第2話 後編 亀山→名古屋

 次の加茂行は12時14分発であるので、昼食を買ってから乗った。ここからJR西日本の区間だ。車両はキハ120という小ぶりの気動車で、二両連結されている。私はボックスシートに座れたが、立ち客も多い。

 亀山を発車してすぐ、私は買った昼食を開けた。食べるのは「志ぐれ茶漬」である。時刻表では亀山に駅弁のマークは無いが、駅前の店で売っている志ぐれ茶漬が実質駅弁として知られている。というかかつては本当に駅弁だった。駅弁当時は全国で唯一のお茶漬けの駅弁だったそうである。今回はそれを買ってみた。合計で千円程度。茶漬というのはまごう事なき茶漬であり、実際にお茶をかけて食べる。お茶は別売り百円だが、昔ながらのポリ茶瓶に入ったのを買える。風情があって良い。志ぐれは桑名産のあさりで、お茶がうま味を引き立てる。美味しい。私はお茶をかけすぎて列車の揺れに気をつけながら食べなくてはならなかったが、それはお茶の量を調節すれば問題無いだろう。

 列車は加太峠に入った。鈴鹿川に沿って谷間を登っていく。加太と柘植の間にはスイッチバックを備えた信号所がある。この列車はそこで交換しないのが残念である。

 トンネルを抜けて12時39分、柘植着。柘植は草津線との接続駅である。線路を挟んで向こうのホームには草津線の電車が停まっている。草津線には乗ったことが無いが、今回は乗らずに大阪を目指したい。上り列車と交換して12時43分発車。

 関西本線は元々私鉄であった。複数社が部分的に造ったが、最終的には関西鉄道のものとなった。1898年に名阪間が全通すると、関西鉄道と官鉄は熾烈な競争を繰り広げ名阪間の需要を取り合ったと伝えられているが、それも1907年の国有化までであった。国有化後は距離的には長い東海道本線が主となり、戦後は並行する近鉄が優位となった。現在は気動車がトコトコ走るような路線である。

 河岸段丘なんだかそうでないのかよくわからない場所を走り、12時58分伊賀上野着。伊賀上野は伊賀鉄道伊賀線との接続駅である。伊賀、というと忍者で知られた土地であり、停まっている伊賀鉄道の電車には忍者のラッピングが施されている。 伊賀鉄道は元々近鉄であったが2007年に経営分離された。近鉄はこれや前述の四日市あすなろう鉄道みたいに経営分離された路線が多い気がするが、戦時下の合併で無理矢理一つにされたのが今になって分離され始めている、という捉え方もできる。関東だと東急が戦時中に南関東の相鉄、小田急、京王、京急を取り込み「大東急」と呼ばれる時代を築いたが、戦後すぐに経営分離された。そのようなものという考え方もあるかもしれない。

 伊賀上野を出ると下り坂になり、木津川の造った谷間を下っていく。13時14分着の月ヶ瀬口から京都府に入った。深くて暗い雰囲気の谷を進むこと二十分、加茂着。

 加茂で大和路快速大阪行に乗り換えだ。ここからは再び電化区間になる。車両は221系という少し古いものだが、乗り心地は悪くない。転換クロスシートやデジタル時計といった関東では見られない設備もある。その代わりディスプレイは無いが。

大勢の客を乗せた亀山行が13時42分に発車し、大阪行も13時45分に発車した。開発途上の山が見える。天王寺まで一時間で行けるので、ベッドタウンとしては需要がありそうな土地である。

 七分走り、木津着。木津は奈良線と片町線との接続駅である。奈良線は京都と木津を結ぶ路線である。奈良線を名乗りながら奈良まで行かないどころか奈良県に入りすらしない。木津は京都府である。片町線は木津と大阪の京橋を結ぶ路線である。片町線もJR東西線に直通するようになった結果、片町駅が廃止されて片町に行かない。こちらでも大阪に行けるが、今回は関西本線を行く。

 木津を出て十分、奈良に着いた。言わずと知れた観光地であり、私も何度か来たことがある。今回も降りて寺巡りをしたい衝動に襲われたが、なんとか我慢する。駅は高架で、関西本線の他に桜井線が乗入れている。桜井線にはまだ乗っていない。乗るのは和歌山線に乗るときになる気がする。いつになるやら。

 奈良からは外国人観光客が結構乗ってきた。私の近くにもアジア系の方々が座った。インバウンドの「ゴールデンルート」からは多少外れているが、これから益々増えていくのだろう。彼らは法隆寺で降りていった。

