#37

 ラグレグは改めて見ると、リアルで気持ちが悪かった。

 気体のような液体のような……CGと言われるのが一番シックリくる風体だった。

 そいつはいつ現れたのか知らないが、私たちの前でウネウネしながら止まっていた。見ているだけで吐き気がしそうだった……。


「どうすんだよ、おい」

「ペチペチの娘さん居ないね……」

「そうだな。だけどどうすんだ?」

「どうするんだっけ……はぁ、はぁ……頭が回らない……」

「変な呼吸してるぞ。おいニョロン」

「ん、ん。なんだ」

「どうすりゃいんだ」

「ん。にげる」

「そうだな、近付いて来てるし、逃げるか。おまえ」

「え、なんですか? あ、こんなやつに敬語使っちゃった……」

「そんなの気にしてる場合かよ。逃げるぞ」

「うん。うわあ近っ!」


 急いでラグレグから逃げるように走って距離を取った。

 相手は、追って来てるんだか何だか分からない。あ、追って来てるかも。


「どうしよう……。ツチニョロンは?」

「あれ? あいつ何やってんだ?」


 ツチニョロンは、道端に立ってじっとしていた。


「なにか見てるんじゃない?」

「なんだろうな」

「財布かな?」

「おーい! ボケッとしてたら大変だぞ!」

「ねえ、どうしよう。やばくない?」


 ツチニョロンのすぐ先にラグレグが迫っていた。もしかしたら、何事も無く擦れ違うだけかもしれないけど、ラグレグの危険性を説いていたのは誰あろうツチニョロン本人なのだ。

 私は急に走ったこともあって心臓がドキドキして、頭に血が昇って来るのを感じた。

 ちょっと……死なれたら困るんだけど。死なれたら困るんだけど!


「ありゃだめだな」

「まだ大丈夫! 助けなきゃ!」

「助けるったってなあ。どうすんの?」

「わ、分からない! うおー!」


 私は半分失神したまま走った。ツチニョロンのやつを抱えてでも助けなきゃと、それだけを考えていた。


 私はやれば出来る女だと言い聞かされてきたんだ。母親に。小学校の時からずっと。でも、遊び以外にやる気を起こすことなんて無かった。お母さんは多分、幼い頃の私の物覚えを真に受けて、過大評価していただけだった。幻想を捨て切れずにいた。私からしたら、そんな勝手な期待は邪魔でしかない。高校に入るとその思いが爆発して、学校も好きな時にしか行かなくなった。そんな私を手のひら返しでダメ人間認定した親に対し、私は心を閉ざした。まあでも、私だって自分がダメになった責任をお母さんになすりつけてるんだから同罪かもな……。愛想も尽かすってものだ。


 でも、ともかく、やれば出来るって言われてきたのは本当だ。どんなに幼い頃のことだろうと、やれば出来た時代があったことは本当なのだ。私は霜降りの太腿を懸命に使い、走って、ツチニョロンを保護しようとしたが間に合わないような気がした。

 涙が溢れて来て、視界が曇った。クソッ! クソッ! 妖怪だろうがムカつく奴だろうが、目の前で死んでほしくなんかないんだよお!

 邪魔な涙を拭いて、走ろうとしたが足がガクガク震えて動けなかった。感情が……。恐怖と不安と怒りみたいなものがドカーンと脳みその中で爆発して、機能不全になってしまった。ツチニョロンはダメだ。そんで、私も……。さよならみんな。さよなら。無念を残したまま死んだら妖怪になれるかもしれない。


“幽霊も良いんじゃない?”


