15:愛しかった人

 陽奈を連れ帰った翌朝、彼女は二日酔いに苦しみながら、果物ゼリーを食べた。菓子パンが余ってしまったので、そちらは僕が貰うことにした。彼女は遠慮していたが、シャワーを浴びさせ、その間は意味もなくコンビニへ行った。

 戻ってくると、陽奈はベッドの上で膝を抱え、朝のワイドショーを眺めていた。


「おかえり」

「ただいま」


 僕はインスタント・コーヒーを淹れ、菓子パンを頬張る。陽奈は頭痛が酷いのか、時折腕に顔を埋める。テレビでは、小学生がお年玉の使い道をアナウンサーに聞かれている。


「わたしは、ずっと貯金してたな……」

「僕は貰ったその日に、弟とゲーム買いに行ってた」


 まるで、恋人が遊びに来ているかのような雰囲気が流れている。しかし、僕たちは昨夜、背を向けて眠った。指一本、触れることもなく。


「そろそろ、帰るよ。色々ありがとう」

「まだ頭痛いんだろ? 無理しないで、ゆっくりしていけって」


 陽奈は首を振り、ベッドから降りる。僕は仕方なく、テレビを消して、戸締りをする。

 僕の家から駅までは、歩いて十分ほどだ。だが、陽奈の体調を考え、できるだけ歩みを遅くする。

 後ろから、赤いコートを着た女の子が、僕たちの側を走り抜けて行き、その後を、父親らしき男性が追う。

 それから、ベビーカーを押す母親がやってきたので、僕たちは歩道の端に寄る。

 女の子は父親に捕まり、抱き上げられている。


「昨日は、急に呼び出したりして、ごめんね」


 やけに明るく研ぎ澄ました声で、陽奈が言う。


「いいよ。僕だって、陽奈がどうしてるのか、ずっと気になってたんだ。会えて本当に嬉しかったよ」


 その言葉に、嘘は無い。


「わたし、嫌な女だね。結婚がダメになったからって、元彼にすがったりしてさ。志貴くんに、迷惑かけちゃったよね」

「そんなことない。そうやって僕のことを考えてくれる陽奈は、良い子だよ」

「ううん。わたし、嫌われても仕方ないこと、しちゃったよ」


 僕は焦る。

 本心を言えば言うほど、陽奈が離れていく気がする。


「嫌ってない。本当に嫌なら、あのまま置いて帰った」

「志貴くんは優しいから、絶対にそんなことしない。わたし、わかってたんだ」


 陽奈が見ているのは、先ほどの親子だ。

 女の子はベビーカーに乗せられ、段々遠くなっていく。


「去年の今頃はね。幸せな家庭を作れる、って舞い上がってた。彼の本当の姿を、見ようともしなかった。薄々、気付いてたんだ。彼、カッコいいし、女慣れしてたし。でも、婚約したんだから、わたしだけを見てくれるはずだって、そう思い込んでた」

「陽奈……」

「彼に捨てられたときね、悔しいっていうより、寂しい気持ちの方が大きかった。寂しくて寂しくて、死ぬんじゃないかと思った。でもね、寂しさで死ぬことはできないんだ。志貴くんのときに、それを知った」


 陽奈は僕の顔を見上げて、ふんわりと笑う。


「辛いくせに、そんな顔、するなよ」

「辛いよ、辛いの。だから笑うの」


 僕は足を止め、陽奈の右手を掴む。

 今からでも、彼女を、引き留めるために。


「陽奈」

「離して」


 小さく、それでいて冷たい、拒絶の声。

 陽奈の口から出たものとは、到底思えない。

 僕は恐る恐る、彼女の瞳を目に映す。

 大好きだった、丸くて大きな瞳。

 春の日差しのように、暖かだった瞳。


「ごっ、ごめん――」


 僕は耐え切れなくなって、陽奈の手を離す。

 変わってしまった。

 消えてしまった。

 高校三年生の陽奈は、もう、どこにもいない。


「あのさ、志貴くん」

「お、おう」

「こうして久しぶりに再会できたわけだし、連絡先だけでも交換しておこうよ!」


 言われるがまま、僕はスマートフォンを取りだし、陽奈の連絡先を登録する。それが終わると、彼女はすぐに歩き出す。他の同級生が、今どうしているのかを語りだし、僕はそれを聞くばかり。あっという間に駅に着き、僕は改札口で、呆然と立ち尽くす。

