キッチン「杏」は営業中!!

那由多

風邪には温玉カレーとショウガのスープ

 その日は、西代輝明にとって最悪の一日だった。

 まず、朝起きると熱っぽかった。

 原因は分かっている。池に落ちたからだ。

「あのカップルめぇ……」

 毎朝チェックしている占いサイトでは久し振りの最下位だった。さらに、近くの公園で殺人事件があったというニュースまで流れた。ウォーキングでたまに行く公園だ。昨日も行っていた。一歩間違えば、そんなものに遭遇していたのか。ぞっとする。ぞっとしたのは熱のせいかもしれない。

 何もかも最下位だ。

 輝明は朝からうんざりした。

 

 どうしようか、と考えたが仕事を休むわけにもいかず、仕方なく家を出た。

 そこからがまたついていなかった。

 駅の改札に上がる階段では誰かに当たられて落ちかけ、混みあったホームでも人波に押されて落ちかけた。普段よりも踏ん張りがきかなくなっていることを痛感し、降りた駅では慎重に行動した。幸いにも降りる人の多い駅ではなく、階段も少なかったので、これといった被害は無かった。

 どうにか出社して、仕事はしてみたが、やはりしんどい。

 上司に事情を説明すると、軟弱者と罵られたがどうにか会社を早退することは認めて貰えた。

 会社の最寄駅までどうにか戻ってきた彼は、そのまま商店街の中にある町医者に行き、風邪と無事に診断されて風邪薬を貰った。そうしたところで限界を迎え、彼はなじみの店で一休みすることにしたのだった。


 その店とは小さな食堂だ。

 商店街沿いではなく、道を一本入った少し奥まったところにある。

 白い壁に木製のドア。ドアにつけられた小さな看板にはキッチン「杏」と書かれている。営業時間は午前十一時から午後三時までと、午後五時から午後十時まで。前半はランチタイム、後半は居酒屋タイムとなる。

 目立つ看板は無い。営業しているときには店先にお勧めメニューの看板が出ているので、店の場所を知っていればすぐに分かる。

 ランチメニューは二種類の日替わり。片方はプレートランチ、もう片方は丼系のメニューになるのが定番だ。

 店内は狭く、四人掛けのテーブル席が一つと、二人掛けテーブルが一つ。カウンターに五席。それですべてだ。テーブルとイスはナチュラルな色合いの木製で整えられている。もちろん、満席の場合もある。しかし、店そのものが目立たないので、それも稀な事だった。

 店の名前は、店長である伊良楠杏(いらくすあん)の名前からとられている。

 三角巾姿が良く似合う、明るい人当たりのいい娘だ。料理もうまい。

 輝明はそんなカフェ杏に通う常連の一人だった。

 サラリーマンである以上、昼間は会社近辺に縛られるのが常だ。大抵は午後五時以降の居酒屋タイムに来る。

 昼の営業時間に来るのは初めてかもしれない。

 木製のドアを引き開けると、ドアベルの音が涼やかに耳に響いた。

「いらっしゃいませ!!」

 カウンターの向こうから元気な声を飛ばしてくる娘が店長の杏だ。今日はオレンジ色のエプロンに似たような色合いの三角巾をつけている。声と同じく元気な笑顔が、疲弊した輝明の心身を少しだけ蘇らせてくれた。

「あれ? 西代さん。珍しいですね」

「うん、会社早退してね、病院行ってきたんですよ」

「えー、大丈夫ですかぁ?」

「うん、注射一本打って貰ってね、まあ大丈夫だと思います」

「それならいいんですけど」

 そう言いながら、杏はカウンターの一番隅の席に、水の入ったグラスとおしぼりを置いた。輝明がいつも座る席だった。輝明も真っ直ぐその席に座った。

「ご注文は?」

「今日の丼ランチは?」

「温玉カレー」

「じゃあそれ」

「まいどー」

 カウンター裏にある厨房で支度を始める杏。

 ぼんやりする頭を支えつつ、輝明はそれを眺めていた。


 風邪には卵カレーというのが輝明の持論だ。

 玉子酒ではない。卵カレーだ。

 風邪でしんどい時にカレーなんて食えるか、という意見もある。だが、輝明には確固たる根拠があって信じていた。

 それはやはり風邪で寝込んでいた時の事である。

 外出もできず、起き上がって料理をできる体調でもなかった。

 何か手軽に食べられる物は無いかと食糧庫を漁ってみたところ、レトルトカレーが一つ出てきた。それを丼に移し替え、電子レンジで温めている間、今度は冷蔵庫を開けてみると卵が残っていた。米は無いが、これでしのぐしかない、と温めの終わったレトルトカレーに生卵を落として思い切りかきまぜた。それでカレーも程よい温かさになり、濃すぎる味は卵でまろやかに。

