#31


【ビーバー人間】



 南は何か思い詰めたような表情で歩いていた。


「どうしたの?」

「いや、ビーバー人間とやらに会いに行くんだね……」

「うん」

「少し……。心の準備がいるな」

「何言ってるの? 人食い大鬼に比べたら無害この上ないでしょ」

「人食い!?」


 そして歩いた。歩いた。歩いた。

 景色は徐々に変わって行った。コンクリートの化粧が剥げて、醜い地球の素肌が露わになっていた。田園が広がっている。とても古い木造の家と、鉄筋の家が混在している。ちょっとした茂みを踏むと羽虫が飛んだ。春になれば虫だらけだ。


 更に奥まった土地。山の方に入って行った。


 ビーバー人間は、川のほとりで一人、つるつるの石に座っていた。地元の人間も、地主でさえ滅多に踏み入れない場所だ。

 昔、この辺に女性の白骨死体が遺棄されていたという噂も聞いたことがある。それくらい、人目に付かない場所だった。

 彼は、ちょっと人間感のあるビーバーだった。やはり目の当たりにすると違和感だらけで怖い。

 ビーバー人間は、ツチニョロンを見て軽く手を上げた後、我々人間二人を観察した。警戒心を表に出さないようにしながら、私たちの性質を見極めているようだった。


「あのう」


 私からビーバー人間に、協力を求めた。


「ふぁい」

「お聞きしたいことが……」

「いいよ」


 彼は、人間と話をしたのは初めてだと言って喜んでいた。

 私は最近まで、妖怪というのは、人間を驚かす専門の存在だと思っていた。妖怪にも感情があるのだ。

 彼は言った。


「もう、何年も掲示ぶぁんはちゅかってないよ。今は掲示ぶぁんじゃなくて、本棚をちゅかってるって話は聞いたけどね」


 ビーバー人間は木の棒を持っていた。時折、ポッキーを食べるようにして齧った。

 ビーバーって木を食べるんだっけ……。

 人間と同じような体型で、多少ぽっちゃりしている。体は茶色の毛で覆われていて、僅かに濡れている。

 私は南のことが心配だった。ビーバー人間は今までの妖怪の見え方とは違って、線がくっきりとしている。人間と全く同じように見えている。もしかしたら南にも見えているのかもしれない。もしも南がこの妖怪を見たら、どのような反応を見せるのか。一抹の不安があった。

 南への心配を余所に、私の両の眼は、他の妖怪たちを初めて見たときと同じように釘付けとなってしまった。知らず知らず、ビーバー人間を観察して、ビーバーの要素を一つ一つ数えている自分がいた。顔は額まで茶色の短毛で覆われているが、目鼻立ちは人間に近い。しかし、ピンと髭が立ち、立派な歯が二本飛び出している。あれで噛まれたらひとたまりもないだろう。


「町だと、僕はめだちゅからさ。皆、怖がるだろう?」

「そうですね……。姿を消すことは出来ないんですか? この人たちみたいに」


 私はヒッキーを指して言った。


「うん。なんていうか、タイプがちゅがうからね。僕は基ふぉん的に、自分のことを人間だと思っているし」

「ああ……え?」

「いまきみ、じぇんじぇん人間じゃねえよと思ったでしょ」

「まあ……」

「正直なんだねぇ」

「なあ、なあ」南が、私の腕をやんわり掴みながら話しかけてきた。分かりやすく声が震えている。「見えるんだけど。僕、見えるようになったのかな?」

「他のみんなは見える?」

「いや」

「じゃあビーバーさんだけ見えるんだよ」

「ビーバーさんって、僕は人間のちゅもりなんだけどなあ。普ちゅうに飲み食いもするし」

「ああ、すみません」

「あああ、ちょっと待って。ああ……」

「はい?」

「あああ、うああああ!」突然ビーバーが叫びだした。「シャーッ!」

「ヒーッ!」私は恐れ戦いて叫んだ。


 そんな私の横を走り抜け、彼は突然雑木林まで走って行くと、ガリガリと木を齧りだした。結構な大木だ。

 あっという間に幹の中腹まで齧り進め、ちょいと反対側から押すと、木は簡単に傾いた。


 倒木。


 バササー!


 それを見届けると、涼しい顔でビーバーは帰ってきた。


「お待たせ」


 私は動揺を隠しきれなかった。ビーバーの口の周りに細かな木屑が生々しく散らばっていて、返り血のように思え、恐ろしかった。


「大丈夫ですか?」

「うん、しょれよりも、話を聞いてきゅれよ。ぶぉくが人間だという自覚を持ったのは、五十年前なんだけど……」


 それからビーバーは、自分がいかにして人間としてのアイデンティティを築いたかという話を長々と始めた。私は片耳で話を聞きながらも、内容を頭に入れることはしなかった。樹木を丸かじりする奴のアイデンティティを聞いたところで、他で活かしようがない。


 屁女とペッチペチの母は、野花をかがみこんで観察していた。南はバッグを枕にして眠っていた。失神してしまう前に、自ら眠ることを選択したのだろうか? ツチニョロンは川に浸かっていた。私は一人でビーバーの相手をしていた。


「聞いてる?」ビーバーが言った。

「ええ、半分くらい……」

「うんん? 僕のことが心ぷぁいなの? 大丈夫大丈夫。あの倒れた木で、一週間はおぎにゃえりゅから。木は無くにゃらないよ」

「そうですか。ところで、ラグレグっていう妖怪と、ペッチペチ娘っていう子を知りませんか?」

「知らにゃい」

「分かりました」


 私は皆に合図し、南を起こし、帰ることにした。


「あっ、あの」

「なんだい?」

「燃えやすいような木ってないですか?」

「今はぬぁいけど、ひちゅようならよういしとくよ」

「ありがとうございます。それじゃ、また……」


 ビーバー人間は、せっかくの来客がさっさと退散して行くのを名残惜しそうに見ていた。

 私はその姿を見ないようにした。

 もう、訳の分からない同情に振り回されるのは真っ平なのだ。


 帰り際、岩男が居ると言っていた海岸に寄った。

 岩男は疲れた様子で、そろそろ終わりにしようとだけ言った。何が終わりなのかを聞いても、その角張った顔を少し歪ませるだけで答えてはくれなかった。

 私には、それが笑っているのか泣いているのか分からなかった。


 お休みを言って、旅館に戻った。

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