 法隆寺を出たところで、今回の旅において唯一にして大規模な事件が起こった。次は王寺だ、各駅停車に乗り換えようかな、とか思っていたところ、電車が駅でもないところに突然停車した。うん?と思っていると、「沿線火災の為、運転を見合わせます」との放送が入った。確かに右手前方を見ると線路脇から煙が上がっている。まぁ、すぐに鎮火して発車するだろうと思って座席に座っていたが、十分過ぎ、二十分過ぎてもさっぱり発車する気配を見せない。大阪での滞在時間がそんなに多いわけではないので、こんなところで時間を浪費したくないと思う。しかし、早く発車してくれ、という私の希望は叶わなかった。既に煙は見えず、鎮火しているものと思われるが、現場検証に時間がかかっているのだろうか。結局四十分強停まっていた。しかし、王寺に着く直前、また駅でもないのに停まる。列車が詰まっているらしい。ここで十分程度停まったので、合計五十分の遅延となった。大阪での時間の使い方を変えねばならぬ。

 王寺は和歌山線との接続駅であり、関西本線の大阪方面からの列車の折り返しも多い。また、近鉄も乗入れている。ここまで来られていれば近鉄で大阪に出るとか、元より運転見合わせの影響が少ない状態で大阪まで乗り通せていたのではないかと思うと、たった数キロ、数分の差で運命が変わるのだなぁ、と無情さを噛みしめる。現実は非情だ。隣のホームに停まっている関東では見られなくなった国鉄時代の通勤電車に乗りたい気持ちが大きいが、その時間は失われている。いざ大阪へ急行せん。

 王寺を出ると奈良盆地の西端を成す生駒山地を越える。これを越えると大阪平野だ。大和川の造る谷間を下り、大阪府に入る。これまでは各駅に停まっていた大和路快速も通過するようになり、次の停車駅である久宝寺に着いたのは15時21分であった。久宝寺を出るとおおさか東線とのデルタ分岐を横目に見ながら市街地を走って行く。15時29分、天王寺着。

 少し写真などを撮った後、大阪城にやってきた。天王寺から大阪環状線で大阪城公園まで来た。国鉄型の通勤電車に乗れて満足である。駅の名の通り駅前に大阪城公園があり、JRでは森ノ宮と共に大阪城への最寄り駅となっている。青谷門をくぐり、天守閣へ。夕方ではあるが観光客は多い。私はまず八階の展望台まで上がった。思っていたよりも広めだが、その分観光客も多いのでやっぱり歩きにくい。どこの城もそんなものである。空には旅客機。伊丹空港に降りるのだろうか。四方を見渡してから順々に下の階へ降りた。

 大阪の歴史は長い。古くは飛鳥時代に難波京が置かれて都となっていたこともあるし、住吉大社もある。中世には石山本願寺があり、織田信長との合戦の後に撤退、同地に造られたのが大阪城である。大坂夏の陣では大阪城で豊臣が滅んだ。江戸時代に入ると「天下の台所」と呼ばれるようになる。各藩の蔵屋敷が置かれ、日本経済の中心として発展した。明治維新後は以前朝ドラで描かれたように一時期衰退するが、再び西日本の中心として発展し、現在は日本で二位の都市となっている。

 大阪城は先の通り石山本願寺跡に造られたわけだが、勿論その当時の姿で残っている訳ではない。最初は織田信長が城を建てたかったようだが、叶う前に本能寺の変で討たれてしまう。それを実行に移したのが豊臣秀吉であるが、二度の大坂の陣などがあり当時のものは全て地中に埋没している。現在見られる石垣等は全て徳川時代に造られ、天守閣は昭和六年に復興した鉄筋コンクリート造りのものである。

 あまり時間がないので展示品をさらっと見て降りた。次に向かうのは通天閣である。高いところに登ってばかりだと思う。

 地下鉄谷町線の谷町四丁目四丁目に向かう。大手門を出て大阪歴史博物館やNHKの前を歩くとすぐに着いた。八尾南行に乗って四駅、再び天王寺に舞い戻り、乗り換え。今度は御堂筋線に乗る。千里中央行で一駅、動物園前が通天閣の最寄りの一つだ。大阪の地下鉄に乗ったのは初めての経験であった。今回は短い距離であったが、いずれは全線乗りつぶしたい。これはその第一歩、大阪市民にとっては短い一歩であっても私には歴史的な瞬間なのである。その前に横浜市営地下鉄を完全に乗りつぶすのが先だが。

 動物園前から通天閣に向かう間に新世界がある。これまで読んできた書籍の情報からすると新世界にはあまり良いイメージを抱けていない。スリに気をつけねばと気を引き締める。