 それを二口、三口と食べた途端である。

 決して大げさな表現ではない。本当に、途端の事だ。

 額から、脇から、背中から、とにかく色々なところから汗が噴き出してきたのだ。拭いても拭いても後から汗は浮き出てくる。面倒になって、汗を飛び散らせながらカレーを掻っ込んだ。

 そして、全て食べ終えた頃には、来ていたパジャマが絞れるのでは、というぐらい全身汗だくで、熱も不思議なほどにひいていたのだ。

 その後、着替えてぐっすり眠ったところ容体は劇的に快方へ向かい、ここから輝明の卵カレー信仰が始まったのである。


 しばらくして、温泉卵の乗った香り高いカレーが輝明の前に置かれた。

 付け添えにスープと小さなサラダもある。

「うちのはスパイスたっぷりですから、きっと風邪も吹っ飛びますよ」

「待ってました」

「それと、スープにショウガ、サービスしときましたので」

 言われてスープを嗅いでみれば、さわやかなショウガの香りが鼻を抜けて行った。済んだスープの中には細かく切った根菜と、ところどころに針ショウガの姿も見える。

「熱を通したショウガは体を温めてくれますから」

「ありがとうございます」

「いえいえ。お大事になさってくださいね」

 その言葉だけで、心が癒される。この優しさの百分の一で良い。上司に移植してやりたい。そんな事を考えながら、まずはスープを一口。野菜の優しい甘みと、それを追いかけるように鮮烈なショウガの風味が舌の上に広がった。

「美味しいです」

「良かった。ごゆっくり召し上がれ」

 続いてカレーを一口。丁寧に炒められたスパイスの香りと程よい辛みが輝明の全身に刺激をくれる。温泉卵を少し崩して混ぜれば、たちまちカレーはまろやかに早変わりする。それを交互に食べ進めると、口の中が常に新鮮な味わいで満たされる。無限にでも食べられそうな程だった。

 ある程度食べて一息を吐く。一口含んだ水はまさに甘露。

 幸せな心持とはこの事だ。

「いやあ、朝からついて無かったけど、これで取り戻せた感じですよ」

「そうなんですか?」

「ええ、まず、風邪ひいてるでしょ。今朝の運勢が最下位だったでしょ。駅の階段で誰かに当たって落ちかけたでしょ。ホームでもやっぱり誰かに当たって落ちかけたでしょ。上司には嫌味言われるでしょ。半日で盛りだくさんですよ」

 そう言って、カレーを食べる手を止めて大きなため息を吐いた。

「二つほど命の危機が混じってますね」

 気を付けてくださいよ、と杏は眉をひそめた。

「昨日の事で運を使い果たしちゃったのかなぁ」

「昨日の事?」

「毎晩ウォーキングをしているんですよ」

「へえ、健康的で良いですね」

「でも、飽き性なんで、いくつかコースを変えて歩いているんです」

「なるほど」

「で、昨日歩いたのが例の公園なんですよ」

「え、まさか?」

 ぐぐ、とカウンターに身を乗り出してくる杏。輝明も仰々しく頷いた。カレーを食べながらだが。

 今朝のニュースでもやっていた、殺人事件のあった大きな公園に昨晩輝明は訪れていたのだ。死体は公園北側の出入り口付近にある植え込みの中にあったらしい。死体は首を絞められていた。財布等が無くなっていることから、通り魔の犯行ではないか、と新聞には書かれていた。