 あんたは黙っててよ。あんただって、私が死んだらどうなることか……。


「ひいろいろいういういしわらのさいかなし……」


 その時、どこかから、薄気味悪いお経のような物が聞こえてきた。

 これが仏教徒の死ということなのか……。


「ひいろいろいういういしわらのさいかなし……」


 三途の川はどこなのかしらと辺りを見回すと、まだあの森に囲まれた殺風景な土地が広がっていて、自分が死んだなんて信じられなかった。

 自分が死んでない可能性を少し信じ始めた頃、私の目に飛び込んで来たのはヒッキーの姿だった。

 彼は土地の隅に飛び出した岩の上に乗っかり、体育座りをしながら呪文のような物を延々と唱えていた。

 あいつ取り乱しやがったなと半分泣きながら思っていると、視界の隅に黒いモヤモヤが見えた。ラグレグだった。ラグレグのやつ、ヒッキーにターゲットを絞ったみたいだ。助かった……。

 いやいや、倒さなきゃいけないんだったと思い出して、立ち上がった。

 ええとええと。どうやって倒すんだっけ!?


“も……もやす”


 あそうだ……。燃やすんだ。燃えろ! 念じてもダメだ! あれ持って来たんだ……ええと……。

 私はポケットからマッチを取り出した。


――シュバッ!


 マッチを点けて、ラグレグに向けて振りかざした。

 かざしてどうする!

 でも、燃やす物なんて持って来て無い。

 マッチを捨てた。


「やべえ。くわれちゃうよ」


 ヒッキーが緊張感のない弱音を吐いた。


「待って、ちょっと待ってよ……」


 ヒッキーに言ったのかラグレグに言ったのか、自分でも分からなかった。

 ポケットにはコンビニのレシート。レシートって燃えるのかな……。あとは……。

 おおお……これが……。


――シュバッ!


 紙屑たちに火を点ける。なんかの知識でふーふー息を吹きかけると消えそうになって、慌てて燃えろ燃えろと念を込めると、紙屑の頭の方が燃え上がった。


「ああ熱っちい!」


 ビックリして、ダーッとラグレグの方に走って行きながらそいつを投げた。

 ファイヤーボールは、ラグレグのだいぶ手前でぽとりと落ちた。

 万事休す!

 唖然とした。私はやれば出来る子だったはずだった。でも、この現状はどうしたものか……。


「やっべえ。おいら死んじまうよ」


 するとゴゴゴと地震が起こり、私の秘めたる力が目覚めたのかとも思ったがそうではなかった。

 地面が盛り上がり、ラグレグがバランスを崩してひっくり返った。

 なになに……。これ何の祟りなんだろう……。


「おい、どうした」


 この世の物とは思えぬ野太い声が響いた。


「ああああ、岩男さん! どうして」

「いや、呼ばれたと思うんだが……」

「岩男さん! 紙! 燃えてる紙をラグレグに置いて!」

「ん。あ、これか?」


 岩男は、どういう仕組みか分からないが巨大な指でファイヤーボールをつまみ上げ、ラグレグの頭の上に置いた。

 ラグレグは動きを止めた。チリチリと、そいつの頭の上で紙のボールが燃えた。

 効いてんのかな……。

 と思ったら、ボワっとラグレグ自身に燃え移った。丁度、バーベキューの炭が燃えているみたいだ。ラグレグ自身はじっと動くこともせず、燃えるに任せていた。色んな感情が湧いたけど、全部後回しにした。ラグレグは段々と小さくなって、シュンと消えた。


「消えた」


 私は呟いた。

 岩男はラグレグの消えた地面を指先で撫でると、その指先を見た。


「魔物って奴だろうな。妖怪とは少し違う」

「違うんですか……」

「ああ。鳥と虫が違うように」

「見事に燃えやがったな」地面に座り、安堵した様子のヒッキーが言った。

「うん。マッチ持って来てよかった。ヒッキーもありがとう」

「まあ良いんだ。まさか岩男が引き寄せられるとは思わなかったな。おまえこそ、なんか紙燃やしてたけど良いのか? 金?」

「あれは……まあ……大丈夫」


 私が燃やしたのは遺書だった。

 あはは。

 遺書も燃やして命も助かって、人生最大の一石二鳥だった気がする。


「それより、ツチニョロンは?」


 ツチニョロンは、まだ落し物を見ていた。

 彼が見ていたのは、小さな靴だった。

 私が何度呼んでも、ツチニョロンはその靴から目を離さなかった。

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