 新世界は観光地として有名であるが、私の行った時には観光客でごった返しているという風ではなかった。平日の夕方というのもあるだろう。串カツ屋などが立ち並び、入りたい気持ちが芽生えるが我慢する。有名なふぐの提灯などを見つつ行くと通天閣に着いた。

 知らなかったのだが、通天閣の入り口は地下に続いている。地下には土産屋があり、その奥で入場券が売られていた。購入して二階に上がると、また列がある。更に登るエレベーターの列であるが、その前に記念写真を撮られるらしい。別に買わないのだけど、撮られなければ登れないのであれば撮られるしかない。問答無用で撮るのは商売的には良いのかもしれないが、観光客の立場からすると時間がかかるだけであまり良いものではない。こんなので二十分くらい使ってやっと展望台に登れた。エレベーターの演出が面白かった。

 今の通天閣は二代目である。初代通天閣は明治四十五年に開業し、現在の新世界の辺りにあった「ルナパーク」という遊園地とロープウェイで直結していた。その後、昭和十八年に直下の映画館で火災が発生すると熱で脚部が強度不足となる。折からの戦争もあり、鉄材を軍需物資として献納するために解体された。戦後になると再建計画が浮上し、現在の二代目通天閣が昭和三十三年に開業した。目立つネオン広告は翌年から始められている。

 純粋な展望台なので、高さは要求されていない。高さでいえばあべのハルカスの方がよっぽど高い。通天閣がてっぺんでも108メートルしかないのに対し、あべのハルカスは展望台でも288メートル弱ある。それでも通天閣に来てしまうのは、通天閣がそれだけ有名であるということか、それともビリケンさんの神通力か。ビリケンさんは展望台に鎮座しておられる。

 通天閣から降りてきたときにはもう陽が暮れかかっていた。急ぎ足でJRの新今宮に向かう。串カツとか粉もんはまた来たときにしよう。大阪環状線で大阪に出た。夕食用に駅弁を探したが、見た範囲では見つからず、諦めて19時半の東海道本線新快速長浜行に乗る。帰宅の時間帯であるだけにやはり混んでいて、座ることは叶わない。新大阪、高槻と停まり、三十分で京都に着いた。大阪が発展した理由の一つは平安京や平城京の港としての位置づけがあった。江戸に対する神奈川と同じ関係である。鉄道での所要時間も大体同じであるのは偶然だろう。逢坂山をトンネルで抜けると滋賀県に入り、大津に停まる。やたらめったら県境に近いなあ、という印象だ。滋賀県にはあまり詳しくない。

 もはや暗闇で車窓はさっぱりわからない時間帯である。駅毎に減っていく乗客と私に大した違いは無い。仕事か娯楽か、家が近いか遠いかの違いで、帰宅する人というくくりでは同じである。遠いというだけでテンションは上がるのだが。草津やら野須やら近江八幡やらに停まり、米原に着いたのは20時55分であった。

 乗り継ぎの列車は21時05分発の快速豊橋行なのだが、入るホームには一本前の特急「しらさぎ」16号が停まっている。急病人看護だかなんだったかで十分程度遅れていた。それを待ってからの入線だったので、発車も少し遅れた。

 快速とはいうものの大垣まで各駅に停まる。この辺りは冬になると雪が積もるので、そのイメージが強い。列車の光に照らされる暗闇の中の雪、というのは詩的と言えば詩的なのだろうか。わからない。大垣には定刻だと21時38分着であるが、これも少し遅れた。

 最後に乗る「ムーンライトながら」は22時49分発である。一時間程あるので、少し離れているがスーパー銭湯にまで入りに行った。同じことを考える人はいるようで、同じだな、と思われた人が二、三人。風呂自体は普通で暖かであったが、遅れたら致命傷なので時間について気が気でない。実際には余裕を持って乗れたのだが。

 上り「ムーンライトながら」の席を取ったとき、満席だったところ丁度キャンセルが出て、そこを取ることが出来た。放送でも「当列車の指定席は満席です」と放送されているのだが、大垣を出た段階ではまだ空いている。今朝の下り「ながら」も満席という放送がされながら私の隣の席は空いていた。今回もそうだと私としては気楽なのだが。

 大垣を出た列車は岐阜、名古屋と停まると次は豊橋である。名古屋の段階ではまだ隣は空いている。しばらく近くのグループの文字数縛りしりとりを聞いていたが、眠くなってきた。もう寝ることにしよう。起きる頃には横浜だ。寝過ごさないよう気をつけねば。おやすみなさい……。

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西へ 19 @Karium

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