第15話:新たな旅路の前夜

 海の音をこうして落ち着いて聞くのはいつぶりだろうか。

 波の音や海風の音を聞きながら、シズリは錆びた鉄製の柵に寄りかかりながら遠い海原の先を見つめていた。


 空と海の境界線は月明りに照らされ、雲や霞みに邪魔されず、鮮明に白い線を誇張している。このまま朝日を迎えるまで、それは光を維持しながら、今もなお海を渡り歩く冒険者を導くことだろう。

 その一人を知っているシズリは、ふと笑みがこぼれていた。


「父さん。俺にも仲間と目的が出来たよ」


 届かぬ言葉を、彼は海に向けて投げかける。どちらかと言えば独白に近い。

 そんな彼を海はその広さを持って受け止める。嘲笑うように反響させず、ただ海は周期的な波立てで全てを飲み込んでくれていた。


「あの……」


 そう言われて彼は後ろを振り返る。


「あ、ごめんなさい。もしかして、お邪魔でしたか?」

「……ミウ。いいや、別にそんなことはないよ」


 ミウは先ほどまで出発の準備をしに自分の部屋まで戻って荷造りをしていた。今いるということはそれが終わったということだろう。


「えっと、荷造りをしてたんだよね。もう終わったの?」

「……はい。私はあまり部屋に物を置かない人なので」

「ごめん。本当ならもう1日2日、時間を掛けたいところなんだけど……」

「いいえ。そちらも渡り屋としての仕事上、仕方ないと訳を聞いてます。それに無理を言ってるのはこちらですから」

「まさかこんな形で一緒になるとは思ってなかったからね」

「……そうですね。本来であればここでお別れのはずでしたね」


 海を眺める彼女はどこか寂しそうな、でも嬉しそうな複雑な心境をその表情に見せていた。


「やっぱり、ここを離れるのは寂しい?」

「どうですかね。あまり寂しい気持ちはありません。外への憧れも、ありましたから」

「リーハさんを説得したの? 私も外に行ってみたいって」

「いいえ。おばあさまは先に話を振ってくれました。お前はこれからどうしたいかって」

「リーハさんが?」

「昔、お母さまが同じような話をしていたから。そう言っていました」

「それってミウの母は外を出たがっていたってこと?」


 ミウは頷いて、自らの袖を軽く触れる。


「お母さまは生まれたばかりの私のことを案じていたようです。もっと自由に生きて欲しい、色々なことを知ってほしいと」

「だから、リーハさんに外へ出たいと意見したの?」

「はい、外の者との交流をおばあさまに伝えていたようです。でもそれは叶えられない、無理だとお母さまは態度から分かっていた。だからお父さまと遠い場所を目指そうとして、そして事故に遭ったようです」


 だからこそ、おばあさまは私を置いておきたかった。彼女の言葉なくとも、表情からシズリはそう聞こえたような気がした。

 ミウは地平線を見つめながら、その話を更に広げていく。今日散歩しながら語り帰化された事の顛末を、彼女は淡々と話し始めたのであった。


 それは新たな道を模索しようとした娘と、慣習を重んじようとした母のすれ違いだったという。どちらも正しきことであり、どちらも相容れない内容であった。いや、長き時間を掛ければ、お互いに歩み寄った答えが導き出せたのかもしれない。

 だが、その娘は結果を焦ってしまった。いつしか自分が”慣れ”を覚えてしまうことを恐れてしまった。幼き我が子を預け、集落の架け橋となり得る場所を探してしまった。


 偶々その過程が凄惨な結果を生んでいたといえるかもしれない。だが、母にとってそれは、娘の言葉に理解出来なかった己の非力さを嘆き、そして次を失う恐れが同時に生まれるきっかけであった。


 今度は同じ失敗をしない。二度とあんな想いはしたくない。

 それが彼女を固執させてしまっていた。そしてリディアの長となったこともその気持ちを助長させていたのかもしれない。掟に対して変えたいと思っても、娘の顔がちらつき、自分の中で掟を変えることは死と同じだと考えていたらしい。


「……きっとあの時の地の揺れほど、おばあさまが嘆き、悔やんだことは無いと思います。ずっと後悔していたようです」

「あれは、本当に不遇としか言いようがないよ」


 まるで天が意図して起こしたような災だった。あの時間、あの場所に、あの状況で起こり得たなんて都合が悪すぎる。ただ、建物こそ1つ海没したが犠牲者はいなかったと考えると不幸中の幸いだった。

 ただそのおかげで俺たちはこうしてミウと共に行動でき、目的も作れた。ミウは外の世界へ旅立つことができ、リディアの民は新たな可能性を広げられた。全てが良い方向へと進むことが出来た。それもこれも、あの天災が無ければ。


