた。
寝袋やリュックを持って、外の「芝生と落ち葉のベッド」へと向かう途中、ローウェンの部屋に立ち寄り、ドアと廊下の隙間に、出来立ての漫画を滑り込ませた。
きっと今夜中にローウェンはそれをコピーして、エヴァの手元に届けるに違いない。
前回もそうだった。
ローウェンの部屋に原稿を入れた翌日の早朝にエヴァは現れて、僕の新作を読んだと言ったのだ。
恐らくエヴァは、僕から原稿を受け取ったらすぐに知らせるようにと、ローウェンに言付けているのだろう。
今回の新作は、僕からエヴァへのメッセージだ。
『彼女』への、クステフへの想いを諦めないという決意が、最後のシーンには込められている。
それがエヴァにも伝わるはずだ。
ローウェンの部屋をあとにすると、マリアンホールを出て、丘の上の寝床へと向かった。
いつにも増して空気が冷たい。
丘は暗く、マリアンホールの明かりが照らす領域より向こうは闇だ。
丘の下の街には、ぼんやりとしたオレンジの光が頼りなさげに散らばっている。
やや強い風が吹き上げていて、その音が少しだけ怖い。
ずっと向こうにあるはずのロッキーの姿は見えない。
だが、完全な黒と、空の星々が見えだす境目を見定めると、確かにそこに「彼」が聳えているのだと分かる。
その境界を見つけて、僕はほっとする。
空の星々がやけに大きく見えた。
星々は刹那に激しく瞬いている。
しかし、ロッキーとは反対側の東の空には、雲があった。
大きそうな雲だ。
どれくらい大きいのかは分からないが、そっちの方角には星が一切見えない。
僕は寝袋に入って目を閉じた。
*
僕は十分に厚着していたし、いつもなら寝袋の中にいる限りは温かいはずだったが、この時に限って、僕はあまりの寒さに目が覚めた。
それに何だか、重苦しい。
目が隠れるところまで閉めていたジッパーを下ろすと、顔の上に冷たい何かがどさりと落ちた。
慌てて上半身を起こし、手で払う。
それは、寝袋の上に降り積もった雪だった。
辺りはまだ真っ暗だ。
視界があまりきかない。
周囲を敷き詰める雪の白さだけが、暗闇の中でぼんやりと発光しているかのように見えた。
東の空の方を見やり、今の時間を推し計ろうとしたが、雲と雪のせいで何も見えなかった。
丘の下にあるはずの街も、闇に呑まれてしまっている。
マリアンホールの電気も消灯している。
寝る直前に吹いていた風はすっかり止んでいた。
妙に静かだった。
落ち葉の転がる音は当然しないし、空気が動く音すらしない。
降る雪が地上の音の全部を吸い込んでしまったかのようだ。
雪は何の音も立てずに、ただ無限に降り続けている。
僕は時間が分からず、そして雪と静けさと寒さに不安になった。
もしかしたら朝に近い時間かもしれないが、体に残っている疲労感からすると、いつもより、いくらか早い時間かもしれない。
寝袋の上に積もった雪を払おうとすると、肩や腕にどんどんと雪が掛かり、それも手で払おうとすると、手や袖が濡れた。
頭に手をやると、髪の毛にも雪が付いている。
頬や鼻の上にも雪が掛かった。
体に付いた雪を全部振り落とそうとやっきになったが、そうこうしているうち、再び寝袋の上が白くなった。
濡れて冷えた指の先が痛い。
寝袋から出した上半身からは体温がみるみるうちに奪われていく。
僕は寒さに耐え切れず、雪を払うのを諦め、服に雪が付いたまま再び寝袋の中に潜り込んだ。
冷たい空気や雪が入り込まないようにジッパーで顔を覆ったが、寒さはほとんど改善されなかった。
また、ジッパーを閉め切ってしまうと、雪の中に閉じ込められてしまうような気がして怖くなった。
僕はマリアンホールに戻ることを考えた。
まだ朝は明けていないが、このままでは本当に雪に埋もれてしまいそうだし、寒さにも長くは耐えられそうにない。
安物の寝袋のせいか、溶けた雪が少しずつ内側にしみ出してもいるようだ。
しかし、そんな時にあっても、僕の中で、再びここで寝起きし『彼女』を探し出すと決めた時の覚悟が、なんとか僕を朝までここに留まらせようと、僕に懇願した。
覚悟は、僕にこう問い掛けた。
……これは試されているのかもしれない。
……ひょっとしたら、こういう時にこそ『彼女』は現れるのでは、と。
今すぐにでもマリアンホールに駆け込み、明るい電灯の光の下で、温かいシャワーを浴びて安心したいと願う欲求が、心の中で覚悟とせめぎ合う。
僕は寝袋の中でぶるぶると震えながら、すぐに寝袋から抜け出すのをどうにか踏み止まって、どちらを選択するかを逡巡した。
……いいや、そんなことを言っている場合じゃない。
……このままじゃ本当に凍死してしまうぞ、と寒さに脅えるもう一人の僕が身の危険を訴えた。
それでも僕が依然として動き出そうとしないことが分かると、そいつはやがて、この行為そのものの無意味さを叫んだ。
……こんな所でいくら寝起きしたって、『彼女』なんか現れない!
……そもそも『彼女』は現実には存在していなくて、全部がおまえの見た幻覚だ!
しかし、『彼女』を追い求め続けてきた僕には、その言い分は逆効果だった。
いや、ここでの寝起きの再開を決意する前の僕なら、つまりエヴァとのことで自信を喪失し、……少しずつ僕の中から『彼女』の存在が薄らいでいた夏の終りの頃の僕なら、間違いなく直ちにマリアンホールへ逃げ帰っていたはずだ。
だが、今の僕はそうじゃない。
僕が何のために、ここで寝起きすることに拘ったのか……。
それは僕が、『彼女』を見つけ出すことを諦めないと心に決めたからだし、『彼女』が必ずいつかもう一度、現れると信じたからだ。
だから、そんな覚悟を決めた僕に、『彼女』の存在を否定することを、マリアンホールに逃げ出すための口実に使ったもう一人の僕に対し、僕は軽蔑した。
そして、今ここに踏み止まる覚悟をますます強固にしたのだった。
こんな状況で、そんな意地を張るようなことをすることが、『彼女』の再出現にどれほど関係があるかなんていうのは、本当のところ分からない。
全くの無関係かもしれない。
しかし、僕は自分の『彼女』に対する想いの強さを、まるで自分自身に証明しようとするみたいに、そんな風に思ったのだ。
僕は、寝袋ごと降り積もり続ける雪に埋もれ、死にそうなほど寒さに震え出したが、そのままそこで朝が明けるのを待つことを、静かに決意したのだった。
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