 死んだのは、公園の近所に住むアパートの住人で、恋人と同棲中だったのだとか。

「何時ごろですか?」

「夜、十時ぐらいかなぁ」

「えー、怖いですねぇ」

「僕は南側をうろうろしていたんで、助かったんじゃないでしょうか」

「怪しい人に会ったりもしなかったですか?」

「そうですねぇ。見かけたのはイチャ付いているカップルぐらいですかねぇ」

「カップル?」

「ええ、池のほとりにね、ちょうどよく茂みを背にしたベンチがあるんですよ」

「なんでそんなところに行ったんです?」

 ウォーキングコースを外れたんですか? そう尋ねる案の目に疑惑の光が点ったのを輝明は見た。

「あの池が結構いいんですよ。かかっている橋の上から暗い水面眺めたりしてね。街灯が橋の真ん中に立ってるもんで、結構見えるんですよ」

「それはそれで心の病などを心配してしまいますが」

「そしたら、池を挟んだ向こう側にあるベンチの方に動く影があったんです」

「それをじっと見てた……」

 疑惑の色は消える気配がない。

「いやいや、ベンチの方は明かりも薄いですし、ほんとに影だけです」

「やっぱりそっち見たんだ」

 鬼の首を取った、とばかりに人差し指を突き付けられる輝明。

「まあ、見ましたけど。ほら、影だけだから実際何しているかなんて良く分からなかったですし」

 しどろもどろ言いながら、全然言い訳になっていないことを痛感していた。

 熱のせいか、ちっとも気の利いたことが言えない。

「良いんですよ、そんな必死に言い訳しなくっても。西代さんにどんな趣味嗜好があろうとも、大切なお客様ですし」

「そんな、遠ざからないでくださいって」

「……じゃあ、何でイチャ付いているカップルって分かるんですか」

「あ、いや、その、影が結構密着して動いていたので……」

「ああ……。へえ……」

 刺さるような視線とはこの事だ。

「だって、大きい影が小さい影に覆いかぶさる様にしていたんですよ。夜の公園とはいえ、ちょっと大胆だなと思いましたけど」

「なにがだってなのかは全く分かりませんが、それ、じっと見ていたんですか?」

 責める様な杏の目つき。輝明は一生懸命かぶりを振った。

「いや、そんなには。なんか気づかれちゃったみたいで影が動かなくなったんですよ。それで、お構いなくって声かけて、慌てて離れました」

「ほんとかな?」

「ほんとですってば。慌てた拍子に池にも落ちましたし、ほんとに最低でしたよ」

「まさに、天罰覿面。風邪ひいたことに対する同情は無くなりました。ショウガ代、頂こうかなぁ」

 弱っているときにいじめられ、輝明は泣きそうな気分になった。

「勘弁してください……」

 自分でも驚くほどに弱々しい声でそう言うと、杏もようやく攻撃の手を、いや口を緩めてくれた。

「でも、覗きは良くないですよ」

「分かってます。ほんと、たまたま目に入っちゃったんです」

「……信じます」

 杏にそう言われ、ようやく輝明の心に安ど感が広がった。安ど感が広がってから、別に付き合っているわけでもないのに何でここまで必死に言い訳しちゃったんだ、とそっちが心配になる。

 これじゃ、意識していることを遠回しに告白しているみたいじゃないか。していないとは言わないが、もう少しスマートに言いたいと思う輝明であった。

 そんな輝明の心配を全く他所に、杏は何か考え事を始めていた。

「あれ?」

「どうしました?」

「何でお構いなくって言ったんですか?」

「は?」

「その影に向かってですよ。知り合いかどうかもわからないでしょ?」

「まあ、気まずかったのもありますけど、悪いことしたなって思ったので」

「思わず……ですか」

 またもや考え始めた杏を不思議そうに見つめつつ、輝明はカレーを食べ進めていく。だんだん食べるうちに、体がポカポカと温まってくるのを感じていた。付け添えのショウガスープもかなり力を貸してくれている。風邪には卵カレー。そこにショウガスープも加えることにしようかな、などと考えていると杏が再び質問をしてきた。

「ひょっとして、通勤電車内に知り合いとかおられます?」

「知り合いですか? 同僚とかは乗ってないですけど……」

「いえ、そういうのではなく……」

 杏の出した条件に対して、輝明は頷いた。

「ええ、何人かはいますよ」

「そういう事ですか……」

「どういう事です?」

「ふふふ、ひらめきました」

 結局さっぱりわからず、輝明は頭をひねる。

 一方で合点がいった、とばかりに杏はにこにことしながら輝明に新しいおしぼりを差し出した。

「凄い汗ですよ? スパイスが効きすぎましたか?」

「い、いえ」

「でも、西代さんの一言は効き過ぎたみたいですね」

 ますます訳が分からず、輝明は首を傾げるばかりだった。


 温玉カレーとショウガスープの威力は大したもので、輝明の体は劇的に回復した。

 翌朝、清々しい気分で目覚めた輝明は、足取りも軽やかに駅へ向かい、人込みに混ざって改札口への階段を上がっていた彼は、昨日と同じように突然猛烈な衝撃を喰らい、その日は運悪く階段を結構な勢いで転がり落ちた。幸いにも背後にいた多数の人のおかげで、輝明はそれほど落ちずに済んだ。巻き添えを喰らった何人かにとっては不幸にもというほかないが。