 数分後、陽奈からメールが来る。お世話になりました、また飲みに行こうね、という定型文。僕も同じような文章を返し、それからようやく、何も言わずに実家を出てきたことを思い出した。

 実家に帰ると、母親と真希が昨夜どこに行っていたのかとしつこく聞いてくる。それに適当な返事をして、こたつ布団にもぐりこむ。そのまま眠りこけて、夕方になると、理貴が帰ってくる。夜は父親も交え、男三人で晩酌。酒が強いのは、間違いなく遺伝だ。


「兄貴、仕事はいつからなんだ?」

「明後日。有給取りまくったんだ」

「うわっ、せこいなー。俺のとこなんて、盆も正月も関係ないし。有給なんて、あってないようなもんだよ」


 文句を言う理貴に、父親が言う。


「理貴、そういう会社を選んだのはお前自身だ」

「はいはい、わかってますよーだ」

「志貴は偉かったからなあ。あれだけ無理だと思ってた緑南に入って、今の会社に就いて」

「まーた兄貴ばっかり褒めるわけ? 俺だってちゃんと頑張ったのに」


 僕はただただ苦笑しつつ、枝豆を口に放り込む。

 そして、ふてくされている弟の株を多少上げてやろうと思い、奴が僕より圧倒的に勝っている箇所、つまりは恋人の話を持ち出してみる。


「それで、彼女とは順調なのか?」

「なんだよ急に」

「父さんもそれ、気になってたんだ。いつ紹介してくれるんだ?」


 理貴は、顔では鬱陶しそうな風を装いながらも、本当は話したかったのだろう、スラスラと彼女のプロフィールを述べる。

 友人の紹介(まあ、合コンだろう)で知り合った女子大生で、父親は不動産販売業の社長。卒業後は、そこで事務員として働く予定なのだという。

 僕は、おちゃらけて彼女の容姿について質問しようとしたが、父親が少し険しい顔をしていることに気付いて、口をつぐむ。案の定、父親は生真面目な話を始める。


「結婚は考えているのか?」


 あまりにもストレートな問いかけに、僕まで面食らってしまうけれど、理貴は飄々と答える。


「いや、全然。彼女まだ学生だし、そんな話になったことないって」

「そうか。説教みたいになるからあまり言いたくないんが……結婚は、よく考えろよ」


 理貴は助けを求めるかのように、僕に視線を向けてくる。僕は素知らぬふりをして、父親の杯に日本酒を注ぐ。


「お前たちと、父さんでは、時代が違うからな。二人とも正社員になれたからまだいいが、昔みたいにポンポン給料が上がらないんだ」

「そりゃあ、わかってるけど」


 理貴が目を伏せる。弟の仕事の話は、あまり聞いたことがないが、僕よりも稼ぎが低いことは知っている。


「どのくらいの規模の会社か知らないが、娘を雇える余裕があるくらいだ。そこの家庭とうちじゃ、経済感覚だって違うだろう。お前、そんな所の娘さんを養ってあげられるのか?」

「別に、養わないよ。俺は共働き希望だし。もし結婚しても、ずっとその会社で働いてもらうね」

「そうなればいいんだがな」


 そう言って父親は、日本酒をちびりと飲みこむ。

 父親の言わんとしていることは、僕でもわかる。我が家は典型的な夫婦分業家庭で、父が外で働き、母が家事をしている。それで子供三人、真っ当に育ったものだから、父親の中ではこれが理想の家庭像なのだろう。おそらく僕たちにも、似たような家庭を作ってほしいと願っているのだ。

 そんな意図を理貴も汲んだのか、強気な口調で話し始める。


「子供ができたら、家にいてもらうさ。でも、大きくなったらまた仕事してもらう。そんなとき、復職先がある嫁さんって、すごく有利だと思うけど」

「確かにそうだよなあ」

「なっ? 兄貴もそう思うだろ?」


 そういえば、陽奈は勤めていた会社をどうしたんだろう。社内恋愛が破談になったのだから、とても居られない気がする。それに、契約社員だから、元々寿退社するつもりだったのかもしれない。それじゃあ、今は一体何をしているんだろう。

 僕が陽奈のことに想いを馳せている間、理貴は彼女の良い所を父親にアピールし始め、次第に父親の顔も元通り綻んでいった。

 昨日のことが、まるで幻想だったかのように。

 家族で過ごす夜は更けていき、僕は陽奈と過ごしたことを忘れ、明後日からの仕事のことを考えた。

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