 そんな風に考えた彼の中で1つの可能性が出てくる。それはディーパが残してくれたあの言葉。

『人々の導き手、イヴォイド』

 何故だろうか。そう考えたとき、シズリは背筋が凍るような感覚を覚えた。


「どうかしました?」

「いや……」


 そう、億が一の話だ。もしそれが本当に出来るのであれば、“なぜ天の子守唄が起こってしまった”のか。人のための存在なら、なぜ全てのモノを沈めたのか。

 憶測や空想は時に人をたぶらかす。今回もあくまで可能性でしかない。

 そう言い聞かせながら、彼は変な自分の勘を脳裏の奥底へと沈めていたのだった。

 話を変えようと、彼は違うことに頭を使おうとした。


「そう言えば、どうしてここに?」

「はい。最後にこの景色を目に焼き付けておこうかな、と」

「やっぱり寂しいんじゃないの?」

「勿論少なからずあります。だからこそ、あまりと付けていたのです」


 シズリと同じように柵に寄りかかり、愛しむように全ての景色を見渡していた。


「……シズリさんは、ご両親はいま心配とかされていないのですか?」

「そう言えば、その話はしてなかったね」

「はい。あ、でも別に話したくなければ!」

「そっちの話を聞いといて、今さらだよ。母さんはいまアスラという地で1人静かに暮らしてるよ。時々手紙のやり取りをするからね」

「テガミ……それは便利な道具なのですか?」

「あはは。そこら辺の話もまた少しずつしないとね」


 そう言えば彼女は世間に疎いのだったと彼は思い出していた。

 彼女がアスラはどの位置か知りたがっていた。彼は指で方角を示しながら簡単な説明だけする。


「こことは違って、緑が多い場所だよ。動物もたくさんいて、何より塩っ気がない」

「塩っ気が無い、というと?」

「こればっかりは行ってみないと分からないことかな。また機会があれば案内するよ」


 そう言うと彼女は宝石のように爛々と目を輝かせた。


「ふふふ、動物にも会えるとは、色々と期待が高まります!」

「あはは……そんな好奇心丸出しだと動物も警戒しそうだな……」

「それに、あなた方のお母さまとお父さまには挨拶してみたいです。きっと素敵な方でしょうし」

「あーごめん。母さんは会えるけど、父さんは難しいかも」

「そうなのですか?」

「父さんは俺たちと同じ渡り屋、それも腕利きの渡り屋なんだよ。多忙の身で各地を転々としてて、家にはもう長い間帰ってないくらいだ」

「その……テガミというのは使えないのですか?」


 ありえないとシズリは否定した。手紙は場所が分からなければ行商人に頼むことは出来ない。まあ父親がこちらへ送れば話が早いのだが、大半が海で過ごす彼はその余裕もないらしい。


「幼い頃は父さんも帰ってきてたけどね。最近は特に忙しいらしい。でも色々と教えてもらったよ、渡り屋としての大切なこと、外のこと、それに、人とどう接するべきかも」

「じゃあ、シズリさんが渡り屋になったのも……」

「うん。父さんの影響が大きいよ。それに、出来れば父さんにこの姿を見せたい、なんて思ってる。どうせ『お前はまだ半人の半人前だ』なんて言われそうだけど」


 想像出来る内容に自嘲してしまう。だが彼女はそれを見ても、馬鹿らしいとか、あほらしいなんて思わなかった。


「会えるといいですね。きっとおとうさまも喜ぶと思います」

「ありがと。……こうやって渡り屋になって、同じようにやってみればいつか巡り合うかな」

「天はいつも頑張る人の味方です」

「それもこの集落の掟?」

「いいえ、自論です」

「それは説得力がありそうだ。こうしてミウと出会えたし」


 朗らかに笑いながら、彼はあることを思い出した。出会ってすぐの話、外に出たがるミウといつかまた会おうと約束するために渡した品がある。

 兄貴から『お前が渡すべきだ』と言われ、今まで渡せずにいたけど、早めに渡しておきたい。

 シズリはポケットを弄り、お目当ての物が手に触れた。


「そうだった。これ、渡さないとね」

「それ……もしかしてあの時の……?」


 それはミウが彼と出会い、そして約束のために手渡された首飾り。そして一度は大切な物を底へ沈める訳にはいかないと捨てようとしてしまったものだ。


 だがそれは彼の手のひらの上にある。

 今もその青い石は月夜に照らされ、今は海よりも深い青となって輝かせていた。銀色の紐は輪っかを描き月型の青い石に繋がっていて、手の平からこぼれた部分は風に揺れる。

 彼女はそれを慌てて確認しようと手を伸ばすが、寸でのところでぴたりと止まる。


「そ、それ……どうして……」

「天壇に置いていたでしょ? 渡り屋としては拾わずにはいられなかったよ」

「はい。ですが……」

「早い内に、返しておきたいって思ってたから。それにこれからは捨て置くことはないでしょ?」

「……」


 最初は受け取るべきか悩んでいた彼女だったが、こういう時に彼が譲らないことを彼女は知っていた。そして彼女自身の気持ちにも嘘を付くべきではないと分かっていた。


 ミウは手のひらに置かれたそれを両手で受け取る。そして、首の後ろに手を回して、それを付け、後ろ髪を軽くかけ上げた。そしてそれまでの彼女の動きはどこか喜々として、軽やかな動きだった。

 再び首飾りは彼女に戻る。心なしか輝きを増した気がした彼は過去の出来事を思い返していた。


「何だか不思議だよ、もう約束は変わってなくなったのに……」

「そうですね。本来であればこれはもう必要ないものなのかもしれません」

「でも」

「はい。これがあったからこそ、私たちは次へ向かうことが出来た」


 彼女は掬い上げ手のひらで少しだけ傾ける。


「そして、これからも俺は世界で起こった過去を探し続けて」

「……私は、それを見て届けていく」


 やりたいことのために、前へ進み続ける。

 互いの意志を確認した彼らは沈みゆくだろうこの広い世界を眺める。

 地平線よりも遠く、大海原よりも広く、大空よりも高い。

 沈黙は続く。2人は言葉を交わすことなく、ただ永遠ともいえるこの時間を大切にしていた。

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