 一方、階段の上では一人の若者が取り押さえられていた。

 輝明を突き飛ばした張本人が現行犯逮捕されていたのだ。

 連れられて行く若者の顔をみて、輝明は驚いた。杏があの日、条件として挙げた男にぴったりと合致したからである。

つまり、いつも朝の通勤電車に乗り合わせるだけの、顔を見れば会釈程度はするけれど、名前も所在も知らない男。そんな彼が憎々しげな眼を輝明に向けながら連れられて行く。思えば一年以上電車に乗り合わせているが、彼が感情を表に出しているのを見たのは初めての事だった。


 数日後。

 輝明は居酒屋タイムのキッチン「杏」を訪れていた。この日の杏は紺色の三角巾に少し薄めの青いエプロンをしている。

「橋の上にいたってことは街灯の真下にいたようなものですから、向こうから西代さんの事はよく見えていたはずなんです。そんな状態で顔見知りに、お構いなくなんて言われたものだから、現場を見られたと思っちゃったんですね」

 ハイボールを輝明の前に置きながら、杏はあっさりとそう言ってのけた。

 あの夜、輝明が見たのはイチャ付くカップルなどではなかった。まさに殺人が行われている現場だったのだ。犯人は女性と同棲している男だった。女性の貯金を使い込んでしまった事を責められ、ついカッとなって殺してしまったらしい。

「本当であればすぐに追いかけて口を封じたかったところですが、死体を置きっぱなしにしていいものか迷ったのでしょう。それで逃がしてしまった。そうなると、ひとまずは死体を動かしておかないと、戻ってきたときにすぐに見つかってしまう」

 杏は続けて唐揚げの乗った皿を輝明の前に置く。揚げたてて、まだシュワシュワと音がしている。輝明は迷わずレモンをかけた。はぜた油の勢いで、柑橘の香りが立ち上る。

「だから、わざわざ公園の反対側に運んで、物盗りに見せかけるのに財布を奪ったわけですね。まあ、正面から首を絞められていたりとか、色々疑わしき部分はあったそうですけど。そして、西代さんと確実に出会える朝の人ごみを狙って、殺そうとしたんでしょう。それならナイフでも使えばいいのに」

「怖いこと言わないでください……ハチチ……」

 不満を言いつつ唐揚げにかぶりつく輝明。火傷しそうな口の中をハイボールですぐに冷ます。

「しかし、夜とはいえ公園で堂々と人殺しとは……」

 輝明はあの夜の光景を思い浮かべ、自分が殺人現場を見ていたのだと思うとゾッとした。

「植え込みの陰にあるベンチだったし、誰にも見られないと思ったんでしょうかねぇ」

 少し不自然ながらも笑みを浮かべる杏に対して、輝明は唇を尖らせたままだ。

「笑い事ではないですよ。おかげでこの様です」

 そう言って、輝明は手首に巻かれた白い包帯を見せた。

 落ちた時の手のつき方がおかしかったらしく、捻挫をしてしまったのだ。

「申し訳ありません。やはり西代さんにも言うべきでしたね。警察に連絡しておけば、万事大丈夫かと……」

「まあ、お陰様で生きていますので、感謝はしています」

「本当ですか、良かったぁ」

 パッと明るい笑顔を浮かべ、杏は息を吐いて見せた。

「でも、そのハイボールと唐揚げは私からのお詫びです」

「ありがとうございます」

 手首のねん挫でこの唐揚げが味わえるのなら、それほど悪くもないかな、と輝明はほくそ笑む。それほど、ここの唐揚げは美味かった。

「それにしても、警察も良く動いてくれましたね」

「まあ、たまたま知り合いがいたものですから」

「そうなんですか? 凄いですね。ひょっとして、ここの常連さんとか?」

「あはは、まあ、良いじゃないですか。さあ、そのハイボールと唐揚げは私からの奢りですが、他にもいくつか注文して、お店にお金を落としていってくださいね」

「随分とぶっちゃけますね」

「まあ、隠すようなものもありませんし」

 どちらかというと隠しておいて欲しい部分という気もしたが、口には出さない。

 わざわざ言われなくったって、輝明はもとよりそのつもりなのだ。

 せっかくここにきて、唐揚げだけで帰るなんて馬鹿な話は無い。

 杏の推理や警察の件も素晴らしいと思ったが、やはりここの素晴らしさは料理に尽きる。美味い酒と美味い料理。これが揃っているのだから御託はまた今度だ。

「とりあえず、キノコのアヒージョとシーザーサラダ下さい」

「まいどー」

 杏は飛び切りの笑顔でそう言った。

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